プラチナ・ブラッド3
第三章
1
理化学研究所に登録される際、能勢は健康診断表を提出していた。
そこには、O型とあった。あくまで自己申告欄での記録であり、その診断表も七年前と古いものであった。捜査材料としては、かなり信憑性に乏しいものでしかない。
しかしながら、七年前には彼は自分の血液型をO型と名乗っていたという証明であり、非常に興味深い資料であることは確かだった。
「まだ、稲原にこだわっていたのか、あんたは」
呼び付けられた柳澤にいきなりそう言われ、森光はさすがにむっとする表情を抑えられなかった。
「それで、盗犯事案の件は、はっきりとしたのか?」
「残念ながら、進展はない」と、彼は見下すような態度のまま言った。「ロビーに設置された防犯カメラに期待したんだがな、外部からの侵入者や、その他の不審な挙動をしている人間が映っている事実は確認されなかった。ロックの記録だって、真っ当だ。正規の職務以外に、アクセスされた形跡は認められなかった」
これは予想していたことだ。
だから、森光はそうかという感慨ぐらいしかわかなかった。
「この結果を聞いて、どう思った?」
柳澤は横目でながら訊ねてきた。
「どうもないな。かなり厳しい条件が整っているから、正規の職員、あるいは契約員以外はあそこには立ち入れないだろうと思っていた」
「出入りする職員は、担当者か、あるいは献血にたずさわっている関係者だけだ。残された足跡だけがそれを証明している。調査用のストック分の輸血について、他の窃盗の事実は確認されなかった。つまり、稲原だけを狙っていたというのは、もはや正しい。前後に、医療センターのコンピューターが狙われたことも考えれば、確定的だろう」
「では、稲原が傷害にあった案件についても興味を持ってもらえた、とそういうことでいいのか?」
「そうならざるを得ない状況にある。盗犯係は、この件についてやっかいもんであるという見方をする者が多くなってきている。今日、こっちにきたのは、稲原の傷害の案件について、もっと精査しようと思ってね。一応、調書の方は何度も確認している。追加情報を口頭で教えてもらいたい」
「進展は、残念ながらない。血が悪利用されているという事実の報告はないから、そうなって当然といったところだ」
「その問題は、向こうでも、ミーティングで何度か取り沙汰された。結果、判断不可能という情けない答えがでた。というのも、なりすまし犯罪をするにしたって、ボンベイ型は、特殊すぎる血液だから、足がつきやすい。匿名性がのぞましい犯罪には、まず相応しくない。逆に珍しい血だからこそ、その点を利用できる犯罪について考えなければいけなかった。……が、これがまた難しいもので、思い当たるものがとんと見当たらない。輸血できるわけでもないし、科学者が検血として利用するとしたら、血液センターの方に一報を入れればいいというだけのことだ。また、その血自体に、現物としての付加価値があるとかそういうわけではない。何をどう考えたって、名案が思いつかないのだから、判断不可能というこの結果は、当然といったところだろう」
そこまで考えているということは、本部もまた稲原にこそ事件を解決する鍵があると睨んでいるということだ。所轄である港北署と合同捜査にしないのは、やはり幹部が事件自体を過小評価しているからに他ならない。捜査を拡大する権限が、認められないというわけだ。
推進派の筆頭に立っているのは、柳澤だろう。いま、彼は限定したところに立たされているのではないか。だとすれば、いま、一番に彼が怖れているのは、盗犯事案から的がそれるということだ。管轄から外されれば、もはやその先はあってないようなものになるのだ。警察というのは徹底した組織主義だ。だから、余計な捜査はしない。自分の持ち分だけを、やる。それだけに、キーが傷害事件にこそあるというこの事態に、組織内に広く表沙汰にできない事情がいくつもあるはずだった。
「利用方法があるとしたら、一つ」と、彼は慎重な顔つきで言った。「それは、血液について化学的な作為的な操作をしようと考えていた場合だ」
「作為的な操作というのは?」
「たとえば、DNAを採取するなどして、その情報を何かに使うというようなものだ」
森光がじっと黙っていると、柳澤が気に掛けてきた。
「お前、なにか知っているな。今日まで調べてきて、押さえてきたことのすべてを明かしてもらいたい」
「それをするのだったら、ロックについて記録が残らないやり口である、マスターカードを利用したという事実関係を認めてもらわなければいけない」
それは、彼にとって捜査線の拡大を意味するとともに、これまでに想定した線の打ち消しを意味することであった。出直し。捜査にたずさわる者にとって、これほどいやな仕打ちはなかった。頑固一徹で、自分のやっていることに逐一信念を通している、譲るということを知らない人間にとっては、反発することではねつけることでしか選択の余地はない、忌むべき要素。
