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プラチナ・ブラッド  作者: MENSA
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プラチナ・ブラッド4

 

第四章

 

     1

 

 瀬川とはすぐに連絡を取った。

 昨今の健康志向からか、二種あるうちの検査依頼は、どちらとも最近は多く、暇なときは年間を通してほとんどないということだったが、それでも刑事となのると、時間を割いて会ってくれると申し出てくれた。

「理化学研究所の能勢氏とは、付き合いがあります。シンポジウムで出会い、それから生態学について意見をとりかわしすようになったのです。もともとの畑は違いますが、学んできたことや、興味関心をもってきたその根っこの部分は、同じだったわけです。わたしばかりではなく、関係者にとって、大切なお方です。臨床試験について、あれこれ指導を受けるというようなこともあります」

「彼の検査結果について、なんですがね……」と、森光は本題に移した。「その中身を、覚えていますでしょうか?」

「これは、個人情報です」

「あえて言いますが、彼は稀血の持ち主だった。そのことについて、あなたは知っていたのかどうか?」

 彼はこめかみのあたりを掻いた。

「個人情報ですから、お答えしかねる質問ですね。仮にそうだったとしても、そういったことは、珍しくはない」

「では、赤十字社の血液センターの人間とは、付き合いがありますか?」

「それは、もちろん。輸血用の血液パックは病院にとってはなくてはならないものです。付き合いがあって、当然といったところでしょう」

「私は、そちらにも通じています。つまり、今回、稀血という結果が出たことを受けて、あなたはそちらに通知せざるをえない状況にあるということになります。回りくどいですがね、そちらに手を回せば、押さえたのが初めてかどうか、知れるというようなものでしょう」

「では、調べればよろしいのではないでしょうか」

 彼は表情のない顔で突き返してきた。

「実際、通知はあったのです?」

「お答えできないことはできないんです。回りくどくても、そちらを経由して、情報を求めてください」

「そう邪慳だと、今日、お会いしてくれた意味がありませんね」

 森光は肩をそびやかして彼を見た。彼にも焦れったい思いがあるらしく、ひきしめた口許を、しばらくもぞもぞうごめかしていた。

「まさか、このようなことが訊かれるとは思っていなかったですから」

「なんの、訪問だったと思ったのです? 我々刑事がくるとなれば、個人のことに決まっていましょう?」

「病院内のことについて、だと思ったんですがね」

「この病院に、なにかの問題でも?」

「そんなわけはありません」と、彼はのろのろ首を振って言った。「懸念すべきことがあるなら、最初に消しておこうと思っただけです」

 身をひるがえして、診察空間でもある自分の机に取りかかった。セットされたパソコンから、本棚に並ぶ資料まで、医療販売メーカーがまるごとセットで用意したというような、片づけ方だった。

「能勢氏についてなんですが、もう少しお付き合いください」と、彼の沈黙に構わず、森光は言う。「今回、彼から提出されたのは、冷凍血だったのではないでしょうか?」

「それは、お答えできないと言ったじゃないですか」彼は一重の目に睨みを利かせて、森光を振り返った。「何度しつこく訊ねられても、答えは同じですよ。もし、彼についての質問しかないのでしたら、お帰り願います」

「では、一般論でけっこう。凍結血の提出は、検体検査の対象になりえますかどうか?」

 彼は首を振った。

「ならないですね」

「それは、どうして、です?」

「素人には扱えないものだからです。血というものは、ただ凍らせるだけでは保存にはならないんです。赤血球が凍結とともに溶血し、成分が破壊されます。その恐れがあるものについて、どうして受け付けることができましょう? われわれ検査師が直截採取したものでなければ、やはり信用には値しないのです」

「だとすれば、提出する人物がそういった扱いを理解しているものだったら、どうなのです? 受け付けますか?」

「それだったら、受け付けることも考えたっていい。ただ、難しい条件が重なりますから、それなりの費用をはらっていただくことになるんでしょうが」

 彼は間をおいてから、そう言った。

「その難しい条件というのは、ご説明願えないので?」

「冷凍保存方法として、一般的にふたつの選択肢があります」と、説明にくれた彼の目には理知の光があった。「まず、凍結防止剤として、たとえばグリセロールというような薬品を使います。こちらの病院では、だいたい冷凍保存用の薬品はグリセロールです。細胞内凍結が起こると、電解質濃縮がはじまってこれが赤血球を溶血させる原因となるわけですが、グリセロールによってこれを防止させることができるのです。ふたつの方法があると申しあげましたが、具体的に言いますと、こうした薬品を使用した、高グリセロール緩速冷凍法と、低グリセロール急速冷凍法のふたつです。前者は、保存血液媒体に対して、八割近くのグリセロールを添加し、マイナス七十九度で保存するやり口で、後者は、同じように三割近くのグリセロールを添加し、マイナス百九十六度の液体窒素で保存するやり口です。どちらを選択するかは、その時の条件次第といったところでしょうが、しかし液体窒素を使うなどする条件を鑑みれば、どちらをとっても扱う技術、知識がない者にはできないことだけはお分かりでしょう」

 どの段階でそれがなされたのかはさておき、稲原から血液が直截抜かれ、今日という日まで日にちが経っていることから、冷凍保存がなされているのは確実だった。

 グリセロールについての知見と、取り扱い技術を持っている人間となれば、医療関係者しかない。やはり、実行犯には大前が絡んでいたというべきだろう。

「つかぬことをうかがいますがね、そういった冷凍保存した血液というやつは、輸血用に使えるのでしょうか?」

「グリセロールを除去さえすればできますよ。もっとも、この病院では冷凍血は輸血用には回さず処分か、ひきつづき保存かの処置に回されますがね。アメリカでは、たとえばマサーチューセッツ州では、冷凍血のいくらかが輸血用に使用されています。洗浄ばかりではなく、輸血後肝炎の防止が可能な有効なやり口が発見されて、すでに実施されているのです」

 そうなると、能勢があずけた血液はすでに処分された可能性が高いということになる。もともと期待はしていなかったが、僅かな可能性が立ち消えた形となる。

「個人的な質問は、これでおわりです。先生、どうもありがとうございました」

 森光は立ち上がり、戸口に向かって行った。視線を浴びているような気がして振り返ると、やはり複雑そうな表情をした彼がじっと見ていた。身体ごと振り返って彼と向き合いになると、彼はあわててそっぽを向いた。

 振り返る素振りも見せない。むしろ、邪慳な気配が彼の背中に満ちていた。もう来ないで欲しいとでも頭で思っているにちがいなかった。

 森光としても、二度目にここを訪れるようなことはしたくなかった。が、残念なことに、彼が能勢と通じ、例の検査表を作成したことに後ろめたいものを持っていることは、きっと正しいはずで、いずれの日にか、そのことの真実を質さなければいけなかった。

 

     2

 

 かくなる上は、DNA検査しかなかった。

 能勢が提出した血について、手にする機会があるかどうかはさだかではなかったが、その時がくるのにそなえて、準備を整えておかなければいけなかった。というのも、水面下で進められている沼田の捜査について、めざましい成果が挙げられていることの報告を受けていたからである。

 沼田の逮捕が大前との関係を浮き彫りにし、そこから能勢に累がおよんでいくのは避けてとおれないことのはずだった。焦点は、稲原襲撃の要請依頼をしたかどうかという点にこそある。

 もし、そうではなく、大前の仲間を引き入れた彼個人の犯行だとしても、なんらかの事情は押さえていたと見るべきだろう。いずれにせよ、能勢は重要参考人として招致する手はずになる。

「すまない、このような依頼を無理に頼んでしまって」

 森光は採血中の稲原と目が合うなり、申し訳ないという感情がわきあがって、思わず洩らすように言った。

「いいですよ、刑事さん」と、彼は気さくな顔で首を振った。「というよりも、ぼくのために、こんなに一生懸命にやってくれているんだって知って、なんだか、こちらの方が申し訳ないぐらいです」

 彼は被害届けを提出するべく、最初に接見したときのことをよく覚えていると言った。その時から、すでに森光に対し、恩義を感じているらしかった。あの時、彼は少し緊張ぎみだった。だから、森光はやさしくなだめるように配慮して相手したのだった。それが奏功した結果だろう。必要のない恩義だとは思うものの、彼の明るい様子を目の辺りにすれば、まんざらでもない気持になるのだった。

 二人がいるのは、県内にある、科学捜査研究所のいち医療室だった。抗生物質の薬品の臭気と、電子機器特有のにおいに充ち満ちている。県警管轄の機関だったが、そこに勤める者たちの肩書きは、警察官ではなく警察職員である。法医科から、生物化学科、薬物科などがあり、採用される者はいずれも、理系大学出身のエキスパートばかりだ。科学捜査の最先端の施設がここに装備され、県警本部から各所轄の、重大事件捜査の科学面でのサポートがなされている。

