プロローグ 〜 感染 〜
『──嚙まれちまった』
…確かに、一時、諦めかけた。
あのゾンビのような感染者共に、いっそ嚙まれて感染しちまった方が楽なんじゃないか、ヤツらのなかまになっちまった方が楽なんじゃないか、その方が楽なんじゃないか、と思ったのも事実、だ。
でも、裕子を守らなきゃ、って。
アイツを守らなきゃ、って。
アイツを家に無事に送り帰し、俺も家族の下に、父さんと母さんと、そして、妹と再開する為に、諦めちゃ駄目だ、生きて帰らなきゃ、って。
その為だったら、藻搔いて足搔いて死に物狂いに必死で生き存えてやる、って。
そう、覚悟したんだ。そう、心に決めた。決断、したんだ。
──なのに、、、
ごく簡単に、あっさりと、訳もなく、造作もなく、奇蹟も起こらず、英雄も現れず、虚しいままに、感傷に浸る暇さえなく、走馬燈が過ぎる事もなく、束の間に、あんなに注意していたにも関わらず、只々、嚙まれた。
いつの間にか蚊に刺されているように、気付かぬ内にひっつき虫が服についているように、寒い時に勝手に鼻が垂れるように、机で居眠りをしていて急に体がビクッと動くように、意識すらままならない、そんな意図しない間に、望まずとも、嚙まれてた。
──呆気なさ過ぎるだろ?
覚悟を決め、決意しての、斥候。
安全なルートを確保する、その為の確認を、俺が、俺自ら、自発的に、率先し、誰からの強制も指示もなく、アクティブに、ポジティブに、動いたんだ。
恰好付けでも、好感度獲得の為でも、過信した訳でも、調子に乗った訳でも、いい気になった訳でもなく、何かしらの自意識を周りに見せ付ける目的ではなく、裕子と仲間と、無論、俺自身の為、慎重に、しかし、大胆に、自ら動いたんだ。
正義感?責任感?価値観?存在価値?
人間の証明。人としての存在証明。
恐らく、俺自身によるその能動的な行動の真意は、正にそれらの類だったのかもしれない。
悪意なく、他意なく、害意なく、それを意義と信じて、走り出たんだ、夢中で。
──それが、ただの死亡フラグだったとは…
フィクションじゃなかった。
俺は、主人公でもヒーローでもチーターでもなく、況して、主要人物でも俺TUEEEでも神に愛されている訳でもなく、実に並の、ごく平凡な、普通の、一般的な、70億分の1の存在、単なるモブだった。
なんの前触れもなく感染者の群れに出会し、大した立ち回りを演じる事さえ儘ならず、大勢を覆す訳でも影響を与える訳でもなく、劇的でも衝撃的でも何でもなく、ただ、嚙まれた。
感染者、と云うよりは、人間の咀嚼力ってのは、想像以上、だ。
感染者に嚙まれた時、“感染しちまう”、って心配なんかより、“痛ぇーっ”、としか思わなかった。
あまりの激痛に、発狂したみたいな大声を上げ、兎に角、逃げた。
涙と鼻水を垂らしながら、全力で逃げ、ぜぇぜぇと息を乱す程駆け抜け、街角にへたり込んで右腕上腕の患部を握った。
食い千切られた訳ではなく、歯形と裂傷。
恐らく、犬歯だと思われる裂傷からは血が滲む。
痛ぇ痛ぇ、と声に出して悶えていても痛みが引く訳じゃない。でも、寒い時に、寒い寒い、って云ってないといられない、そんな状況に似てる。
漸く、この辺りで気付く。
感染しちまうかも、って。
なんの知識も持ち合わせていない高校生が思い付くアイデアなんて、高が知れてる。
スニーカーの靴紐を解き、上腕患部より上の肩側に巻き付ける。
間接圧迫、って奴。これって、止血法だっけ?