「……分かった、認めよう」と、彼は言った。
その顔つきは、殊勝なものがあった。森光は、彼の勇気をかうことにした。これまでに自分が打ち立てた推理のすべてを彼に明かしていく。能勢と大前の存在に、佐高という娘の嗜好まで、少しおかしな相関図を、公平無私な視点で、語っていく。
「すべての始まりは、血液型だ。これは、血にはじまって、血におわる事件となることだろう」
柳澤は考え事に耽っていた。顔の中心に皺を集めるような悩ましい顔つき。
「なるほど、能勢の陰謀……。これは、たしかによくできている。いや、少し手口があらっぽいか。本人から直截血を抜くだなんて、そんなやり口、エリート研究員が思いついたにしては、すこし荒唐無稽だ」
「それについては、実行犯に委託していたという見方もできよう。とにかく、彼は血が欲しかった。それはそうなのだが、彼本人は動くつもりはなかった。これから、若い妻をめとり、自分の人生において欠けている部分について、埋めようと躍起になっているんだから、それを奪い上げられるように、逮捕されることなど以ての外だ。そういった不安だって残してはならない。だから、委託し、自分は高みの見物を決めていた――そういうことだってあり得る」
「血だけを受け取ればよかったというわけか。それで、自分に通じた機関に対し、検査に回す。そうして発行された証明書で、佐高を完全に自分のものにする。いや、その証明書さえ手に入れれば、彼には血など必要もないってことになるか」
「そうだ、証明書こそがすべてだろう」
森光の言葉に、彼は意を得たりといった具合に、強くうなずいた。
「ならば、能勢の近辺を調査しても無駄ということになるか」
「かの氏は、このようなことを口にしていたな」ふと、思い出すことがあって森光は言った。「その検査データについては、あなたが介入してもらっては困る、これは自分たちのあいだで大切なことなのだ――と」
「いかにも怪しい発言だ。みすみす調べて下さいと言っているようなものだろう。それで、森光さん、あなたはなんて答えたのです?」
「もちろん、介入するつもりはない、そう伝えた」
けっこう、と彼は言った。
「それでいい。相手にこちらの手の内を明かすようなことはしてはならない。われわれは、こっそり調べることになろう。問題は、どこに血が預けられているか、そして調べる手段というのはどのようなやり口を選択するのかという点だろう」
「もし、大前が実行犯の一人であったとするならば、彼の所にこそ、それはあるのではないだろうか。一度、例のセンターのウィンドウ・ピリオドという保管庫から遡及調査用の輸血が持ち出されたことが根拠だ。この実行には、能勢はできない。関係者ではないからだ。契約医である大前ならば出入りすることは可能だ。献血業務にかかわっているから、ウィンドウ・ピリオドについての基礎的知見は高いものがある。それに、使おうと思えばパスであるIDもあるし、その上、ロック事情をしっかり知っているから、策を弄して記録を残さない形で持ち出すという、裏を突くことができる」
大前はセンター内部の人間とほとんど同じ権限を持っているというのは、その後の調査ではっきりと調べられたことだった。
「例のロックの記録には大前の情報は、確認されていない。となれば、森光さんが言うマスターカードが使われたということになってくるわけだが、そうなると、大前と警備会社の職員である仁田とのつながりについて、洗い出さなければいけなくなってくる。大前のところに介入するのは、それからだ」
彼は捜査の仕方において、いちいちこれまでに判明したところから線で結びつくものでなければその先には進もうとしない性分のようだった。いわゆる、点は、求めていない。線、でなければいけなかった。
確実な手法ではあったが、その一方で、この回りくどいやり口は、捜査全体の進行が鈍るという致命的な欠点があった。
能勢忠利名義の、虚偽の検査データ表が作成され、それが佐高ゆいかの前に差し出されるのは、いったいいつになるのか。この点において、能勢の発言に注目したい。彼がそうするのは、来るべき時――なのだった。その来るべき時は、即刻という意味ではないはずだった。幾分の猶予がある、ということをほのめかしている。
しかしながら、血液の検査データというのは、そんなに時間が掛かるものなんかではない。できあがったそれが彼の手元にわたったその時、彼の心に弾みがついて、一気に気勢があがる――そういうことも、あるのかもしれなかった。いつでも油断しては、ならないということだ。
「血液の検査結果、それについてかかる日数を、教えて欲しい」
森光の問いに、柳澤は不思議そうにした。すぐさま、回答した。
「おれも、何度か献血をしたことがある。血の気が多いとよく言われるからな。血液検査結果通知のはがきがとどいたことがある。たしか、献血から二週間後ぐらいだったはずだ。いまはなんでもコンピューターの時代だ。そういうのは、個人検査よりも時間が掛かると思われがちだが、差はないだろう」
