プラチナ・ブラッド5
第五章
1
意識をささえている中枢が崩れてひっくり返るというまでの衝撃であった。
科捜研にただちに飛んでいって、森光は館崎を求めた。彼は電話の通り、暗い表情でデスクに座っていた。
「これは、事実なんだよ」と、気の抜けたように言って、検査結果のデータ表を示す。「彼は、正真正銘のOh型の血液だった。これは、くつがえらない。この結果が意味するところは、わたしらの前に、約二名の稀血の持ち主が存在したということだ」
彼から渡された検査データは難解だった。シークエンス反応を通して塩基配列が決定されたものを、解読用ソフトであるBLASTで解析したというだけのデータ表は、英語ができなければ直截に読める箇所はない。
ただ、アライメントと呼ばれる、同じ塩基が棒で結ばれている箇所についてだけは、理解できた。それだって一致箇所は少なく、あいだの配列は、明らかに異なったパターンが刻まれていた。その箇所を手掛かりに見ていけば、二人の遺伝子が極端に異なっているのは、素人目にも目に見えていた。
「そんなはずがないんだ……」森光は検査結果を破り捨てたい気持ちを抑えるだけで精一杯だった。「それを認めたら、その先の捜査が進まないということになってしまうんだ。二人の遺伝子は、異なっていなければおかしい」
「結果がすべてだ」
彼は力なく言った。
受け止めなければいけない言葉だった。しかし、やはり森光の中では拒否反応が巡るのだった。どうしてこうなるんだ、という苛立ちを何度も自分にぶつける。はては、開き直って、どこかに間違いがあったのだという疑いを持つにいたった。
「館崎さん、すり替えられたんでしょう、検血そのものを」
「そういうことはないな」彼はむっとして言った。「ちゃんとこの目で、彼の血が入ったものを検査した。それ以上言おうものなら、ゆるさんぞ。わたしが買収されたというようなふざけたことに発展しかねないからな」
彼の吐息は乱れていた。彼はそういった疑われるようなことに対し、性分上許せない感情をもっているようだった。ならば、心証が悪くなるような行為にだって手をつけるようなこともしないはずだった。そもそも、この一件を引き受けたのは、業務上の依頼とはいえ、森光と信頼関係があってのことのはずだった。
詫びなければいけない、と思った。
「館崎さん、お許しください。しかし、どうしても納得がいかないのです。というのも、捜査は順調に進んでいて、能勢氏の包囲網が完成しつつあるという段階なのです。すべてにおいて、順調……そう、今回のこれだけが、唯一、矛盾しているということです。そんなことがあるというのだろうか。これは、やはりおかしなことだと言わざるを得ません」
「もう一度、検査をしても同じだろう。いや、彼から直截採血したんだ。このようなことが何度も繰り返されるようなことがあってはならない。これは、一度きりのチャンスなんだよ。この結果を受け容れるしかないということだ」
森光は沈思に耽った。
どこかに、抜け道がある。その抜け道というのは、検血を取り換えたとか、細工をくわえたとか、検査機器をいじったとかそういったくだらない小細工ではない。捜査上に取り上げられた材料の中に存在する、抜け道だ。
思いついたのは、ウィンドウ・ピリオドにある、遡及調査用の血液だった。その血液がハッキングしてシリアルナンバーを割り出してまでして外に持ち出されたというのにもかかわらず、その後、関係筋を通して、稲原から直截〝血〟を吸い上げに掛かった。
この事実はどういうことなのか
これまでにも、考えられてきたことだった。検血としては容量が不十分だった、あるいは鮮度にこだわりがあったためなど、考え得ることを挙げてきたが、この部分について具体性が今、求められていた。
はっきりとしているのは、やはり科学的材料として扱われていたという事実だ。つまり、血液になにかしらの高度技術を駆使した操作がなされようとしていたということだ。
「館崎さん、知恵を貸してください」森光は強い口調で彼に頼み込んだ。「検血を細工しようとするとしたら、それについてどのようなことを思いつきますか?」
彼は専門家らしき、プロパー顔になった。
「化学的細工ね……、急に言われても困るな」考えたのは、僅かに数秒だけだった。「思いつくのは、やっぱりDNAを採取して、これを利用しようとするということか」
「たとえば、血液そのものを加工して、別のそれに変えるというようなことはできませんか?」
彼は笑って首を振った。
「ばかなことを言っちゃ、いかん。そのようなことができたら、天才科学者だ。まあ、理論的にはありえなくはないんだろうがね。骨髄移植なんかすればドナーの血液に変わるし、白血病に罹った人間は、ABO血液型判定で、O型という判定がでたりする。その他、消化器官系の癌疾患については、B型に変わったりする場合があると聞いている。そういうのは特殊な例だ。血液型というのは、両親から一個ずつ血液型の遺伝子を授かって成り立っているわけだから、原則、一生涯変わらないという考え方でいいだろう」
「しかし、特殊な例では変わるんですよね?」
「付け足すことを忘れたようだ。これはすべて、生きている人間限定の話だ。採血した血は、どう細工したところで無理だろう」
会話は行き詰まった。
血液をマジックのように、別の血液型にするのは不可能である――分かり切ったことではあったが、何か森光の中で引っ掛かっていることがあった。
彼にとっては馬鹿げたやり取りなのかもしれないが、しかし、ここで諦めるようなことがあってはならない。これまで筋道を立てて順当に捜査を進めてきたのだ。その筋道は最後まで欠損なく完成させられるべきだった。
「骨髄移植で、血液型が変わるというのは、見聞きしたことがあります。しかし、内訳は自分には分かりません。そのあたり詳しく、お教え願えますか?」
「骨髄の中には造血幹細胞というのが含まれている。患者側に移植前処置をした上で、事前にドナーから摘出したこれを穿刺で移植すると、細胞が定着して免疫系もこれに置換される。つまり、免疫系がドナーのそれに入れ替わるわけだ。臓器移植も同じ原理だよ。移植された固形臓器の免疫が維持され、患者側にそれが定着していく……。すべては、免疫系の順応にある」
造血幹細胞。
すべての答えはこの中にこそあるはずだった。
しかしながら、これには難しい問題が立ちはだかっていた。造血幹細胞は、骨髄の中にこそある。稲原から採血した血の中には、存在しない。つながらないのだ。この矛盾を解消する問題を解消しないかぎり、その先に道はない。
「血液から、造血幹細胞を作りだす方法は、ありませんか?」
「それは無理だね。一般の血液からでは、その細胞を摘出することはできないし、作り出す方法だって、無理だよ」
「いま、再生医療で話題の人工多能性幹(iPS)細胞、これを使えばあるいはどうでしょう?」
森光が瞬間ひらめいたように思いだしたのは、梶に理化学研究所の外観写真を見せる際にアクセスした当該施設のホームページのことが頭にあったからだ。そこには、各研究員の研究実績と、研究内容が箇条書きに並べられていた。その中に、iPS細胞に関連する記事がいくつか載せられていた。
iPS細胞にまつわる、専門技術。
それが、今回能勢によって、悪利用されたのではないか……?
「難しい話だ。とても頭が痛くなるぐらいに、悩ましい話だ」と、彼は唸って言った。「血液中からiPS細胞を作り出し、それから造血幹細胞が作り出されたという順番ならなるほど納得という部分はあるし、この方法なら、骨髄移植のように白血球の血液型とよばれるHLAの型を気にする必要もないという確かなメリットがあるんだ。一応、赤血球ABO型適合、不適合かのクロスマッチテストが行われたところで、これが陽性だったとしても、赤血球さえ除去すれば問題なくなる。HLAどころか、血液型がちがっていてもだいじょうぶということ」
彼の表情は、険しかった。
「しかし、根本的な問題がまず一つあって、それは血液そのものからiPS細胞を採取できるかどうかという、一番最初の土台の部分だ。こういったやり方が正しく、そして正当なのか、わたしにはよく分からない。すくなくとも聞いたことがない話だ。わたしが日夜取りかかっている、遺留資料一ナノグラムでも検査できる、DNA採取事情とは訳がちがうのは言うまでもない。知っているだろうか? たいてい、iPS細胞というのは、皮膚組織片から培養して作り出すものなのだと」
「いえ……、自分としましては、それ以外に模索方法はないのです。持ち出されたのは、稲原の血液だけです。それ以上のものはなにもありません。館崎さんに知見がないのでしたら、iPS細胞が血液から採取する方法について詳しい人物をご紹介願えないでしょうか?」
彼はしばらく考えてから、顎を撫でさすりながら言った。
「一人だけ、思い当たる人物がいる。その男は神経伝達物質ドーパミンを生産する神経細胞についての人工多能性幹(iPS)細胞の実験にかかわっている者だ。きっと、詳細を教えてくれるだろう。いや、なんなら十五分くらい時間をくれるのだったら、わたしから連絡を取ってやってもいい」
「でしたら、待たせていただきますので、お願いできませんか。あと、聞きたいこととしては、実際にこれをやったとして、臨床試験なしに成功する確立はどれぐらいなのか、と。そして、そのことに対する、安全面での課題というのは、どういうものがあるのかも知っておきたいところです」
「わかった、合わせて聞こう。大事なことだと思うよ。特に、臨床試験なしというのは、科学者としては間違っているでは済まされない、医療界全体に対する冒涜だ。推理が事実だというのだったら、この男が犯したことは、医学界の倫理を保全するそのために、必ず白日の下に晒さなければならない」
彼は、急ぎ足で部屋を出て行った。つきあいのある科学者との連絡を取りに向かったのだ。取り残された瞬間、暇になって、自然と思案に移行することとなった。
能勢は、本当に人工多能性幹(iPS)細胞を血液中から取りだして、これを培養し、Oh型の所持者である稲原由来の造血幹細胞を作りあげたのだろうか。そして、できあがったそれを自分に移植したというのだろうか。そうして、免疫機能を作り替えたのだろうか。もちろんこの場合、遺伝子までは操作されることはないから、作り替えられた血液型はOh型そのままに、彼特有の遺伝子配列となる。
つまり、森光の前で彼がそうして見せたように、血液型とDNA検査をしたところで、稲原のそれと同一のものは出てこないということだ。
理屈の上では、どこにも間違ったことはなにもない。これは、成立することのはずだった。
注意しなければいけないのは、造血幹細胞という目に見ることのできない細胞レベルの移植とはいえ、移植手術である以上、穿刺という技術は必要で、どうあっても彼ひとりではできないということであった。大前がやはり全面協力にかかっているはずだった。彼の協力なくして、今回の計画はなり立ちえなかった。
その実、これまでのことから、大前はすべての計画に絡んでいるのは確実となっていた。そうまでして彼がやらなければいけなかったのは、なぜか。すべては、能勢に尽くすためだったというのなら、この事件の本当のところの動機は、やはり能勢の中にこそあるということになってこよう。
館崎がもどってくるのは、ずいぶんと遅かった。一時間近く経過しようとしたところでようやく現れたと思ったら、同行人がいた。
「彼が、先程話した、お方だ。科捜研に来る前の勤め先でお世話になった方でね、科学技術機構(JST)に勤めていらっしゃる。ご存知、国内、トップクラスの研究施設だ。なにかあれば、いつも相談に乗ってもらっているんだ。これまでに助けられたことは数知れず、いまでも尊敬できるお方として、お慕いしている」
男は、土門といった。綺麗に禿げ上がった頭のその代わりに、豪快な顎髭を蓄え込んだ男。白衣さえ着ていなければ、なまぐさ坊主といったところだ。
「話を聞いて、けしからん、となって、慌てて飛び込んできましたよ」彼は見かけ通りといった剛胆な口調で言った。「これはつまるところ、人体実験ですよ。自分の身体だから問題ないということにはならない。さては、物語の読み過ぎですな、その男は自らが作り出した空想のところに自分を泳がしているにちがいあるまい」
「とりあえず、わざわざいらしてくださったこと、感謝いたします」森光は頭を下げて、礼を示した。「許し難い感情という点では、自分も同じものを持っています。もっとも、その男が本当にこういった推理通りのことをやったということが確かだったらの話になる訳なのですが……」