感染に対しては、意味ないか?そもそも、感染源が体内を回るのを抑える程締め付けるとしたら、血管やら神経やらが潰れて、壊死しちまうんじゃないか?
いやいや、抑々左手だけでそんなに力一杯縛る事なんて出来ない。
早々に諦め、今度は患部に自ら噛み付くように口を添え、血を思い切り吸い出すようにし、それを唾液と共にアスファルトに向けて吐き出す。
映画や漫画で見た事のある、毒を吸い出す行為、だ。
虫歯がないのが幸い、だ。
虫歯や口内炎から毒が回る、って聞いた事あるしな。
何度これを試せば正解なのか分からない。それ以前に、こんな事で感染を防げるのか?
何度も試している内に、この毒抜きって、俺に噛み付いてきた感染者との間接キスになっちまうな、とか思った。
下らない思い。
でも、こんな下らない考えが巡るって事は、若しかしたら、回復傾向にあるのかもしれない。
なんとなくだが、嚙まれた時よりも痛みが和らいでいる。声を荒げた先程の激痛は、いまや感じない。
──助かったかもしれない。
嚙まれるだけ嚙まれても、感染しなければどうと云う事はない。
ゾンビ毒抜き…ゾンビ毒なんてものがあるかどうかは知らないが、毒抜きが上手くいったんだ。
となったら、お次は、体力回復。
全力で逃げてきて、体力消耗が激しい。
上腕患部にハンカチを宛がい、役に立たなかった靴紐でそのハンカチを縛り、固定。
街角から立ち去り、見ず知らずの、疾うに家主のいなくなった家屋の裏庭に身を潜めた。
春先って事もあり、屋外で一晩過ごすには少し寒いが、閉鎖空間になっちまう屋内で身を隠すより、いざって云う時に逃げ出せる外の方が遙かにいい。
──どうだ。考える力、がある!
身の危険を案じ、考え、思いを巡らす事が出来るじゃないか。
これこそ、感染してない、って証拠だろ?
やったぜ。
助かった。
嚙まれはしたが、取り敢えず感染してないし、助かった。
不幸中の幸い。
恰好悪いし、みっともないし、何も出来はしなかったが、窮地を脱した。
安堵。
ほっとした。
後は、体力回復。取り敢えず、寝よう。
寝ている間に感染者に襲われたら元も子もない。
一番逃げやすいポジション、道路に駆け出す出入り口迄近く、しかし、外からは死角となる場所で背をもたれ、寝た。
肉体的にも精神的にも疲れはピークに達してはいたが、嚙まれた衝動がトラウマ的に襲い掛かり、悪夢を伴う浅い眠りを繰り返した。
──チュン、チュン。
雀か何か、小鳥の囀りを目覚まし代わりに、目が覚めた。
何事もなく、朝を迎えた。
感染者に発見される事もなく、遣り過ごせた。
襲われるんじゃないか、と気が高ぶっていたんだろう。
幾度となく夢を、その悉くが悪夢だったが、眠りは浅かったものの、疲れは十分取れ、痛みもない。
何より、違和感、がない。
助かった事を、感染しなかった事を、再確認。
そして、実感、した。
──いやいや、待て待て…
傷口を確認してみなけりゃ。
もしも、傷口が悪化し、異様に化膿してたりしたら、また、絶望しちまう。
逆に、何にも変わりなかったら、と云うか、瘡蓋とか出来てたら、確証が持てるだろ、助かったって。
恐る恐る靴紐を解き、ハンカチを引っ剝がす。
やった!
おぞましい傷口なんて見当たらない。
化膿してないし、拡がっていない。
それどころか、綺麗なもんだ。
傷一つない。
──ん?
傷一つない?
治ってる。
一晩で?
あれ?嚙まれていなかったのか?
いや、巻いてあったハンカチには、うっすらと血がついている。
治癒力って、こんなに強く、早いのか?