今は、稲原の事件出来から、一週間と四日といった頃合いだった。すでに検査結果が能勢の手元にとどいていたとしてもおかしくはなかった。問題は、彼がいつ動くかにかかっている。
「安心しろよ」と、柳澤が、森光の心を読んだかのように言った。「仮に、やつが先んじて動いたとしても、問題ないようにするよ」
「いったい、どうする、と?」
「一度、釘を打っておこうか、と。能勢に、だよ」
顔見せをする、ということだ。それでもって、能勢の気持ちに焦りを植えつけさせるのだ。能勢は肩書きの立派な研究員だ。それに、性格もとくにこれといった注意すべき、破綻はない。つまり、逃亡の恐れはないということだ。顔見せは、効果的に作用するはずだった。
「それは、よしておいた方がいい」あえて、森光はそう言った。「自分がすでに、それをやっているからだ。ダブルで掛けると、逆効果だ。慎重になるどころか、はやく佐高を手に入れなければと焦るように思える」
「能勢は堪え性のない男か?」
「表面上は、わからない」と、森光は、能勢の平板な顔を思い出して言った。「どのような看破力をもっていたところで、あの男の心理を見破ることは不可能だろう。その次元に生きている男だ。ただ、分かっていることは、彼は佐高を愛しているということだ。天の恵みとまで形容した。そして、こうも言ったのだった。性欲の捌け口として彼女を求めているわけではないのだ――、と。これらが真実ならば、純粋に人間として、女として佐高を見ている、受けとめているということになる」
「あんたのそれは、きわめて回りくどい言い方だ」彼の言葉尻が卑屈にゆがんだ。「理性で能勢は自分をコントロールできているのかどうか、結局のところどうなんだ? その辺、はっきりといってもらいたいもんだ」
「理性があるのは、たしかだ。だが、必要性のない二重の威圧で、彼の理性は足場を失う恐れがある、ということだ」
「ならば、よしたほうがいいと」
「さっきからそう言っている」
柳澤は思案に暮れだした。
「おれに、どうしろと?」
「仁田の調査をするしかないんだろう? まずそれからだ、といったのは、そっちだ。そこを任せたいところだが?」
「いいだろう、おれが請け負う。検査データについて、動いた時、これはどうするのだ?釘を刺すなというのなら、むこうは自分の裁量で動き放題ということになってくる」
「そのときは、そのときだ。自分が何とかする」
「わかった」と、彼は間をおいてから言った。「あんたの機動力に期待するとするよ。最初から、事件全体の概要について、目の付けところがいいところを突き進んでいたわけだしな。こちらには、反論の余地はない」
彼は去っていった。盗犯事案としては、この一件はお宮入りするおそれがある段階にあるのだろう。彼はそれをなんとか食い止めようと思っている。もしかしたら、部内での孤立は、思ったよりもずっと深刻なのかもしれなかった。その実、最後に見た彼の背中には、ある種の執念が滲んでいた。
2
多々良が事件現場から採取した足跡から、六種類の靴のメーカーが割り出され、参考写真を手にすることとなった。すべて、ソールの部厚いスニーカーだ。二十五センチ台がその大半だったが、なかには二十三センチの女性サイズのものもあった。よって、見ていくべきは、五つにしぼられた。
この中に、大前が履いているものがふくまれている。しかしながら、あの時彼が履いていたものとは、どれもイメージがちがう。一致しているのはたぶん、サイズだけだろう。実行にあたって、あたらしい靴まで用意したというのか。だとしたら、用意周到だ。かなり念入りな性質を持っている男であるというべきであった。
経歴は、能勢よりも一ランクも二ランクも下手な、なんとか医者の端くれにしがみついているといった程度の侘びしいものだったが、資格を詐称するもぐりの医者なんかではなく、しっかりと国家試験をパスしていた。もともと、そういった医者を輩出できるような堅固な出自なんかではなく、彼の下に二人いる兄弟なんかは、金銭的余裕の無さを理由にか、はたまた医大に送り出した兄を思ってのことか、高校もいかずに働きに出ている。きっと、医師になった彼自身が働き蜂のように県内を飛びまわっているのは、そういった土臭く汚れるのが仕事だと信じている家柄が関係しているのだろう。血は争えないというやつである。
肝心の能勢とのつながりは、以前として不明なままだった。
二人をつなぐバイパスは、めいめいが所属している組織機関にはなかった。あるとすれば、学会のような定期報告会か、関係者がつどう合同シンポジウムぐらいなものであった。
彼のさらなる素性調査を試みるべく、その日、医大時代の友人という男に接近した。その男は、神奈川県内の医療法人にて、職員として従事している。国家試験はパスできずじまいに三年で受験をあきらめ、そのまま勤め人となった。
