第二話 「安定の下」
《昼・草原で》
「おや? こんなところで何してるんだい?お嬢さんたち。」
不意にリエルとウェルに話しかけてきたのは、老人の声だった。
目が慣れてくると、顎に貯えた白く々としたヒゲが印象的な、おっとりとした老人が目の前にいることが分かった。
その老人は、ウェルが乗るライドよりも大きな荷台の上に座り、目を丸くして姉妹を優しさのこもった瞳で見つめていた。
「いや、俺たちは、これからまた旅にでるところだよ。おっちゃんは?」
リエルは助手席から覗き込んでそう答えた。
その白ヒゲの老人は、これから品を仕入れにある国へ向かう途中だという。そこであわよくば人稼ぎしようと企てていることを、嬉々たる声で二人につらつらと聞かせた。
「そうだ。よかったら一緒にどうだい? 旅は道ずれ、荷馬車空なら恩売りなってね。旨い飯なら食わせてやるよ?」
老人は荷馬車に荷台にある豊富な食料を親指で差しながら云った。
リエルは朗らかに微笑み返し、ウェルは荷馬車と並んだライドのエンジンをかけた。
白いヒゲの老人は鞭を手にすると、一つ音を立てて馬を走らせた。ライドもその速度に従い、平衡して走り始めた。
「安定の下」
「なぁウェル…」
リエルは目の前のある情景に驚愕していた。天にまで届きそうな大きな塔が、リエルとウェルの目の前に存在しているのである。ウェルも見上げて、
「……大きいね…」と表情を崩さずに、つぶやいた。
「…ウェル、本当にそう思ってるの?」
リエルが目を細くしながら振り返って疑いの目を向けると、ウェルは一度小さく頷いただけだった。
リエルはウェルの胸元にさげてあるリュックに納まっていた。首から上をチョコンとつきだし、小動物のような顔を今一度、驚愕したばかりの塔に向けた。
仰いで観るのが苦しくなるほど、その塔は巨大で、小さな国の領地に刺さるように建っていた。ライドを走らせれば、その塔の大きさが、近づくほどに増していく。
見張り台にしては大きすぎるし、城にしては細すぎる。頂上には、なぜか旗が一本、音もなくヒラヒラと風に遊ばれ、その塔の体も風に揺らされているように、フラリフラリと微かにリズムを刻んでいる。
草一つ見当たらない大地に砂煙をたてて、二人を乗せたライドは塔がささる国の城門の前に到着した。
木を縄で縫い合わせた門が一つだけあるが、見るからにひ弱そうな大きいだけのものである。
周囲を見渡してみても、小さな空き家が一つ在るだけで、空き家といっても、あまった角材を駆使して作った事が容易に想像できる陳腐なものだ。関所もない。
通常、関所を通して部外者は入国の許可をえるので、リエルとウェルはどうしたものかと一考を余儀なくされたが、そこは計画性のないリエルのする事である。やはり、
「とりあえずいってみよう!」の一言で事は丸く収まるのであった。
ひとまず、ウェルは先ほど見かけた小屋の中にライドを停めておいた。
小屋の中には何もなかったので、何のために使うものなのか全く解せない。ただ、その小屋の壁には、所々黒いしみのような者が点々とこびりついていた。
例えるなら、血潮のようだった。
門のすぐ脇に勝手口のような小さな扉が、申し訳無さそうにあった。そこには「入り口」とだけ走り書きされている。
ウェルがその扉を、横に音を立てながらこじ開けようとしたが、いささか立て付けが悪い。騒がしく音を鳴らして開けようとするが、なかなか開かない。やっとのことで腕が通るほどを開けることができる始末である。終まいに面倒くさくなったウェルは、半歩下がった刹那、その微かな隙間めがけ、横にスライド扉を綺麗に蹴り抜いた。
扉は、先ほどまでモタついていた事が嘘のように、素直にスライドして開いた。
すると、リエルとウェルの前に通行人が目を丸くして歩みを止めている光景が目に飛び込んできた。
ガヤガヤと瞬く間に人だかりができあがったが、リエルとウェルにとってその事はどうでもいいことのようであった。
扉を丁寧に閉め直すと、ウェルは冷静沈着な相貌を保ったまま、人の波を掻き分けることもなく、すり抜けて人ごみの中へと溶け込んでいった。
町は外観の通りやはり狭苦しい印象をうけた。店や家が押し込まれたように隣接し、見ているだけでこちらが窮屈になってくるが、人々は以外にも朗らかに、笑顔で生活を送っている。