それとも、嚙まれた事実に動揺し、嚙み傷が残ってる、って錯覚したのか。
勘違いしたのか?
歯形程度、すぐに回復、痕は残らんよな。
裂傷があった筈なんだが、そんな深い傷じゃなかった気もする。
──まさか、な。
不法侵入した庭先から家屋に近付き、窓硝子に自分の姿を写し出す。
何も変わりはない。
感染者特有の、血が吹き出し垂れ流す様や血肉が腐敗している様子は微塵もなく、視認出来る手足や体の諸々にも変化はない。
と云うか、感染者特有の、あのキツイ悪臭が、自分からは一切しない。
──全く、驚かせやがって!
大体、こうやって色々考える事が出来る自体、感染してない証拠、だ。
ヤツらは、フラフラと何も考える事をせず、只々、生者を襲う感染患者の成れの果て。
謂わば、化物、そう、怪物、だ。
正に、ゾンビ、だよ、ゾンビ。
ウイルスか細菌か寄生虫か知らないけど、可哀想なヤツらだ。
うっかり嚙まれちまったけど、浅かったからか、毒抜きが上手くいったのか、或いは、100%の発症率じゃないんだろう。
抑々、100%感染するような病気はないだろ?
体力があったり、免疫力があったり、耐性があったり、と万人が罹患する病なんて無いさ。
風邪、くらいだろ?
よし、戻ろう。
一晩戻らなかったから、裕子も心配してる筈だ。
念の為、嚙まれた、って事実は伏せておいた方がいいだろう。
戻って、この事実を語ったら、例え、感染していなくても魔女狩りの対象、村八分にされちまうかも、だ。
不法侵入していた庭から道路に出て、走る。
日中は、ヤツらはあまり見掛けない。
夜行性なのか、紫外線に弱いのか、腐敗を防ぐ為なのか知らないが、ヤツらは日が高い内は、活発的じゃない。
昼間の内に戻るのがベスト。
襲われた時に何も出来ないんじゃしょうがないから、ジョギング程度の速力で駆ける。
──クール、だ。
嚙まれた、って事実が身を引き締める。
経験が活きてるんだ。
いつもより考えが巡るし、注意深く、用心深く、且つ、集中力が高い。
アドレナリンが出ているんだろう。
クレバーな思考が出来る上、十分な休息のおかげで体が軽く、意識が研ぎ澄まされている。
風に薙ぐ木々の葉の音が、鳥達の囀りと羽音が、春の陽気で早めに湧き出した羽虫の飛ぶ音さえ、聞き分ける程、感性が鋭く冴えている。
その音に混じって聞こえる微かな悲鳴。
日中にも関わらず、ヤツら、どこかで人を、人間を襲っているに違いない。
助けに行く?
確認しに行く?
いや、駄目、だ。
今は、戻る事を最優先。
生き残り、生きている、って事実を最優先にし、伝えなきゃ。
安心感、それが重要、だ。
──それにしても…
体が、軽い、な。
ジョギング程度とは云え、かれこれ30分は走りっぱなし、だ。
なのに、息切れ一つ起こしてない。
普段の部活での基礎体力作りが活きてるのか…
それにしても、息一つ切れない?
──あッ!!!
息切れしないんじゃない。
息を、呼吸そのものを、していない。
どういう事だ?
鼻からも、口からも、呼気をしていない。
息を吐いてみる。
出来る。
吐き出した呼気はある。
吸う事は?
はぁーっ……出来る。
息を、吸う事も吐く事も出来る。
なのに──してなかった。
なんだ、コリャ!?
そう云えば、瞬き、をしていない。
目を閉じてみる。
勿論、瞼を閉じる事も開ける事も出来る。
でも、自発的に、自然に、していない。
一気に不安に駆られる。
首下の動脈に指を添える。
ドクンドクン、いう筈の脈がない!
──体が、機能していない!