「血液から、iPS細胞が作製できるかどうか、という問題でしたな」彼は顔つきを科学者のそれに引き締めた。「端的に言いますと、これは、可能です。血液からiPS細胞は作れます。再現性が低く、もしくはウィルスを用いて遺伝子を導入しているなど、多々、安全上の問題が多く存在し、多くの科学者から敬遠されていますがね。最近プラスミドベクターを使って、EBNA1タンパク質の発現量を増やす工夫をすれば、血液細胞からiPS細胞を作り出せるという技術が見出されたのです。もともと、プラスミドベクターは、線維芽細胞――これは、皮膚片に含まれるものですね、これからiPS細胞を効率よく作製するために使用されていたものなのですが、血液細胞にも使えないかと、模索されて、それが不思議というか、まあ上手くいってしまったんですな。それで、応用から血液細胞からもiPS細胞が作れるようになりました。この技術が使われていたとしたら、あるいはあり得ましょうぞ」
「では、やはり造血幹細胞を作製した可能性が、あるということでいいんですね?」
「一般的に作製される、線維芽細胞由来のそれと本質的に同等のレベルに達しているのかというのは不明ですよ。つまり、不完全な部分が多くあるのかもしれない、という恐れが残されています。同じように、移植だって、安全面ではかなり厳しい条件がそろっているというべきでしょう。これで臨床試験なしというのは、どれほど愚かなことか、その男に自分で分かっているのか、と問い質したいくらいです」
「成功確立は、あげるとしたらどれほどでしょう?」
「その質問には、お答えできませんよ」と、彼は事も無げに突っぱねてきた。「もともと、そういったデータがないのですから、あげるもクソもないはずでしょう。しかし、かなり暴力的なことをやったというのは事実です。実際問題、マウスの体内で造血幹細胞を作りだし、別のマウスに移植して生着させている成功例が報告されていますが、それも一年前も前のことですから、これはまだまだ足を踏み込んだという程度の不確かなものでしかないのです。さらにいえば、マウスで成功しても、人体では生着せず、免疫不全で死亡するなんていうこともありえますから、やはり、生物実験、それに継ぐ臨床試験は何年も繰り返さなければいけんのです」
能勢は森光の前で、健康な肉体を見せていた。もし、iPS細胞から移植でもって生まれ変わったというのなら、すべてをパスするだけの完全な移植だったということになる。
それにしても大胆な男といえた。こうしたリスクについて、彼が頭に入れていなかったはずがない。そこまでして、自分の血液を稀血である、Oh型にしなければいけない理由は何だったのか。
その答えは、当初から分かっていたではないか。
佐高ゆいか――
彼女だ。彼女こそが、彼にはすべてなのだ。
「そうだ、拒絶反応……これについては、どうなのです?」
森光の頭に次にひらめいたのはそれだった。
「もちろん、そういった心配もありましょう」彼の眉間には深い皺が湛えられていた。「そのあたりは固形臓器移植の免疫生着の事情と同じですよ。幹細胞も生着しなければ、拒絶反応を起こします。この場合、GVHDというんですがね。安定期に入るのは、ざっと見積もって、百日程度は必要かと。つまり三ヶ月ほどですな。これをすぎてもGVHDの症状が出ようものなら、多くの臓器に負担が掛かっていると思っていい。症状も深刻で、まず顔色が極端に悪くなることが考えられますね。肝障害に、間質性肺炎を併発することが多いことがその理由です」
稲原の事件が発生直後に培養が開始され、幹細胞ができ次第、即刻埋め込んだとしてたら、今は移植から一ヶ月程度といったところだろうか。日付にして、三十日前後だ。それで血液型が入れ替わっていたのだから、かなりの短気期間で生着を実現したということになろう。
いや、彼の肉体だけが特別なわけではない。
まだ、彼の移植による生着は不完全な状況ある――そう見るべきだった。
「それ以前に発症が見られれば、急性GVHDですよ」彼の説明はまだ続いていた「今回の場合は、iPS細胞を利用した移植だったというのなら、負担の掛からない移植に分類できるわけで、それでもやはり実例がないことから発症の状況は予想がつかないというべきでしょうが、しかし参考例はそちらによりかかるべきなのです。いわゆるミニ移植の発症は、六十日以内という場合が多い。初発症状としては、皮疹、血性下痢なんてありますがね、こういう場合は、体力の消耗が激しいでしょうから、外に現れるものです。人によってはまともに歩けない。……分かるはずですぞ、見た目だけで」
「能勢氏は、いたって健康的な様子でしたよ。体力消耗どころか、生彩に満ちていましたね。皮疹というのは、これは発疹のようなものと受けとめていいのでしょうか? だとしたら、そういうものも見られなかったですね」
「失敬。皮疹とは、発疹のことです」と、彼は短く修正した。「おもてに症状が表れないというのは、おおよそ考えにくいものですな。GVHDは高い確率で起こるものだとわれわれは考えて、臨床にあたっているものです。予防のために、免疫抑制剤の投与は不可欠です。今回、採取した血の中に、そういった成分が含まれていたのではないでしょうか?」
次に、彼は館崎を見やった。答えを彼に求めたのだ。館崎は言った。
「そのあたりの解析は、実行していない。今回は、あくまで血液型そのものの判定と、DNA検査だけなんだ。血中に含まれた血を分析することまではしていない」
「調べればすぐに結果は出る」と、土門はひときわ強い語気の強い声を放った。「投与されているものが何であるかを特定すれば、彼の身体の状態がはっきりとする。GVHDに掛かっているなら、そのグレードも割り出すことが可能だ」
「これを突き止めることは、彼のためにもなりましょうか」と、森光は落ちついて言った。「察するに彼の肉体は、内側からぼろぼろになりつつあるように思える。彼の肉体に行われた真実を暴き、最善の治療にみちびくという選択をあたえてやらなければいけない」
「その時は、わたしも呼んでいただきたいものです。臨床試験なしに挑んだ、人へのiPS造血幹細胞移植……。知見はありますゆえ、最大限の治療を約束いたしますから」
「あなたが適任でしょう。是非に、その際はご協力いただきたく思います」
彼は確固たる信念を面相ににじませてうなずいた。森光はみなぎる意思のままに、言った。
「なんにせよ、わたしがいまやるべきことは、彼を追いつめていくことです。突破口を開かなければいけないのです。でなければ、それぞれの人間にとって不幸な結果をうむこととなってしまいましょう」
「それで、突破口にあては、あるのでしょうか?」
「十分です。ちょうど、先生から御指南いただいたことで、私の前に立ちはだかっていた壁は取り払われました。いま、私のまえにはまっすぐの道が開かれているのです。そこを突き進めばいい。たったそれだけのことです」
能勢忠利という名の、理化学研究者。
その道の先には、彼がただ一人、立っている――
2
翌朝、朝早くから森光は移動の車にゆすられていた。運転役は、港北署の同僚だ。任意同行をかける手はずが整った一人の男を迎えにいくところであった。
大前稔人。
彼はその日も外勤ばかりにスケジュールがうめられていて、あちこちを社用車で駆け回る予定となっていた。その出端をくじいてやるように、森光は契約先の病院をたずねた。彼は、驚いた顔で森光を迎えた。そして事情を察したのか、仕事を取り下げた上で、沈痛な顔をして個室に請じ入れてきた。
「あなたの包囲網は、すでにすべて固まっていると思ってけっこう。……沼田は逮捕されましたし、その取り巻きである梶、堀内……その他の、男も逮捕された。いずれも、あなたの名前を挙げている。任意同行は、もはや避けられないことだ」
彼はうなだれたようにうつむいていた。睡眠不足なのか、目下は腫れているも同然に、黒い。
「沼田が、逮捕されましたか……そうでしたか……」
彼はその情報さえも、押さえていなかったようだ。日夜、臨床に駆け回っている、外勤医だ。移動し回って仕事をはたし終えたところで、残るのは疲労と、わずかばかりの達成感くらいなものだろう。もはやそんな状況では、時事のニュースなど顧みるひまもないはずだった。
「あなたは、彼に追われるように生きてきたんだろう? そう、あなたが医大に在学しているその時から――」
彼は顔を上げて、森光をしっかりと見た。その目には、強い怯えの色があった。
「分かっているんですね、……すべてを」
「調べなければいけなかった。事件のすべての始まりは、あなたの中にこそ、あったのですから。それにしても、沼田から金を借りたのは間違いだったな。なぜ、あのような男から借りなければいけなかったのか」
自嘲を含んだ口許を見せた。
「切羽詰まっていたんですよ、本当。誰にも頼れない状況に自分は追いやられていたのです。いつ、学生課の方から、退学が告げられるかおびえていました。支払いが滞っていたのです。自分には兄弟が二人いるんです。その二人とも弟です。自分だけが大学に入り――それも、私立の医大という分相応でさえもある贅沢な大学ですよ、そこに入れてもらって、弟二人は働きに出ていました。情けないことに、その弟たちからも、仕送りを受けていたんです。おそらく、町工場を営んでいる父がそうしろと強制したんでしょうが、しかし、弟たちはぼくに優しい男です。献身的に尽くしてくれるのです。支払いの過度期、生活の大部分を犠牲にしたでしょう。ぼくは、そんな家族たちを裏切るようなことはできなかったのです。なんとしてでも、卒業しなければいけない……医者にならなければいけない……沼田と出会ったのは、まさに、それを思い詰めていた時期でした」
「肩代わりをしてもらったんだな?」
「そうです」と、彼は消極的にうなずいた。「やむを得ない選択でした。でも当初は、よくしてもらっていたように思えるんです……本当に牙を剥いたのは、医局に契約医として所属するようになってからです」
搾取の日々を彼は語った。
手取りの半分以上を持っていかれる日々。生活ができない、と訴えると、利子をはね上げると脅された。いずれも、沼田が派遣したごろつきの干渉だった。一週間ほど、一日一食の生活が続いたこともあった。家にいるよりも、医局にいる方がずっと安全で、安泰だった。それがあったから、宿直の残業は進んでやったし、人がいやがる遠地の出張診療も積極的に請け負った。そうして、一年が過ぎた頃にはあちらこちら駆け回るスケジュールが定着し、それが大前の病院での立ち位置となっていた。
「梶と堀内から逃れるために一生懸命に働いた……しかし、やつらの搾取は、徹底していた。どこにいっても彼らの存在はあって、支払いに応じても借金の嵩は減らないようになっていた。そこは、彼らの仕事だ。食い扶持がたしかなものになるそのためには、理不尽なことだって簡単に思いつくし、手をつける。まあ、言ってみれば、よくあなたも二年ものあいだ、そいつらと付き合えたというもんだ」
「梶と堀内が出てくる前は、そんなにひどくはなかったように思えるんです。もちろん、当時から借金は返さなければいけない状況には追いやられていて、精神的にも追いつめられていたんですが、それでもまだ幾分、余裕があったんです。その時のようになってくれれば……と、二年間ずっと辛抱していたというわけです」
梶と堀内さえいなければ……と、彼は思っていたのだろう。
だが、それは誤りだといわざるを得ない。彼らを雇い入れ、派遣したのは沼田だ。これは彼の計算によるものだったとみるべきだった。事実、彼が別件で逮捕されている案件の中身には、やはり凄惨な取り立ての実情があった。それも、一件二件ではなく、複数件にわたった、全体として悪意がありありと感じられる内容だ。
「手切れ金の提案は、これはどちらから?」
「手切れ金……というような、発想はなかったですがね、見ようによればそうなりますか。もちろん、向こうからですよ」
「梶が言い出したんだな?」
肝心の梶は、すでに検察に送り出されているが、そこで黙秘を貫いている。それは、堀内もその他のごろつきも同じであった。沼田を守ろうとする意思が彼らの中に存在していた。
「梶です、彼しかいませんでしょう」と、悲痛な口調で、大前は言った。「なんでもものを言いだすのは、あの男です。延々と利子払いをしたところで、収まりがつかない。ここらで一括払いにしたらどうだ、と――まあ、そんな具合です。もちろん、払う金などないことが分かっているから、何かを仕掛ける気でいたのでしょう。このぼくを悪に引き入れる手口です」
いよいよこれはいけない、と彼の中で危機感が起こった。それは前々からあった感情ではあったが、今回ばかりは感じが異なっていた。自己防衛をはからなければいけない。そのためには、要求されている金の全額を支払わなければいけない……。
そこで、彼に悪意がささやきかける。
患者として接している、佐高ゆいかを売り出すことはできないか――
「能勢とは、その頃すでに出会っているんだな。あんたは最初に接見したとき、彼が研究していることについて、医療的な協力関係という面でのつながりがあるというようなことを言った。だが、実際つながりがあるという点は見つけられていない。能勢とあんたはどこでどうやって出会ったのか、やはり謎のままなんだ」
「なぜ、能勢さんの名前が、ここで出てくる」彼の目つきが鋭くなった。「能勢さんは、何も関係がないだろうが。余計なところに話を持っていくな」
