第一話 「美しい人々」
「美しい人」
門に手を添えた。
木製の古い門で、朝日に照らされてはいるが、しっとりとした湿り気があり、その手触りはヒンヤリとして冷たい。それは、朝露を乾かすような清風のせいなのかもしれないが、しばらく手を添えていると、徐々に暖かくなっていくのが分かってきた。
両手でそっと押し開けていく。
木と木が擦れて鼓膜を掻くような古い音が静かに鳴るが、それでも滞りなく、門は開いていった。
市場、だろうか。早朝だというのに、人がわんさと群れている。実に楽しそうに声を張り上げて、商売をする露店が所狭ましとならんでいた。
リュックに納まった少女は目を輝かせ、ジタバタと暴れずにはいられない様子である。
「うわぁあ…! とてもにぎやかだねぇ!あ! ウェル、ウェル! あっちから食べ物のにおいがっ!」
くんくん…くんくんくん!
少女は、リュックから身を乗り出して匂いを必死に拾っている。
「…リエル、そんなに暴れたら落ちる…。」
鼻をヒクヒクと動かす少女の後頭部辺りから、透き通る声がした。忠告のようで、どこか言葉には心配の色がある。声の主の整った顔は無表情で、冷たく、まだ若い。
紺青の長髪に、紺青の瞳。
冷静沈着な印象を与える、病弱そうな顔立ちである。真っ白な長袖のワンピースに袖を通し、その袖はユラユラと上品に揺れていた。
ウェルと呼ばれた麗人は、胸元にさげたリュックに、先ほどから忠告を無視して匂いを拾い続ける妹をぶら下げていた。
妹の名はリエル。リュックから顔だけを突き出して、姉と同色の短い髪を振るって、元気にはしゃいでいた。活気に溢れる市場を見る瞳は大きく、紺青色で、どこか小動物のような愛しさを持っていた。
「…リエル…本当に落ちるよ…?」
ウェルの二回目の忠告である。
リエルは鼻を動かすのをやめると、つまらなさそうに唸った。
「むぅ…落ちないよぉ…ウェルはすぐそういうこというんだから…。」
「…この前は落ちた…。」
そう反論が帰ってくると、リエルは言葉をつまらせ、短く切った襟足をプイッとひるがえして、ふくれ面になってしまった。
面白くない、ウェルなんか嫌いだ。
言葉にしなくても、リエルの顔にはそう書いてあった。
ウェルは、人ごみに向かってスルスルと歩み始めた。胸元にさげたリュックをグイッとかけなおし、拗ねたリエルを無視するように活気盛んな市場に溶け込んでいった。
再び、食欲をそそる香りがリエルの鼻をくすぐったのは、それから間もなくのことである。
「あぁぁー! ウェル、ウェル! あっち! あっちから食べ物のにおいがっ!」
悲壮な表情で再び訴えたが、ウェルの足取りは無関心に別の方角へ進み続けるばかり。リュックの中でリエルは子供のように癇癪を起し、高い声でピーピーとわめいた。
「ちょっとウェル! 無視しないでよ! ウェルのバカ! 鈍感! 鬼! おなか減ったよう…! はやく、はやく、はやく、はやく、はやく、はやく食べたい!」
「リエル…まずは宿が先……お昼はまだ…」
あまりに激憤するリエルに、冷静にあやす口調でそう云うが、聞く耳を持たない。
「宿なんか後でいいよ! ほら! 先にご飯食べなくちゃ! ぁあ…匂いが…消えていくよ…ハムサンドが…ハムサンドが…」
この世の絶望を一驚に引き受けた。
いまのリエルなら云いかねない一文である。
ウェルの胸元がおとなしくなったことが助けたか、宿を午前中に見つけることができた。もっとも、その建物が宿と名乗れるのかは、甚だ疑問でしかなった。
宿はこの町の一番奥にあった。
一軒家の小さな宿である。
小汚い。この一言に尽きる独特の色を持っている。それはリエルの空腹感も、憤りもかき消すほどである。
ウェルはいつでも冷静であるから、特に問題ないという相貌を崩さない。リエルがどんなに嫌がろうとも、ここにしか宿はなかった。また探しにいくのには、時間が無い。
背に腹は変えられない思いを胸に、宿の扉を開けると、ウェルのヒザにも満たない小さなカウンターが正面にあった。
「お! いらっしゃい。」
カウンターには小人が座っている。
彼は機嫌よくヒゲを掻き毟って、声をかけてきた。どうやら宿屋の店員らしい。
この小人をよそに、高すぎる天井をリエルは仰ぎ、綺麗に掃除された室内に感激の声をあげた。外からは想像もしない、真っ白で埃の一つを見つける方が大変そうな室内である。
店員はケタケタと笑い、小さなカウンターを飛び越えると、二人の前にチョコンと立ち、三頭身の体を丁寧に折ってお辞儀をしてきた。
「ようこそ! この街一番の宿屋へ。」
「ど、どうも。」
リエルはどぎまぎして返事をするが、ウェルの身長が高すぎて店員の顔が実はよく見えなかった。
ウェルはヒザを折り、店員の顔が見える高さに落ちつくと、淡々とした調子で、あの透き通った声を発した。
「…あの…ここの宿主さんですか…?」
「んぁ? あぁ。そうだが?」
「…よかったら…一晩泊めていただきたいのですが…。」
「なにいってんだい! 泊まるための宿だろうが! 泊まっていきな! いい部屋は早いもの勝ちだぜ!」
小さい体を左右に振りながら、店員は会談に向かってテケテケと走り出した。体の半分ほどもある階段を飛び跳ねてのぼり、振り返ると、
「オラオラ! 早く来なって! 案内するよ!」
小さな体にマッチした腕を、パタパタと素早く羽ばたかせて手まねきした。店員は再び背をむけ、ピョンピョンと跳ねていく。
「なんか、面白い街だね、ウェル。」
「…うん、面白い…。」
急ぐわけでもなく、一段一段、二人は靴音と共に上がっていった。
「オラ。この部屋が一番上等だ。値段も他の部屋と変わりはしねぇよ。ここがお勧めだぜ。」
階段を上ったすぐそこには開け放った扉があり、外観からは想像もつかない雅やかな部屋が広がっている。
店員は自慢げに腰に手をあて、鼻を鳴らして開け放った部屋の前に立っていた。
四人で泊まる事は容易だろう。そんな期待を抱くことに違和感を覚えないくらいに、部屋は大きかった。
リエルとウェルが一緒に寝てもゆったりしているベッド。湯船のついた浴室。鼻をくすぐるようなハーブの香りが、気にならない程度に施されている。感激してリエルは甘いため息をつかずにはいられなかった。
「す…すごい部屋だね。」
「で? どうするんだ? 泊まるか?」
リエルとウェルの答えは決まっていた。
顔を見合わせて頷く。鋭い目つきを店員に突き刺すと、二人は同時に声を合わせた。
「宿代はいくら?」
宿が決まった二人は荷を置いて、日の高くなった市場に、再び足を運んでいた。
荷、といっても、ウェルの持っていたギターケース。それだけしかなかった。金はリエルが管理しているので、荷のうちに入ることはない。
市場は変わらぬ活気に包まれていた。それもそのはずだ。今は昼飯時である。リエルの好む香りで、周囲は覆い尽くされていた。
「いやー…やっと来れたね。もうお腹ポコポコだよぉ…」
ポコポコってなに?