リエルとウェルは宿を探すために、塔を中心として駒のように建国された国の街を歩いて回った。
リエルが昼食のハムサンド(食べ物。肉に粉末状の小麦が挟まっているもの。)を購入した際に、
「この辺にさ、宿屋ないかな?」と販売員に質問を投げかけた。
販売員の青年はリエルの事を不思議そうに眺めていたので、吃驚して高い声をあげた。
「え? ぁあ、宿屋ですか?」
「そう! 宿屋! どこかにないかなぁ?」
販売員の青年は空を見つめて、どこにあったかなぁと言わんばかりに思い出していた。
「うーん…この辺にはないけどねぇ、このままずっと真っ直ぐ行って左を見ていると、ハープっていう宿屋があるはずだ。そこに行くといいよ。最近は行商人も来てないし、簡単に宿をとる事はできると思うよ。あと、それまでにきっとこの街の中心にある〈ボルム〉に通じる道が途中であるかも知れな…」
「ボウムってなんだ?」
口を挟んだのはリエルだった。販売員の青年は口をヘノ字に曲げ、すぐに手を打って、
「あぁ、そうか。君達は今日入国したんだったね。知らなくて当然だ…。」
「で? で? ボウムってなに?」リエルは興味津々と言った様子で聞き直した。
「あのね、〈ボルム〉はね、この国のシンボルなんだよ。この国がこの国である象徴。この国の建国以来、この地の人間はあのシンボルのためにがんばってきた、といっても過言じゃないね。世界のどこにいても、この国がどこにあるのか解るように。そんな願いを込めて作ったんだ。もちろん、いまでも更に高くするために頑張っているんだよ。それに、建設費は国の利益が余ったものを使うようにしているしね。あそこまで塔が高くなったのは、俺の親父や祖父が頑張ったからなんだよ。誇りなのさ。」
「へぇえ…。」
感心にも似た声を上げ、リエルは仰ぐまでもなくすぐそこに君臨する塔、〈ボルム〉に目をやった。細長い、不安定な塔だということしか、リエルには解らなかった。
販売員の青年に言われたとおり、ハープという宿屋は確かにあった。というか、見つけずにはいられなかったと言った方が正しい。
綺麗に飾り付けられたハープが店の前に置かれてあり、店内にもハープが数個ある店だ。だが、お世辞にも趣味のいい飾り付けだとは、リエルもウェルも思うことができなかった。
しかし、屋根があるだけましだ。もちろん限度はあるが…。それがリエルの考えであることに変わりはないし、それに反対するウェルでもない。
店主に聞いてみれば、泊まるのはリエルとウェルの一組だけだということらしい。
姉妹は一つ返事で部屋を借りた。
それも高級な部屋を一部屋。リエルとウェルは宿に荷を託し、ギターケースを手に街へと出かけていった。
街はさほど広くなくて、日が落ち始めた頃には一周して宿に帰ってきてしまった。リエルとウェルは音楽を催し金銭を頂戴しようと企てていたが、なにしろ敷地がまず無い。どこかにあるまいかと探し回った挙句、結局宿屋に帰ってきてしまったというワケである。
「…はぁ…どこも空いてないなぁ…ウェル、仕方がないから…もう一回りしよう?」
「…うん」
ウェルは一度頷き、静かに歩き始めた。特にあてがあるわけでもないので、二人は街を徘徊せざるを得なかった。どこかが昼間とは景色が変わっていればいいのに、と可愛げな願いを胸に、リエルとウェルは赤く染まりはじめた空の下、肩を落として歩き続けた。
ふと、〈ボルム〉へと続く路地が、リエルの目に飛び込み、ウェルの歩みを止めた。
冷たく暗い路地。
ネズミが走る足音が聞こえそうな空間。
人一人がやっと通ることができる細い道がそこにはあった。
このとき、リエルの胸中にはひらめきに近い私意が浮かび上がったのである。リエルはしばらくこの路地を見つめていたが、やがて口を開いて、
「…ウェル、行ってみようよ…もしかしたらあの塔の下、住宅になっているのかもしれないよ? だとしたらお客さんも…」と、しずかに言い切った。ウェルに拒否するという選択肢はない。というか、持ちえていない。
リエルとウェルは路地の中へと、身を隠すように入っていった。