計算違いのことが起こっていた。
大前は、まだ能勢のことを守ろうとしているのだった。彼についての罪状を表沙汰にする意思はない。
「何をおっしゃられる。事件の目的には、能勢氏が絡んでいるのは明白でしょうに。あなたと能勢氏をつなげるものは、佐高ゆいかというあなたが担当する患者さんだ。彼女の特異な嗜好……これに付け入る形で、あなた方三人は相互関係がなり立っているんだ」
「ならば、彼女から能勢さんとの出会いについて一度でも聞いたことがあったのか?」
それは、あった。
Rhマイナス繋がろう会の出向の際、彼らは出会ったということだった。お互い初対面だったが、稀血の持ち主同士ということで、すぐさま打ち解けあった。それから、恋人同士の縁に発展することとなった。
「そこに、何かあったのか?」
「二人は、自分の関係しないところで出会っている。能勢さんに彼女のことを紹介したのは事実だが、しかし、それはあくまでちょっとした前情報を授けたのに過ぎない。ぼくは、二人の出会いについて何もタッチしていないんだ。事実、タッチしていたなら、初対面のその場にぼくが立ち会いしていたはずだろうに。あいにく、そういった事実はない。彼ら二人はほとんど運命的な導きの下、出会ったんだ」
「出会うことを仕掛ければ、どうってことはない」と、森光はこともなげに突き返す。「二人だけで顔を合わせることは可能だろう。立ち会いなどは、不要ということだ。口にするまでもないことだ。……あんたは、二人の出会いをセッティングしたんだ。だいたい、その直前に紹介があったというのなら、これは、もはや決定的だろう」
「紹介は、紹介だ。セッティングとは、また別の話だ。一括りに考えるあなたは、いかにも頭が硬いと言わざるをえない。……ぼくは、何も関係がないんだ」
むきになって言う彼の呼気は、あらぶっていた。明らかに自分を見失うかそうでないかの線上に彼の精神はあった。どうも、譲れないものがそこにはあるようだ。
もしかしたら、そこにこそ彼が見え透いた嘘をつらねる、本当の理由があるのかもしれなかった。
「ならば、話を戻そうじゃないか。その点を否定するとなれば、多くの部分で矛盾が生じるからな」
森光は彼が犯してきた罪業について、すべてを押さえているつもりでいたので、気持ち的には余裕があった。
「まず最初に、稲原の血。……これを持ちだしたのは、なぜだ? そしてそれはどこにやった? また、その計画を実行するにあたって、梶たちと協同したのはどういった背景があったからか? ……このすべてに答えてもらいたいものだ。いや、答えなければいけない。お前さんが実行犯の一人であると証言する者が現れているからな」
彼は不快感を湛えた顔つきで、じっとしていた。いまにも冷や汗が浮かびそうだ。自分の心証よりも、能勢の心証を守ることを考えているための反応と見て良いのだろうか。
「おれは、思う。すべての企画主は、お前だったはずだ、と」
森光はぴしゃりと言い切った。
誰もいない、長机が奥手にて畳まれた多目的室は、静寂ばかりがどっしりと横たわっていた。
「稲原の血は、個人用に使ったよ……」と、彼は口を切った。「稀血の持ち主ということで、調べたいことがあったんだ。これは、興味本位でやったことなんだ。たった、それだけなんだ……」
うつろな目は、自分がくだらない嘘をついているということの認識力すら持ち合わせていないことをしっかりと証明していた。
森光は彼から期待した回答を引き出すことを、諦めざるを得なかった。気を緩めると、肩の位置がぐっと下がった。
「その嘘につき合うとしたら、次に投げかける質問は、なぜ、梶たちと協同してまでしてやらなければいけなかったのか、ということになるか」
彼は押し黙った。
遅れて、壊れたような笑みを取りつくろう。
「これ以上、惨めにさせないでおくれよ。ぼくは、もともと何も悪いことなんてしていないはずなんだ……」
「稲原に傷害行為をくわえたのは事実だ。技術があり、さらには痛みを緩和させる措置を選択していたとしても、それが罪の軽減につながるというようなことはない。傷害は、傷害なんだ。お前は、稲原を傷つけた。しかも、彼本人に恐怖をあたえる形で、強制的に実行した――そのことの罪は、問われなければいけない。……なぜだ。なぜ、このようなことをやった。動機が知りたいんだ」
彼はやはり、口を閉ざしていた。
弱々しい目が、あちこちをさまよった挙げ句、森光の胸元に固定された。そんな彼に、森光は畳み掛けた。
「能勢だな? すべては、能勢なんだな?」
彼の顔が跳ねあがった。
「能勢さんは、関係ないと言っているではないか」ゆっくりと顎を引き、睨むような鋭さのある上目遣いをよこしてくる。「ぼくだ。すべては、ぼくの中にあるんだ」
これ以上は、何を聞いても無駄だろうと思った。
彼の能勢を庇う気持は、中途半端なそれではない。腹の底にしっかりと座ったものだ。
いずれにせよ、彼は実行犯の一人で、一連のことにたずさわっていたことを認めているという点は、収穫だったと思っていいだろう。
聴取部屋に同行してもらい、そこですべてを語るその時まで、彼との駆け引きをつづけるしかない。
「署に、きてもらえますね……?」
努めて抑揚のない声で、誘い掛けた。
彼は、ゆっくりと滑らかさのある動きで、うなずいた。
移動中の車内には、沈黙の塊が息苦しくなるほどに、押し込められていた。油断すれば窒息してしまいそうなほどである。
横手に並んですわる大前の表情は、もはや病人であった。顔色は青白く、唇はぼろぼろに乾燥している。なにより、生彩のない顔がいただけない。よほどの悪運つづきがあったところで、このような顔にはならないのかもしれない。
沈黙を打ち破ったのは、電子音だった。森光の携帯だ。モニターに表示された相手を見ると、思わずぎょっとした。
通じている警務課の男だ。区役所の戸籍課と連絡を取るよう依頼してあったことが思い出された。
まさか、婚姻届けが受理されたというのか……?
「もしもし、森光です」
努めて感情を殺して、出た。
「緊急のニュースをお知らせしなければいけません」
「区役所の件ですね?」
「いえ……、そっちではありません」彼は、口ごもった。「監視していた能勢氏自身のことです。たおれて、海星堂病院のほうに運ばれたということでした」
別の方向で、衝撃が走った。
そういう懸念事項があることも頭にはあったが、そちらのほうが先に転がり込んでくるとは思っていなかった。
「それで?」森光は携帯を持ち直した。「彼は無事なのか?」
「意識はあるようです。ただ、病状は決して軽くはないということでした」
「わかった。まっすぐに駆けつける」
海星堂病院の詳細を聞き、森光は携帯を切った。
直行したいところだったが、そういうわけにはいかなかった。大前を署にまで同行しなければいけない。その彼が、森光を見ていた。
「なにが、あったのです?」
「いや、……気にするな」
「能勢さんですね?」彼は血相を変えて掴みかかってきた。「あのお方が病院に運ばれたのですね? 本当のことを言って下さい」
「お前には関係ない」
森光は彼を逆に押さえこみに掛かった。力はこちらのほうが上だった。呆気なく立場が逆転した。
「ぼくも、連れていってもらわないと困りますよ。……いえ、ぼくこそが役に立つはずなんです」
そういえば、彼は能勢の移植を請け負った疑いがあるのだった。あくまでそれは推理上の憶測でしかなかったが、大部分で正しいはずだった。他に協力者などは、能勢の回りには現れていない。
免疫抑制剤だ。彼は能勢に打つべき種類のそれを知っている可能性がある。連れていくことには、意味があるはずだった。速効で救うべく、担当医に助言することができる。
それに、森光としても好条件がついてくるのだった。治療行為への参加は、彼の移植を請け負ったという事実を、間接的に明らかにすることになろう。そうして、彼は言い逃れできない立場に立たされることとなる。
この不幸な結果を利用しようとしているのではない。それが導かれる状況に追いやられていて、そこに刑事として責任を持って立ち向かわせさせるというだけのことだ。
「ならば、一緒に来てもらおう」と、森光は決心して言った。「約束をしてくれ。余計なことは絶対にしない、と」
「しない。それは、するものか」彼の目には、ある種の闘志が煮えたぎっていた。「能勢さんは、ここで倒れてもらっては困るんだ。だから、助けることだけに全力を尽くす」
純粋な意味での、能勢に対する尊敬の念から助けようという動機ではないように感じられた。どこかしら、余所行きの響きが含まれていたのだ。気に掛かったが、この状況だ。詳しく問い質している場合ではなかった。
森光は、運転役に指示を入れた。行き先は、海星堂病院。現在地点から、三キロ離れた設備の充実した大病院。信号にしつこく付きまとわれなければ、十五分もあれば着くだろう。
「よろしいんですね?」
運転役の確認。
「いい、行ってくれ」
見ると、大前は組んだ手を、ぶるぶる震わせていた。
3
到着した病院の集中治療室(ICU)は、静かな空間だった。運び込まれたばかりの能勢以外に、ひとりの男が四箇所ひとつづきになっている治療空間の奥手を埋めていたが、こちらはすでに治療がおわって一段落ついたらしく、生命維持装置のインジケーター以外は、あとは沈黙していた。
治療中のあいだは、森光の介入は許されなかった。大前も同様だったが、彼は担当医であると断りを入れて、相手の事情も構わず奥に乗り込んでいった。治療には直截手を出さないという条件での参入許可だ。
二時間もすると、担当の医者が森光の前に現れた。
「容態は落ちつきました。が、長期の入院はさけられない状態であることは告げなければいけません」
術衣用頭巾を取り払って、彼は汗でしなった頭をひと撫でする。
「大前という医師の指示は、役に立ったのでしょうか? もしそうだったとすれば、この事案は相当特殊な件であるということはお分かりいただけたと思います」
「具体的には何も聞いていません。とりあえず、移植患者なんですよね? GVHDに対応していて、使用薬はATGということですから、これは急性GVHDであったことが疑われます。発熱と、紅斑の出現視認、検査の方でも、免疫指数と、肝指数の低下が認められましたから、おそらく正しいことをいっているはずです。しかし、こういうことは綿密な検査をしないかぎりには、助言どおりの直截的治療行為はできません。現在表れている自己免疫疾患の症状を応急処置し、それからATGを投与する手はずとなります」
「本当の治療は、これからということですか?」
「ご安心を、彼の体力はまだ確保されています」と、医者は、頭巾を装着して言った。「今後もこのような状態が続くのでしたら、注意しなければいけないのでしょうが、いまのところは問題ありません。数値は比較的安定しているのです」
詳細は聞いていないとなれば、移植したものが臨床試験がまだなされていないiPS細胞による造血幹細胞であるとは報されていないはずだった。となれば、彼の容態について、
予想のできない事態に発展する可能性があることについて、無理解のままでいるはずだった。
「運び込まれたのは下血です。それで体力が一気にがくっときたのでしょう」彼は事務口調で淡々と言う。「聞きつけた検薬、ATGによるショックかと思ったんですが、そうではないと分かって安心しています。汎血球減少症のようなことは起こっていなかったのです。これが認められていたら、手のつけようがなかったところでした」
免疫抑制剤のショック反応は、多臓器不全を招き、やがて絶命にいたるということだった。その致死率は九十五%と高い数値を示す。有効な治療法は皆無ゆえに、それが僅少の確立とはいえ、投薬のリスクは大きく存在しているといえた。
そうした事実を知って、森光はますます能勢が自らに実行したことの行為について、同意しがたい感情を抱くにいたった。
医者が去っていく姿を見届け、森光はしばらく待合室の長椅子にて、考え事に耽った。
あの男は、いったい何を考えてそんなことをしたというのか。そこまでして、佐高を自分のものにしたかったというのか。
自分のかかえ持つ強欲に彼は押しつぶされようとしている――そんな具合ではないか。一刻も早く、彼には目を覚ましてもらいたいところであったが、しかし、すでに手遅れのところにまで来ているのかもしれなかった。彼の身体の中に埋められたものは、もう取り返しがつかないのだ。これは、一種の烙印のようなものだ。つまるところ、彼は進んではならない道に自らの意思で進んでしまったのだ。
三十分後、病院に変化があった。
佐高が現れたのだ。彼女は、ひどく困憊したあり様で、身を縮めていた。いまにも崩れそうな危うさにみちている。
「あの人は、どうなって……?」
森光の姿を見かけるなり、すがるように問いかけてきた。無事だ、と伝えた。彼女の目からは涙が伝った。よかった、と嗚咽を抑えた口から、何とかそう言った。