常人である人なら触れずにはいられないところだ。しかし、ウェルにはそんなものは通用しない。悲しいかな、そのような感情は持ち合わせていないらしい。
「あ、ポコポコっていうのはね、ペコペコよりペコペコって意味で……」
このように、リエルは自分の考案した奇形語を解説する現状に満足するしかない。
それでもリエルは上機嫌で、縁日の露店を回るようにはしゃいでいた。お目当てのハムサンド(食べ物。肉に粉末状の小麦が挟まっている。)を発見した時には、もう手がつけられない。ウェルは、暴れ馬の如く乱れるリエルを前に、ハノ字に眉をひそめることもなく露店の店員に声をかけた。
「…すいません…。」
「はいよぉ!」
店員には目が三つあった。特にどうというわけもない、というようにウェルは二枚ハムサンドを購入した。
「毎度あり!」
店員は親切にハムサンドをウェルに手渡してくれた。しかし、額に位置する眼球だけがギョロギョロ休むことなく動き、他の客をとらえては店員の顔をそこにいざなっていた。
「うまぁぁぃ…」
リエルは今、幸せの絶頂である。
なにがうまいのか。当然、ハムサンドだ。
もちろん二枚ともリエルの腹に納まった。その間、ウェルは黙ってリエルの手となり、ハムサンドを食べ易い位置に運んでやっていたのは云うまでもない。
リエルが二枚のハムサンドを食べ終えるのに、そう時間は掛からず、ウェルはいまだに腹をひねるようないい香りが漂う市場を歩いている。
「はぁ…美味しかった! 次は何を食べようかなぁ…」
「……まだ食べるの…?」
リエルの指揮の下、二人は次なる店に顔を出した。
「はい! いらっしゃい!」
今度は、四本の手がしきりに仕事をこなしている店員に出会った。
一本は素早く肉を焼いている。
もう一本はその肉を挟む葉を構えて、あと二本の腕で肉を切りわけていた。
「うちのステーキはうまいよ!」
リエルとウェルを目にした四本の腕を有する店員は、商売用の高い声をだした。
すかさずリエルは、リュックから落ちそうになりながらも、輝いた瞳で『ステーキ』なるものに注目した。
「うわぁ! なにこれ、なにこれ! すごく美味しそうなにおい!」
店員いわく、『ステーキ』なるものは臭い肉を使用するため、肉だけを食べると吐き気をもよおすらしい。そのため、ハーブで挟んで食べるわけだ。
「えー? こんなに美味しそうなのに? お肉だけじゃ食べたらダメなの?」
一度思い立ったリエルの考えを変えるのは、恐らくこの世界の秩序を激変させることよりも難関である。
それをよく知ってか知らずか、ウェルは黙ったままリエルが店員に頼み込んで肉を取引する様子を窺っていた。
肉を受け取り、ウェルはリエルが食べ易い位置に肉を運び、リエルの大きな口がそれを
ほおばった。
後にどうなったか。
云うもおぞましい。
悲惨で、えげつない結果になった。
リエルの入ったリュックが使い物にならなくなり、新しいリュックを買うハメになった、といえば想像がつくだろう。
「ひ…ひどい目に…あったよ……」
ピカピカのリュックに身をおいたリエルは、青くなった顔色でガクッと肩を落としていた。
「…自業自得…」
相変わらずウェルは冷たい。
舌治し、といった具合でリエルは懲りずにウェルを指揮し、他の店へと向かうのであった。
「…まだ食べるの…?」
次は『たこ焼き』と看板を掲げた露店である。
「おっちゃん! たこ焼きちょうだぁい!」
「元気いいねぇ、おチビちゃん! 一個オマケだ!」
大喜びして『たこ焼き』とやらの出来上がりを待っていたリエル。
『たこ焼き』の店員の調理する一本しかない腕の調理さばきを飽くことなくジッと見続け、今回はしきたりどおりに『たこ焼き』にタレをつけて食べた。
先ほどの『ステーキ』の二の舞になっては敵わない。
とはいっても、店員によれば、『たこ焼き』は卵にたこが入っているだけで、タレをつけなかったところでどうなる、という事はないそうだが、リエルは断固としてタレベタベタにつけて食べた。
それからも、リエルとウェルはこの珍味にあふれた街を練り歩き、夕暮れまで食べ歩いた。店員は多くの者が、やはり何かが欠如していたり、多かったり。特殊な人種が多く見られた。
中には醜い姿の住人もいたが、そんなことはどうでも良くなるほど、この街の住人は、暖かくリエルとウェルを迎えてくれたのである。
日が落ちる頃には、酒場に行くことを約束するにまで、リエルとウェルは仲がよくなっていた。
「いやぁ…まさか今晩一緒に飲むことになるとはねぇ。面白くなってきたよぉ。」
リエルは満腹感からか、その笑顔はいかにも楽しげで、ワクワクし、真新しいリュックを揺らしていた。
宿までの帰路をじっくりと歩き、リエルとウェルは瞬く星を見上げた。
リンリン…。チリチリ…。
鈴の音のような星が、いつもの夜空にある。
この空を眺めていると、リエルとウェルはよく考える事があった。それは昔のこと。
母親のことである。
空の下で、今も生きているのだろうか、と取り留めのない考えが浮かんでくる。その都度、連鎖して思い出すのは、優しかった父親の言葉だった。
「いいかい。ぼくも、お母さんも。皆ひとつなんだよ。木も、水も、風も、雲も、犬も、猫も…。皆この一つの命とつながってできているんだ。決して独りだなんて思わないでね。もしもつらくなったり、嬉しいことがあった時、そのときは、お星様に言えばいい…。きっと、黙って聞いてくれるよ。」