静かな路地がつづき、ウェルの背中にはまだ街の明かりが差し込んでいるが、やがてその明かりも弱るように消えていく。
目が路地の暗さに慣れていくのがわかると、リエルはその路地の先にあるものが一体何のか拝見しないわけにはいかないという、どこか使命感に似た心境になったのである。
徐々に周囲の空気が冷たくなっていく。
風がリエルとウェルの前髪を冷やし、いよいよ迫った路地の出口と思しき隙間にたどり着くと、そこには…
「…なんだ…」「ひとか…?」「何者だ、あいつ等…」「俺たちに何のようだろう…」「なんか持ってるぞ…」「痛いことしなかなぁ…」「こっち見たぞ…」「怖いよ…」「怖いわ…」「叩かないで…」「痛いのは嫌だ…」「嫌だ…嫌だ…」「嫌だ…」「嫌だ…」「嫌だ………」「嫌だ……嫌だ…」「…嫌だ………嫌だ…」「嫌だ…」
人がいた。
何人もの人が暗く光の届かない〈ボルム〉の付近に崩れそうな住処を構え、生きていた。そこの住民は次々とその住処らしき建物から顔をだすと、途端に首を引っ込めて「恐ろしい…」と呟くばかりである。外には、数人の大人たちが夕飯の支度をするために鍋を囲んでいる最中だったが、このみすぼらしい、縮こまった人間らしい生き物が今は隅に集まって怯えている。肩を震わせ、頭を覆い、ぶつぶつと呟いてリエルとウェルに恐怖していた。
「どうかお助けください…鞭で叩かないでください…」怯えきった声で数人の大人たちが横目でそう訴えてきた。もちろん隅で怯えながらである。こちらに歩み寄ってくる者など一人もいない。
リエルは困惑して、言葉をさがしたが見つからないといった様子でウェルを見上げると、ウェルはリエルと目を見ていつものように頷いた。
「…みなさん。」ウェルの声が、冷たい空気をより冷やすように響き、その声は妙に人々の心に届いたようだった。
隅で怯えていた人々や、住処に隠れた首が不規則に上がり始める。
「…私達は音楽家です…この手に持ったものはギターという楽器です…この楽器で、私達はあなたたちに音楽を披露しにきました…どうか邪魔にならないのなら聴いてください…」そういい終えると、ウェルは近くにあった形のいびつなバケツをカカトで軽く蹴り、ひっくり返して腰を落ち着かせた。
「ちょっとウェル! そんなのこっちは聞いてないよ!」驚いたのはリエルである。ウェルは物静かにリエルの唇に人差し指を添えて、
「さっき言ったよ…」とやさしく言うだけだった。ポカンとしたリエルはそのままウェルの胸元から下ろされ、ウェルの座ったバケツの足元に置かれた。ウェルは素早くギターケースからギターを取り出し、しなやかな腕の中に寝かせて、瞳をゆっくりと、閉じていった…。
「………………………」
水を打ったような空気だ。
遠くから、あの街の音が聞こえる。
この空間だけが、まるで無音になってしまったようで、隔離されたようで、でも、ちっとも寂しくなくて、満たされている。
遠くの音も、声も、光すらもいらない。
この冷たい住民の一人一人の心が、いままさに、リエルとウェルに捕まえられていく。
静けさの中で、ギターが、柔らかくて、体にしみこむような音色が、小さな旋律を奏でていくと、それに続いて、アゴが浮き上がるようなリエルの歌声が、慈悲に満ちた天使の歌声が、人々の心を抱きしめて、さらに包み込み、あたたかく、痛みがある優しさで愛していくようで、その音と声は、人々の頬を湿らせる。
「………………」
音聴き終えた人々は、先ほどとは一変して、怯えてなどいなかった。むしろ、感謝の念を全身で表現するようにリエルとウェルの手をとって喜んでくれた。
「いい曲だ…」「すばらしかったよ…」「ありがとう…」
涙で皺くちゃにした顔で、人々は歓喜にわいた。
リエルとウェルは、そこの人々から夕食の誘いを受け、これをありがたく頂戴することにした。貧相な食事ではあったが、さきほどまで感じていた寒気が、人の集まる暖かさで消えていることにリエルは気がついた。
リエルがウェルに夕食のスープを口に運んでもらい、喜色満面の笑顔でいると、一人の男が、ボサボサの髪をかいて口から夕飯をこぼしながらリエルに話しかけた。
「それにしてもいい曲だったな、また一度でもいいから聴きたいものだ!」
汚らしさにリエルは苦々しく顔を強張らせたが、どうにか笑顔をつくろい、