「安心していいはずだ。彼の容態は落ち着いているということだった。検査がすみ、本格的な治療がいま行われているところだ。直に、治療室が移され、そちらで安静することになるだろう」
彼女はまだ涙に暮れていた。
婚約を申し込まれたばかりだっただけに、悲しむ気持はひとしお大きいものがあるはずだった。あって当然だろう。森光はしばらく胸が押さえつけられたような気持で、彼女を見守っていた。
能勢の容態が悪化したその理由について彼女には報されるようなことがあってはならなかった。その点は注意しなければいけない。彼女に大きな精神ショックが与えられるようなことがあってはならない。
しかしながら、こうなった以上、いつの日かは、真実を明かさなければいけないときが来るのだろう。その時までには、彼女には精神的な成長をしてもらなければいけなかった。
「彼が病気持ちだということは、知っていたかね?」
森光が問うと、彼女は顔を上げた。
「腎臓が悪いとか言っていましたけれど、それ以外は特に何も言っていませんでした」
「実際、彼が病み苦しんでいる姿を、これまでに見たことがあったね?」
「はい……」と、彼女は消え入りそうな声で答えた。「見ています」
「いつ頃から、そうした姿を見ていたのか」
彼女はここ最近だ、と答えた。二週間前程から体調不良がつづいていたようであった。おそらく、例のDNA検査後に容態が悪化したのだろう。いや、きっとそれ以前から予兆はあったはずだ。だから、彼はあのとき突飛に、検血を依頼したのだ。自分の容態が悪くなるその前にやるべきことをやったということだ。
「あの男は、私の前ではずっと平然としていたがな。もしかしたら、強がっていたのかもしれない」
「ありえることです。あの人は、弱いところを見せるのがきらいなところがありましたから……」
肉体の中で劇的な変化や、投薬による薬理反応が表れていたとしたら、終始一貫して、その兆しすらみせなかったあたり、脅威的な男だったといえる。彼を底支えしているエネルギーはいったい肉体のどこに秘められていたというのか。
「一ヶ月と少し前、ひどく熱を出したことがあったんです……、でも、だいじょうぶだからとかいって椅子にどっしり腰掛けたまま、わたしとの会話に無理につき合おうとするんです。結局、ひどくなってしまい、担当の医者さんを呼ぶとか言い出して、わたしは為す術なく帰されました……。もしかしたら、その人と、ことあるごとに連絡を取っていたのかもしれません」
大前だろう。
やはり、彼は能勢の担当医を買ってでたのだ。
「その男が誰だか、わかるかね?」
森光はその答えがわかっていながら訊ねた。
「いいえ、分かりません。電話でのやり取りを見ていただけです。特に、その人とお会いしたことだってないんです」
ちょうどその時、集中治療室(ICU)のほうから大前がでてきたのだった。背を向けていた佐高が彼を振り返ると、縫い付けられたようにじっとその顔を見た。
「先生……どうしてこんなところに?」
大前は顔を逸らし、彼女を見ようとしない。ばつが悪いというような程度を越えた、厳しさがあった。
この状態からさっさと逃れたいという思いからか、彼は思いついたように言った。
「能勢さんは、問題ない。容態は安定している。ちょっとしたショックで倒れたというだけのことだ。あと少しすれば、会えるから……」
その後も、彼女からの質問を阻むように、彼はくどくどと繰り言を吐きつらねた。
「大前さん、そのようなことはどうでもいいのです」と、森光が言った。「いま必要なことは、あなたがなぜここにいるか、ですよ」
彼は森光を一瞬、牽制するように顔をしかめた。
「なぜ、ここにいるかって? 決まっているだろう。あんたが連れてきたんだ。だから成り行き上、治療行為にかかわったんだ」
「彼女の前では、本当のことが言えないということなんですね。すべては、なんのためです……? あなたのためなのか、それとも……?」
二人の間に立たされた佐高は何のことか分からず、きょとんとしている。先程まで膨らんだり萎んだりしていた彼女の不安定な感情線はいま、完全に沈黙していた。
「生殺しのようなことは、止めて下さい」と、彼はうつむいて言った。「あなたにちゃんと従いますから。向こうで、本当のことを話しますよ」
「いいえ、これだけははっきりとさせてもらいたいんですよ」と、森光は逃げようとする彼の首根っこを押さえつけるつもりで言った。「あなたと彼の関係……。担当医であることは、もう分かりました。そのことから、まつわるもろもろの事情もわかりましたが、やはり根っこの部分は不明なのです。あなたが先なのか、それとも彼が先なのかで、すべては分かれます。そこだけは、きちんと言っていただきたいものですな。これまで、私の前であなたは嘘をつきすぎた」
彼は一分近くうつむいていた。
この世の果てにつづくような、長い沈黙だった。
「ぼくが探し求めていて……その先に、能勢さんがいたのです。ただそれだけのことです」
彼の目は、明らかに嘘を言っていた。口振りから、能勢への敬意が感じられるあたり、その嘘の証拠と受け取るべきだった。彼はまだ能勢に恩義を感じていて、守ろうとしている――
つまり、すべては能勢の依頼から、始まったことだったということだ。
4
聴取室の大前は、しんみりとした様相であった。穢れという穢れが拭い落ちた、一種の悟りが切り開かれたような、顔つき。一枚窓から差し込む光を背に浴びて、輪郭線が埃とともに光っている。
彼は語り尽くした。
医学の禁断の林檎をもいだ、その罪業のその中身を細を穿つまで舌をまわらせて、快活にしゃべり尽くした。
森光の推理どおり、iPS細胞にて培養された造血幹細胞移植が行われた。骨髄穿刺をほどこし、彼が能勢の肉体の中に、培養された細胞を埋め込んだ。当初は、順調に推移し、GVHDの初発症状もこれといってみられなかった。生着の判断材料として好中球の指数を逐一確認し、推移の変化を見守っていた。万事が順調だった。GVHDについては標準的な予防法である、CcA‐短期MTX併用療法を採用して、このまま問題なしに、段階的に投薬の密度を下げていけばよかった。そうなっていくはずだった。ところが、二週間前ほどから原因不明の容態悪化が起こり、対応を硬化させずにはいられなくなった。
これは、本当に予想のしない突飛な変化だった。
生着状態を調べるなり原因を求めるさなか、GVHDの投薬をATGに切り変えるなど、対応をがらりとすげ変えて、今日までなんとか持ちこたえさせてきた。その矢先に、血性下痢がおこって、能勢が倒れてしまったのだ。
「造血幹細胞を培養したのは、これは能勢さんです。彼自身がiPS細胞を血液から作製し、そこから造血幹細胞を分離させる処置をほどこしていったのです。自分は、それを埋め込んで、健康状態を管理するだけの役でした」
彼は、急に泣きそうな面相を見せた。
「そんな簡単なこともできない情けない男なのです、ぼくは……。能勢さんに何かあれば、それはすべて自分のせいです」
「ひとまず、おちつきなさいよ、大前さん」と、森光は静かに言った。「自分のせいだなんていうのは、これはひどい思い込みというやつだ。リスクは、彼も分かっていた。臨床試験なし――これが意味することはどういうことなのか、彼にも分かっていたはずなんだ。研究者だ。じっくり腰を据えて、それにあたっていくのが彼らの本分だろう。そのことについて彼は目を瞑ってしまった。自分の欲を果たしたいがために……」
「持ち掛けたのは、自分なのです!」と、彼は首をはね上げて言った。「ぼくが唆したのです。すべてを任せてくれれば、なんとかしてみせましょうと誘い掛けたのです」
「あなたには、iPS細胞から造血幹細胞を分離させて、これを培養する技術などは持ち合わせていない。能勢がこれについてできると分かっていなければ、この話はなり立たなかったはずだ」
「事前に、そのことを聞きつけたことがあって……、それで、持ち掛けたところ、できるというようなことを能勢さんがおっしゃられたわけですよ。ならば、やりましょう、となって、話が進んだわけです。積極的に推すなどしたのはぼくですから、能勢さんには罪はありません。ぼくこそが悪いんですよ」
「それで、借金の話は、それのどこに絡んでくるのか、となってくれば、あなたはどう回答するんだ?」
催促されていた手切れ金の支払い。それこそが、大前を突き動かしたすべての材料だ。彼の話からでは、そういった筋がまるで無視され、その兆候すらうかがうことができなかった。
「それは……」と、彼は口ごもった。「あなたは、ただ勘違いしているだけとしか答えようがないですね。というのも、そういった金銭の授受の事実はありませんし、そういったつきあいでもないのです。能勢さんと、ぼくとのそれは純粋なものです。そこだけはきちんと説明しておきますよ」
その箇所だけは、どうしても彼は口を割るつもりはないらしかった。
「梶や、堀内はそういった金を譲り受けたと口にしている。お前さんからだ。額面は、一千万ほど。事実、彼らが所持していた口座にはそれが残されていた。振込日は、稲原襲撃の日から、三日後だ。一方で、あんたの口座にはそういう記録はない。ならば、手渡しで現金が支払われたとなってくる。それも、あんたのものじゃない所から動いた金での支払いだ。つまり、能勢が浮上するということになる。その彼に、捜査のメスが入れば、否が応でも、どういうことが行われたのかがはっきりとするだろう。時間の問題ということだ」
医師法違反などで、能勢の逮捕および、家宅捜査は現在のところ見送られている。これは彼が入院している事を受け、警察側の負担となることを退けるためだ。その他、調書の信憑性を損なわせないためでもある。容疑者は、あくまで健康状態でなければ、後先、なにかと不利な材料となるのだった。
「話せないのか?」
森光は迫った。彼は息を呑んだ。
「述べたことに、変更はありません」と、彼は喉につっかえた違和感を吐き出すように言った。「質問を変更して下さい」
「そういうわけにはいかない」
「お願いです」彼は言葉を奪い上げるように言った。「お願いですから、質問を変更して下さい」
義理を果たそうとしているのではないかという感触を彼から感じ取った。ならば、彼の顔を立ててやってもいいだろうと思った。いずれは能勢に語ってもらえばいい。二人の口述をそれぞれ分離するのではなく、ワンセットで捉えるということだ。それで、はっきりとする。
「次に、移行する」と、森光は気持を切り替えて言った。「例のセンターへのハッカーについて、だ。これは、きみだったのではないか、と思っているんだが、どうなのか?」
「自分です。自分がやりました」と、彼は、自省しながら言った。「計画が成り立つそのためには、彼の血液を手に入れなければいけなかったのです。そこで、ウィンドウ・ピリオドにて遡及調査用血液がストックされていることを思い出しまして、これを使おうとなったわけです。これが計画の一番初めです」
「例のウィンドウ・ピリオドは、厳重なロックの下に管理されている密室だ。記録装置に記録が残らない形で通過するには、マスターカードがなければいけないし、シリンダー解錠用の鍵だってなければいけない。きみはこの七つ道具をあらかじめ用意していたね」
「仁田です。彼と通じていたんです。Rhマイナス繋がろう会に所属している男です」
「佐高つながりでいいんだね?」
「はい、そうなります」大前は、確かな口調で言った。「彼女につながっているだけに、利用できる条件が彼にはそろっていました。そうです、彼は彼女に懸想をかかえていたんです」
「きみは、それにつけ込んだ」
彼の顔に陰りが差した。
「まあ、そうなりますね……、弱みと捉えてつけ入ったのです。彼は夢中になったら、何も見えなくなる男でした。手なずけるのは、それほど難しくはありませんでした」
いつわった能勢の素性をそそぎこんで、彼に対して疑心を抱かせ、それから意のままに動くコマとして懐柔させた。そういった義憤を駆り立てることは容易かったが、実際行動するとなると、彼は腰が重かった。だからこそ、マスターカードとシリンダー解錠キーの二つについて、現物を提供させる協力者としてのみしか、彼を利用することができなかった。
「彼には情報をつかまれては困る事情がそちらにはあった。だから、彼は計画に対し積極的だった。しかしながら、結局のところ実行役までは受け付けず、そこから以降は、君が行動しなければいけなかった。いや、実行役として行動するという覚悟は、きみの方で最初から決まっていたというべきか」
「最初から、自分がやるつもりでしたよ」と、彼は決然とした意思を顔に見せて言った。「そこでしくじると、すべてなかったことになってしまいますから。人任せにするのはよくないはずなのです」
「しかし、ウィンドウ・ピリオドから持ち出されたそれは、結局、廃棄されてしまったのだろう? 使い物にならなかったということだ」