「学生時代から、ずっと勤勉なやつです。遊ぶ、ということを知らないというより、できなかったのでしょうね。それに、金もしょっちゅう事欠いていたらしいから、そうするべきではないという抑圧もあったはずです」
長椅子に腰掛けながら、彼はどっしりとした低音域の声を発する。手入れの悪い肌つきにしては、まとっている白衣は綺麗で、ほとんど新調も同然だった。
「お金に事欠いていたというのは、事実で?」
経済事情にも一応、メスはいれていた。だが、結果についてかんばしいものは得られていなかった。見ていくところは限定されていた。
「事実ですよ」と、彼は言った。「彼は苦労人なんです。うちらが出た医大は、私大ですから、学費が高いです。卒業するまでの六年間で四千万は必要です。彼なんかは、入試で成績優秀者でしたから、学費免除の恩恵を受けたようですがね、それでも控除額は五百万ぐらいです。だから、残りの三千五百万は、やっぱり自分で払わなければいけないのです。その能力がない者は、学校を去るしかありません。彼自身、退学勧告をずっと怯えていたと思うんです。やばいやばいとか言っていたのを、聞いたことがありましたし」
「それで、彼の家庭はどのように払ったのか、聞いたことがありましたか?」
彼は、首を傾け、記憶をたぐった。
「いやあ、思い出せないですね。そのようなことは、言ったことがなかったような……、普段の生活から、相当苦労しているなというのは、分かりましたがね」
「そんなに抑圧があったなら、それこそ食事会なんてさそっても、彼は一度も来なかったのではないか?」
「そういうのは、結構顔を出しましたよ。けっこう、お酒がいけるクチなんですよ、あいつは」
森光はおや、と思った。
「遊ぶことができなかったんじゃなかったのか?」
「遊ぶと、息抜き、というのはちがいますよ。区別して下さい。お酒の方は、息抜きですね。彼はそっちのほうは、まあよく一緒しましたね。今日はおごるなんていえば、彼は手を叩いて喜びましたよ。他に趣味がないから、ストレスの発散方法は、酒だけなんです。
それで、盛り上がるだけ盛り上がって、さあ夜街のほうに出向こうとなると、さっと帰っていくわけです。そっちの方面では、慎重なんです。身持ちの固い男ですよ、彼は。そういう所が一番の魅力なんでしょうが。もっとも、そっちの世界で働いているんじゃないかって、噂が立っていましたから、そっちのほうで気をつけていたかもしれないんですがね……」
夜街のほうで働いていたかもしれないという事実について、森光は気に掛かった。
「それで、実際、夜街で働いていたという事実はつかんだことがあったのかね?」
「単なるデマですよ、彼がそういうところで、働くというのはないですね。もともと、不器用なやつなんですよ。なんというか、使用人として不向きというか、使えないというか……。すべてにおいて、理屈詰めでなりたっているから、いちいちどこか、空ぶるんです。いってみれば、他人にあまり興味がないのでしょう」
そんな彼が外勤の契約医として活躍しているといういまの姿は、過去とはまるでちがう、重ならないことなのかもしれなかった。
「最近、彼と会ったことは?」
「ないですね」一度そう流してから、彼は言った。「卒業して二年目ぐらいに会って、それが最後ですよ」
その頃には、大前は佐高に出会っていて、その彼女の特質を押さえていたはずだ。
「その時の彼は、どんな具合?」
「やっぱり、余裕がないところは変わっていないなと思いましたね。いくら年を取っても、あいつはあのままなんでしょう」
「余裕がないというのは?」
「こう、いつも何かに苛立っているというか、とにかく落ち着かないんです。落ちついているように見えないんです。これは、顔の表情からくるものなのかもしれませんね」
大前稔人が、じつは気の弱い人間であるというのは、ファーストコンタクトですぐに分かったことだ。しかも嘘が下手ときて、駆け引きもまるで駄目。こちらが強く出れば、その分だけボロをだすから、彼一辺倒に攻めていくことが捜査をする側としては有効手段だったが、そうすると彼の警戒感を押し上げてしまい、ついには信用されなくなってしまう。いくら暫定被疑者といっても、嘘をつかない相手の不審と不興をかってはならなかった。これは、不文律というよりも、捜査員としてのマナーである。カマ掛けなどに見る、威圧という手段を使うのは、そうしなければいけない、という事態が発生したときのみにかぎられる。
接触時、彼のあの顔に弱気な色があったのは確かだ。しかし、落ち着かない色合いというのは、これはよく分からない。少なくとも森光には感じられないことだった。この男が見たという、そういった表情をしていたのは、いまから三年前だ。
先日に起こった事件の後だけに、大前の荷がおりて険が剥がれたというようなことがあったとしたら、森光の知っている彼のそれとは、差があったところで特におかしくはないだろう。