「あは…あはは…ありがとう…また次ね…」と力なく苦笑いを繰り返した。男の口からはなおも夕飯がこぼれ落ちている。
「こら! 音楽家さまが困っておられるであろう!」
火にかけた大きな鍋を囲んで、リエルとウェルを含めた大勢の人々がその声に反応し、リエルに話しかけた男を笑った。男は恥じらいをこめてまた、頭をガリガリとかいている。
「音楽家さまや、先ほどはまことにすばらしい一曲を披露していただき感謝に絶えぬ。ほんとうにありがとうね。心から礼をいいます。」
リエルには鍋が邪魔で見えなかったが、そう言ったのはこの集落の長らしきお婆さんだった。さきほど男を注意した声の主である。腰を丸くして、その姿は鍋を挟むと完全に隠れてしまい、ウェルや大人の者にしかその姿はとらえることはできなかった。
ウェルはお婆さんに首を左右に振って否定の念を表し、スープをリエルの口に運ぶ。
「…音楽家さまや…」
リエルがスープにした頃に、お婆さんは聊かな声で呟き、ウェルはリエルの食事をしばし中断する。リエルもお婆さんの話に耳を傾けた。
「…音楽家さまは、ワシらのことをどうも思いませんでか?」
質問の意味が、リエルには最初解らなかった。もちろん、ウェルにも解らない。リエルが首をかしげると、お婆さんはリエルを鍋の横から覗き見て、安らぎの混ざったようなため息を落とした。
「わしらは…この国に奴隷として連れて来られたんじゃよ…ほんの、数十年前のことじゃ…」周囲のざわめきの灯火が一つずつ消えていった。
「このヘンテコな塔が、そのときには半分ほどの高さしかなくての…それを更に高くするために、わしらは奴隷としてこの国に買われたんじゃ。この国の人間は外側の街で暮らし、わしらはこの内側の街で毎日毎日塔を作って暮らした。過労から、死ぬ者の出たね…とは言え、わしらには何もできなかったから…いまの塔の建設が中止されるまで、本当に長かったと思うよ…」
鍋をかけた火が躍り、火の粉が星のように空へと昇る。
「…なんで中止されたんだ?」声を低くしていったのはリエルだった。お婆さんは瞳を閉じて口を固く結んだ。
「…わしらにわからん。ただ、ある日突然止めさせられたんじゃよ。それから…わしらは毎日街に出ては汚い仕事をして生きているよ…」
息がつまりそうな話しだったとリエルは思った。と同時に、この人々に同情し、未熟な自分を呪うように俯いてしまった。
ウェルの細い指がリエルの頭を撫で、その手つきにリエルはしばしの安らぎを感じていたが、途端にボサボサの髪を有した男が立ち上がって、この息苦しかった空気をどこへと知れず吹き飛ばしてしまった。
「おれ、あんた達の音楽、もう一度聞きてぇな!」
「俺もだ!」
「私も!」「僕も!」
次第に欣喜雀躍していくと、リエルの暗かった顔にも驚喜に出会ったように無意識にほころびを見せていた。
ウェルはギターを取り出し、心踊る、身が跳ねる音色を生み出し、リエルもそれにあわせて赤子が跳ねるように小躍りしながら、音の高い楽器の口真似をして更に音色を歌わせた。
人々と踊り、歌い、飛び跳ねて、リエルとウェルは疲れたままに、夜が更けてから宿に帰っていくのであった。
宿の帰る途中、真夜中にも関わらず、リエルとウェルが入ってきた門の近くで松明がいくつも灯されていた。その松明の明かりで、門の周辺は昼間のように明るく、集っている人の顔がはっきりと見えていた。リエルとウェルは物陰に潜伏し、その集団の様子をこっそりと眺めた。
「ねぇ…ウェル、アレなんだと思う?」リエルが指定したのは、数人のフードをかぶった者がもつ紙切れのようなものだった。紙には文字が記されており、松明の向こう側の蔭る場所から数人のまだまだ稚い顔立ちの子供が男女問わず連れられてきた。
フードをかぶった紙を手にした男は、その子供を点検するように一人ずつ眺めたかと思うと、一発ずつ頬を引っ叩いて「次…」と低い素気無い声で言うのである。そのフードを被った男数人は、次に並んでいる子供の頬に手をのばす。
叩かれた子供は今にも、膝から崩れてしまいそうだが、他のフードを被らない男に迫られてぐっと辛そうに唇をかんでいる。
「なんだあいつらは…ひどいよ…。」
「…次…」
パシッ!