「それにしても、稀血の持ち主とつきあいが、人生のうちであるとは思っていなかったよ」

 採血係の男が言った。館崎という名前だ。研究所の職員をして、二十年になるベテランだ。もともと法医学という分野外で働いていた、一般の社会人だった男だ。

 簡易処置を稲原に施してから、採血しおわった注射を持ち上げ、保護膜であるゴムシートがかぶせられた試験管を取り出す。

「こういう仕事だ。いつ何が起こるか分からないだけに、そういうこともあるだろうとはどこかで思っていたが、しかし、なかなかどうしてそういうのは、巡ってこないものだ。すくなくとも、こういった健全な形で、出会えたというのは喜ばしい事だと思わなければいけない」

 普段彼が扱う血液というのは、容疑者のそれか、被害者の残留血痕がもっぱらだ。それだけに、そういった事件がらみの陰惨な背景のない仕事である今回の採血は、彼にとって気持を伸びやかにしてくれる何かがあるはずだった。

「自分の血液型の特殊性について、どう思っているのかね?」

 館崎は、稲原に対し、何気なしに訊ねた。

「普通ですよ。特に、気を使って生きているというわけじゃありません。たまたま、この血液型で生まれたというだけのことです」

 佐高のように、いわゆる選民思想的な考えは、彼にはないようだった。

「自覚がないのか、あるのか……」と、館崎は作業を続けながら言う。「ただ珍しいというだけに収まらない血液型だ。特異性が、とりわけ傑出しているんだ。この国の中で、な。だったら、心情だって一般人のそれとはちがうものがやしなわれるのが普通じゃないか?」「小さい頃から、目立つのがいやな性格でした」彼はいやな記憶を抑制するように、目元を軽くひくつかせた。「だから、いつも普通に……を自分に言い聞かせて、人前に立つことを避けて生きてきました。血液型だって、人に明かすようなことは避けてきました。義務教育の学校でも血液検査は年ごとにありましたが、さいわいそういうのは今は、個人情報として保護してくれます。ひっそりと、誰にも知られることなしに生きていくことが可能なんです」

「きみは、小さい頃、変わった子だとは言われなかったかね?」

 館崎は手を休めて、問うた。稲原とは、ちがった考え方があって、彼のそういった生き方が不思議でならないようだった。

「どうでしょう?」と、彼はパッチが当てられた腕を気にしつつ、首を傾げた。「他人の意見とか、評価とかそういうのにおびえていましたから……、極力、そういうのは避けて今日までやってきました。だから、変わった子だなんて直截言われたことはないです。自分の知らないどこかで言われているのかもしれませんが、でもそれは極端なものではないはずですよ。やっぱり、普通でありたいんです、普通がいちばん幸せです。そうは思いませんか?」

 館崎は呵々と笑った。

「欲がない、というのは可愛らしいお方だ。森光くん、きみもそう思うだろう?」

 森光は反応せず、稲原を見ていた。自分の素の感情を明らかにしたといったところだ。彼が口にしたことは、大部分が本音だろう。普通がいちばん……。警察という職業に就けば、それがいかに難しいものであるか、思い知らされる。それだけに、館崎が口にした、可愛らしい人、というのは的を射ている。

「しかし、きみの平穏は、打ち破られてしまった。……たぐいまれなる、血液型がために」と、森光は静かに言った。「覚悟していた方がいいのかもしれない。これから、何が起こるか分からないからな」

「やはり、事件はとんでもない方向に踏み込んでいるのですね?」

「いや、不安をあおるようなことを言ってしまったようだ。今の言葉は、なかったことにはしないが、深くは受けとめないでくれ」

「覚悟はありますよ」と、彼は意思を滲ませて言った。「いきなり襲い掛かって、血液型だけを抜いていく……。そんな事件など、これまでに聞いたことがありません。きっと、黙っていれば予想のしないことが起こるんだろうなって思ったからこそ、港北署まででてきたのです。これは、同じ血液泥棒である、蚊に刺されたというようなこととは、やっぱりちがうんです」

 モスキート。吸血行為をするのは、産卵にそなえたメスだけだ。交尾を終えた後のメスが動物性タンパク質を接種することで、安定した産卵数を確保できる。事実、吸血したメスの産卵数は、その他のメスとは比較にならない、飛躍した数値を弾き出している。

 繁殖という目的を満たすための、吸血だ。    

 今回動いた犯人たちだって、目的がなければ、稲原から吸血行為なんてしないはずだった。そういった意味では蚊という例えは、きっと正しいはずだった。

「動いている人間たちの目的だけははっきりとしている」と、森光は稲原に対し、言った。「彼らはとても賢い人間たちばかりだ。法律すれすれのところを擦り抜けようとする、そんな悪賢い知恵を働かせている。もちろん、そういったことは許されないし、見逃されるべきではない。稲原くんの血液は、貴重につかわせてもらうよ」

「いくらでも、使ってください」と、彼は即座に言った。「足りなくなったら連絡をください。すぐにでも、採血に応じます」

「医療法というのがあってね……、採血できる分は、期間ごとに限られているんだよ。そこは、きちんとここで言っておくよ」

 館崎が割り込んで言った。そのことが、二人の話が取り上げられる障害にはならなかった。

「まあ、採取分だけあれば十分だが、そういう意気込みは、ありがたい。受け取っておくとしますよ。事件は、かならず解決します」

 彼の顔に安堵が心持ち浮かんだ。

 これを裏切ってはならない、と森光は思った。

「お願いします。本当にかってな頼みなんですが、刑事さんたちしか、頼れる人がいないんです」

「ひとつ、聞きたいんだがね」と、森光は顔をうつぶせて言った。「今回の持ち出された君の血がちがう誰かの幸福を保証するものだとしたら、どう思うだろうか?」

「ちがう誰かの……幸福を保証するとしたら、ですか?」

 彼は真意が分からずぽかんとした様子でつぶやく。そのまま、思案に耽った。二秒、三秒……。森光は余計なことを聞いた、と取り消しにかかろうとした。

 が、彼は言った。

「それも悪くありませんね。血がために誰かの幸せが買えるというのでしたら……。たとえば、移植。たとえば、輸血……。それをぼくがすることで誰かが救われるなら、それはのぞむところですよ。その人の幸福を保証してあげたいものです。もちろん、乗り越えていくには解決しなければならない問題が多々ありましょうが、でも事情を汲む余地があるなら、そのことについて考えることはできます」

「今回の事件は、傷害事件として受理している。つまり、被害届けなんかなくても警察側が捜査しなければいけない事案ということだ。私がきみにそのことを訊ねたのは、ちょっとした、仮の質問だよ。これだって深意はない。きみの中の考えというやつを、押さえておきたかっただけさ」

「そうですか……」

 彼はよく分からないといった顔つきで何とか相槌を打った。その後、うやむやな展開がつづいたのち、森光は礼を告げて、彼を帰らせた。長居させる必要はなかった。彼の体力を奪うことのほかに、精神力まで疲弊させることは避けなければいけなかった。

「検査結果は、二週間後には出る」

 二人きりの空間で、館崎がぽつりと言う。

 ダイレクトPCRと呼ばれる即興検査法ならば、二日程度ですぐに判明する。それ以外の慎重な検査法だと、一ヶ月はかかるのだったが、検査を集中してやってくれると彼は事前に約束をとりつけていた。

「彼のことを、どう思いました?」

 森光の問いに、彼は振り返った。

「何が、です?」

「血液型を隠して生きてきた……という、一連の彼の人生についてです」

 また検査機に取りかかりだした。血液を早速、詳細の成分データを割り出すべく、DNA抽出作業に取り掛かっているのだろう。口腔内粘膜からの細胞採取ではなく、毛根鞘つきの毛や、組織切片でもなく、被検者に負担の大きい血液にこだわったのは、森光の要請を受けてのことだった。

「きっと、彼は自分の血液型について、それなりに誇りにしているんじゃないかな。わたしにとっては、目立ちたくないというのは分かるにしても、素性の一部を隠すというのがよくわからない。健康的に育った人間なら、パーソナリティー・データなど、隠す対象でもないだろう。見受けたところ、彼はその健康的な男に該当する。そのことを隠してきたのは、警戒感からではないということになってくる。となれば、自分に力を蓄えさせる、矜恃ということになってこよう」

「では、血液型に自尊心が働いていると」

「きみが思っているような程ではないと思うよ。あくまで、健全な範囲内での、自尊心だ。これは、きみが最後に彼に試した問いの回答に良く表れている。幸せを保証するというようなことだったとしたら、考える余地はある、と――。つまり、これは血液型について潔癖なまでのこだわりはないということを意味している」

「なるほど、そうですか」

「それで、何が聞きたかったのかね。彼に対し」

 森光は口にしたものかどうか、迷った。そういえば、事件の中身について彼は何も知らないのだった。彼は協力者だ。一言事情を告げ、こちらの理解を取り付ける必要があるのかもしれなかった。