父は戦争でこの世を去り、母は二人を捨てた。結果、二人はこうして旅をしている。
ギターケース片手に、音楽を生業として旅を続けているのだ。いままで訪れた街、国は数知れない。いま訪れた街も、そのうちの一つなのである。
その晩、二人は招待された酒場に足を運んだ。リエルとウェルが宿をとった、すぐそこに酒場はあった。約束の時間は夕刻。すでに日はしずみ、海の中に身を投じたように、冷たく暗い空気がただよっている。その中に、一際目立つやんわりとした光を放つ酒場。
外に漏れるのは、時おりふらつくランプの柔軟な明かりと、人々の楽しそうな歌声、笑い声である。
扉を片手で押し開けると、そこには市場で見かけた店員がたくさんいた。
「おぉ! 来たか、来たか!」
「待ってたぜぇ!」
「こっち来て一緒に飲もうや!」
「ささっ! こっちだ、こっちだ!」
片目しかない店員。
手が四本ある店員。
片手しかない店員。
目が三つある店員。
他にも、酒場が埋まるほどの住民が、この酒場に来ている。座るところがほとんどないのである。
皆が入ってきた二人に手を振っている。
誰もが個性あふれる体系と、暖かい心をもっていた。
招かれるままに二人は酒場の奥へと進み、用意されたテーブルに腰を下ろした。
ウェルは腰を下ろした際、リエルを胸元から降ろしてテーブル上に置いた。絶妙なバランスで垂直にリエルは立ち、どこからか運ばれてきた自分とそう変わらぬ大きさの酒瓶に口をつけようとしていた。
「おい、おい。お嬢ちゃん、酒は飲めんだろうに。」
隣に座っていた毛むくじゃらの男はそう力強く笑ったが、リエルは鼻をならして男を睨みつけた。
「なんだと! これでも俺はウェルと同じ年なんだぞ! 双子だぞ! 酒くらい飲めるもん!」
にわかには信じられない子供の戯言のようだが、ウェルもウンウンと頷いてリエルの言葉が真実であることを、ウェルなりに意思表示していた。
毛むくじゃらの男も含めて、近辺にいた住人は口に手をあてて驚いていた。
「なんと! 本当なのか! こりゃたまげたよ…。」
驚かない方が不自然である。
なにしろ二人は似ても似つかないのだから。それにここは盛会の場である。驚きはやがて笑顔に変わり、リエルとウェルも酒を口にし始めた。
リエルは一口含んだ次の瞬間には酔いがまわっている様子だった。フラリフラリとリュックに納まったままの体で、テーブルを危なっかしく動き回る。だが、たいした距離を移動するわけではないので、危険度も知れたものであった。
一方ウェルは無心に酒を飲み干していく。顔色一つ変わらない。
グビグビ。ゴトン。
「おかわり……」
グビグビ。ゴトン。
「おかわり……」
機械的にその作業を繰り返し、周囲の驚きの視線を集めていた。ウェルはそれからも次々と酒を胃に放り投げていったが、一向に酔いがまわる様子はない。
笑い声が、四方八方から飛び交う。
手を叩く音。話し声。
シワくちゃの顔。笑顔が笑顔をつないでいく。リエルもその中に交わり、テーブルの上で上機嫌に踊った。手拍子に合わせてクルクルクルクル…。
回って回って、心も踊る。一人、また一人と席を立ち、一緒になって踊りだす。それを見た人からまた、笑顔がこぼれてつながっていく。
「ウェル、ウェル! あれやって、あれ!」
そう聞き取ったウェルは飲んでいた酒を乱暴に置くと、平静を保った顔とは裏腹に、おぼつかない足取りで酒場を出て行く。
「おや? リエルさん、ウェルさんはどこにいったんだ?」
一つ目の住民が首をかしげた。それにつられて数人、同じように首をかしげる。
「あぁ。ギターケースとりにいったんだよ!」
確信をもってリエルはそう云った。しばらくすると、本当にウェルはギターケースを携えて、フラフラしながら帰ってきた。あまりに不安定なので、何人もの住民が手を貸そうと立ち上がる。
「…ろってりたよ…リィル…」
どうやら一応酔っているらしいことが住民にもわかるほど、ウェルの舌は動いていなかった。そんなウェルの姿を見ても、なお楽しそうにリエルは踊り続けていた。
ウェルはドカリと椅子に座り込むと、ギターケースを開け放ち、ギターを取り出した。住民の中にはギターを見たことが無い者もいるようで、物珍しそうに眺め、どよめく。そんな住民のどよめきを無視して、ウェルはそっとギターを華奢な足の上に置き、美しい姿勢で構えた。瞳を閉じる。
ウェルの指先が弦を叩き、軽快なギター音が店内に広がった。
リエルのダンスもより軽やかになり、周囲の人々を巻き込んだ。あちこちからの歓声は、より店内の温度をあげていく。
床が抜けるのではないかと店主が危惧するほどに、総立ちで皆が踊りだす。
どこからともなく、耳に届きやすい笛の音が入り込んでくる。
それはより人々の心を躍らせるリズムを刻んでいる。
すると今度は机を叩く豪快な太鼓が鳴り始める。
机を叩く太鼓のリズムに、細い棒を立てて叩いたような音が入ってきた。
「たのしー!」
楽しさのあまり、リエルは叫んだ。
人々は手をつないで回ったり、小刻みに弾み、肩を組んで横に揺れたり、手を組んで足を右へ、左へ!
机に乗った男女が一緒に回っては笑い声をあげる!
そうでなくても、笑い声は常に耳に入ってくる!
店内はごちゃごちゃと蠢く人でいっぱいになった。
たのしい。気持ちいい。もっと踊ろう。
もっと笑おう!