「…次…」
バシッ!
リエルの心からの慨嘆も空しく、子供は一人一人頬を引っ叩かれていった。
通りぬけていくような風に松明が吹かれて揺れ動いた。
門がひとりでに開いていく。上にある巨大な綱が時間をかけて巻き上げられていき、ロープをたどった先には、門の脇の車輪を二人掛かりで巻いているのが確認できた。
門からはゾロゾロと赤いフードを被った人間が、荷馬車を引いて入って来た。その赤いフードを被った集団は、子供を物色し始め、服を脱がしたり、手を上げさせてみたり、奇妙な儀式的なことをさせた挙句に、どこからか持ち出したハンコを全員について周ったのである。
ハンコをつかれた子供たちは、肩を震わせて固まったまま、荷馬車に導かれていく。
「どうも…今回の商品は質がいいですな。小屋を使うまでもなかった。」
その荷馬車の前で、赤いフードの男が云った。恐らく赤いフード集団の責任者かなにかなのだろう。その男は、子供を引っ叩いていた男と固い握手を交わすと、互いに得たりやおうと含み笑いをこぼし、子供をすべて荷馬車に乗せたことを確認し終えると、赤いフードをかぶった集団は再び国を出ようとまばらに背を向けて歩きはじめた。
「坊や! 坊や!」
漆黒の闇から女の声が突き抜け、声を限りに疾走してくる女がいた。その疾走は、あまりにも無様で醜いものである。今にもつまずいて、転倒してしまいそうな頼りない走りだ。
荷馬車に乗り込んだ子供の一人が立ち上がり、即座に荷馬車から飛び降りた。男の子である。
男の子は懸命に走り、顔を寂しさでつぶしながら母親に抱きついた。そのやり取りを誰一人として止めようとはしなかった。
「坊や…! ぁあ…坊や…」
「かぁさん…かぁあさん…行きたくないよ…ぼく…行きたくないよぉ……」
松明はしきりにゆれていた。まるで親子を急かすようにユラユラと。
親子は気にも留めずに強く抱き合った。
「坊や……すまないねぇ…」
「母さん………かあ…さん…」
嗚咽をもらしても、涙で顔が痒くなっても、男の子は母親を呼び続けた。
何度も。何度も。男の子は母親を呼び続けた。
男の子の後ろに、松明を移すように怪しく光る鋭利な光が近づいていく。親子は黙ったまま動かないのだ。まるでそうなることが解っていたかのように。短剣を手にしていたのは、先ほど握手を交わし、少年を叩いたフードの男だ。どうやら、この商売を台無しにされかかった事に、憤り以上の憤りを感じているようである。その形相は静粛に凍てついているが、それは殺気立っている以外にない。男の腕が天をさし、歩みを男の子のすぐ後方付近で止め、死にかけた虫を見下したような眼で立ち尽くした。
「かあ……さん…かぁさん…」
「ごめんよ…坊や…ごめんよ…」
母親は男を仰ぎ見ると、子を覆い、身を挺して守ろうとした。
「どうか…どうか…どうか…」
苦しい。そんな事すら当てはまらないように、母親は苦境に耐えかねている。男は一つ、ため息と共に肩を落とすと、
「……逝け」と一言だけ。
短剣で風を切り、力いっぱい振り下ろした。
音はない。血もでない。ただ、遠くで短剣が地を触る、鼓膜を震わせた音だけがする。
闇よりも黒い、漆黒よりも濃い、ウェルの黒々とした影のような長髪が、親子を守護するように風になびいていた。
ギターケースが男の顔面をとらえ、振りぬかれていた。わずかに松明の光が届くところでうつ伏せになった男の意識は、そこには無いことが見て取れる。
ウェルはゆっくりと視線を取り囲む集団に送り、親子が逃げ出したのを察すると、すぐさまギターケースに勢いを乗せ、フードを被った集団へ乱暴に投げ飛ばした。
ギターケースが混乱した回転をみせ、フードを被った集団を掻き分けていく。