 能勢と佐高の事情について、おおざっぱに要約した説明を伝える。佐高の血液型に対する、特異な嗜好。能勢の結婚願望から始まって、そういった機運が巡るようにしかけたであろう、一連の工作疑惑。

「そういうことか。なるほど、確かに、その血液型証明書は幸せを保証することができる手形となる……」彼は何度も首肯をくりかえしていた。「となってくれば、いちばんの被害者は、稲原ではなく、佐高という娘になってくるか。まだ、学生だって? それはいけない。すべての事情がそのとおりであったなら、その内訳を押さえたとき、彼女の傷は深いところまで達する恐れがある」

「やっかいなのは、そのあたりは民事上の問題であり、われわれが介入できないという点です」

 ふうむ、と彼は唸った。

「それにしてもまあ、よく悪知恵の利いた手口だ。われらの想像におよびつかないところまできている。それで、稲原くんを試したのは、そのことについて彼らを許す余地が彼の中にあるかどうかを確かめたってことか。介入できない問題とあわせれば、結局そういうことになる。すべては、理解したよ」

 彼はしばらく、物憂そうに眉根を寄せあげて考えにくれた。すくなくとも二分は黙った。

「とても難しい問題だ」と、唸りはなしに口を切った。「しかしながら、危うい保証だよ、これは。嘘で成り立っているわけだから、嘘が最後までつらぬかれるということが前提で、これは成り立つ。人の嘘というのは、墓場まで持っていこうと思ったところで、そういうのはいつかに、何らかの弾みで――そう、ほんのちょっとしたことだよ、それで、すべてがばれてしまうのだ。わたしらは、特に、そういった嘘を見ていく仕事であり、これを見破る仕事でもある。嘘には裏があって、かならずそれを封じ込める仕掛けがある。完全犯罪のように、完全な嘘はきっと、どこかで完成していてそれは今も守られているんだろうが、わたしは役職上、そういうのは認めたくないね。必ず、白日の下に晒す――」

 彼の目が敏く光った。 

 職人の目だった。

 破られない、嘘はない――彼の眼の中に確立された確固たる信念が、そうしっかりと訴えているのだった。

「では、これは、真の意味で、幸せはない、と。そういうことでいいんですね」

「そもそも、それが違反かどうかは別としても、人をだまし込んでそういう関係を築き上げるわけだから、それは偽善でしかないんだ。許されるべきではないだろう。仮に、彼女自身の問題にしたって、彼らの行為はどういう形であれ、罪に問われなければいけない。法廷では彼女の特異性が、保護される余地はあろう。貞操侵害による慰藉料請求というのは、最高裁でも認められている。判例があるというのは、大きい。……と、こんなことを我らの話題にあげること自体、何か間違っているとは思わんのかね? きみは、よほど、自分を見失っているとみえる」

「仰られる通りです。自分を見失っていたようです……」と、森光は反省して言った。「いえ、見失っていたというのは、正しい言い方ではないのかもしれません。自信がなくなっていた……そういうことでしょう。僅かな違いでしょうが、自分にとっては大事なことです」

「わたしが背中を押すよ。だから、森光くんが、信じたところを突き進めばいい。きみが歩もうとしているのは、間違っている道じゃないさ」

 弾みがついた。

 この男と出会ってよかった。もう少しで、大事なことを忘れるところだった。嘘は糾弾されなければいけない。規律や秩序を守るためのそれならばいざしらず、自己の利欲がために実行される嘘ならば、許されてはならない。

「わたしは、やりますよ。食らいついてやります。さいわい、事件の外堀は剥がれつつあるのです。捜査のスピードを上げて一気に畳み掛けることで、内堀も落とすことが可能になりましょう。彼らの強欲を食い止められるということです。おしむらくは、そのことで稲原が願う、普通で、平穏無事な生活の均衡が、あるいは破られてしまうのかもしれないということでしょうか……」

「彼自身が言ったはずだ、彼は、その覚悟があるのだ、と。さしたる問題はあるまい。どのようなことがあれ、彼には受けとめるだけの度胸はある。それが、彼の均衡を破るもので、日常のいくつかが変わるようなことがあっても、問題はない」

 彼の表情が生真面目な風に引き締まっていた。

「生物の生命力というやつが、どういうものか考えたことがあったかね」と、突拍子もなしにそんなことを言いだした。「順応だよ。すべては、順応なんだ。あるいは、適応といってもいい。厳しい自然との闘い、外敵との戦い、仲間内での生存競争……。すべてに打ち勝って、初めて生き残れる。いま存在している既存種のすべてが、そうした歴史の延長上に生きているんだ。もちろん、我ら、人類も例外ではない。生き残った種は、それだけで強いと言っていいが、だからといって特殊なものを持っているわけではない。状況に適応できたやつが、勝ち残ってきたんだ。進化の歴史が、それを後押ししているように思う。……彼が口にした覚悟の中に、その適応力はあるはずだ。つまり、問題なしに生きていけるということだ」

 彼はなぜかしら、微笑んでみせた。安心させたかったのかもしれない。

「他に、協力できることがあったら、もう一度ここに来ればいい。さしでがましいことかもしれんが、わたしはできることはやりたいと思っている」

 うしろだてを得た。

 研究所を出て行く足取りは強いものとなった。しかしながら、そういった昂ぶりを冷やかすような連絡が翌日、森光に入った。

 例によって、能勢からの電話だった。

「どうも、わたしへの信頼度というやつが、徹底して低いようだね。周囲の心証が悪くなる一方だと、やはりなにもしないというわけにはいかないのだよ」

 そういった、抗議の電話が容疑者本人からかかってきたのは、森光の勤務経験の中で、彼が初めてだった。調子が狂う。

 そんなことよりも、近辺を調べまわっていることを知っているのはどうしてなのか、疑わなければならなかった。佐高が彼に告げ口したのか、それとも瀬川があの後、彼に報告にあがったのかのいずれかだろう。この二つしか考えられない。タイミング的には、後者だ。いや、瀬川と断定すべきだ。あの男は、個人情報の保護と評して、情報開示を拒んだが、それ以外の不穏を背後に隠していた。通じているのは、まちがいないはずだった。

「容疑が晴れるまでは、あなたを追いまわしますことになるのは、やむを得ませんね」と、森光は開き直って言った。「捜査中だから、そのあたりの事情は話せないが、やはりあなたは、筆頭に立つ男です」

 長い沈黙があった。

「お会いできませんか?」

 肩がひくりと反応した。

 しばらく、耳を疑っていた。

 危害を加えるなどして、口封じをしようと企んでいるのではないか。いや、この事件は稲原に傷害行為こそあったものの、それ以上の行為におよんだ事実関係はない。ここで、自分を手込めにしたところで、彼自身の首をしめる行為にしかならない。問題ないはずだ。彼とは会える。むしろ、こちらにとって好条件と受けとめてもいい。

 しかしながら、相手の手の内に踊らされることだけは、避けたいところだ。

「会ってどうするというので?」

 森光は、気配を探りながら問うた。

「できれば、証明したいんですよ」

「何を?」

「わたしの、血液型の中身が間違いでないことを、です――」

 しばらく、森光の頭に空白が拡がった。

 やはり、真意が見えなかった。初対面時からその予感があったが、超越しているところに、彼は身をおいている。この瞬間も、例外ではなかった。

 この男は、何を考えているというのか――

 

     3

 

 能勢が腕をまくり、採血に挑んでいた。

 その世話役は、森光が信用できる関係者――館崎だ。

 採決がおわり、止血の処置がされると、能勢は立ち上がった。

「時間の余裕がないので、わたしは帰りますよ」

「おわったばかりだ。休んでいきなさい」と、館崎が注意するように言った。「ここでは、われらがルールだ。従ってもらわなければ困る」

 医師の資格を持っていながら、現職に至るまでその技術をふんだんに使うことのない職に就いていた彼は、いまは水を得た魚のように活力にみちている。能勢を叱りつけたその態度も、さながら老熟の医者のそれといった年季があった。

「仕方がありませんね、従うとしましょうか」彼はパッチを押さえながら、離れたところに据えられていた長椅子に腰掛けた。「一応、義務は果たしたわけですから、やはり長居するつもりはないことだけは、言っておきますよ。あと十分、それでわたしはラボに帰ります」

 最後は、付き添いの森光に言っていた。

「なぜ、応じる気になったのか?」

「いずれ、この日が来るのではないか、と覚悟はしていましたよ。流れからしてね。わたしという人間は、堪え性がないんです。ですから、ならば早い内にやってしまえばいい、となったわけです」

 彼から採血された検血は、稲原と同じようなメソッドで、DNA検査に掛けられる。使用機器も検査試薬も、すべて同じ。その条件下で、誤差が生まれる確立はいちじるしく低い。能勢は、検査がダイレクトPCRではない限り、一日や二日ではおわらないことを知っている。前処理に、丹念なDNA抽出作業をへれば、どんなに簡略したところで最短二週間はかかることだって、同じく知っている。科学者だけに、すべての作業工程について、手を取るように知悉している。それだけに、この二週間に賭けようと思っているのではないか。