いずれにせよ、彼の証言からして、ここで能勢とのつながりにある要素が絡んでくることとなった。
それは、借金である。
彼は、こしらえた借金を能勢に処理してもらうというようなことがあったのではないか。だから、このうえなく恩を感じ、彼に平伏しているというわけだ。
問題は、出会った時期の錯誤である。
素性調査の資料からいって、大前が勤務医をつとめるようになったのは、六年前だ。その一年後に、佐高と出会うこととなる。そして、それからさらに三年以内に、能勢と出会うことになるという推理を打ち立てたのは、まだ記憶にあたらしいことだ。ここで、学生時代にすでに会っていたということになると、この推理を打ち崩さなければいけないこととなる。
こういう考えはどうだろうか、と森光は思考を押し進めた。
これまでの推理はただしくて、能勢との出会いも、佐高と出会ってから以降のことだった。その時期にはまだ、彼の借金はつづいていて、それはいよいよ彼の身に危険がさしせまるぐらいに膨らんでいた。つまり、当時、退学になりたくがないために、銀行以外の各方面に借金をして回ったということだ。その借金先には、闇金融のような手を出してはいけない、そんな黒いところも含まれていた。彼らによる追い立てが始まると、金策に走る日々がはじまった。これが彼の顔に浮かぶ、当時の余裕の無さの正体だ。
大前は医大の中でも成績優秀者だった。だから、医者になれるのは時間の問題だった。彼の将来を当て込んだ貸与者は、彼を飼い殺しにしようと長いスパンでの付き合いにシフトを変える。
借金を先送りにした見返りに、暴利な金利を要求するようになった相手は、やがて、まんまと彼の収入を吸い上げる守銭奴となる。稼いでも稼いでも吸い上げられる、酷使の日々。その飼い殺しの術は、闇金業界に浸かりきった者ならではの、絶妙で、寸分の隙のない、見事な仕組みなものだった。
その生活から脱するためにも、借金を帳消ししなければいけなかった。まとまった金が必要だ。そこで、彼はあらゆる方法を模索する。すると、どういうわけか、ひょっとした弾みで、佐高のことが頭にひっかかった。
彼女を売ろう――
悪魔の囁きだった。一旦、そういった悪意に取り憑かれると、そこは毒をくらわば皿までだ。悪に馴染んで、心が蔑んでいく。何らかの理由で出会った能勢に対し、ボンベイ型の血液型が結婚相手の第一条件にしていることなどの、特殊極まった情報もあわせて売り、彼に結婚のチャンスをそそのかす。
研究に没頭する日々で、それ以外に日常のうるおいがなかった能勢もすぐさま、その提案に乗った。それは、佐高のたぐいまれなる美貌が、後押しとなったのはいうまでもない。
そうして、二人の結託が成り立ち、共謀におよんだというわけだ。
ともすれば完全だ、と思った。
あとは、裏付け捜査だけだろう。とくに、能勢と大前との出会いについては、慎重に線をさぐらなければいけない。その他、大前に付きまとった金貸し業者も、突き止める必要があろう。
3
その町工場の外観は、銹だらけで仕事がないことを隠すように、色褪せたスレート壁周辺に、標本めいた発電機の残骸が数うち捨てられていた。やる気のない崩れ方をした、工事用足場組みの敷居柵。アプローチの段差ちがいに割れたコンクリートは、雑草と虫の巣窟になっていた。
防犯も何もかも放置された、開け放しのゲートをくぐると、機械工場らしき角張ったシルエットが、頭上高い青味を帯びた明かり取りとのあいだにうかびあがった。
「社長、います?」
声を張り上げたのだったが、むなしく反響するだけにおわった。誰もいないわけではなかった。少し離れた所にある場内クレーンをあやつる操作盤があるところで、作業着姿の青年くささの抜けない、いい年をした男が鉄床を台に、板金をハンマーで打ち付けていた。
「社長はいないよ」と、彼は作業を休めて言った。「さっき、ご飯食べに出て行ったばかり」
もう三時過ぎである。遅い昼食なのだろう。回転が悪い町工場というのは、いつも追われているように働いている人がいる。それは、切り盛りしている社長も例外ではない。
「だったら、きみでけっこう」
「あんた、だれ?」
森光は名刺を出した。
「港北署のものだ。森光と申します」
彼はきょとんとした顔でいる。
「……警察さん?」
そう、とうなずいて、森光は彼に対し、立つよううながした。すると、彼は意のままにしたがった。小柄な男だった。
「稔人さんの弟さんだね? 二人のうちの……」
「……勇作です」
後を継いだ、長男だった。
裏庭には、廃材と、使える見込みもなさそうな、カットされた木の幹が俵積みにされてあった。そのうちの仲間はずれといったところで転がっていた廃材に彼は腰を下ろしていた。すぐ先に、隣の工場の納屋がある。敷居をまたぐなとでもいうかのように、置き去りにされて久しい、こわれかかった蜘蛛の巣がかかっていた。