ギターケースは一人の男をかすめただけで、重々しい音を鳴らし寝そべるが、壊れるような様子はない。まるで鋼鉄が地面をかくような音がなっただけだった。
ウェルはすかさずワンピースのスカートをたくし上げ、太ももに忍ばせたナイフを数本手にとる、と同時に、ぶら下げたリエルを背負いなおした。
集団のうち数人が、ウェルに休む間を与えぬよう、腰に忍ばせた短剣を手に飛び掛るが、攻撃は当たらず、的確にウェルのナイフは男達の足の親指を切断していった。
赤いフードを着た集団は、逃げるように門から逃げていく。ウェルは逃がすまいと追うが、道をすぐに場内の集団に阻まれてしまった。
「どけよ!」リエルが代弁するように言うが、聞く耳を持つ者などいるはずもない。集団は取引相手が脱出したのを見るや否や、全員でウェルに攻撃を仕掛けてきた。これにはさすがのウェルでも、どうこうできるものではない。避けることで精一杯である。しかし、ウェルは見事に全員の攻撃を踊るように一撃ももらうことなく、踊るように避け、汗一つたらさない。
もっとも、四面楚歌と化したこの状況で、分が悪い事は必死である。ウェルはリエルを軽く叩いて合図を送ると、リエルは息を大きく吸い込み、ウェルは急に逃げる足を止め、耳を完全に塞いでしまった。
集団の男の一人がウェルに向かって走り、至近距離にまで迫る。男が短剣を振りかざした、その瞬間、
「ぁぁあああああああああああ!!!」
耳を引きちぎられるような声が四方八方を構わず襲いはじめた。窓は割れ、砂が弾み、耳の鼓膜を傷つける。至近距離でこの音を耳にした男は、耳を押さえてもがき、形を壊した言葉を発して泣き叫んでいた。おそらく、鼓膜が裂けた以外にないだろう。
ウェルはその隙に逃亡を図った。途中、投げ放ったギターケースを素早く手にとって。集団の男達はおぼつかない足取りでどうにか追いかけてくるが、到底追いつけるはずはない。
そこに、路地から顔を出して手招きをする一人の老婆の姿があることに気がついた。老婆はあの〈ボルム〉の下に住む、お婆さんだった。
「はやく…! こっちへ来な!」必死に手を振り回してお婆さんはリエルとウェルを路地に招き入れた。後方からはあの集団が夜道を駆け回る足音が、路地を通りすぎ、離れて行く。リエルとウェルは胸を撫で下ろし、互いに大きな深呼吸を設け、お婆さんに招かれるまま、路地をゆっくりと歩いた。
「お婆さん、本当に助かったよ。」ウェルの後ろからリエルはお婆さんを覗き込んだが、お婆さんは振り返らずに、手をチラチラと振り、明るい声を返した。
「いいってことよ、あの音楽の礼さ。」
リエルとウェルと、お婆さんはそれから黙ってしばらく細く続く路地を歩いた。思ったよりも道は多岐に分かれており、リエルとウェルが最初に発見した路地とは比べ物にならないくらいこの路地は入組んでいた。光の一つも感じることの無かった路地を抜けると、先ほど皆で囲んでいた大きな鍋は姿を消し、焚き火の跡から煙が立ち昇っている光景が飛び込んでくる。
そこはリエルとウェルが夕食をご馳走になったあの広場だということが、憶測ではあったが理解することができた。お婆さんは幽霊のように足音もたてず、リエルとウェルの前に立ち、向き直る影だけを見せた。
「…いやね、先ほどの耳を痛く切りつけるような音が街の方からしたものですからな…見に行ったところ、あんたらがなにやら逃げているようだったのでな…わしはこうしてかくまった訳じゃ。」
「そうだったのか、いや、こっちは助かったよ。でも、あれは何かの儀式か何かなのか?俺にはいい具合には見えなかったけどな…実際、俺とウェルはこうしてやり過ぎちまったみたいだけど…」
お婆さんは何か知っていると見えて、リエルの言葉を聞くなり咳払いを一度設けると、縫い目のような唇を小刻みに動かし始めた。