外の星はしずかに瞬いて美しい。
宴は夜が更けてもなお続く。
静まり返ったのは、もう東の空が明るくなった、朝の兆しを迎える頃であった。
人々は、思い思いに寝っ転がり、気持ちよさそうな顔だ。
その中に、あのリエルの幼い顔も、ウェルの整った顔も、実に自然に紛れ込んでいた。
誰かが自分を抱きしめていた。細く、長い腕。繊細な指。嗅ぎ慣れた髪の香り。
自分が入っていた、買ったばかりのリュックは脱がされ、代わりにシルクのような長い髪が自分にかけられているのが分かり、自分は今、あの宿屋の綺麗な部屋のベッドにいるのだということにふと気がついた。
リエルはまだまだ開ききらない瞼で、自分を抱きしめている人物を見上げた。予想はついている。よもや男とは思えない。
そこには、整いすぎたウェルの寝顔がやはり在った。静かに寝息をたてて、ヨダレを垂らすこともなく、見本のような寝顔だ。長い前髪がレースのようになり、誰でもこの芸術的な美に見とれてしまうことだろう。
そんなこの上ない美麗な顔も、リエルにとってはただの姉の顔でしかない。
なんだ、ウェルか、と安堵して、再び眠りの世界に入っていくのだった。
窓が開いている。
それはウェルが早朝に帰ってきたときに開けた。宿につくなりウェルは、リエルをリュックから出してやると、途端に胸に抱え込み、ベッドに身を投じた。
リュックはベッドのすぐ脇に無造作に放置されている。
暖かな風は、開け放った窓から、心地いい間隔をあけて、それを見計らうように通りぬける。
二人の髪を揺らし、肌を撫でて安らぐ。
ウェルの軽く長い髪は、徐々にリエルの体から解けるように退き、その体全体をあらわにしていく。
肩から下、腕はない。
股の付け根から、足はない。
つまりリエルには、四肢がない。
それぞれの末端には、白い包帯が幾重にも巻かれている。痛々しく見えるが、リエルには痛みはない。あるのは、四肢がないという事実。リエルがリュックに納まる理由が、ここにあった。
しずまり帰った街の早朝。その街の宿で、二人は同じテンポで寝息をたてている。抱き合って、安堵した表情で。
ウェルが目をさましたのは、日もすっかり昇り、街ににぎやかさが戻った昼だった。リエルが目を覚ますまで、ウェルはリエルの小さな鼻を、ツンツン、ツンツンと突付いて遊んだ。くすぐったいのか、それとも止めてほしいのか。リエルは何度も眉をひそめ、唸るだけで、なかなか目を覚ます事はないのであった。
リエルが目を覚ましたのはそれから数刻たってからだった。遅めの昼食をすませると、二人は明日の出発の準備をしに夕方の市場へと向かう。昨日の酒場にいた顔ぶれがそこにはあり、他愛もない世間話を交えると、大抵の者は旅立つ二人に何かしらのサービスをしてくれた。おかげで、もう一つ荷物用の鞄を買うことになった。それだけの大荷物なったのである。
「おぉ! リエルにウェルさんか。荷物、大変そうだな。」
そう話しかけてきたのはあの毛むくじゃらの男だった。酒屋でウェルの隣に座っていた男である。男はライド(四輪で、原動機が装着された乗り物。太陽の光をエネルギーに変えて走る。)の整備を生業にしていた。
「……そんなことない。」
強がりなのか、本当にそうなのか、ウェルの相貌から読み取る事はできない。しかし、他人から見れば、ウェルの担ぐ荷物は重そうに見える。例えるなら、出産したての主婦が、子を胸元にさげて買い物の大荷物に息を切らしている。そんな光景に見えてしまうのである。
毛むくじゃらの男は、昨日と同じく豪快に笑って腹を叩き、ちょうど男のすぐ後ろにある旧式のライドをクイッと顎で指した。
「どうだい? あのライド、安く買う気はないかい?」
「え! 本当!」
耳寄りな情報に身を乗り出したのはリエルである。再び毛むくじゃらの男は豪快に笑った。
旧式とはいっても、整備されていので形はいい。タイヤも特注品をつかっているらしく、ちょっとやそっと交換せずともいい。それは簡単に言ってしまえば、掘り出し物の中の掘り出し物だった。
それを、この毛むくじゃらの男は、ハムサンドを買うよりも安く売るというではないか。リエルが驚かないはずがない。
「本当にこの値段で売るのか、おっちゃん! 後でやっぱり十倍払ってくれって言われても、俺たちそんな金ないよ?」
何度も確認をとるが、毛むくじゃらの男はそんなリエルを笑い飛ばし、ライドをハムサンドよりも安く売ったのであった。
「じゃあ、リエル、ウェルさん。街を出るときにまた言ってくれ。そのときは見送るからよ!」
あまりに安く買ったので、二人には買った実感がわかなかっただろう。リエルは言った。
「な、なんで皆俺たちにそこまで優しくしてくれるんだ?」
毛むくじゃらの男は、鼻で笑い、「決まっているじゃねぇか…」と続けた。
「二人が俺たちを愛してくれたように、俺たちも、リエルとウェルさんを愛しただけだよ! 俺たちには、それしかできないからな。」
翌朝、リエルとウェルは朝早くに身支度を済ませた。出発の準備はできている。朝日がようやく昇り始めて、しずかな街から、二人はその日、出て行くつもりだった。
宿での最後の朝食。
小人の店主は、「あのよ…」と、いいにくそうに鼻をかいた。
「…もしよかったら、なんだが…ここに住むつもりはないか?」
「え?」
口に料理を含んでいたリエルは仰天した。が、口から料理は微塵も落とさなかった。
「この街の人間は、あんた達の事を気に入っている。俺もそうだ…。ここで働いてもらってもいいし、それが嫌なら、二人でこの宿に住めばいい。」
小人の店主は真剣だった。リエルもウェルもまじめに話しに耳を傾けた。
「あんたらのあの音楽を聴いて楽しくなった。それは本当なんだ。だから、この街の音楽家になってもらってもいいと思う…だから…」
「すいません。」
笑顔でリエルは呟いた。小人の店主に満面の笑みを見せると、
「いい話だけど…俺たちは、まだ旅をしないと、旅をしたいから。もし、いつかどこかに住もうか考えたときは、迷わずここに帰ってくるよ。」
ウェルは黙って料理を自分の口に運び続けた。その食器の音よりも大きく、リエルは店員は笑い、お互いに納得して一回、頷いたのであった。
街にある出口も、入り口も、最初入ってきたあの門一つしかない。朝、街の住民は、リエルとウェルが旅立つことを知っていて、多くの者が門の前に集まっていた。
「また来てくれ。」
「今度また、あんた達の音楽で踊ろう!」
「待っているわ…」
「元気でな? 怪我、するなよ?」
「困ったらいつでも帰っておいで?」