 自分の血液が、偽であることが報されるその前に、佐高を自分のものにしてしまうという作戦だ。ちょうど、長期出張を差し控えているだけに、そのような行動に走ったとしても、動機は不完全ではない。

 だとしたら、いまからでも、彼の暴走を食い止めなければいけなかった。やろうとしていることが間違いであることを、自覚させなければいけなかった。

 が、堂々と構えている彼を目の辺りにすると、気が怯むのだった。内心で考えていることをぶつけていくことが場違いであるように思えてしまうのだった。

「なにか、言いたそうですね」

 彼からそう言われた。

 苦笑いが、森光に浮かんだ。

「そう見えるか?」

「自分で、分からないのです?」

「仮に頭で考えている事があったとしても、口にするべき事などは限られているはずだ」

「おそらく、わたしの気持に踏み入るかどうか、それについて迷っているのではないでしょうか。だとしたら、どんどん、来てください……といいたいところですが、今日はそんな気分でもないんです。むしろ、何も話したくはない。矛盾しているかもしれませんね、やっていることと言っていることが。でも、わたしというのは、そういうものです。ひねくれているんですよ、心が」

「だったら、何も聞いてはならないんだな?」

 対する彼の顔は、優しげだった。

「ええ、そうですね。何も聞かないでもらいたい。……覚悟は、決まっていますから。それに、結果が出ないうちから、あれこれいっても仕方がないでしょう。自分のことをこうだと証明するには、確かな形が外に出てからにするべきです」

「なんだか、今のあなたは思い詰めているような節がある。下手なことをするべきではない、と今のうちにいっておきたい」

「どんな感じにみえているというのです?」と、彼は自分の顔に手を当てて言う。「出掛けに鏡を見たその時は、なんでもなかったはずですがね」

「いま、意識した途端、消えたよ」

「最初から、なかったはずですよ。つまり、気のせいだと」

 もう一度、顔の機微を読んだ。

 彼の申告どおり、それは欠片も見当たらなくなっていた。

「おっと、時間が来てしまいましたね、帰ります」

 彼は立ち上がって言った。さっと逃げるようなその足取りを森光は見ていた。引き留める理由はなかった。

 なんにせよ、彼の覚悟は形になる。それだけで十分なはずだった。

「自棄になっているとかそういう機微でも見つけたのかね?」

 検査室からもどってきた館崎が森光の顔を見るなり言った。すでに、能勢が姿を消してから時間が経っている。内々の会話をはじめたところで、問題はなかった。

「自分はそれがあったと思っていますよ」

 彼は忙しなく動いていた身体をぴたりと止め、首だけ森光に振り向けた。

「だったら?」

「検査の結果は、見えています。つまり、彼は、検査期間中に行動を起こすのではないか、と」

「何をやる――となれば、既成事実を作る、という手段しかないか。追い詰められると、男ってやつは、だいたいが見苦しい行動に走りがちになる。これは、どうにかならないもんかね」

「あの男の理性は、いっとき、本物だと思ったんですがね」

 森光は彼の人生とあわせて、結婚観について語った。能勢が森光に伝えた言葉をそのままそっくり借りての説明だ。

「満ち足りない、愛か。それがために走る、自己完結行為……。なんだか、そのようなものを何かの物語で、見知ったような気がするよ。結果は決まって、破綻だ。そういうものに、ハッピーエンドというのはない。……ところで、佐高って娘をどうするつもりで?」

 森光は答えなかった。答えられなかった。

 沈黙にたえかねたように、彼は目を逸らした。

「藪蛇だったようだな、聞いてすまなかったよ」

「いえ……、そういうことではないのです。自分も、納得した答えを出したいと思っています。これは、あの男、そして彼女だけの問題ではないということです」

「時間は、そんなにないとは思わない方がいい。もっと、余裕を持ってことに当たるんだ。あの男を精神的に上回るためには、気持で勝たなければいけない」

 最短二週間。

 それまでに、どれだけあの男を追い詰めることができるのだろうか。

 

     4

 

 二日後、思いもよらない連絡が入った。

 県警の交通機動隊が警ら中、日産、セレナの黒を発見し、職務質問を掛けようと接近したところ、中の男が急発進を掛けて、逃走。現在、上川井から保土ヶ谷バイパスに移って、狩場出口を突き抜け、国道一号線を走っているということだった。

 ナンバー照会から、車の持ち主が割り出されている。

 梶裕太、三十四歳。

 職業不詳。住所不定ではあるが、本籍は南区の陸町となっていた。ちょうど、男が向かっているのも、その陸町がある南区であった。皮肉なことに、その町は県警の第一交通機動隊の拠点があるのだった。もし、そちらに逃げ込んだとしたら、もう、逃げ道はないようなものだ。逮捕は、確実になされる。

「すでに、衝突事故をやらかしているとの知らせだ。かなり危険な状況。交通機動隊と、市民に大事がなければいいがな……」

 めずらしく係長が慎重だった。

 事故をやらかした保土ヶ谷バイパスは、日本一交通量の多いところといわれている。それだけに列が途切れず、数珠つなぎに車が並んでいる光景が、そこにはいつも展開されている。梶が運転するセレナも例外なく巻き込まれたことが予想される。警察車輌に囲まれ、道ならぬところに突っ込んで、乱暴にふりきったのだろう。そうでなければ、保土ヶ谷バイパスのような難所から、脱出するのは不可能のように思われた。

「なにをぼやぼやしてる」と、係長の檄が、真っ正面から飛んできた。「梶の情報だ。お前は、傷害罪立件について、調べていくんだ」

「了解しました」

 すぐさま、警務課にかかって梶の情報照会を頼み、個人情報の検討に取りかかった。この男は、オレオレ詐欺で一度逮捕された経歴を持っていた。組織犯罪取締法にくわえ、詐欺罪の合併罪で、六年の懲役判決を受けている。その他にも、窃盗が六回。暴行と傷害それぞれが一回ずつ。未成年時にも、何度も補導されている。ふだ付き、になりつつあるといった要注意人物だ。

 注目すべきは、顔写真だった。

 面長で、赤い斑点のあばたが浮かんだ、野卑な面相。この男は、稲原が唯一証言した襲撃組の一人なんかではなかった。しかしながら、証言内の年齢の部分については、近いところがある。勘が騒いでいた。

 そこで、もっと掘り下げてみようとなった。

 彼の前科にあったオレオレ詐欺の件だ。

 その時に知り合った仲間と、いまだに通じていて、悪仲間として金銭の融通をしあっているのではないか。資料では、オレオレの件での逮捕時、横浜市の高層マンションに仲間と一緒に共同でくらしていたとあることから、連帯意識は強くあったはずだ。

 すぐさま、仲間たちの顔ぶれが割れた。そのうちの一人のポートレートに、目が留まった。

 堀内という、男だった。

 見事な盤台面だった。

 こいつだ。

 この男が、セレナに乗っていた。そして、稲原に襲い掛かる実行部隊に加わった。

 読みが当たった勢いで、森光は引き続き、この男の情報を追った。検挙時、月二十万円で借りていた金庫部屋にて寝泊まりしていたことからも、詐欺グループの搾取金管理役をこなしていた。詐欺の企画を担当しており、太陽光発電をつかった会社について、インターネット内の画像を悪用して、パンフレットを作成していた。

 器用な男、というべきだった。きっと、いまも、警察の目のとどかないところで息を潜めているにちがいない。森光は一段落したところで、係長に報告書をあげた。

「割り出したか、とうとう。まさか、詐欺方面の前科者が引っ掛かってくるとはな。で、札を取る手段は、どうするんだ?」

「居場所さえ特定できれば、靴跡でいけると思います。実際、持ち主不明の靴跡が、礼の現場から採取したものが、ストックされたままです」

「梶の方が、先に落ちるだろうから、順次、落ちることになるか」

「一緒に暮らしている可能性は高いと思います」

「だとしたら、楽で良いんだがな」

 二時間後、梶が交通機動隊の手に落ちたという一報が伝えられた。藤棚を通過し、その先に待っていた坂道を上って下った辺りで、待機していた機動隊の手にかかったのだ。最後まで抵抗を止めなかったという梶は、体当たりを試みたが、半壊していたセレナは、その余力もなかった。

 

 彼らの拠点があばかれたのは、それから三時間が過ぎたころだった。驚いたことに、港北署の管轄内だった。男三人に、女一人。いずれも無職で、住所不定のあぶれ組だ。その中に、堀内という男が混じっていた。重要な情報を持っているおそれがあると見込んで、彼だけ港北署の聴取室に請じ入れられた。

「梶とは、どういう間柄だ」

 森光は二番手だった。聴取開始から二時間が経とうとしていた。依然、堀内は口を割っていない。想定していたよりも、ずっと肉付きのいい男であった。そして、ふてぶてしさのある男でもあった。人の話など、聞くに値しないといった邪慳さが全面に出ている。