「iPS細胞を血液から作製するにはかなりの手間が掛かる上に、ぶれのない的確な技術が必要だったのです。能勢さんは、少ないチャンスをものにすることができなかったようでした。もともと量が少なかったわけですから、それに凍害保護液であるグリセロールを反復遠沈法と呼ばれるやり口で除去するところから始めなければいけなかったわけですから、下処理だけでも大変だったわけで、ここでもミスがあれば、使いものになりません。けっきょく最初の一回については、能勢さんともども、思い通りにならないことを思い知らされる結果となったのです」
「だからといって、鮮血にこだわって、稲原から直截採血しなくたっていいじゃないか」
「一度乗り掛かったら、なんとしてでもやり遂げたいという思いが強くなったのです。実行を提案したのは、やはり自分です。冷凍しない保存方法で、そのまま能勢さんに渡ればそれが手っ取り早いと思ったわけです。細菌が入るなどの、衛生面での懸念はありましたが、そこは注射器なり、作業なり道具を最新式のものをそろえて万全にあたることで、解消しました。案の定、採血した血からは、iPS細胞を作製することができたのです」
直截彼から採血したというのは、iPS細胞を効率よく作製するための一つの手段だったのだ。大胆ではあるが、スピード重視であった彼らにとっては、最善策なのかもしれなかった。
「きっと、計画を成し遂げなければいけないとなっていたのは、利用した仁田の疑問解消という点もあっただろうな。事後、彼の納得を取りつけられたのかね?」
「能勢さんは、ちゃんとしたOh型であるということを伝えましたよ。彼は、以後特になにも言ってきていません。はっきりとは言えませんが、それなりに納得したのではないでしょうか」
佐高に強い思いを持っているだけに、身を引こうと思ったら、その時は一気に引くはずだった。本当にそうか、とさらなる疑いを掛ければ、それが間違いであったなら、彼はみじめな思いをする結果にしかならない。
これで、事件の概要の大部分が明らかになった。
問題は、やはり金銭の授受の有無だろう。稲原襲撃から三日後に、梶たちの手に現金が渡っているのは分かっている。裏付けもある。そうなると、襲撃から明朝、その日かその次の日のいずれかに能勢から大前に現金が渡っているということになる。その期日のアリバイを両人に求め、同じ時間帯の空白を探し出すことで接点を見出すことができよう。
森光は、彼にスケジュールを求め、さらにはその時周りにいた人間を聞き出して、確かな調書を作りあげていった。それから以降の聴取は、そのことの綿密さを突き詰めていくことに終始し、それで終えることとなった。
深夜遅くに彼の部屋に家宅捜査に入った別働隊の班から連絡があり、押収した彼のパソコンからハッキングデータが見つかったという報せを受け取った。彼の口述は、能勢との関係性以外に、嘘はないということが裏付けられることとなった。その他、靴箱から、足跡が一致する当該の靴が見つかり、裏付けはさらに堅固なものとなった。
5
能勢が入院してから一週間後、森光は容態が安定しているとの情報を受けてから、海星堂病院を訪ねた。
能勢は個室にて、静かに横たわっていた。酸素マスクを口許に被せ、浅い呼気を繰り返していた。むろん、意識はあるので森光の来訪にも制限は課せられなかった。
「気分はどうかね?」と、森光はスツールを引き寄せて訊ねた。「まだ何だか顔色がよくないように見える」
「あまり調子はよくない」彼はかすれ声で応えた。「まあ、こういうことになるのは分かっていたがね。笑いたくなるような姿だろう? だとしたら、そうしてもけっこうだ。いま、わたしはとても自嘲の感情でいっぱいなんだ。自分で自分を嗤ってやりたい気分だよ。ざまあ、ってね」
「そう自分を卑下するようなことはよろしくない。……と、あなたは、そんなことを口にするようなタイプの人ではないはずだろうに」
「たぶん、こっちが本当の自分だよ。そう受け取ってもらってけっこう。誰でも、死線が見えてきたら、喋りたくってたまらなくなるもんなんだよ。健康状態だと孤独とのつき合いを抑制できるがね、そうじゃないと孤独というのはなんともいえない毒でしかないんだ。これを吐き出さなければ、気がすまなくなるんだ」
自分で死線という言葉を使ったのは、どういうことか。彼は、本当はかなり具合がよくなかったりするのではないか。例えそれが自嘲からのそれだったとしても違和感を感じさせる一句であった。
「聞きたいことがあって、来たのだろう?」と、彼は顔を横向けて言った。「遠慮なく聞いてくれたまえ。孤独を解消するそのために、話してやってもいい。いや、話さなければならんだろう。それだけ、愚かなことに手を付けたんだ。すべてはもう、明らかになってしまったって、分かっているよ。わたし本人には何も知らされていないが、分かっている。警察さんが、廊下でわたしを見張っている。もっと、上手く隠れればいいのだが、いちいち姿を見せるものだから、いやでもその顔を覚えてしまった」
彼の顔はうんざりと気味だった。
あとで、見張り役に注意しておかなければいけないと思った。慎重になりすぎて相手の気を損ねるのは、よろしくない、と。
「遠慮なく聞かせてもらうとしましょう」森光は居住まいを正して言った。「こういったことを企画したのは、いったい誰なのでしょう? そして、何のためにこれが実行されることとなったのか……?」
一から順を追って、これまでのことを彼の口から言ってもらわなければいけなかった。
当たり前に分かるような質問を差し向けることに、やりにくさは特になかった。職業柄、なれきったことだった。
「分かっているだろう。聞くまでもないことだ」と、彼は鋭い口調で言う。「企画者は、わたしだ。そして何のために、ということだったが、これも単純明快だ。……佐高くんを我が手中に収めるためだ。彼女はわたしの人生において、もっともすばらしい女性であるというのは、最初に会ったその時に語ったはずだ。それがすべてなんだよ。この動機は、あなたにも分かっていたはずだ。それとも、警察というのはあえて聞かなければ、気が済まないようなそんな組織だというのか?」
「面倒くさいでしょうが、そのとおりです。分かり切ったようなことを、繰り返し聞き、その確かさを確認するのが、われわれの手口です」
「じつに面倒くさいやり口だ。効率的だとは、いえんね」と、彼は天井を向いて言った。「しかし、暗にあなたの聞きたいことは察知している。たぶん、本音ではこう言いたいのだろう? こんな愚かしいことをしてまでして、こうする必要があったというのか。わたしの中にまともな理性心があって、これが成されたというのか? だというのなら、あなたは正気であることさえも疑わしい、と――。実際問題、佐高くんへの思いだけで、今回のこれは実行されたのだ。すべて、わたしのわがままだ。これは、揺るがないことなのだよ」
彼の目には、信念があった。瞳の奥に佇む黒は、引き込まれるほどに色が鮮烈そのものだった。
そしてうめくように、独白が口から放たれる。
「すべては、わたしなんだ……、そう、わたしがのぞんだことなのだ。あの子の、愛くるしさをはじめて我が身に知覚したとき、わたしのすべてがぬり替えられたように思った。それこそ置換だよ。わたしのなかの細胞は、彼女のそれに浸潤され、彼女のそれに置換されたのだ。造血幹細胞のコピー性質がヒントとしてその後のわたしの頭に過ぎったのは、この体験がまさに置換そのものであると認識したことが、だいいちにあるだろう」
「それで、彼女を初めて見たのはいつなんです? そして、彼女の特異な性質を知ったのはいつなのです?」
彼はベッド上でゆっくり反転して、森光を見た。
大前が彼に報されるのが先か、それとも彼自身が彼女を見かけるのが先か、どちらかに振れたその答えでもって正規な意味での大前との関係性が明らかになる。
「三年ほど前だったはずだ。その年は、例の大震災の年だから忘れもしないよ。その時に、彼女を見かけたんだ。臨床試験の立ち会いによばれた病院でな――」
大前と出会うその前に、能勢は佐高に出会っていたということだ。そうなると、大前はその後に出会った、佐高と自分を結びつけるために利用された医者ということになってくる。利用された存在だというのに、彼が能勢に恩義を感じる相手となったのは、どういう経緯があった結果なのか。
「あなたが見た光景というのはもしや、大前医師と佐高くんが親しげに話しているところだったのではないか? 診療室内のワンシーンだったということだ」
「そうだ、よくわかったな」彼はしみじみと言った。「本来ならば隔離された医者と患者だけの世界で誰の目にも触れられる世界ではなかったはずだろう。しかし、その時は、診察室のドアが開け放しにされていたのだ。わたしは、そこから偶然その光景が見えてしまった。すぐさま、彼女に見入ってしまった。そして、彼女と親しい間柄でいる大前に近づきたいという欲が働いた。いい年をした男が……と、皆に言われそうなことだったが、しかしわたしは、やはりそういったことと無縁な人生を越してきただけに、自分の欲を抑えられなかったんだ」
大前の前に自ら現れ、彼は知己の間柄となった。友人関係としてではなく、立場が上であるということを笠に着て、彼を手懐けた。自らの研究理念を打ち明け合う間柄になったのはもちろん、日々の生活でも助け合うようになった。
最初のうちは、やはりというか佐高の情報は少しずつ引き出すという程度であった。それでも情報にありつけられることに能勢は満足していた。ある日、ひょんなことから大前が金銭面で苦しんでいることを知る。ここぞとばかりに、能勢は動いた。全面的に援助にかかったのだ。もちろん、無償で、だ。そこから大前と本当の意味で息の長いつき合いがはじまることとなった。感謝を身に受け、そこに付け入っていったのだ。
「佐高に気があるのだと打ち明けたのは、大前くんと出会ってから一年後ぐらいか」
その時から、二人の工作が始まったということだ。
「一年後、ですか。それで、佐高さんとあなたが顔を合わせたのはいつになるのです?」
「直後だよ。そう、二年前ということでいい」
「彼女はRhマイナス繋がろう会の出張先であなたと出会ったと口にしていたが? これは、あなたが大前をして、仕掛けたことだったんですね?」
「そうだ。わたしが仕掛けた」能勢の言葉は、実にしっかりとしたものだった。「でなければ、出会う機会なんてないんだよ。こういうのは、自分で作り出さなければ、ずっと私には機会なんてめぐってこない。人生を通して、それはわかっていたんだ。だから、実行した」
「彼女に対し、罪悪感とかはなかったのです?」
「罪悪感?」
「彼女はいつかにこんなことを言っていたんです。自分は運命というものを信じている……と。そして、私に運命というものは、祈りという力も含まれていて、それは純粋な心でもってようやく力となるのだ、と――。ある程度の分別があって口にしたものでしょうが、それには彼女の純粋さが表れているように思えるのです。あなたの行為は、それを踏みにじるようなものではないか」
「罪悪感は、あったはずだ」と、彼は独白のように、ぽつりと言った。「しかしながら、それはあなたが期待しているようなそんな大きな感情ではない。ほんの少し、という程度かもしれない。やはり、わたしの心には、そういったものは自分の手で引き寄せなければどうにもならないという考えが根付いているんだ。仕掛けたことでなりたったことだって、運命と言えばそのはずなんだ。思うに運命というのは、可塑性があるようなものなんだよ。そうだと信じているから、私は科学者でいられるんだ」
彼を構成している理念について、この世には実現不可能なものなどないという考えが軸をなしているとみてよかった。さらに言えば、それは、彼の持ち前の自信が底支えをしていると考えるべきだった。
「具体的なことを聞きます」と、森光は切り込んだ。「出会いがセッティングされたときには、すでにあなたは佐高さんの特異な嗜好についての情報を押さえていましたね。そう、あなたはその時、稀血であるOh型と名乗ったのだ。実際は、そうではなかったというのに」
「大前くんの話どおりだったよ。彼女は稀血に強い憧憬を抱いていた。だから、これを話題にあげることで、無条件で尊敬をひきよせることができた。……こうみえて、話は得意じゃない。まして一世代下の若い女性との話となれば、何を話したらいいかも分からない。だから、自分を偽って話すことはわたし自身にとって好都合に働いたんだ。もし、この嘘がなければ、わたしは何も話せなかっただろう」
彼にとって嘘は、潤滑剤となった。そういう可塑性も嘘というものの中にはあったのだ。
「それで、交際が始まったのは?」
「実際、つき合おうなんていうのは、どちらからも口にはしていない。だから、仲が一気に親しくなった、出会った当初から交際が始まっていたというべきだろう」
かりそめにも運命というものを信じる佐高のことだ。その因果が彼とのあいだに流れていると感じた瞬間、もう意中の人になっていたのかもしれなかった。