まるでそれは街の子供を送りだすようであった。皆が皆、心配そうであるが、次にまた再会する喜びも、その顔ににじませている。
門を数人の男が開けてくれる。
外には草原が青々と生い茂り、遠く離れたところに丘が見える。そこには木が一本立っていた。
「…それじゃあ皆、また、来るね?」
笑顔で、リエルは声をからした。こんなにも暖かな気持ちになったのは何年ぶりだろうか。離れたくない気持ちが喉もとで暴れて、痒くてたまらない。
ライドのキュルキュルと回る独特のエンジン音がなり、いよいよ別れはすぐそこにやってきた。
「ま、また来るよ! また来るからね!」
リエルの頬を、冷たい辛さが落ちていった。
ライドは無常にも走り出し、二人とその街の住民は別れを告げた。
街の名前は『ケケラ』。そういった。
ケケラの門が閉まり、二人を乗せたライドも、あの遠くにある丘までたどり着いた。ちょうど、丘に生えている一本の木の側で、ウェルの運転するライドは停車する。
「……リエル。そろそろ出るよ…?」
「うん…。」
リエルは名残惜しそうにケケラを見つめていた。ケケラの門が閉じている。初めてあの門を開けた時と同じ冷たい風が、やはり同じようにリエルとウェルの髪を遊んでいた。
ライドは丘を越えて、草原をさらに走っていった。しばらくいくと、目の前の青い空にひとつ、トンネルが現れた。ライドがやっと通れるほどの大きさのトンネルだ。ウェルはまっすぐにトンネルにライドを走らせていく。空はずっと続いているように見えていたが、ライドが速度を上げると、トンネルが徐々に近づいてくるのがわかる。
トンネルに入ると、人工的な白い光に包まれた。ぼんやりとした白い光。その空間を抜けると、ライドは広々とした機会音がうるさい空間に出た。
ウェルがライドのエンジンを切る。
すると、灰色をしたそのパイプだらけの空間に、音声が響いた。
「いやいや、お疲れ様です。どうでしたか? 実に哀れな人間ばかりだったでしょう?」
嬉々とした調子で、そのアナウンスは話すが、いまいちリエルもウェルも真剣に耳へ入れていない。聞いているのかもしれないが、右から左へと流れていっている、という様子だ。アナウンスは続ける。
「我が国では、あのような奇形物を、この施設に住まわしているわけですな。近頃奇形の人間がちらほらとでるのでね、この政策はまさに上策といえるでしょう。この施設は、そのような奇形物が住む街を体感することのできる施設なのですからね。ご希望に添えましたでしょうか?」
ライドから降りたウェルは、そのまま頑丈なつくりであろう、パイプだらけの扉にむかった。自動的に、扉が勢いよく開く。
先ほどとは一変して余計なものがない通路を抜けて、二人はケケラでもらった荷物をしっかりと持ったまま出口へと向かった。
「それではお二人様、二日の滞在で…」
出口の手前にあるカウンターで、二人は会計を済ませる。
その額はハムサンドよりも安かった。
出口付近に、三角形のメガネをかけた長細い男が、ニコニコとして立っていた。彼がアナウンスの声の主である。
「いやいや、どうです? 楽しかったでしょう? 勉強になったでしょう? アレが我が国の誇る奇形物の街です!」
三角メガネの男は高らかに声をあげ、会計をすませた二人に近づいてきた。
どうやら二人に何らかの感想を求めているようである。
「どうでした? つまらなかったですか? それとも、なにか御気に障りましたか?」
細い両手を広げ、ニコニコ粘ついた笑顔は崩れてはいない。
はっきり云って、三角メガネの男の声は耳障りに聞こえる。まるで耳をしつこくチクチクと刺されるようだった。
そのおかげで、リエルはどうにも返事をする気にはなれなかったのだ。そんなリエルの様子を察したのか、ウェルはあの無表情としか言いようのない冷え切った顔で向き直り、「うるさい…。」とだけ言い残してとっとと外に足を運びだした。
三角メガネの男は引きとめようとしたが、すぐにため息を短く切ってしまった。
ライドは既に施設の外に出されていた。ケケラで買ったあのライドである。
二人はライドに乗り込むと、静かなエンジン音を鳴らし、テテイの街をのんびりと走り回った。
天気はいい。
ケケラで見た青空が、このテテイノ街にも同じようにある。
ふと、街を歩く人々に目をやれば、そこには真っ黒な紳士服を着た男がいる。真っ白なスーツを着た女がいる。だれもかれも、ツンッと鼻を高く上げたように、気取って靴の音を気にして歩いていた。互いに挨拶を交わすような事はしない。ただすれ違い、時計ばかりを気にしている。その横を、二人を乗せたライドは通り過ぎていった。
テテイの街はどこもかしこも綺麗にされていた。住宅は赤茶色のレンガで積み上げられたものばかり。とくに大きな家は、巨大な石を削ってそれをレンガの代わりにして建てられていた。
どこをどう見ても、テテイとケケラの生活は異なったものであった。
なかでも、テテイの住民がリエルを見るなり目を背けたのが、もっともそう感じた理由の一つだった。リエル自身、そんな視線に気をつかうようなことはなく、ただはじめて乗るライドに静かな感激を覚えているようだった。
ある住宅地に、ウェルがハンドルを切ったときのことである。例の如くレンガ造りの一軒家から、絶命したかのような女の叫び声が聞えてきた。
「ぎゃあぁぁぁぁぁあああ!」
何事か、と思わない者などいるわけはない。あっという間にその家の前には人だかりができていた。
リエルとウェルの二人も、すぐさま声のした一軒家の前にライドを停めた。
「なんだろう? 今の声。」
落ち着て、リエルは一軒家を見上げてウェルに話しかけた。
「さぁ…」
愛想のない会話の刹那、家から太った紳士が出てきた。
太った紳士は深々と頭をさげ、額にながれる汗を手にしたハンカチで何度も拭っている。一通り拭き終わると、顎についた肉をプルプル震わせて話し始めた。
「ぃぁあ…ぁの、皆様。心配には及びません。私の娘、ジュリナに子ができたのでございます。えぇ…子が生まれただけなのでございます。お騒がせして、まことに申し訳ない。どうぞ、お構いなく…お構いなく。」
人だかりはつまらなさそうに散らばっていった。中には不敵に微笑む者もいる。
リエルとウェルの二人は最後の一人が立ち去っても、ジッとして太った紳士を見ていた。
「ぉ…おや? お二方、どうぞお構いなく。どうぞ足をお勧めください。ささ、ささ。」
汗だくになった紳士の額を、再びハンカチが拭っている。