いや、機能はしてる。
動けるし、動いてる。
考えられるし、考えてる。
なのに、意識しないと動かない。
いやいや、これはおかしい、か。
誰だって意識しなけりゃ、動かない。
無意識で動くべきもの、反射や生体反応が皆無、って事だ。
ちょっと待てよ?
感覚、は?
手の甲をつねってみる。
なんて事だ!
何も感じない。
おかしい。
音は聞こえてたろ?
小鳥の囀りで目を覚ましたんだから。
空気が振動し、これを鼓膜が共鳴、それを耳小骨連鎖から蝸牛を満たすリンパ液に中耳からの振動が波及し、有毛細胞が電気信号として聴神経から大脳に伝える。
ん?
そうか、意識、したのか?
音、を。
──試すッ!
意識するんだ。
──心臓よ、動け!
トクン、トクン──
動脈に添えた指に、脈打つ感覚が伝わる。
なんだ、コレは!?
オートマチックな筈の肉体機能が、その全てがマニュアルモードになってる。
そんな感じ。
動かさないといけないのか?
あれ?
なんで、俺は、音を聞き取るメカニズムなんて知ってるんだ?
こんなの、小学生の時に見た図鑑か何かで見たっきり。
はっきりと勉強した記憶なんてないぞ?
いや、小学四年生の春、あれは4月21日、体調を崩して学校を休んで寝ていたが、午後から回復し、暇を持て余していたので体の図鑑を婆さんに頼んで買って貰い、それを読んだんだ。
ページ数は、152頁。
イラスト付きで分かり易かった。
──どういうこと、だ!?
意識した途端、記憶の彼方に置き忘れていた筈の過去が鮮明に甦る。
極端過ぎる程、クリアに甦る記憶。
──体に、俺の体に、ナニかが起こっている!
ゾンビ化、だ!
確信は、何もない。
だが、体に異変が起きている事だけは分かる。
これは、マズイ!
間接圧迫での血管や神経じゃないが、使われなくなった組織は、壊死しちまう。
壊死って事は腐っちまう、って事だ。
もしかして、ヤツらが腐敗し、悪臭を垂れ流しつつ活動している理由は、これなのか?
これに気付く迄のタイムラグが、ヤツらをヤツらたらしめる所以なのか?
動かさなきゃ!
意識、するんだ。
知識をフル動員しても足りない。
だから、今迄見てきた図鑑や辞書、インターネット、教養テレビ、保健体育の授業、参考書他、なんでもいい。
意識して、それら失われた全ての記憶を呼び戻し、その記憶を辿って、且つ、それら知識を総合し、考え、想像し、その集合知で、体の全てをコントロールする。
体を、細胞を、記憶さえも、ナノレベル未満の微小な領域からコントロール。
動かすんだ。
全てを、以前の状態で、人として活動しているレベルで。
いつから体の機能は、止まっていたんだ?
もしかして、どこか既に、腐敗しているんだろうか?
脳は僅かな時間でも酸欠になれば障害を残す。
浅い眠りのおかげで活動を続けていたのか?
思考する事が出来るだけマシか?
いや、冗談じゃない!
細胞を活性化するんだ。
死滅した細胞があれば、全て再生するんだ。
本来、本能で勝手に動いて然るべき体の機能を、全部意識するんだ。
──なんてこと、だ。
とんでもない程の疲労感。
意識し、知識と情報をフル回転して、動くべきモノを動かす労力。
しかも、それら全てにエネルギーが必要。
ごく僅かなエネルギーで各々を動かす事が出来るものの、それらの機能維持に消費されている事迄実感出来る。
必要、だ!
エネルギー、が。
エネルギー摂取…そう、食べること。
外部からエネルギーを得るのが手っ取り早い。
喰う事が必要、だ!
喰う、ぞ!
──喰う、喰う、喰う…
体を動かす為のエネルギー獲得に、空腹を満たすが如く、喰らい尽くす!
『すべてを平らげ、喰らい尽くす──喰らい資す──』