「…あれは…この国が、夜になると始める闇の商売なんじゃ。」
「闇の…商売…?」
かすれた老人特有の声はリエルにも出せない声で、闇を保持しているかのようだった。あまりの暗さに、リエルはそう頷いて答えることしかできなかったのである。
お婆さんは話を続けた。
「そう…これは闇の商売。ただ…この国がやっとる。この国が。もはや、闇の商売とはいいがたがね……この国は、できの悪い子供を他国に奴隷として売りさばいているんだよ。どんなに頑張っている子供でも、頭が悪いと判断されるとあのザマさ。その金は、この塔を建設する費用に当てられているようだがね…馬鹿げた話しさ…」お婆さんの黒いシルエットが、濃厚なため息を放っているのがわかった。
「…この国ではね、そんなことが何年も続いてるんだよ。わしらもここに来て、この国を哀れんだ事は数知れぬ。じゃが、わしらはどうにもできんのだよ…なにか…そう、なにかきっかけがあれば、わしらも…」言葉はそこで途切れ、お婆さんの影は一棟の住居へと踏み出した。
リエルとウェルがついていくと、お婆さんはその中で寝るように指示してきた。ありがたく二人はその住居に入るカーテンを裂き、お婆さんに礼を言うと、お婆さんが極微に笑って見せたように、リエルとウェルは感じた。
『パンッ』
そんな銃声が二人の眠りを妨げた。リエルとウェルはその音により起され、自分たちが眠っていた住居と思っていた部屋は物置だということが解ってきた。それよりも何よりも、リエルとウェルは外から聞こえたその銃声の方が、気になって仕方がなかった。
そっとカーテンをウェルが小指でずらし、外の様子を窺う。
昨日、リエルとウェルを追いかけていた男達の顔ぶれが離れた位置に点々と在る。手には銃器が携えられ、真っ直ぐに地と平行して構えられていた。非常な銃口からは煙が描いたように生じて、八人ほどの男達の足元には、昨夜のお婆さんの亡骸が横たわってリエルとウェルを見つめていた。
「もう一度だ…もう一度だけ聞く。昨日入国した者はいないのか?」銃器を持った男達の中で一人だけ肩の位置に勲章をつけた男が叫喚呼号すわけでもなく、棒読みが如く言った。広場に集められた人々は、怯えきって身を緊張させるばかりだ。
「いないのか…じゃあ、仕方ない。」勲章をつけた男は顎で空を切り、ズカズカと一行をひきいて広場から姿を消していった。途端に泣き声、喚き声が広場に消沈した空気を下ろしていった。ウェルがリエルを背負い住居から出ると、真っ先にお婆さんの亡骸の側に歩み寄った。
人々の視線が二人に注がれる。中には憎しみに満ちた、頬にささるような視線もあったが、リエルとウェルは瞼をとじて、粛々としてお婆さんの見開いた眼をそっと閉じる。
数分間、二人はそのまま沈黙を守ると、ウェルは凛として立ち上がり、背中に背負ったリエルと共に、〈ボルム〉へと近づいた。〈ボルム〉はやはり細く、大人が両手を広げて四人ほどで囲めば事足りるようなものであった。リエルの体が白銀に光り、背中から閃光が放たれた。
リエルの背中に、光沢のある翼が現れ、〈ボルム〉の足元を切断するかのように横に翼を打った。
なにもおきない。
羽が数枚、風にのっただけだった。
リエルは翼を大きく一度広げると、その翼を引き込むように背中に収めていった。リュックの裂け目に、翼が巻尺を思わせて消えていく。背中には、翼の跡かたすら残らなかった。ただ確かに、リエルとウェルを覆うように、羽は浮かび上がっていた。何枚も軽く、何の抵抗もなく。
広場の人々は悲しみも忘れ、これまでの一部始終に見入っていた。閑散した広場に向けるように、リエルは背を見せたまま口を開く。
「お婆さんが…昨日言ってたんだよ…なにかきっかけがあれば…って。」