すると、太った紳士の後ろにある扉が開いた。出てきたのは黒いローブ着た女だった。ローブから長髪の藍色の髪が垂れ下がっている。手には…
「こ、これジュリナ! まだ動いてはイカン! 申告にはワシが行って来る! お前は安静にしていなさい!」
手には、赤子がいる。いや、はっきりとは毛布にくるまれていて分からない。ただ、蠢き方、声から察するに、赤子である。
「と…父さま…私、自分で行きたいんです。自分で…自分で、この子を…」
「ならん!」
リエルとウェルがいるにも関わらず、その親と娘は口論を続ける。
「こ…この子は…あのお方との子なんです…あのお方が遺して…遺してくれた…」
「ジュリナ…だが…」
ジュリナと呼ばれる娘は、そのまだあどけなさの残る声を震わせていた。手にはしっかりと赤子を抱えている。かすかに、毛布の狭間から、子供の顔が見えた。
顔の半分が異形だった。
晴れ上がっているような、グロテスクに赤く大きい瞳だった。拳よりも大きいだろう事が容易に予想できた。
不意に、太った紳士はリエルとウェルに迫り、ウェルの肩を乱暴に押してきた。
「おい! いつまで見ているつもりだ! 早く消えろ!」
リエルは、憤慨した紳士に噛み付いて唾を飛ばしたが、ウェルはモタモタとした動きでライドに乗り込む。
「はやく行け!」
紳士は、ヤケクソになったようにブルブル震えていった。
ライドが独特の回転音と共に唸る。
リエルとウェルの二人は紳士を睨みつけながら、その場から立ち去る。
リエルがバックミラーを見ると、ジュリナが必死に走ってくる。そのすぐ後ろには、あの太った紳士が死に際の顔をしてジュリナを追っている様だった。
「わわっ! ウェル、ウェル! あの人走ってる! 走ってきてる!」
リエルの声を聞くと、ウェルはライドのスピードを落とした。ジュリナの声が耳に入ってくる。
「待って…!」
かすかにそう聞える。
「そこのライド! 待ってください!」
ライドのスピードを更に落とし、ジュリナと平行させた。するとジュリナはあろうことかライドに飛び乗ってきた。
「わわわっ! あんた何やってるんだよ!」
驚くリエルをよそに、ジュリナは怯えた瞳で小型の銃器を運転席にいるリエルとウェルに向けた。
「だして!」
ウェルは待っていたように、一気にスピードを上げた。ジュリナは赤子を抱えたまま、後部座席に叩きつけられる。すぐさま体勢を立て直して、ジュリナは赤子に怪我がないか心配な面持ちになって、何度も赤子の頭を撫でていた。
ジュリナがゆっくりと振り向いた時には、あの太った紳士は跡形もなく消えていた。
さて、困ったことになったのはリエルとウェルである。これでは立派な誘拐だ。リエルはできるだけ首を後ろに折って、ライドがスピードを上げて街を駆ける音を聞きながら、懸命に叫んでジュリナに話しかけた。
「あんた! なにしてるんだよ!」
「え…?」
ジュリナは困惑して、赤子と、小型の銃器を抱いていた。その姿は見るからに非力であった。ジュリナは俯いて、しばし思考をめぐらせているようだった。その表情は、孤独の寂しさと、心細さがあふれだし、どうしようもなくか弱い。
見かねたリエルはどうしたものかと大きなため息をついた。
「あぁ、もぅ…とんだ荷物を乗せちゃったな…。」
「…うん。そうだね…」
二人の会話にジュリナは申し訳なさそうに肩を落とした。先ほどまでの勢いはどこへやら。手にしていた小型の銃器は、だらしなくぶら下がっているだけだった。
「しょうがないな…ウェル、ひとまず、どこか路地裏に入ろう。ライドで走っていたら怪しいよ。かえって目立つ。」
「…うん。わかった…」
それから細い路地に入り、ひとまずジュリナを落ち着かせるように努めた。
路地には人の影はみえない。そこは暗く、昼間の暖かさは感じられなかった。隠れるには格好の場所である。ウェルはケケラで買った大きな鞄の中から、手際よく水の入ったボトルを取り出し、フタを開けると、ジュリナに飲むように勧めた。
ジュリナは軽快して、ボトルを受け取らなかった。
「………いいです、いりません…」
「……飲んで…。」
渋々、ボトルを空いた手に取ったが、やはり口には運ばない。
三人の真ん中に、しばらくの沈黙が流れた。沈黙を破ったのは、ジュリナの水を飲む音だった。
ボトルの中で、水がはじけて落ちる音が鳴る。
覚悟を決めた面持ちで、ジュリナは口を開けた。
「この子は…この子は…私と彼の、子供です…」
震える声だった。俯いて、再びローブで顔を覆い隠し、手に抱える赤子をひしと抱く。
その肩は小刻みに怯えている。
「…手放すなんて…できるわけ…ありません。あの人が…残し…」
言葉は続かず、そこで途切れた。
ジュリナはしゃくりあげている。その嗚咽だけが空っぽの空間に流れていた。
それからいくらの時間が流れただろうか。ジュリナの弾んだ肩も落ち着きを取り戻し始めていた。赤子は反して大人しく、赤子独特の言葉を途切れ途切れに発している。その姿がとてつもなく愛しく映えて、ジュリナをジワリジワリと励ましているようにも見えた。
ジュリナは再び、今度は落ち着いて話し始めた。
「…この子は奇形です…それはごまかしようがないです…。でも…私には、この坊だけが、彼とつながっている綱なんです。このテテイでは、奇形の子供は皆、あの施設に入るのが規則です…それが…親のためであり、子のため…。そう教えられてきたんです。間違い、だとは思えません。ですが…」
「あんたが…」
リエルがジュリナの言葉に挟み込んだ。
「あんたがさ…どうしたいのか。それをハッキリさせてやらないと…。その坊やも安心できないだろ?」
「…リエルのいうとおり。」
ウェルが賛成した。
「わ…私は…」
「ほら、言ってみなよ? 内容次第じゃ、手伝わないわけじゃない。」
暗かったジュリナの顔に、希望を見つけた輝きが見えた。それはほんのわずかな、力のみなぎる兆しだった。彼女は歯を食いしばって、リエルとウェルに何度も頭をさげた。
何度も。
何度も。
そして頭を上げたそのときに、一言。
「あの施設に、この子と一緒に…。」
無理難題。でも、俺でもそうするよ。
そうは思いつつも、リエルは冒険に出かける勇者のようにワクワクとして笑っていた。
「…わかった。ウェル、手伝おう。」
「…うん。」
リエルはその後、策を用意していたようにツラツラと話始めた。
松明が灯されたあの施設の扉。
扉の前には、それほど巨漢でもない門番が、留守番をしていた。手には申し訳程度の攻撃力を感じる槍。それに松明が映って、目を回してしまうような光を放っている。