「ならば、あなたとしては、そのままずっと自分の素性を明かすことなく黙っていればよかったのではないか。血液型証明書なんかを発行して、信頼を取りつけようだなんて、いかにも姑息だ」
佐高の気持を引き寄せたいがために、嘘をついたこと自体もそうだが、さらに罪を重ねるように、彼の中の嘘を本当のことにしようとしたこと等はやはり許されるべきではなかった。だから、森光の口調は自然と非難がましくなった。
「なんとでも言ってくれ」と、彼はなげやり気味に言った。「実は、出会うその前からわたしの研究は始まっていたのだ。作製したiPS細胞から造血幹細胞を分離させ、これを移植して体内に生着させれば血液型をドナー由来のものに置換できることはわかっていた」
「あなたの分野は、iPS細胞を使った再生医療なんかではないはずだ。主にタンパク質関連を研究している、細胞学なんだろう? だとすれば、まるっきり専門外ではないものの、分野越境しなければいけない事情があったはずだ」
「だから、勉強したと言っている」と、彼は顔だけ森光に振り向けて言った。「自分の研究外で、ずっとそちらの勉強していた。普通の研究者の二倍の努力をしてきたということだ。休むひまもないという言葉があるが、それは最近のわたしによく当てはまる言葉だ。休むひまもなかった。昼夜ずっと研究詰めだ。しかし、不思議と疲れはないんだよ。すべては、佐高くんへの情熱だろう。あの子は、それだけの情熱を費やしていいだけの魅力を持った娘だ」
彼はまた、仰向けになった。
しばらく意識を空に泳がせるように、天井を感傷的に見つめた。
「iPS細胞というのは、昨今めざましい発展があって、実用化の段階にまで踏み込んでいる。しかしながら、全体としてみれば、まだ研究が幼い段階でしかない不安定な分野だ。分化制御技術の確立でさえ、わずかに三年前に切り開かれたばかりだ。その最たるものが、造血幹細胞だった。その時は、はっきりいえば確立されたというような段階ではなく、また分化されたものがはっきりと造血幹細胞であると言いきれるものなんかでもなかった。しかしながら、免疫不全の疾患をかかえるマウスでの移植治癒は成功したのだ。ちょうど、わたしに光を与えるというようなニュースだった。機運が巡っていたというということだよ。わたしは、この研究に手を出さずにはいられなかった」
「例の研究所は、それができるようなところだということでいいですね。そういった環境が整っていた、と」
「そればかりではない。君には前にも言ったことがあったが、そういったことの知恵を受けられる友人たちもいたんだ。だから、特に困るようなことなんてなかったんだ」
「それで、血液からiPS細胞を作成する方法を、自力で体得した、と。そこから一歩行って、造血幹細胞を分化させることだってできるようにもなった。それがごく最近の話だ。だから、あなたは自分に移植しようと、実際行動に及ぶまでになったんだ。そうだろう?」
「あなたは勘違いしていることがある」と、彼は言った。「例の稲原という男から血液を吸い上げ、そこから計画が始まったと考えているようだが、それはちがう。もっと前から始まっていたんだ。不安定な分野と言っただろう? 彼の血液からiPS細胞を作製し、完全分化させたiPS細胞由来の造血幹細胞を直截肉体に移植したところで、すぐさま何事もなかったように血液型がドナーのそれに置換されるという風にはならない。安全面での問題が立ちはだかることとなる」
「では、それ以前から下準備があった、と?」
彼にうなずきがあった。
「彼女と出会ったその時から、iPS細胞の研究に取りかかっていたから、その時から準備は進んでいたといっていいだろう。そう、わたしは、自分の血液から作製したiPS細胞でもって、造血幹細胞の分化を研究していた。ちょうどその頃――いまから半年前のことだ、また別のところから分化成功のニュースが入ってきたんだ。今度のそれは、確かな情報だった。そして、分化させたものが疑いもなく人由来の造血幹細胞だった。テラトーマという良性腫瘍を利用するんだ。それがマウスの肉体内に作成する過程で、造血幹細胞の維持に必要とされるサイトカインとよばれるタンパク質や、造血を指示する細胞を投与することで、造血幹細胞を誘導するというものだ。マウス実験で、人のそれから作製されたiPS由来の造血幹細胞が骨髄中に認められた」
彼の面体には、熱が溢れていた。
「きみには信じられない話だろう?」と、気を引き付けるようにつづけて言う。「マウスのなかで、人の造血幹細胞が生着したんだよ。わたしも実行したところ、わたし由来の造血幹細胞がマウスの中に見事に生着した。その時の歓喜といったら、なかったね。何度も内心では、快哉を叫んだはずだ」
iPS細胞は、培養液の中ではなく、マウスの中で作られていた。あの時、彼の研究室の奥手からは、そういった獣の臭いがしていたのは、そういうことだったのだ。あそこには、彼の造血幹細胞をたくわえこんだマウスがどこかに閉じ込められていたのだ。
「そのマウスを手元に待機していたんですね。それで、稲原から血液を吸い上げて、同じようにマウスの中に彼由来の造血幹細胞を生着させた、そうですね?」
「きみの焦点は、そもそもがずれている。テラトーマをこしらえて、その中に投与して生着させるまでには、だいたい三ヶ月かかる。マウスでそれだけの数字だ。人間だと、倍近く掛かるだろう」
一ヶ月の短期置換というような、人間離れした移植なんかではなかった。計算していたことは間違っていたようだ。
そうなると、稲原の事件からまだ二ヶ月も経っていないことから、数字が合わないということになってくる。
「どうやったのです、時間短縮について」
「待機させていたマウスだよ。それにはすでに生着した人型の造血幹細胞が宿っている。骨髄中に、な。移植するんだ、直截に。稲原の血液から作製した、iPS細胞から分化した造血幹細胞を」
彼はにやりとした。
「これは、わたしのアイディアだよ。狙いどおり、置換が起こってくれた。その造血幹細胞は、Oh型だ。稲原のそれになってくれたんだよ。しかも、直截に移植するよりも格段に安全面での向上があったはずなんだ。わたしはそういった細胞を手に入れた」
彼の舌は快調だった。熱に任せるままに、弁を振るう。
「その他、感染症のリスクという問題も、パスしている。それは、iPS細胞を作製する段階での話だ。培養液にはこれまでマウスの細胞と牛の血清を使ったものが使用されていたが、これは安全面での懸念があったほかに、その手の試験作業に手間が掛かるという問題があったのだが、いずれもクリアする新培養法が、国内の研究所が発表してくれた。タンパク質ラミニン511を使うやり方だ。簡易な上に、効率よく培養できるという、二重においしい、培養法。それが英科学誌電子版ネイチャーに発表されたのが、今年の一月のことだ。それが、実行に移るはずみとなったのは、言うまでもない」
計画実行の裏には、科学のめざましい発見、進捗があった。それが、後押しとなっていた。彼は、最新の情報をかき集め、それを実践することで臨床試験なしでも、問題ないという自信を固めていったのだ。
「それでも、リスクは考えたはずでしょう……?」と、森光は目を細めて言った。「免疫抑制剤を予防で打つなど、移植には危険が付きまとう実情がある。もっとも、管理者がついていればこれは幾分危険が緩和されることなのだろうが、それでもやはりリスクはあるはずなんだ。まして、臨床試験なしのiPS細胞移植となれば、何が起こるか分からない。あなたは、無茶をやらかしましたね」
「もちろん、万全を尽くしたとは言っても、危険があるのはわかっていた」能勢の顔つきには、神妙一色だ。「それでもわたしは移植をためらわなかった。すべては、佐高くんのためなんだ。あの子を自分の元に引き留めるそのためには、わたしはリスクを承知でこれを実行した。彼女がすべてなんだ。それ以外に、わたしに望みはない」
命を掛けてでも彼女を愛したいという強い、確固たる覚悟の下で、実行されたのだろう。彼を突き動かしているのは、彼女だけだ。彼女こそが、彼の生き甲斐のすべてだ。体調を崩したことも押して、それでもまだ目標に向かっていけるだけの、いまの彼に見る気概のすべてがそこにはある。
「独占欲とかそういうものではない」と、彼はさらに言い募った。「むしろ、純粋な感情がわたしのなかにはある。実行したのは、自分のためではなく、彼女のためだったのだ。喜ばせるそのために、わたしは自分の血液型を、Oh型にした。わたしの欲望は、後に付随したものでしかないんだ」
運命を自分の手で変えることができると考えている彼にとっては、自分の血液型も彼女がのぞむそれに変えてしまえば、特に問題はないはずだと考えるにちがいなかった。それは、認識のちがいというやつだろう。
「彼女は、天性の稀血をのぞんでいるはずだよ」と、森光は静かに言った。「いくら、血液型は目に見えないとはいえ、後天的で、ましてや自ら細工してそれになったというのは、彼女ののぞみの範疇ではないはずだ。そのことがあなたの中で考えられなかったことはなかったとは思うがね。だとすれば、彼女をだまそうという気持は、少なからずあったはずだ」
そもそも、彼女と出会った当初、iPS細胞をつかって血液型を稀血のそれと置換しようだなんて考えていたはずがなかった。その手掛かりがまったくない、科学的技術の追いつかない不完全な環境にあったのだ。彼が単独で丹念に研究をかさねたところで、限界があるはずだった。
「先程の罪悪感とは別に、そういう感情があった……そして、あるのは本当だろう」彼の目は、突如優しい光を帯びた。「その内にある、だまそうという気持を打ち消すために、わたしは今日という日まで一生懸命にやってきたのかもしれない。そうでなければ、興奮と情熱だけでは、乗り切れない壁を越すことはやはりできなかったはずだ」
彼は肉体を酷使することで、さらには自分を精神的に追いつめることで、自らの感情を抑制していた。そうした抑圧が彼の中で日常化することで後ろめたい感情のもろもろの感覚が麻痺し、いつしかないものとなってしまったにちがいなかった。先に言った、罪悪感が薄いものでしかないと打ち明けたのは、実はそういうことだったのだ。彼の抑圧感情の中で、ぽろりと吐き出されたものに過ぎなかった。
すべては、佐高のため……。
彼が愛情に狂ったわけは、森光にもよくわかる。それだけの優れた器量の持ち主なのだ。その他、それをさらに引き立てるような、純粋な精神を持ち合わせていることも、悩ましい魅力の一つといって良かった。
「あなたが彼女に人生のすべてを掛けようとしたということはよくわかりました。それはおいといて、大前のことを訊ねてもいいだろうか。特に、彼とやりとりした金銭面での中身については、我らにとってはっきりさせなければいけないことなのです。……稲原襲撃後、あなたは二日以内に、彼に大金を渡していますね?」
「合計、三千万をわたしている」と、彼は淡々と明かした。「キャッシュで、だ。それが彼への最後の援助であり、彼とその背後にまとわりつく借金取りたちとの関係を断つ、救済策だったのだ。何度もつきまとわれていることを聞いていた。ならば、逆にそいつらを利用してやれ、とわたしは思ったのだ。そして、襲撃計画を伝え、彼らを動員することにした。報酬を後払いにしておけば、後で追加でかさねがさね吸い上げられることもなかろう。案の定、その支払いでもって、関係がおわってくれたんだ」
三千万ものお金が動いたのが事実ならば、二千万円ほどが使途不明金となる。大前が使ったはずがない。おそらく、ほとんどが沼田の手に渡ったのだろう。彼はすでに逮捕されていることから、押さえられた預貯金についてあとで明細を確認しなければいけなかった。
「襲撃の企画を考えたのは、あなたでいいんですね? あと、指示のほうも」
「わたしだ。わたし以外に誰がいるというのか」
「大前はあなたをかばっている。つまり、彼は自分が考え、さらには指示したのも自分だと供述しているということだ。相当、あなたに恩義を感じているらしい」
「あやつめ」彼は舌打ちした。「そんなことまでは、のぞんでいないというのに……よけいなことをしくさって――」
「彼を助けようと思ったのは、佐高についてのお礼の意味もあったんだろう?」
森光は彼の怒りを自分に引き寄せるように、言った。しかし、向けられた目の感情は少なかった。
「わたしとしては、そういう意味合いもあった。だが、彼はそうは受けとめていなかったようだ。これまでにも延々と援助金をわたしていたからな。佐高を紹介してもらうときだって、抵抗はなかった。あなたならば、だいじょうぶでしょうと言ってもらったほどだ。裏を知らない上で、わたしの人格を大部分で認めてもらっていた」
「もし、その裏を知られるようなことがあったら、あなたはそこで見放されていたのだろうか?」
いや、と彼はかぶりを振った。
「そういう下心があっての接近だったことは、もういまでは彼には周知の事実のはずだ。だから、見放されるというようなことはないはずだ。いや、まずない。あの男にとって、わたしという人間は全面信用していい、完全無欠のそれなんだよ」