「……あいつがいま、どうなっているか、知っているか?」と、彼の気を引き付けて、森光は言った。「南署にいるわけだが、ちゃんと、事情を話しているようだ。君たちとの付き合いについてもね」

「嘘をつくな」と、彼はいきり立って言った。「あいつは俺たちを売るような、そんなぬるいやつじゃねえ」

「詐欺グループ時代の頃からの仲間だから、信用しているんだな」

 彼の口が固く閉ざされた。前歴が押さえられていることに、怯んだのだろう。こうなってくると、だんまりを決めることがあまり有効でないと、身体で分かってくるはずだった。

 案の定、彼の口は開かれた。

「それよりもずっと前から、仲が良かった。だから、一緒にいる。あいつは、面倒見のいいやつだ。だから、困ったことがあればおれらを助けてくれる」

「だったら、残りの二人について、そいつらは梶が面倒見ているということなのか?」

 彼はうなずいた。

「そう、あいつが世話している」

「職業は?」

 彼は黙った。

 違法行為に手を付けているということでいい。分かりやすいやつだ。へたに反抗してくるよりも、ずっとやりやすい。

「梶ときみを含め、男四人に、女一人がひとつの部屋に詰めていたら、経費だけでもばかにならない。きっと大きな金があるんだな」

 部屋の中からは金は見つかっていない。あるとしたら、梶が所有するセレナの中だ。ミニバンタイプだから、後部シートをうまく操作すれば、隠しスポットを作ることができる。

「あと一人、女がいる」

 彼は脈絡なく言った。

「その、彼女は?」

 彼は名前を言った。植草よしの。キャバクラに勤めているということだった。未成年であることを疑ったが、そういうことはないと彼は言った。

「その彼女と、梶が食わしてくれているわけではあるまい。どういう集まりだったのかね、あの部屋にいた人間たちは?」

 詐欺行為をはたらくために集まった集団である可能性が高い、と森光は睨んでいた。家宅捜査に踏みきれば一発だったが、それに至るまでの材料はまだ手元にはなかった。この聴取だって、梶と付き合いがあったことによる、ただの素性調査にすぎなかった。とはいえ、手札として、稲原の傷害事件を控えているだけに、余裕はまだあった。

「あいつらは、何も関係がない」と、彼は突っぱねた。「本当だ、何も関係ないよ。前科だって、もっていねえ。おれらがおいてやっているだけのことだ」

「いずれの日か、利用する気でいたんじゃないのか。そういうハウツーをお前は、持っている。梶もしかり、だ。二人で共同して、詐欺グループでも作って、やってやろうと準備していたんじゃないのか」

 生活能力のない人間を共同生活にさそいこんで、その生活に慣れさせ、退路をあらかじめ断っておくという、洗脳めいた手口だ。稼ぐ金を握られ、自由に細工されても当人は脱出できないと思い込んでいるから口は出せない。結果、稼いだ分は、ごっそり操り糸を握る彼らのものになる。

 彼らが二年前犯していた、オレオレ詐欺の手口は、存在しない太陽光発電関連の会社をでっちあげて架空の社債を売りつけるものだった。将来性のある条件と、有力な投資先がそろっている資金力についてアピールし、倍になるであろう社債を提示期間内にすべて買い取るとした、いってみれば、出世払い式の詐欺だ。社債販売代金としてせしめた件で、もっとも高額な被害額は二千万にまでのぼる。

 この企画内容は、社債に詳しいものならだまされるはずはなかったが、それにしても知識を動員した優れたものであった。堀内は、そういった頭脳を持っているということだ。効率のいい、そして不当で暴利な搾取が、いままた別の形で彼の手中で行われようとしていたとしてもこれはおかしなことではない。

「キャバクラで働いている彼女の仕事を斡旋したのは、お前だな?」

「なんでおれが」

「調べればすぐ分かるんだ」

 彼はすぐに静まった。居心地の悪さを感じているようだった。まぶたをひくつかせたり、舌打ちしたり、と見ていてせわしないあり様をみせている。

「ああ、そうだ。おれの指示だよ」

 彼はふてくれるように身体を横向けて言った。

「その子の稼ぎを全部、吸い上げているんだな?」

 彼は答えなかった。眉根のあたりをひそめて、鼻をすするような仕草をする。その後重ねた質問でも、彼は口を割ることはしなかった。突然の黙秘だ。森光は、態度を変えるべきか、質問を変えるべきかの選択に迫られた。

 ちょうどいい、と思った。

 こちらとしても、稲原襲撃の件についてききたいと思っていたところなのだ。その機会を彼が与えてくれたと思えばいい。

「別件の問題に移行する。稲原、という男を知っているか?」と、彼の反応を見ながら森光は切り出す。「何者かに襲われ、傷害を加えられた被害者だ」

 彼はしばらく素知らぬふりをしていたが、そのうちだしぬけに言った。

「しらんね。聞いたことないわ」

「しらをきっても無駄だと言ったはずだ。こちらには、いくつかの証拠品が挙がっているんだ。靴跡。お前が今履いているやつは、うちらがまさに探していた品種のひとつだ」

 彼は自分の足元を慌てて見た。その顔は、狼狽があった。受け取りようによっては、醜態をさらした情けない顔ともいえる。

 そういった弱みの部分を一瞬でも悟られたことに反発心をもったのか、彼は激しい睨みをよこしてきた。

「こんなもん、どこにでもあるだろ」

「靴というのは、何年も履いていれば、へっていくもんなんだよ。特にかかとってやつは、体重がいちばんにかかるから、へり方がその人特有の形になりやすい。うちらが預かっている足跡は、まさに特徴的なものだ。お前のそれは、どうなんだ?」

「だったら、調べればいいだろうが」彼は自棄を起こしたように、靴の片方を脱いで、床に叩き付けた。「気の済むまで、やれよ。おれは、どっちにしたってやっていねえからよ」

 投げ出された靴を、森光は静かに拾い上げた。書記係を務めている職員が、さしたる恐怖も感じている様子もなく、こちらを見ていた。だいじょうぶだ、と目顔を彼に飛ばした。すると、彼は首を元の位置に戻して、調書にとりかかった。

「最終確認だよ。稲原の件について、何も覚えがないんだな?」森光は取り上げた靴を示しつつ、彼に迫る。「自分の立場を苦しめるようなことはするな。こちらは、容疑が確定しない限り、公平無私な態度できみとつき合うつもりでいる。もっとも虚偽申告だった場合は、その限りではないんだがな」

「覚えがないと言っている。他に、言うべきことだって特にない。おれは、本当に、無実の人間なんだよ」

「ならば、これは任意提出品として預かることになるわけだが、それでいいんだな?」

「好きにしろよ。二言はねえ」

 聴取はおわった。収穫物として得られた彼の靴は、即刻鑑識課にまわされた。そのあいだ、代用品としてのスリッパが関係職員から彼に差し出されたが、これは、ぞんざいな態度で突き返された。

 結果は、一時間を待たないうちに出た。

 一致率、九十八%。ほぼ、まちがいなく稲原襲撃現場にかかわった人物と断定された。検察が起訴する際は、これが一番の証拠品となるだろう。

 なにはともあれ、堀内が聴取中に連ねていた証言の数々は、たいていが嘘であったことが確かめられた。嘘が恒常化しているというよりも、彼は人を牽制する手段に嘘を使っているとみるべきだった。これは、人を信用するということを知らないところから生まれている彼の特質のように思える。聴取中の発言から鑑みて、彼が自分の内に囲っているのは、仲間だけなのだろう。それ以外は、すべて自分の敵、ということにちがいなかった。以後の聴取も、まともな証言が得られることは、期待しないほうがいいはずだった。

 逮捕状の請求が可及的すみやかに、行われた。

 そして、日を越した朝、留置所内にとどめていた彼を、傷害罪容疑で逮捕した。堀内は観念したように、終始うつむいていた。

 

     5

 

 梶の拠点に家宅捜査のメスが入ることとなった。その筆頭が、港北署の係長であり、また捜査主任であった。森光はその下に従事する捜査班のひとりに編制された。

 万年床のせんべい布団と、いつこしらえられたのかも分からないゴミ袋の山とで溢れかえった、ゴミ屋敷同然の家だった。足の踏み場は、きわめて限定されていた。

「まったく、ひどいもんだ。どういう神経をしてこういう所で集団生活していたのか、まったく理解できんわ」

 マスク装着をあえて拒む係長は、この現実を直視しようという気位の高い精神の持ち主であったが、今回ばかりは少しく無理をしているきらいがあった。

「毎日生活しているうちに、感覚が麻痺をしていったのでしょう。ここは、そういったことを目的としている部屋でもあるのです」

「外に出れば、自分がいる場所が異常だとわかるだろう? なぜ、もどってくるというのだ。こんなところに帰巣本能持ったところで、どうにもならん」

 部屋の奥手で、資料を押収していた捜査員から、うおっ、という驚き声があがった。隠れていたネズミが通り過ぎたようだった。気をつけろ、と係長から檄が飛ぶ。すぐさま、現場は何事もなかったように捜査が再開された。