一人の門番が大あくびをして、隣の相棒にケタケタと笑われていた、そのときである。
二人の門番の前に、深くローブを被った女が、手になにやら抱えて歩いてくるのである。
ケタケタと笑う門番が、それに気がついた。
「おいおい、あっちからだれか来るぞ?」
「ぇえ? どれどれ…」
ローブの主はシタシタと、ゆっくり歩みを進めてくる。肩のなだらかな具合を見る限り、女だろう。すらりとした体が、ローブをしていても見てとれる。
一般的に、美しい女。そう表現した方が理解し易い女だった。
「…すいません。」
門番に近づいたローブの女は、ポツリと云った。
それは孤独になれた、冷たい人形の声のようだった。門番達はヒヤリと背筋を冷やして、一歩、その女に近づいた。
「な…なんでしょうか?」
「この施設を見学なら、明日の朝に来てくれ。今日はもう閉めてある。」
女は押し黙ったまま、その場に冷たく立っている。聞いているのか、聞いていないのかどうかも分からない。本当に、人間なのかさえ、疑わしくなるほどに。
「お、おい…。なんとか言え。」
「そ、そうか。お前この街の住人か?」
一人の門番の声に、ゆっくりと、じっくりと女は頷いた。
「な…! じゃあダメだ、ダメだ!」
「この施設は、他国者の見学用だ! 自国の者がはいることは許されてはいない!」
「それに女。その手に持っているもの…。まさかとは思うが…」
「…まさか、奇形の赤子か…?」
門番が手をのばして、女を捕まえようとしたが、ローブの裾はヒラリと舞い、羽ばたくように音を立てて女の逃げる軌跡を追いかけた。
女は背を見せて走り出していたのである。
二人の門番はすぐさまその女を追いかけた。
追えども、追えども、女には不思議と追いつけない。女が街の角を曲がれば、見失ってしまうのではないかと思えるほどであったが、角を曲がった女は壁に手をついて息を切っていた。
しめた。門番の二人は月明かりで女を追うが、再び女が走り始めると、やはり女には追いつくことができない。
その日は月光が幻のように美しく、いつもは暗い路地を照らしていた。影が影を追いかけて、その影はつながらない。
なかなか、つながらず、ローブの女と門番はずいぶん遠くまで走った。
ある角を曲がったとき、とうとうローブの女は行き止まりに差し掛かってしまった。角を曲がるたびに壁に手をついた息を整えていた女、のはずだった。しかし、女は行き止まりの壁を背にして、置物をおもわせるように、ピクリと動くことはない。
息をハアハアと荒々しくあげる二人の門番が、勝ち誇った顔でニヤリと笑う。
「ハァ…ハァ…なんでこいつこんなに早いんだよ…ハァ…」
「だ…だが、もう逃がさんぞ…ハァ…」
二人の門番が、ほんのわずかに目を離した刹那。ローブがふわりと舞っていた。
女の姿は、ない。
空にある月のすぐそこにある大きな建物にある、影。
長い髪が横に大きくなびいている。髪、のはずである。シルエットから、女はまだ手元に何かを抱きしめていた。
「…これで…大丈夫。」
女はそういった。小さく囁き、手元にあったものを投げ捨てた。門番達の元にゴトリと鈍い音がなり、ゴロリと転がってくる。
「お…! お前なんてことを!」
駆けつけると、それは木で作られた小さな丸太だった。それが毛布でくるまれている。
門番たちが弾かれたようにあの女を見上げるが、そこにはもう、空っぽになった空に風が通っているだけだった。
「ウェルのやつ、うまくやるかな…」
施設から程よく離れた位置に、リエルはジュリナに背負われながら云った。
昼間とは一変して、その街の夜は肌寒い。赤子が凍えてしまわぬように、ジュリナは両腕で毛布ごと赤子をしっかりと抱きしめている。その真剣な眼差しの先には、自分の羽織っていたローブを着たウェルが、あの施設の門番に向かっている光景があった。
リエルとジュリナがしばらく息を潜めて様子を見ていると、ウェルは門番を引き連れて駆けていった。
「お! ウェルの奴うまくやったな!」
施設の前には誰もいなくなった。ただ、松明がしきりに踊っているだけだ。
「ほら、ジュリナ! いまがチャンスだろ? 早くいくぞ!」
「は、はい!」
リエルの声を合図に、ジュリナはトテトテと足音をたてて走った。やはり、誰もいないし、気配すら感じ取れない。ひとまず、誰かに見つかる心配は無さそうである。
施設の扉を開けようとしたが、どうにも開かない。よく見ると、南京錠が一個ぶら下がっていた。
「あぁ、もう…。面倒くさいな…」
「どうしましょう? リエルさん…」
モタモタとはしていられない。いつ、あの門番が帰ってくるか分からない。後方を気にしながらジュリナは心配を溢れさせた顔でいったが、リエルは明るい、というか能天気な声で笑い、扉に背を向けるようにジュリナに命じた。
「こ…こうですか?」
ジュリナに背負われたリエルの背中が、施設の扉に平行になった。
「うん、うん。これでいいよ。」
ジュリナが赤子に目をやった瞬間に、背中から鉄が落ちる音がした。振り返ると、あのぶら下がっていた南京錠が落ちていた。
鍵が開いたのである。
「リエルさん! どうやって…」
「まぁまぁ、そんあことは後でいいから。な? 早く中に入っちまおう?」
「は…はぁ…」
ジュリナは不思議で頭が一杯になりながらも、抵抗感がなくなった扉の中に入っていった。
誰もいない。施設はこの国の半分を占めるほど巨大だが、入り口はさっき入ってきた一つだけ。右手には今朝リエルとウェルが会計を済ませたカウンターがある。いまは暗さのためなのか、どうにも殺風景で寂しい感じ。他に何もなく、ただカウンターの先には通路が薄暗く続いていた。
「ジュリナ、あの先が君達の行きたい場所だ。行ったら、もう戻る事は…きっとできない。」
「…はい。」
ジュリナは薄暗い通路に入った。
「これで本当にいいんだな?」
「……はい。もう…私は…」
通路はすぐに頑丈そうな扉にぶち当たった。扉はやはり開かない。
「もう…迷いません。」
開かない扉に、ジュリナは力強く云い放った。
「…わかった。じゃあ、この先にいこう。」
リエルは再びジュリナに背を向けるよう云い付けると、扉は背を向けた瞬間に重い音を鳴らした。
驚きと好奇心、それがジュリナの首を勢いよく振り返らせた。
ジュリナが背負っているリエル。そのリエルの背中には、白く浮かびあった光を放つ、翼があった。
思わず見とれてしまうほど、美しい。
翼は今にも飛び立てそうな大きさだった。ジュリナとリエルを包み込むのは、容易だということが予想できる。