「だからといって、彼を利用するというのは、誤ったことだよ。悪いことに、移植まで加担させた。この移植は、許されない医学の一線を越えるものだった。……彼は、直に医者の免許を剥奪されるだろう」
「反省はしているさ」と、そこで彼は目を伏せる。「もっとも、そういった結果になってしまえば、そんな程度ではすまされんだろうがな。……わたしがいま、こうした状態になっているのは、すべての罪が形になった結果なのかもしれない。これは、ある種の裁きなんだよ」
大前の行方。
それを考えたとき、暗い感情しか沸いてこなかった。しかし、彼には後悔がないように思える。聴取室の中での彼は突き抜けたような感情でいたからだ。罪を認め、それをつぐなった後、すべてを清算する気でいるはずだった。出所後の彼は、きっと医者ではない、別人のそれだ。町工場でみてきた、あの油くさい生活に戻るのかもしれない。〝生命力とは適応だ――〟これは、館崎がいつかにいった言葉だ。彼はそういった適応を示してくれると、信じたいところだ。
ふと、入口のその向こうに、人影があることに気づいた。
そこに立っているのは、佐高だった。遠慮がちに顎を引いて、うつむいている。聞かれてはならない彼との会話を盗み聞きされていた――すぐさま、この状況を取りつくろう必要があったが、すべては後の祭りで、どうにも始末に負えなかった。森光はただ、なすすべなく沈黙した。
「おお、ゆいかくん……きみか。こちらに、おいでよ」
能勢がマスクを剥がしつつ弱った身体を幾分起こして、彼女に手を差し伸ばした。しかし、彼女の足取りは弱々しく、素直に従うというまででもない。それはそうだった。彼女は、いましがた彼の詐称のすべてを知ってしまったのだ。もう、まともに彼を見られないはずだった。
「聞いてのとおりだ」と、彼が口を切った。「わたしは、自分を偽っていた。これは、打ち消しのしようがない真実だ。体内に流れている血液は置換された、稲原という男由来のものなのだ。真の意味で、わたしは君ののぞむOh型ではなかったということ。刑事さんのいうとおり、詐称行為だ。きらいになったかい? わたしは、それでもきみへの愛情は変わらないんだ。この期におよんで、醜いまでの執着心が、きみにたいして起こっている。どうしようもないほどに、きみを愛している。やはり、それが……すべてなんだ」
「真実を言ってくれなかったことは、軽蔑に値しますわ」と、彼女は涙を堪えた顔で、決然と言った。「でも、あなたの血液型は……嘘じゃない。本物の、Oh型だわ。稀血というやつです」
彼女の言葉で、その場が凍り付いたように固まった。
「ゆいかくん……」
能勢は呻いたそののち、何も言えなくなった。
彼女の顔には、涙の筋が描かれていた。体温分の熱が感じられる、柔らかい光を放っている。
「あなたの中に流れているそれは、純粋なOh型です」彼女は強い口調で繰り返した。「認めなければいけません。自分の認識を変えてでも……。あなたがしてきた努力は、やっぱりあなたのすべてなんです。ですから、あなたに流れているそれは、作為であったとしても、Ohの血なんです。努力とか、熱情とか、愛情とか……そういった強い感情がこもった血です。そのすべてがつまったものがあなたの中に流れているんです。わたしはそれを認めるもなにもありません、それは尊い血なんです……」
彼女は自分でも何を言っているのか分かっていないだろうというぐらいに取り乱していた。止めどなく流れる涙。顔がくしゃくしゃになっても彼女の魅惑はまるで損なわれないあたり、彼女の美貌が確かなものであるということを示していた。
「だったら、きみは彼を受け容れる、というのか?」と、森光が割り込んだ。「いつわった、そして作られた血が流れている彼について、これまでどおり、つき合えるというのか?」
「もちろん、いままでどおりって訳にはいかないでしょう。だって、これまでに真実を伝えてくれなかったんだから、そこは謝ってもらわなければいけないの。そして、わたしも反省しなければいけない、信用されていないところがあったんだって……」
「信用していないということはない……」彼はむりやり身体を起こしに掛かった。「すべてはわたしが悪いんだ。きみに非などは、一片もない……そうとも、非なんてどこにも存在しないんだ」
彼女は彼に駆け寄った。抱き上げる形で、身体を立て直すの手伝う。寝かしつけようとしても、能勢は従わなかった。もはや、長く連れ添った夫婦のやりとりのようであった。
「どうして、そんな無理をしなければいけなかったの?」彼女は彼にしがみつくなり、わっと泣き出した。「そんなことをしてまでして、もらう必要なんてどこにもなかったはずなのに」
「恥ずかしいがな……」彼は涙を堪えつつ、天を仰いだ。「それだけきみに夢中なんだ。こんな年だが、やはり恋愛感情は引っ込めようがない。きみは、わたしのすべてそのものなんだ。だから、失われるぐらいなら、命を引き替えにしたって惜しくはない。頭脳を駆使して、最先端の研究を我が手元に体得し、これでもって、駆け引きに出なければいけなかった……すべては、きみのためだったんだ」
大前が彼をかばっていた一番の理由は、恩義を感じていたということからではなく、彼のその尊い感情を傷つけることを回避させるためだったのだ、とやっと分かった。大前は特に移植についてのリスクの部分について、目の辺りにしてきた男だ。それだけに、彼が挑んだ勇気の強さの程について、肌で理解している。これが傷つけられるというようなことがあれば、彼が陰で苦しんできたことのすべてが、否定されることになるのだった。
「喜ばせるつもりが、悲しませる結果になったのは、ふがいない限りだ」彼はとうとう泣きに暮れた。「分かってくれ。こんなことは、のぞんでいなかったし、意図もしていなかった……。やっぱり、すべては、きみに良かれと思ってやったことなんだよ……」
二人は抱き合ったままに思い思いの感情を、嗚咽でもって吐き出しつづけた。森光は三十分ばかりずっとその模様を見守っていた。すぐさま出て行くべきだっただろうが、廊下にはやはり警察官が待機していて、聴取を取り止めたところで、さしたる違いはなかった。
ともかく、彼女は能勢を許すことに決めたようだ。
そして、血液型について細工したものであったとしても、彼のものと受けとめることにしたようだった。
考えてみれば、血液型というのは人の顔に表れるものではないはずだから、彼女の中にあるこだわりというのは形ではなく、結果のはずだった。だから、彼女が受け容れられる範囲には、広がりがあるはずだった。
二人はいま、すれちがいあうどころか、むしろ接近し、睦まじいやり取りを繰り返していた。森光はそのあり様について、肯定的に見守ってやりたいところだったが、内心の奥底にはどうしても理解に及ばない、しこりのようなものがあった。特に、彼女の心の入れ替わりようについて問い質さなければいけないことが山とあるように感じられていた。いつしか、口先が動いた。
「あなたは、どうして許す気になったのでしょう。ぜひとも、あなたの口から聞いてみたいものです。いえ、聞くべきでしょうか。あなたは、私にこう言ったのです。稀血というのはあなたにとって、美意識をかたむけられる対象なのだ、と。そして、嘘いつわりなく特殊な血が好きなのだ、と」
彼女は恥ずかしそうに、耳に髪の束をかき上げた。含羞は、彼女をことさら瑞々しく引き立てるエッセンスとなった。
「わたしがすべて――彼はそうおっしゃってくれました。それこそが大事だったのです。すべてはそれだけで押し込められてしまいました。もちろん、稀血への美意識のほうは、本当です。それは、いまも揺らいでいません。わたしのなかの確固たる気質なんです。なぜ、そういうのがわたしの中で維持されているのか云々の説明ができないことは以前にも言ったことです」
彼女の顔には、いつしかいつもの落ち着きが宿っていた。
「それに、稀血ですから……。めったに世の中には見かけられるような存在じゃないことは、Rhマイナス繋がろう会の活動で肌身に沁みて分かっていました。希望は、いつまで希望でいられるのかしらとは考えたことが何度かあります。統計上、百三十人しかいない血液型の持ち主……その他のRhマイナス型以上の稀血の持ち主をあわせたら、どれぐらいになるのでしょう」
吐息のようなものが彼女の口先から洩れた。
「どちらにしたって、その半分は、女性でしょう。そして、結婚されていないなど、交際に至ります条件がそろうとなれば、本当に限られてしまう……。稲原さんというお方は、相応しいお方だったのでしょうが、でもやっぱりわたしからずっと遠い存在……。いつかに目が覚めるときが来たはずなんです」
彼女の顔には、妙な余裕があった。幸福の余韻がつづいているらしかった。そして、森光にうすく微笑みかける。
「語弊はあるかもしれないんですが……そう、この結果がある意味、理想的といえば、そうだったはずです。作為的に仕向けられない限りには縁は結びつかない……少女じゃありませんから。稀少な確立で出会うことなんて、淡い幻想だということは分かっていました。これをどうにかする男の人がいても構わない……彼は、してくれたんです。ただそれだけのことです」
彼女を構成する分別は予想以上に強くあったのだ。決して自らが作る幻想に浸りきっていたというわけではなかった。彼女はやはり、聡明な意思の持ち主であったのだ。
「ミッション系の中高に通っていて、そこで学んだ基幹部分に据えられた祈りというやつが運命にこもっている……なんてきけば、きみはてっきりそういう夢の中で生きていると思ったんだがね」
「夢……そう、夢です。わたしは刑事さんと最初にお話したそのときも、いまも夢の中にいます。でも、希望は夢の延長じゃなかったんです。希望は、わたしの病気ですから、運命とともに現実的な感覚の下にあったんです」
どうやら、彼女とは感覚的に異なって捉えている事柄が、嗜好以外に多くあるようだった。森光はそう受け取った。
「いま、わたしは希望と夢がつながった状態です……」彼女は羞恥で頬をそめて能勢を見やった。「だから、ふわふわした気分でいま、います。夢の中に思い切り飛び込んでいるというよりもわたしのなかに、夢という成分が飛び込んできていっぱいになっているという具合でしょうか」
「とにかく、わたしの気持ちを理解してくれて、本当にうれしい」
能勢が彼女の頬に手を当てて言った。ちょうど、紅が差した箇所にたなごころの中心があたる格好だ。
「きみがすべてなんだ、これは心根から本当だ。研究一念という言葉がわたしそのものを表す四字だったわけだが、これからは変えなければいけないかもしれない」
「例の件……うけることに決めたの」と、彼女は軽くはにかんで言った。「プロポーズのことよ。あなたから、指輪を預かったままなんだけど、これを頂戴させてもらいます」
あまりにも平素な口振りで言うものだから、彼がぽかんと三十秒ばかり、呆けたのは無理もないことだっただろう。
「本当かい?」さっと喜色を見せて彼は言った。「え、……え、これは本当なのか?」
彼女はその反応を面白そうに笑った。愛くるしさのある背の屈めかただった。
「本当です。嘘は言っていません」と、彼女は明朗に言った。「うまくいくかは、分かりません。でも、あなたのそばに付き添っていきたいのです。そういう気持ちに、いま沸き返って、もう抑えきれないぐらいになっているのです」
「真実を伝えなかったことの反省……それがまだすんでいない」と、彼は急に勢いを失って言った。「それを取り返さなければいけないよ。いまのわたしがやることはそれだ。それから答えてもらったって遅くはない……」
「それでは、わたしの意思が無視されているでしょう。汲んでくれないのかしら。きっと、反省がどうこう言っているところよりは、ずっと先にわたしたちはいます」
「受けてくれて……ありがとう」
彼は息を吸い込んでから、言った。感慨極まった顔が、強まったり弱まったりしているのは、彼の感情がいままさにゆさぶられているからだ。
「おめでとう……でいいのかな?」
森光はそろそろと割って入った。
「すいません……このようなことになって――」
能勢の謝意を横目に、森光は佐高を見つめていた。
「現実に引き戻すわけではないがね、彼は、これから罪に問われなければいけない。そのことが、きみには分かった上での決定なんだね?」
「はい、分かっています」
彼女の顔は真っ直ぐだった。どこにもそれないという固い意思がある。
「残酷だよ。自分でもそうだと分かっているが、しかし、そこは我らの仕事だ。私情を挟む余地などはないのだ。これから、刑務所にて務めを果たさなければいけないだろうし、
それとは別に、研究所からの処罰も受けなければいけない。研究者としての肩書きを失う、そういうこともあろう――。前途多難だよ。それでも彼を慕うとなれば、並大抵の気持じゃだめなんだ」