 市販タイプのプリンターからは、所在不明の会社のパンフレットらしきものが押収されていた。その他にも、複数の口座から、飛ばし携帯、SIMフリーのスマホなどが籠にごっそりすし詰めにされていた。その他、業務用機で作製されたチラシのようなものが複数種類まとまった数で出てきた。

 ここは、疑いもなく、詐欺の準備をしていた隠れ拠点だった。

「ここには、これから大量の金蔓を手元に引き寄せようという、悪意に満ちた独特な雰囲気があります。彼らにとっては、これこそが大切なことだったのでしょう」

 森光は使えそうにない中古の携帯を拾い上げて言った。それを押収用のボックスに押し込んだ後、つづけて言った。

「犯罪には一種の興奮があります。それにそなえて準備するときも、然りです。こういうすさんだ生活空間だからこそ、いっそう病みつきになる、離れられないなにがしかの要素があるのではないでしょうか」

「けっ、くだらんな。犯罪にスリルを求めるようになったら、人間というやつはおしまいだ」と、彼はゴミをまたいで遠ざかって行きながら言う。「どんどん、勘違いした方向にいってしまって、最後には別の何かになっちまうかもしれん」

 人間じゃない、なにかにな――離れた位置で、森光を振り返って言い放ったその言葉は、なぜかしら森光の心に強く印象に残った。彼はその向こうにいる捜査班員に指示を飛ばしている。もう、二人のあいだでつながっていた会話は断ち切れになったようだ。

 森光も捜査を再開すると、部屋に訪問客があった。

 勤め先のキャバクラから帰ってきた、住民の一人である女だった。複数の捜査員が出入りするものものしい雰囲気を、ぽかんとしたあり様でながめている。森光が彼女の相手役を買うことにした。

「植草よしのさんですね?」

「は、はい……」

 意外と愛くるしい顔の持ち主であった。かなり若い。それなのに、加減を間違えたように顔に塗りつけられた化粧は厚かった。作られたような箇所もある。もしかしたら、これを剥がしたら、別の顔が出てくるのかもしれなかった。

 森光は家宅捜査の許可状を示し、その中身を伝えたところで、人定質問にかかった。それから、彼女自身のことを案じた。

「かたくなる必要はありません。ここであったことを、これからきちんとお話ししていただければそれでいいのです。梶と、堀内は、この部屋で寝泊まりしていたんですね?」

「梶さんは、車の中か、外で泊まってくることの方が多かったです。堀内さんは、けっこうここにひきこもっていましたけれど……」

 どのような生活をしていたのか、彼女はそつなく語った。かなり特殊な生活だ。時間感覚のない、日常。テレビはなく、娯楽といえば携帯ぐらいなもので、もっぱら仲間同士で談笑して過ごす。空腹になったら、堀内にいえば、魔法のように用意してくれる。

「給金の振り込み口座は、彼が握っているんだね?」

「はい……」

「あなた自身が、その中身を確認したことは?」

 子供のように首を振った。髪に振り掛けていた、強めの香水が匂った。

「堀内には、従順だったんですね、逆らえない存在だった、と」

「はい……」

「ここに、仲間が集められた目的を理解していますか?」

 彼女は、足元を見つめる具合に、うつむいた。

 ふせられた顔を、顔を傾けてのぞくと、泣きそうになっているのが認められた。それで、彼女の立場が分かった。心にかかえていた気持ちのほうも。ここに所属し、外で働きに出されることに、限界を感じ始めていたと見える。

 だから、森光は彼女の中で、確実な終わりを意識させる終止符を打ってやらなければいけなかった。

「もう、ここには帰ってこなくていいのです。あなたがたのつながりは、今日でおわったのですから――」

 彼女は、びっくりしてしまう程の突飛な反応で、泣き崩れた。

 

     6

 

 梶裕太は、南署の交通課からあびせられるように罪が突きつけられ、尋問の日々を伸ばし伸ばしに、引き留められていた。最後に運転免許を剥奪され、港北署に移送されることが決まったのは、家宅捜査が終了してから一週間と三日が経った頃だった。

「稲原の事件を覚えているか?」

 森光は単刀直入に訊ねた。

 目の前にいる梶は、写真から受けた印象どおりの男だった。ここ数日の寝付きが悪いらしく、目に生彩がなかった。くわえて、シルエットが変わるほどの激しい寝癖がついていた。

「覚えている」と、彼ははっきりと言った。「はっきりと覚えているよ。それこそ、あんたの役に立ってやれるぐらいの証言はできるよ」

 態度は横柄だった。

 証言してもらえるだけ、ありがたいと思えというような、高飛車な響きがある。普通、この手の男は、堀内のように黙っているはずだったが、南署の交通課から、さんざ搾り取られたらしい。黙っているのは損である、と思っているらしかった。

「セレナは、お前の車だ。しかし、実行役にお前がかかわっているということは、証言で分かっている。これはどういうことなんだ」

「そのまんまでしょ。おれの車を仲間に運転させたというだけのことだよ」

「その仲間は?」

 彼は迷いもせずに、その名前を言った。同居人の一人だった。

「実行役は、お前を含めて三人でいいのか? 堀内が入れば、あとひとり、まだ語っていない人物がいるということになる」

「なぜ、三人なんだ」

「証言でそうあったからだ。それとも、ちがうのか? だとしたら、内訳をお前の口から話せ」

「……三人だ。証言でそうあったなら、それでいいだろうが」

「ならば、三人目の男をあげろ」

 彼は森光の顔をじっと、見つめた。計算を走らせている顔つきだった。

「大前だ。……大前稔人」

 森光は意図通りに、その名前を引き出せたことに、内心嬉々とした。だが、それを顔に表すわけでもない。あくまで素を保って、シラを切った。

「そいつの素性は分かるか?」

「赤十字社だ。そこの、血液センターっていう施設で契約医をしている。……つまり、医者だよ、医者」

 大前を本格的に調べられる足掛かりが整った。これで、ようやく能勢の陰謀を食い止める公権力を、大いに発揮できる段取りが整うことになる。

「その大前と、お前の関係は?」

「単なる友人さ」と、彼ははすっぱな口調で言った。「おれの顔は広い。本当に、人がうらやむぐらいに広い。刑事さん、あんたも尊敬していいレベルだと思うよ。それぐらい、おれはいろんなコネクションを持っている。そのうちのひとつが、そいつってわけさ」

「お前と、大前が結びつく接点の有無はもう調査済みだ」森光は態度を変えて、彼に迫った。「こっちの捜査網だって、なめてもらっては困る。かかえているデータは、お前の顔の広さの、数百万倍だ。ちょっと悪さでもしたら、すぐにでも前科データとして、手元に弾き出すことができる。それは、特定の個人がかかえているネットワークも同じだ。我らの手中にある。お前と大前の接点は、存在しないことを確認している。つまり、友人という証言はでたらめである可能性が高いということだ」

「なんだって」彼は、露骨に狼狽した。背を慌ただしく立て直す。「こっちが、そうだと言っているんだから、そうだろうが」

「本当のことをいえ。お前と大前は、あくまで無関係の他人だ」

「だったら、どうやって出会ったというんだよ」

 必要最低限の間取りしかない聴取室は、剣呑な気配に溢れかえっていた。しかし、ここは警察署内だ。彼がどう暴挙に出ようと、それはもう罪を加算させるだけの、無意味なことでしかない。

「第三者の仲介――これがあったはずだ」

「第三者って誰だよ」

 彼は笑って言った。前のめりになっていた背を、また椅子にもたれさせる。

「お前の口からは言えないのか?」

「だな」

 森光の言葉の半分は、カマを掛けるものでしかないと踏んでいるのは、これまた南署でなめた辛酸の学習なのだろうか。

「沼田博昭――クラブMessiah(メサイア)のオーナーだ。こいつを知らないということはないだろう?」

 家宅捜査の際、Messiah(メサイア)の電柱広告――いわゆる電広とよばれるものの何枚かがくしゃくしゃになったあり様で見つかっていた。その証拠があるものだから、彼には言い逃れさせるつもりはなかった。

 梶は歯噛みしていた。

 明らかに顔つきが変わったと、受け取っていい。これで、対決する本当の舞台装置ができあがったというものだ。

「知っているんだな、沼田を? 知らんとは言わせん」

「知っている」

「どういう関係だ」

 言い難い顔をして口許を引き締めていた。

「上司……というのはちがう。ならば、もっと上の、さからえない親玉のような存在と言うべきか? 金をもらっていたんじゃないか、それも大量の。お前たちの集団生活の基本資金はそいつから捻出されていたということだ」