「借金は、おれらも一生懸命返していたつもりだったけれど、それじゃ、ぜんぜん足りないのは、分かっていたよ」
彼は空を仰いで言った。工場内の暗いところからすれば、飛んでいけそうなぐらいに、青くて、清涼な空間がひろがっていた。まぶしくなく、暑すぎるでもなく、本当に加減がいい天気だ。
彼らが負担していた分は、だいたい千二百万だった。その他は、学生支援機構や、銀行の学資ローンというものを利用して、なんとか補填した。無担保、無保証で支援してくれるので、彼らのようなそう裕福ではない一家は、これを利用しない手はなかった。
「もしかしたら、支払ったのは一千万どころか、八百万にもとどいていないかもしれない。そういう支払い能力がない現実を知るのが怖くて、おれらはただ黙々と、借金の請求書に応じて、金を払いをつづけていたんだ。具体的にそれを計算する人がいて、後なんぼなんぼ返せばいいって、そういうのを見ていけば、目標みたいなのができるかもしれなかったけれど、社長がそういうのは見ん方がいいって怒鳴るから、結局、まだかまだかっていいながら、払う働き車になっていた」
「お母さんは、そういうのはやらないのかね?」
「だめだめ。お母さんは、力ないから。社長がこうだといったら、もうすぐに引っ込む。本当は、やりたかっただろうけれどね」彼はしおらしい顔で言った後、ほっと息をついた。「でもよかったよ。兄貴のやつ、医者になってくれて。社長はそれだけは自慢だって、いって、この辺りじゃばかみたいに言い触らしているよ」
家族総出で、送り出した医者。
自慢したいのは、やむを得ないことだろう。それが度を越すものでない限りには、悪い気はしない。それに見合う苦労が彼らにはあったはずなのだ。
「私が聞きたいのは、その不明な借金の中身だよ」
彼は顔を横向けて、森光を見た。
「なにか……あったんですか?」
彼は立ち上がった。
「支払えていない分が存在していて、それについてあなたの兄が自力で納めたのではないかと思われる。これは、あくまで私が見込んでいるということだけにすぎない話なんだがね」
「それなら、直截兄さんに聞いたら?」
「それは駄目だ」と、森光はつとめて厳しい顔色で言った。「この事実が我らの中でふせられていたのは、あなた方の努力について不意にしたくないというあなたの兄の思いを汲んでのことだ。感謝の気持ちを形にするべく、彼は本当のことをずっと隠し持っている。今後もそれを明かすつもりはないはずだろう。その思いを挫くわけにはいかない。だが、私は今、彼を苦しめている……いや、かつて苦しめたとする借金の相手を追わなければいけないんだ。だから、意を決して、この話をあなたにしなければいけなかった。せめて、彼のためにも気づかないでやって欲しい。きみは、ここに私が来たことは、黙っているべきだ」
「わかったよ、刑事さん」
彼はうなずいて、力強く言った。
効果があるかどうかは疑問だったが、この言葉はしばらく彼の中で禁忌事項として留まりつづけるだろう。
「どこから借りたという点について具体的な話に入らせてもらうが、実際のところ、何も掴めていないというのが本当のところだが、一点、奇妙な情報を掴んでいるんだ。それは、夜街にて、きみの兄さんが働いていたのではないかというような情報だ。単なる噂の可能性もあるんだが、そこは探ってみなければ分からないだろう。……これについて、何か知っていることはないだろうか?」
彼は、あ、と洩らした。
「在学中の兄貴に一度だけ会いに行ったことがあったよ。その時、酒に酔ってぐでんぐでんの状態で、何を言っても駄目だったんだ。伝えたいことは紙に書いておいたから、それを読んでおいてくれっていって、出て行こうとしたけれど、腕をつかんで離さなかった。したら、次にうわごとのように話すんだ。会社でいじめられていることをね。それが、どうもどこかの風俗店みたいなんだ」
「詳しく教えてもらえないか」森光は手帳を用意して、筆記にそなえた。「風俗店というのは、性サービスのあるような、店? それとも、バーとかそういう飲みが専門のところだろうか」
「ナイトドレスや、スーツのホステス嬢がたくさん契約でいるような、クラブだったと思う。ちょっと、高級路線のところ。そこで雑用係みたいなことをしていたんじゃないかな。用心棒も兼ねた」
「用心棒? きみの兄さんは、そういうことができるのか?」
彼は手を振った。
「できるわけないよ。ひょろひょろだし、おれの下にもう一人弟がいるんだけど、そいつと相撲とって負けるぐらいだ。四つも年上なのにね」
「店名は?」
「わからん」と、彼は素になって首を振った。「はっきりさせようと思って、部屋の中見たことがあったけれど、すげえきたねえから、途中でやめたよ。でも、いいところっていうのは本当だと思う」
「それは、どうしてそういうんだい?」