「これは現実的な問題だと、わたしは言いましたはず。希望が叶ったところで、現実がひっくり返って夢になることはありません。わたしたちはたくましく生きていくつもりです。……それができるそのためには、彼に回復してもらわなければいけないのです。まず、いまの仕事はそれでしょう。以後のことは、その時に考えればいいのです」
「彼女には苦労させるつもりはありませんぞ」と、能勢が口を挟んだ。「妻となってもらう以上は、全責任を負います。しっかりと負います。地の底に転がされても、はいあがってみせましょうぞ」
彼の中で燃え上がる精神について、相当たるものがあると受け取って良いはずだった。執念の研究を重ねてきた男だ。それに見合うだけの情熱が傾けられるに違いなかった。
「私があなたに感服していることが一つ」と、森光は、静かに言った。「それは、移植後、あなたの身体に激しい変調があったというのにもかかわらず、平気で歩き回っていたことだ。やはり、どう考えてもこれは、人を超越していると言わざるをえない」
「なんてことはない」と、彼は笑って言った。「これまでにもマウス実験を通して、経緯を見ていましたからね。移植されたマウスがどのように過ごしているか分かります? じっとしているというようなことはないんです。確かに、普段よりはひかえめなのでしょうが、それでもマウスは活発に動きつづけます。わたしは、それを見ていたからこそ、強い気持ちでいられたんですよ。じっとしている必要はない、と――」
彼にとって、マウスは先生だった。生き見本があったということだ。だからこそ、静養という考えは彼の中には根付かなかった。
「――ともかく、あなたの意思の強さは分かった。それは、彼女についても同じようなことが言える。両者に同じだけの思いの強さがあるのだったら、だいじょうぶなはずだ。あなたがたは、きっとうまくやっていける」
見つめ合う二人の目のあいだには、瑞々しい希望があった。
長居する必要はなかった。これまでだった。森光は颯爽と身をひるがえして、出口に向かった。
「刑事さん、ありがとう」
言ったのは、能勢だった。片方の腕で、彼女の肩を支えている。
「彼女ばかりではなく、私のほうのつき合いだってあることを忘れては困りますぞ」
森光はなぜか意図せず意地の悪い言葉が出るのだった。決して嫉妬のようなものなんかではなく、これは刑事としての務めの延長からであった。
「もちろん、分かっていることだ」
「刑事さんも、つれないお方ね」佐高が能勢の気を引くように心持ち目配せして言った。「先のことはその時に、考えればいいことだって言ったじゃないですか。いまの彼にはやるべきことがあるんです」
「そうだったな……」ちら、と彼を見やって森光は言う。「完全回復することを期待しているよ」
「死ぬものか。わたしの研究は、完全なんだ。それを証明しなければいけない」
「その意気込みは買うが、あんたのいまの体調はどうなんだ?」
「みてのとおりだ。健康になる兆しが出ている」
強がりばかりが顔にあった。
それから二週間後、彼らは婚姻届を出した。片方が病床についたまま、晴れて夫婦の間柄になったのだった。その報せが警務課をとおして森光にとどいたのは部屋中にある何もかもがまぶしく光る真昼の時間帯だった。それは幸福を象徴するような、福音に満ちた景色であった。
しかしながら、能勢の容態は一向に回復はせず、長々と病床に縛りつけられつづけた。検査がことあるごとに繰り返されるさなか、けなげに介護する若き妻、ゆいか。見張りの警察官をさすがに撤退させなければいけなくなった二ヶ月後のある日、二度目に容態が急変し、またもや能勢は下血した。今度は最初のそれよりも二倍超といった、大量なまでの下血となった。
それから十二時間もの格闘の末、彼はゆいかの呼び声に引きとめられながらも静かに息を引き取った。日付が変わった午前の零時三十二分だった。
死因は、免疫抑制剤投薬による、急性ショックということだった。検査は二ヶ月を掛けて綿密に行われている。多くの再生医療の権威と、医学者があつまった能勢救済チームが立ち上がり、大前を介して、能勢自身によって移植されたiPS細胞の中身が調べ尽くされた。
もっとも懸念されていたiPS細胞未分化による、障害事象、その他の免疫疾患の有無は何度も精査された結果でも認められず、移植された造血幹細胞はしっかりと生着していたと断定された。さらには肺炎、感染症の疑いなど、移植由来の疾患の事実もなく、血液面での目立った悪性指数は確認されなかった。その他、彼の研究室に残された予備用のiPS細胞の完成度、管理能力の完全さは、一級研究者らしくすこぶる確かなものであったことがその後の調査で判明し、この事実でもってiPS細胞由来による死因ということはないと、裏付けられることとなった。
つまり、最終的に、GVHDによる急性ショックであるという診断をチーム全体が支持する形となったのである。
不幸にして、回復を果たせなかった能勢ではあったが、体面上、研究者としての矜恃は守られた形となった。彼が信念を持って取り組んだ研究は、いい加減で、付け焼き刃に取り組まれたものなんかではなく、たしかな知識と情熱を傾けられて実行されたものであった。
すべては、ゆいかのためにちがいなかった。
それは、能勢が何度も口にしていたことからも、疑いのないことである。
そうした研究者としての功績、つらぬかれた信念に、敬意と称賛の餞がそえられるように、彼の死亡診断表の一覧の中の一つ、ブラッド・データには、Oh型と書き添えられた。それが同輩たちが彼に送る、最後の感謝の印でもあった。
エピローグ
能勢がこの世を去ってから、半年が経過した。冬が終わり、春になっていたが風はまだ冷たさがはらんでいた。風物詩たちはまだ土の中に引っ込んでいるらしく、どこにも姿がなかった。
「よかったよ。抜け殻になっているかと思って、心配していたんだがね。けっこう、きみはタフにできているようだ」
森光は寒さから身を守るように手をポケットに引っ込めつつ言った。彼女が通う大学の構外すぐ側にある、森林公園はモザイク柄の煉瓦の装いで整えられた洒落たところだったが、今日の人出はさびしいぐらいに少なかった。
「いつまでも、落ち込んでなんかはいられません。わたしは、じっとしているのが嫌いなんです。それに、暗い気分でいると一日がだめなままでおわってしまう……、今回のことで、そのことがはっきりと分かったのです」彼女は腰掛けていた煉瓦の囲いから立ち上がった。「これまでには分からなかったことです。一日というのは、本当に長いんです……どうしようもないぐらいに、長いんです」
「結婚したことを、後悔しているかね?」
森光は風が吹き下ろしてきたのを機に言った。彼女は即座に首を振った。
「そんなことはまずありません。短い結婚生活でしたけれど、病院の中でしかすごせない、身体の契りもないような、そんな尊い結婚生活でしたけれど、わたしはとても良かったと思っています。純粋な体験をした……そんな気分です。この気持ちは、きっと生涯ずっと……そう、命が尽きるまで、わたしのなかで留めておけるものだと思っています。純粋だからこそ、です……」
「彼のことを、想って生きていくと」
振り返った彼女は、初春のたよりない光を浴びて、娘らしい淡い肌を光らせていた。斑点性のある、頬灼け。結い上げた髪からほつれた鬢のいくつかが、風にふくらんでいた。
「それは、そうでしょう」当然といった口調で言った。「あの人の妻であったことを、誇りにしているのですから、ずっと胸のうちで守っていきます……あの人が残したもののすべてを、わたしに託してくれたもののすべてを、大事にしたいのです」
わずかに二ヶ月間の同伴期間。それは、彼女にとって密度の濃いものだったのだろう。珠玉の日々。現に今の彼女からは、いっそうの輝きが感じられる。女として一皮剥けた何かになったからだ。
その艶っぽさのある魅惑に、やはり森光は惹きつけられるものを感じる。
「しかし、まだ学生だというのに、きみはすでに未亡人という肩書きがついてしまった……まったくとんでもない、人生を生きている」
「わたしは、そうは思っていませんよ」と、彼女は薄くはにかんだ。「特異な気質を持って生まれた以上、その覚悟は最初からありましたもの。夫はそれに見合う人だったとあらば、何か破天荒なことが起こる予兆は最初からあったんです……わたしは、この運命を受け容れなければいけませんでしょう」
こうして運命論に転換することは、彼女にとって悲哀を小さくする効能があるのだと思われる。
「周りは、なんて?」
「母には好きなさい、と。友達には、相変わらず何も言ってません。今回のこれらの事実は、秘密のままなんです。誰にも報されない、報されることのない……そんな、わたしだけの秘密なんです」
能勢の事実は、ニュースにも取り上げられることはなかった。仮に取り上げられたとしても、実際の中身は伏せられたままだろう。その中身に切り込みジャーナリストがいたところで、特別編成チームが投薬による中毒死と断定している以上は掘り下げられるものはあろうはずもなく、再生医療の懸念点に過激にかき立てたところで、さして脚光を浴びるようなことはないだろう。
「それで、これからどうするのかね?」
森光は静かに訊ねた。
「これから……? よくわかりません。まだ、整理しなければいけない遺品もたくさんあるんです。それらを、ゆっくり見ていこうかな、とは思ってはいます」
彼女は言って、ポケットからそっと折り畳まれた紙を取りだした。それは、エンゲージリングと一緒に渡された血液型証明書だった。
「まだ、持っていたのかね?」
「宝物ですよ、これは彼そのものなんです」
稀血の証明書。リスクをも呑んで、示した彼女への愛の徴。
「いつまで、それを大事にするのか? ……いや、失敬。何分、きみは若いものだからね、その先を見据えることだって考えなくてはいけない。そうだろう?」
「元気づけるためじゃなくって、本当はそちらのほうを言いに来たのでしょうか?」
森光は気詰まりになって何も言えなくなった。彼女は屈託なく笑って、正直な人、とからかうように言った。
「それは、無理なことです。今の私は何も考えられないんです、あの人のこと以外……。あの人が私を思ってくれた分以上に、思い返してあげたい……それが、今の私の使命なんです、きっとそう」
遺品を整理しながら、彼が彼女を想った熱量の程を、紐解いていくのだろう。そうして、彼女の中に癒しがもたらされ、彼への回顧心が強まる。反面、それは彼への執着心を育んでいくという諸刃の部分もあるのだったが、それさえも彼女は克服してくれるだろう。それができるだけの若さが彼女にはある。
なにより、彼女が彼の愛と同居していこうという意思を全面的に示している事実は大きかった。森光はうちに控えているある情報を明かそうと思った。それは、その後の捜査中に分かったことである。
「研究所には、マウスが生きている。一匹や二匹ではない、実験用マウスだ」と、森光は数歩、彼女から遠ざかる位置に歩んで言った。「その中に、彼の細胞が生きている。造血幹細胞を移植する前の彼の細胞だ。マウスの中に生着した、彼由来のiPS細胞によって作られたものだ」
「マウスの中に……彼の細胞が」
彼女は呆けた口元を見せていた。
「私も驚いたよ。マウスと人というのは、細胞はおろか、血液型から何まで構造そのものがちがうから、そのなかに人の造血細胞が根づくことなんてあるはずがないと思っていた。実際、根づくんだよ。そして、栄養を借り入れてしっかりと成長する」
「何が言いたいんでしょう」
「捜査で研究所をたずねた際、そのマウスの名前を、研究員に教えてもらったんだ。〝ユイカ〟、きみの名前だ。そのマウスは、稲原由来のiPS細胞は移植されず、ストック側に回された。……この事実が、ずっと気に掛かっていてね」
彼女は森光を静かに見ていた。風の影響を受けやすい方向を向いていたため、引っ詰め髪から巻き上がった髪が、彼女の鼻に掛かっている。
「愛着がわいたのだろう。名前を呼んでいるうちにね。そして、いつしかきみの分身と見るようになってしまった。それで、このマウスに稲原のそれを移植するのを躊躇った……。そこに、彼自身の本音があるよ。君のことを、大切に想っていたという本音がね」
「そのマウスさんはいま……」
「彼に与えられていたラボにいるよ……興味深いデータが埋められているから、まだ管理されるのだそうだ。あなたが希望すれば、会いにいけるのかもしれない」
森光は踵を返した。
彼が残した遺産、iPS細胞が埋められたマウスはどこに向かって行くのだろう。伝えられなかった彼の造血幹細胞、それは医学上で言えば、ただのサンプルを域を出ない、ガラクタに過ぎない。血や細胞は子々孫々に細末データを伝えてこそ、本分を果たす。
しかし、きっとそのガラクタは生き続ける。彼女の愛によって。
そして彼女は、その中に生きている細胞を愛するようになる。生着した骨から造血された血を愛するようになる――それは、何も特徴のない変哲な血だ。能勢忠利が最後に残した血は、彼自身由来のものであった。
(了)