 植草の稼ぎは、あくまで補足的なものに過ぎない。あるいは、この男に小遣い同然に使われていたということもあろう。

「そんな事実はない……」と、彼は弱気になって言った。「いや、本当だよ。そんなことまでしてもらう必要なんてないから……」

「なら、お前の職業はなんだ? 今月の収入はなんぼで、それはどこから入った金だ」

 彼は完全に沈黙した。

 反論すべき、余地はどこにもなくなってしまったといった具合。

 沼田の息が掛かっているというのは、もはやまちがいない。この男は、彼の小間使いのような男なのだ。彼がこうしろ、といったら手柄を認めてもらうそのために、それ以上のことを平気でする何でも屋にちがいなかった。

「とにかく、沼田との付き合いはどれぐらいなのか、そこから聞こうか」

 森光は鷹揚に構えた。制限時間はあるのだったが、特に焦る必要はなかった。攻めていく材料はいくらでもそろっている。

「けっこう前からだよ」

「六年前、お前が詐欺事件で捕まったときは、どうなんだ。その男とつき合いがあったのかどうか?」

 もし、あるとしたら、詐欺事件に沼田が一枚噛んでいるということになる。

「ないよ、それは絶対ちがう」と、彼は強固に否定した。「沼田さんと知り合いになったのは、それの懲役をおえて以降のことだよ」

 この男が六年にもおよぶ懲役を務めおえたのは、いまから四年前のことだ。その頃、大前の事情はどうなっていたかというと、医者として真っ当な道を歩み始めている頃だったはずだ。それから推定二年後に清算金を支払い、沼田との関係を断つことになる。ちょうど、二年間というかち合う期間が存在するということは重要なことだった。

 大前と、梶はこのあいだに出会っているのではないか。

 その時は、沼田が娑婆に出てきたばかりの梶というごろつきを飼い犬にしたということになってこよう。

 彼のような男が加勢したのを見て、大前としても即刻、沼田と手を切らなければ、自分の立場が危うくなると懸念したに違いなかった。彼が先程に吹聴したように、顔の広さがあって次々に仲間を呼び、金貸しの問題で必要以上に炎上するようなことが起こるのかもしれなかった――

「沼田とは、どうやって知り合った?」

Messiah(メサイア)だよ」

「客としてか?」

「そうよ」

 これは、失言だった。

Messiah(メサイア)はホストクラブだ。男よりも、女性がはいるようなところだ。それでも、お前はそこの客だったとでもいうのか」

 彼も失態に気づいたようだった。だが、顔色を変えず、

「ホストクラブといっても、男でも入れるから特に問題ないでしょ」

 と、開き直った。立ち直りの早さが、この男の本当の強さだ。

 ホストクラブに男性客を受け容れているところがあるのは、事実だ。男娼ではないが、中には男から指名してもらって、功績を挙げるホストもいる。一方、男性客NGの店の態度ははっきりとしている。門前払いどころか、常識知らずとして用心棒を対応に当てることもある。Messiah(メサイア)は、明らかに後者だった。

 きっと、Messiah(メサイア)の求人に応募したのではないか。六年も空いている経歴。マネージャーとして面接役をもこなしている沼田がこれについて興味を示さないはずがない。すぐさま、雇用外の話を持ち掛け、彼を自分の手中に収めた。

 そうして次に、以前から搾取対象にしていた大前の件に彼を動員する。その時には、すでに大前からは搾取の限界を感じ始めていた。そろそろここで大きなはったりをかけて、彼から手切れ金をせしめなければいけない。比較的、実入りが期待できる職業だ。年収の三年分ぐらいを巻きあげれば、万々歳だ。梶にきつく言い立て、苛烈な追いまわし作戦にでる。二年もつづけば、大前もさすがに精神的にくるものがある。しかしながら、まとまった金を支払える当てが彼にはなく、この膠着状態を続けざるを得なかった。

 そこで、佐高の件が頭に過ぎり、これが彼の逃げ道となるのだった――そこから以降は、以前に推理した通りとなる。

 問題は、能勢が大前の代わりに手切れ金を支払うという形を取るわけだったが、この時、沼田にそれが渡ったのは確実であろうが、その瞬間、それですべてが終わりにならなかったという点だ。

 能勢が必要に迫られて、血液型を証明しなければいけなくなった最近、大前は動いている。と同時に、梶をはじめとする沼田配下のごろつきも動いている。いわゆる、事後処理だ。手切れ金の中に手数料というやつが含まれていたとしても、沼田がそこまでして動く必要があるだろうか。あの男なら、そんなことはしそうにない。もっとも、能勢からの要望を受けて、これを理由にまた大前から搾取しようと狙っていたというのなら、その限りではないのだったが。

「沼田とは、いまでも連絡を取りあっているということでいいな?」

「たまに……きますよ」

「稲原を襲えといったのも、そいつだ。それでいいな?」

「なんでそうなるんだよ。勝手に決めつけるようなことを言うな」

「決めつけじゃない。根拠がある。大前だ。大前は、稲原とつながる線があるんだ。その大前は、沼田に顔があがらない状態となっている。そういう、縦の関係だ。言いつけられたことは、お前同様、拒否する理由はない」

「なら、大前に聞けばいいだろう」

「そのつもりだ。そいつも、お前の証言をまとめしだい、任同を掛ける。そして、逮捕の手はずになる。防御線はもう決壊したも同然だ。やがて、本丸も落ちるだろう。この意味、分かるか?」

 逮捕が沼田にまでおよぶことの示唆は、彼に即刻伝わった。額が、みるみるうちに青くなった。

「マジか……」彼は肩を思いきり下げて言った。「沼田さんが、そんな……、いや、これは嘘だ。お前は嘘を言っているんだ」

「嘘じゃない。この事実だけではなく、その他の件からも、そいつの外堀が埋められはじめている。今の立場を守っていられるのは、あと僅かだろう」

 手の内を明かせられるのは、この男がしばらく娑婆に出られないことが分かっているからだ。南署の交通課にいじめ抜かれて満身創痍になった挙げ句、急所を突く、森光のとどめ。この男の中身には、いま何が残っているというのか。

「おい、話はまだおわっていないぞ」と、森光は身を乗り出して言う。「稲原襲撃の件だ。お前は、実行部隊だった。どういう手口だったのか、明かしてもらわなければいけない」

「ちゃんと、話すよ、それについては……」彼は怠そうにのそのそ背を起こして言った。「待ち伏せだよ。現場で待ち伏せして、稲原をねらった。そうだ、事前に何度も下見をしていた。おれじゃない。運転役の男だ。心配性な所があるらしく、確かな情報を求めて、何度も現場を見に行ったらしい。それで実行なんだが、待ち伏せしていたところに、深夜の十一時を少しまわったあたりで、あいつが予定していたとおり現れてくれた。ハイビームを飛ばし、やつの目がくらんだ仕草が、合図だった。飛び出すときは、一斉だ。先頭は堀内。あいつは、がっしりとした体つきをしているからな。機動力もある。一方、稲原は何が起こっているのか、分からないといった放心だったよ。おれらが接近しても、目の焦点が合っていなかった。押さえるのは、簡単だったね。というより、抵抗はなかった」

「同行した大前に採血をさせたんだな?」

「そう、そいつが暴れれば、どうしようだなんて大前は繰り返し言っていたが、でもどうということはなかった。あっさり、済んだんだ。もちろん、まったく無抵抗というわけにはいかなかったがな。まあ、それでも大人しかった。さだめしおれが飛ばした、威嚇の声が利いたんだろ。ん? 顔色? しらんな。見ていない。というより、顔を見られないために、壁に押さえていたんだから、見えるわけがないだろうって感じだよ」

「採血後、どうなった?」

「セレナにもどったよ。すぐに、ね。スライドドアは開け放したままだったから、乗り込むのに手間取らなかった。三人、すぐに乗れたね。きっと、稲原もわけもわからないうちに、逃げ出せたはずだ」

 その実、稲原は三人のうち、堀内の横顔しか覚えていなかったのだから、その証言は正しいはずだった。

「採血された血の扱いについては、確認しているか?」

「プラスティック仕様のタンク型保存器を車内に搭載していた。下処理をした後に、それに入れていたよ。大前からは触ってはいけないって何度も注意されたものだ。中身は分からん。少しヒンヤリとしていたように思えるがな、凍ってまではいなかったはず」

 保存方法を心得ていた大前が、ここでしくじるはずがなかった。万全な保存方法で、それは、その中に収められたはずだ。

「脱出以後のことを話せ」

「大前を、研究室に送っていくだけでよかった。あとは、自主解散だよ。それで終わりだ。呆気ないぐらい、簡単な仕事だ」

「研究室というのは、どこのだ」

「どこか分からんな。おれは、運転役じゃない。鶴見まできたってことは覚えているんだが……」

 能勢だ。能勢の所属する、理化学研究所は、鶴見区の末広にある。そこである、と確認してもらう必要があった。

 ちょっと待て、と言いおいて、森光は席を外し、理化学研究所の正門玄関が写った写真をホームページからダウンロードして、プリントアウトする。できあがるまで、ホームページを眺めた。研究所が発表しているテーマは、いずれも最先端のものであった。国家がバックアップしているのは疑いもない、相当たる内容。何もiPS細胞の研究に限った施設ではないと、記事を読めば読むほどそのことがよく分かる。戻ると、できあがったプリントを梶に示した。