翼は扉に触れただけのようだった。反動がまるでないのだ。それどころか、リエル自身、何をそんなに驚くことがあるのか、と言いたげな表情であった。
「ほらほら、いこう?」
リエルは翼を光の粉に変えながら笑顔を作った。そんな笑顔で言われては、さっきの翼に触れることもなんだかバカらしく感じてしまう。
「は、はい。」
扉の向こう側には、月明かりがやってくるトンネルがあった。ライドで駆け抜けてきたトンネル。そこを抜けて丘の上にある木を通り過ぎた頃、もうケケラの街は見えていた。皆、静かに寝静まっていた。
人が起きている灯火は、酒場にしかない。
「あそこだな。」
「…はい。」
まだまだ、風は冷たくてかなわない。でも、肌を痛めつけるような風じゃない。
ジュリナと赤子が向かおうとしている未来も、きっとこの風のようなのだろうと、リエルは思った。そして、その未来を想像すると、なぜだか楽しくなるから不思議なのである。吹きだしてしまうが、やはり考え直すと、リエルはジュリナがうらやましく思えてしまう。浮かない顔は似合わないのに。
「…ついた。」
いきなり後ろからウェルの声が聞こえた。多少驚きはしたが、問題はない。追っ手はひとりもいない。
ウェルにリエルを返すと、ジュリナは深々と頭をさげてきた。
「本当に…ここまでありがとうございました。」
感謝されてしまった。だが…
「でもな、ジュリナ。きっとコレからが大変なんだよ。誰にも頼ることなんかできない。その子をちゃんと育てるんだ。あの、近くて遠かった街でね。」
ジュリナの目は堅い。
リエルとウェルは丘の上で街に向かうジュリナを見つめていたが、すぐにトンネルへと向かった。ジュリナがケケラの門を前にしたとき、振り返ったが、そのとき丘の上には木が優しく手を振っているだけだった。
門を開けた。木製の古びた門で、月明かりでほのかに明るく青い。体で懸命に押し開けると、ひっそりとした街の先に、にぎやかな声が漏れる酒場の光が、微かにあった。
「止まれ。」
施設から出た途端、数十の矛先がリエルとウェルの二人に向けられていた。矛先の中には、さきほどウェルを追って息を切らした門番の必死な顔もあった。
「お前たち、一体何をしていた?」
声の主は矛の向こう側から聞こえる。
腕を後ろでキッチリと組み、陰険そうな眼差しでこちらを睨んでいる。
鼻のすぐ下には、くるりと細かくトグロを巻いた趣味の悪いヒゲが設けられていた。
身なりが他の兵隊とは違うところをみると、やはりそれなりの立場の者だろう。
ヒゲをいじりつつ、男はズイッと前に出てきた。
「どうなんだね? 答えたまえ。」
話し方も偉そうだ。
「ぁあ、こういうの、面倒くさいよね…」
「…うん。」
嘆息してリエルが云い、ウェルはそれに賛成してうなずいた。
「何をブツブツと? 早々に答えたま…」
ヒゲをいじったまま男は淡々とした調子で云うが、それをウェルは無視した。リエルを背中に背負いなおし、二人の顔が前後入れ替わる。
「どうしようか、ウェル。ライド、取りに行こうか?」
「…うん。」
「おいおいおい! なんて無礼な奴らだ! 構わん! 捕らえよ!」
いじっていたヒゲから手を放して、号令をかけてきた。目の前にある矛が一斉に動こうとした。
カチン、コチン、カラン、チチチ…。
矛の先にある鋭利な金属部分が、すべて地を叩く音…。
兵隊が手にしているのはただの棒切のみとなっていた。開いた口がふさがらない。文字通り、兵隊はもれなく口をあけて驚愕していたが、それは矛が落ちたからではない。目の前いるリエルとウェルを包む、ほのかに輝く、白い翼が唐突に現れたからである。
眠気を誘うような風が、リエルとウェルの周囲をしきりに回り、遊んでいる。
風の音しか聞えない、この場の空気のように、ウェルの表情は静かで、後ろにいるリエルもまた、穏やかに瞼を閉じていた。
翼はリエルを軸に、のびのびと羽をのばしていった。翼が動くたびに、さわやかな風はウェルの長髪を浮き上がらせる。
「さ、ウェル。もう行こう?」
「…うん。」
ウェルが地面を軽く蹴った。
翼が空間を捕まえると、一度だけ羽ばたき、二人は空の彼方まで瞬きのうちに消えてしまった。
残された兵隊達は、皆がため息をついた。
月明かりが染み込む夜に、棒切れが落ちる音。空には星と、月と、月の光のような翼が羽ばたいていた。もう遠すぎて、声もとどかないだろう。やがて空を見るのをやめると、あの翼の羽が何枚か落ちている。
一人の兵隊がそれを手にして凝視したが、その羽はやがて光の粉となり、空気に混じって消えてしまった。
ウェルは右手が痛かった。仕方なく、ライドのハンドルを左手だけで持ち、短い草の茂る草原をじっくりと走っている。
「ちょっとウェル。両手でハンドル持ってよ。じゃないと危ないだろ?」
ウェルの胸元から助手席に移動させられたリエルが、口を尖らせながらぼやいてくる。
「おいウェル! 聞いてるのか?」
「…聞いてる…。」
昨夜、テテイから飛び立った後、二人は荷物を取りに隠れて戻ったのだ。しかし、如何せん再び正門から出て行くことはできない。ましてやライドがあるのである。結局、二人がとった措置は、ライドをウェルが持って空から逃亡を計るという無造作な行為に及んだ。
それがウェルの右手が痛い原因であった。その作戦の首謀者は、もちろんリエルである。逆らわないウェルもウェルだが、そんなことを今更とやかく云うウェルでもない。
快晴の空のもと、二人を乗せたライドは、その足取りを軽快なものにしていた。
ハンドルを握るのは、やはりウェルの左手だけである。二人はしばらく黙り、風の音に耳を傾けた。ふと、リエルは呟いた。
「なぁ…」
「…うん」
草原の先を見据えたままウェルはアイヅチをうった。ややスピードがおちる。
「ウェルはさ、テテイとケケラ。どっちが…綺麗だと思った?」
「………」
「俺はね、ケケラが綺麗だとは思わない。でも、テテイが綺麗だとも…絶対に思えないよ。」
「………」
「ウェルは?」
「………私は…」
リエルをチラリと盗み見て、静かに微笑んだ。
「…リエルと同じ…」
「…だと思ったよ。」
リエルはニヤリと子供っぽい含み笑いで答えた。
ライドのキュルキュルと何かが回転しているような、独特のエンジン音が増し、草を多く巻き上げた。
ちぎれた草は空に舞い、やがて落ちていくだろう。ときに風に吹かれて、再び舞い上がるだろう。
妹はリエル。
ケラセルフィ・アーク・リエル。
姉はウェル。
ケラセルフィ・アーク・ウェル。
いまだ、旅の途中である。
永久に続く、旅の途中である。