「支給の服が、ちょっとカッコ良いやつなんだ。あれなんていうの? タキシードだっけ?こう、罰印のタイをつけて、肩幅がちょっと広いジャケットなのよ。それで、ベストがなんだか背中にベルト? とかついていて、身体が引き締まって見えるやつなんだ」
「そういうのは、部屋には持ち帰れないはずだが……?」
「ああ、そうか……」と、彼は額を手で押さえた。それから顔を上向けた。「兄貴のやつは、どんくさいところがあるからなあ。何度も酒とか浴びて汚して、クリーニング代とか弁償していたんじゃないかな? そういえばその他にも支給品が部屋にあったような……? 勤めているところは、きっと規律に厳しい所だったと思うんだ。いつだかに聞いたことがあった。ヘアセットや、身だしなみに規律があって、これに違反すると、罰金を取るところがあるって」
同業者である外部との折衝ばかりではなく、ホステス同士や、経営者との喧嘩で警察が出動することも珍しくはないというようなことを、その筋の捜査員から聞いたことがあった。こうした緊張が発生するのは、ホステスにたいし、闘争心を燃やさせるために、厳しい制約を課すことが原因だったりする。大前もそうした制約に巻き込まれるようなことがあったのかもしれなかった。
「いじめられていたというのは、これは?」
「誰にいじめられたのかはわからないけれど、同じ立場にいたホール係の人だと思うよ。社長とかだったりすると、その場で即クビにされているはずでしょ。これは、あれですよ、……誰にも気づかれないような内側の問題ってことなんですよ」
陰湿なやり口だったということだ。
大学の仲間に酒の席にさそわれて、彼が歓喜したというのは、そういったことへの鬱憤晴らしだったのかもしれない。
「ところで、話は飛ぶが、きみの兄さんほどの頭なら、家庭教師とかがいい収入なんじゃないかね?」
森光はあらたまって訊ねた。
「あいつは、……落ちたみたいだね」と、彼はしょうがないというような口振りで言った。「社長が言ったんだよ、それで稼げって。そうしたら、分かったって言って。大学始まる前から、すぐさまそういった教師になれるよう、いろいろ受けたんだよ。全部、駄目だったみたいだね。声が小さいとか、教え方がまどろっこしいとか、そういうこと言われて、兄貴もうらみがましく反芻していたよ。それでも、小さいところは受かって、そちらは六年間もの長いあいだずっと通い続けてたみたい。昼の部で」
「昼夜働いていたというわけか。大変だ」
苦学生をやらないかぎりには、彼は大学に留まることはできなかったから、働くほかに選択肢はなかった。それでも、借金は大きく、彼の生活を圧迫していた。
「夜のそれにしたって、かなり無理をして働いていたと思うよ。なにせ、興味がないことには手を出さない性格だからね。そういう興味がない世界に飛び込んでいったんだ。かなり、必死だったのは分かっていたことだけれど、おれらが追いつかない分も払おうって思っていたのは、ちょっと悔しいな。社長にはいえんよ、これは」
「きみのお父さん……社長さんは、プライドは高いほうか?」
森光は手帳を畳んで言った。
彼は真っ直ぐな目で見返していた。
「まちがいないね」
「だったら、言わない方がいい。きみと、私だけの秘密だ。いいね?」
彼は首肯した。
最後まで気前のいい性格をした男であった。
署に帰ってくるなり、森光宛の一本の電話がつながれた状態で、待っていた。不在中にかかってきたところを、ちょうど帰ってきたというタイミングであった。
相手は、本部の柳澤だった。
「先日持ち帰った資料を鑑識のほうに回したところ、一つの照合があったことを報告受けたので、その資料についてFAXするよ。例の、足跡だ。センター内のウィンドウ・ピリオド内にあったそれと、稲原の襲撃現場に残されていたもののひとつと一致した――」
事件がつながった。
森光は、沸き返る感情が胸のうちから満ちてくるのを感じ取った。おお、と思わず洩らしていた。
「それから、仁田の話なんだがな……」と、彼は、気持ちを引き締めよというように、間をおいてきた。「今のところ、能勢とのつながりは、皆無だ。直截つながる線はない……そう言いきっていいのではないか」
「そうか……分かった」
「それだけだ、じゃ――」
彼が切ろうとするその前に呼び掛けた。
大前についての進展を話していった。すると、彼は協力できることはすると、申し出てきた。それでやり取りはおわった。
森光は架台に受話器を置いたのち、FAX用紙を回収しに向かった。とどいていた。一致が正しいことを示す証明書のような、記述。鑑識係の署名まで書かれてあった。どうやら、自信があるらしかった。
濡れた路面でも滑りにくい仕様のグリップ力に長けた、一足。人気種で、本来ならば高価な一品であったが、復刻版のため興味のない者でも手に入れられるリーズナブルな値段となっている。二十五・五センチ。色はグレー。ミッドソールに、緑の線が三本入っているアディダス製。ヒールのロゴが一番の目印だ。
これが、大前逮捕、そして起訴後の有用な決め手となる――