その台詞を置いて、リエルとウェルはあの冷たい路地へと姿を消していった。手にはギターケース。それだけを持って、なんの滞りも、阻む敵も無く、リエルとウェルは国から出ることができたのだった。あまりにもあっさりと出ることができたので、何度も背後を気にしたが、やはり追っ手などの影も見えなかった。
ライドに揺られながらリエルは振り返り、小さくなりつつある〈ボルム〉眺めた。
〈ボルム〉の頂上にある旗は、もう見えない。
「ねぇ、ウェル。」
「……何?」
ハンドルをしっかりと握り締めて、ウェルは赤土の道の先を見据えたまま返事を返した。
「うん…あのさ…」
「…うん」
「きっかけ…に…」
リエルの言葉をかき消して、地響きが起こった。後方からである。
ライドを止めて振り返ると、〈ボルム〉が奈落に落ちていくように崩れていくのが見えた。足元から、止めることもできずに崩れていようだ。足元の国は、すでに砂煙に覆われて見えなくなってしまっていた。
「…なるかもしれない。でも…ならないかもしれない。それは…あの人たちが…決めること…」
ライドのアクセルを再びふかし、ハンドルを強くウェルは握った。
リエルは、もう一度〈ボルム〉を見るような事はしなかった。ただウェルの言葉に納得して、大人しく助手席に座って朝の風を感じることにした。
ライドが走り始めると、リエルはしばし「きっかけ」について思いをはせた。
あの不安定な塔も、あの国も、住む人々も、自分が与えた「きっかけ」によって、どれほど、何かがかわるのだろうか、と。
しばらく行くと、木陰に荷馬車が一台、昼間の東風にのんびりとしていた。木陰が木々の動きにあわせて生き物のように荷馬車を撫でている。ウェルはライドをその荷馬車のすぐ隣で停車させた。
荷馬車の荷台から何かがムクリと起き上がった。蔭っていたのでよく見ない。
「おや? こんなところで何してるんだい?お嬢さんたち。」
不意にリエルとウェルに話しかけてきたのは、老人の声だった。
目が慣れてくると、顎に貯えた白く々としたヒゲが印象的な、おっとりとした老人が目の前にいることが分かった。
その老人は、ウェルが乗るライドよりも大きな荷台の上に座り、目を丸くして姉妹を優しさのこもった瞳で見つめていた。
「いや、俺たちは、これからまた旅にでるところだよ。おっちゃんは?」
リエルは助手席から覗き込んでそう答えた。
その白ヒゲの老人は、これから品を仕入れにある国へ向かう途中だという。そこであわよくば人稼ぎしようと企てていることを、嬉々たる声で二人につらつらと聞かせた。
「そうだ。よかったら一緒にどうだい? 旅は道ずれ、荷馬車空なら恩売りなってね。旨い飯なら食わせてやるよ?」
老人は荷馬車に荷台にある豊富な食料を親指で差しながら云った。
リエルは朗らかに微笑み返し、ウェルは荷馬車と並んだライドのエンジンをかけた。
白いヒゲの老人は鞭を手にすると、一つ音を立てて馬を走らせた。ライドもその速度に従い、平衡して走り始めた。
のどかな昼間である。
野道はひたすらに続き、清風が荷馬車よりも、ライドよりも早く走り去っていく。
リエルとウェルは老人からもらった干し肉をかじりながら、のんびりとして、老人の旅の話に耳を傾けていた。
白いヒゲの老人から、質問が飛んできた。
「君達はなぜ、何をめざして旅をしているんだい?」
リエルは答えた。
「母さんの音楽を探してるんだ。まだ見つからないけど、見つけるよ。」
どこかリエルの声は、快活と、希望に満ちているように明るかった。
妹は、ケラセルフィ・アーク・リエル。
姉は、ケラセルフィ・アーク・ウェルといった。
いまだ、旅の途中である。
永久に続く、旅の途中である。
読んでいただきありがとうございます。
感想をできれば聞きたいと考えています。どうかお願いいたします。