「ここかもしれんな……」

 彼はプリントを見つめつつ、曖昧に言った。

「アバウトでは駄目だ。ここなのかどうか、もう一度思い出せ」

「夜半だから、見えなかったんだよ。多分、ここだ。ここで間違いないと思う」

「確かに、言質を取ったぞ、いいな?」

「ああ」

 よし――

 これで、大分コマを進めたことになる。能勢と沼田がつながった。これは、大きいことだった。

 きっと、タンクごと能勢に血が渡ったにちがいない。それで、彼は中からそれを取りだし、例の研究室内にあった培養室内の冷凍庫、あるいはディープフリーザーにそれを収めたのだ。いや、彼が管轄しているその他の施設ということもあろう。そういったものは、機密であって、人目については困るようなものなのだから。

 

 法定限度ぎりぎりいっぱいまで梶の聴取をつづけ、的確な調書をまとめあげたところで、沼田陥落の一報が告げられた。総額四千万ほどの脱税にくわえ、無登録で金貸し業を営んでいたことによる金融商品取引法違反、その他、出資法違反などの罪に問われた合併罪による逮捕だ。

 実は、すぐにでも動ける材料が調っていたのだったが、すべてを解決しないことにはこの男の息の根を止めることができないということで、力を蓄えていたのだった。

 これは喜ばしいニュースだった。

 確実に、能勢を追い詰める有効な手段となるだろう。そして、いいことはつづくもので、その日、本部の柳澤から連絡が入った。大前と仁田の線がつながったということだった。

「Rhマイナス繋がろう会だったよ、やっぱりな。仁田は大前を指名して、献血をしていた履歴があった。これが分かったのは、そういった被検血者の記録が残されないことが多いからだ。特に、赤十字社主導の出向バスのようなやり口となれば、勤務記録を調べるしかない」

「通じていたのは、なぜだろうか。仁田は、大前に買収される理由がない。佐高に関する事情を知っていたのは、まちがいないだろう。そして、彼女が結婚するかもしれない事情についても知っていたはずだ」

 仁田は、今回の事件にまつわる人間の中で、もっとも健全な男の一人だった。そんな彼に裏があるとは思いにくいところがあった。

「仁田は、きっとだまされていたんだろ」と、彼はぬけぬけと言った。「でなければ、平仄が合わない。今回彼の素性を見てきたが、やはりだますにはもってこいの人柄だったと言わざるを得ない。それが、彼にたいして持ったおれの第一印象でもある」

「だまされた――となれば、佐高が幸せになるよう、それを応援するよう、動いたというのが彼の動機になってくるのだと思う。であれば、稲原の血液型が例のウィンドウ・ピリオドから持ち出さなければいけなかった理由に、矛盾が生じる。彼女のために良かれと思ってやることが、どうして、彼女をだますための行動になってくるのか。稲原の遡及調査用の血液を持ち出すことは、つまり、彼の血液型をいつわるために、利用することを意味する。それ以外に、用途はない。彼にそのことが分からなかったはずがないんだ」

 電話の向こうから、吐息が聞こえてきた。

「冷静になって考えればいいんだよ。おれは、こう思う。仁田は能勢のことを詳しく知らないのではないか。顔はおろか、その素性まで……パーソナリティー・データまで知らないということもあり得よう。ならば、能勢という男は、彼にとって仮面の男になるわけだ。となれば、どういうことが言えるか、というと、だましの範囲に可塑性が出てくるということだ」

 森光ははっとした。

 仁田との最初の面談の際に受けた、彼の発言の数々だ。彼は、能勢という男について、研究者であるという肩書きしか知らなかった。しかも悪いことに、稀血であるということは理解していたが、それは佐高の素振りからして類推したものに過ぎず、彼本人は、能勢の稀血の中身そのものを知らないのだった。

「思い当たる節がある……仁田の無知振りは、本物だ。接している、自分が言うのだから、これは本当だ」

「だろう? となれば、仁田は大部分でだまされていたということになってこよう。きっと、こんな具合ではないか――」

 彼は連綿と、仁田に掛かっていた魔術のその中身について陳述にかかった。

 仁田は佐高に対し、人並み外れた懸想を抱え込んでいた。それは、現実的に叶って欲しいという願望に入る類のものなんかでは決してなく、ただの憧憬の延長のようなものであった。とにかく、彼女には幸せになってもらいたいと願っていた。どうも、その彼女に将来を誓おうとする恋人がいるようだ。それは、いて当然だとも思う。彼女は、それだけの美貌の持ち主なのだから。時期が早いような気もするが、こういうことは彼女の意思に任せられるべきだ。そして、彼女がいま幸せならば、自分としてはそういったことを応援することにやぶさかではない――。

 彼女の特質は十二分に知っていた。Rhマイナス繋がろう会に所属していた分、親密に語り合える機会があって、ことあるごとに彼女の事を聞き受けていた。

 自分よりもずっと稀血の人と一緒になりたい――

 彼女のその願いを、なんとか叶えさせてあげたいところだ。自分について言えば、やはりRhマイナスではあったが、それは彼女を飛び越えるというような、稀血ではない。彼女に相応しいのは、それ以上でなければいけないのだ。

 ところがどうだ、彼女の前に現れているとする、能勢という恋人は、稀血どころか、Rhマイナスすらも下回る平凡極まりない血液型の持ち主であるとする疑いが掛かっているというではないか。

 だとすれば、これは由々しき話だ。即刻、彼の素性を暴き立て、その化けの皮を剥がしてやらなければいけない。もし、本当だったら、その時はその時だ。態度が逆転することになるわけだが、心から祝福してやってもいい。そういう男には、彼女を妻にめとる、真っ当な資格があるのだから――

「なるほど、そういうことか――」森光は確かな線を彼の話から感じ取っていた。「仁田ならば、ありえなくはない思い詰めた思考だ」

 彼はすべてにおいてだまされていたということだ。

 その騙し話を持ち掛けたのは、当然、大前だ。彼しかいなかった。

 そして遡及調査用の血液を持ち出したのも大前だとしていいのなら、彼が加担した部分は限られていることから、やはり能勢に関する情報は閉鎖されているということになる。つまり、仁田はとことん情報が入らない疎開地にいたということだ。

「となれば、今度は遡及調査用のシリアルナンバーを誰がハッキングして調べ上げたのかということが焦点になってくるか?」

「そこは、森光さん、貴方の意見をうかがいたいところです。自分ばかり意見を言っておいて、後で損をするなんてことがあっては困りますからね」

 正直な男だ。

 だが、悪くなかった。腹に抱え込んで、それを出そうとしない人間の方が、ずっとつき合いにくかった。

「やはり、というか、ここは大前しかないな」森光は自信を持って、ぴしゃりと言ってのけた。「ハッキング情報が仁田ににぎられるようなことがあれば、それで嘘が発覚してしまう。大前がやるしかないんだよ。こういうことも考えられる。事前に打ち合わせしていたなら、ハッキング行為について把握していた仁田は、予定通り侵入してきた大前に対し、やりやすいよう細工した、と。解錠されているはずの門はあらかじめ開かれていたんだ。だから、素人でも入っていくことができた。そして、その後に走った組織絡みの隠蔽にも彼が一枚噛んでいれば、なおのこと辻褄が合ってはこないか」

「その提案は、おれと同じだよ」

「だったら、最初に言うべきだったな」

「そうはならない。こういうのは、決まりがあるわけだし。……と、以後の話だが、仁田に聴取を掛けるのは、大前が先ということになるから、そちらの動きと調整しなければいけなくなる」

「そのあたりは、了解だ。係長に報告し、それから大前攻略の日程を決めることになろう。打ち合わせはそれが決定以後となる」

「了解、では、早い内に連絡が来ることを期待すると、しましょうぞ」

 その電話がおわってから、運命の報せというべき呼び鈴が鳴ったのは、それから一時間後のことだった。

 科捜研の館崎からであった。

「DNA検査のほう、終わったことを伝えます」」

 いいことは、本当に立て続けに起こるものだ。捜査というのは、段階を踏んで、形式通りにことを進めていくからであろう。

「ご苦労様でした。結果の方、簡単にうかがうとしましょう」

「それが……」なにやら、暗い声が返ってきた。「予想外の結果が出たことを、お伝えしなければいけなくなったんだ」

 予想外……?

 森光の胸のうちが一気にざわついた。

「なにか、あったのです?」

「二人の血液のDNAの一致率は、ほぼ0パーセントだったんだ。つまり、能勢氏の血液型は純粋な彼のボンベイ型であるということなんだ」

 

 

 

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