4
決め手を控えたことが、捜査の進行を早めるというわけではなかった。大前の学生時代の素性についての洗い出しが始まった途端、他の事件と並行してやらなければいけない苦況に追いやられ、むしろ、解決から遠ざかっていくというような、そんな危機感が森光にのし掛かった。
家庭教師の方の仕事はすぐに割れた。かたや、夜街で働いていた仕事のほうはなかなかに判明しない。いわくつきの経歴を持った人間が転がり込むこともある世界だ。そういった記録を表沙汰にしたがらない、あるいは法の基準の範囲内で自己で封印するというようなことが、業者の間で通例となっている現状があった。
そこで、学生時代の大前が住んでいた所を割り出し、行動範囲を絞ることにした。拠点から半径三キロから五キロ内にあるクラブのいくつかをピックアップし、つぶさにその中身を精査していく。ひとつずつ、消去法で捜査線から外していく。どれも外れだった。用心棒役を兼ねさせるホール係をおいた店など、どこにもなかった。さがしてもさがしても、その先で掴むのは実体のない暗闇であった。
かくして成果があがらないまま二週間が過ぎ、稲原の事件が発生してから、一ヶ月を迎えることとなった。大前逮捕がすぐそこに見えていながらのこの膠着は、激しい苛立ちを呼んだのはいうまでもない。だが、そうした苛立ちでさえ、そのあいだに起こった事件の数々に忙殺されたというのが、正直なところであった。
「この案件については、そろそろ打ち切りだな」
成果の上がらない報告書を読み上げた後、係長が言った。
覚悟していたことだった。発生から、一ヶ月の膠着。失態は、自分の手間の悪さにこそある。
「あと少しで、真実にたどり着きます」
「あと少し、というのは?」
森光は考えた。
「一ヶ月内です」
彼は報告書をデスクに叩きつけた。
この仕打ちは当然だった。帳場がたった事件では、二週間以内の解決が目安だ。それが署内のサイクルの一基準となっている。捜査員の数はかぎられる。予算も同じくいえる。だからこそ、警察は常に、時間と闘わなければいけない悲しい宿命を背負っている。
しかしながら、言い訳をすれば、これは単数の捜査員が受け持って調査にあたっている事件であり、立った帳場のそれと比較することはできない。
「打ち切らなければいけない」と、彼は粛然と言った。「前々から、そのタイミングを計っていた。そろそろじゃないか、と思っていたが、お前の報告書を読んで、いま、それが固まった」
「この一件には、すでに申告のとおり、血液センターの盗犯事案の件がからんでいます。本部の共助もあります。打ち切りという選択は、少々勇み足ではないか、と」
本部のうしろだては大いに利用すべきだった。
警察というのは、立場を重んじる。だから、肩書きのない署員に幅を利かせている係長といえど、そういったことを取り上げればぐうの音もでない。
「一ヶ月じゃないと駄目なのか?」
「はい。余裕を持って一ヶ月は欲しいところです。どうか、お願いいたします」
森光は頭を下げて頼み込んだ。署員の誰かが見ているような視線を感じた。が、一向に構わなかった。
この事件を追い詰めていくのは、自分だ。
焦点は既に、しぼられているのだ。
大前稔人――
彼の素性調査さえ完成すれば、盗犯事案の一件もまとめて解決することができる。そして、詐称されようとしている佐高を守ることができる。
「この事件に執着する理由はなんだ?」
彼が聞いてきたところで、森光は顔を上げた。問い詰めるような顔が、その向こうにあった。ただの詰問ではない。彼は何かしらの事情を掴んだらしい。そうなると、内部の関係者がこそこそと、彼に告げ口したとみえる。どこにだって、鼠は存在する。情報を聞き回って、自分に有利に働くよう、常に工作に走り回っている。
「義侠心からです。この事件には、とてつもない悪意がひそんでいます。それをかかえ、実際に手に染めた人間たちを、どうして見過ごすことができましょう」
「御託はよせ」と、彼はこともなげにはねつけた。「お前が考えていることは分かっている。……佐高。この女だな」
彼は一枚の写真を取りだした。それは、佐高が写った隠し撮りの一枚だった。本格的な潜入捜査員が動いたということだ。つまり、森光の行動について不審に思われていたということになる。
「確かに、びっくりするほどの美人だ」と、彼は写真を感慨なくながめながら気のないことを言う。「お前ほどの男が惑わされるというようなことがあったって、おかしくはないな」
「惑わされてなどはいません」
「おれが、そう言っているんだ!」
一喝という一声だった。鼻に小皺をよせてかっと剥いたその目は、威嚇一直線だった。気魄に呑まれてしばらく何も言えない。
「ちゃんと、そちらについての中身も把握している」と、静かな口調で言う。「彼女は、そろそろ求婚される頃合いにきているんだってな。それについて、お前は介入しようとしている……まあ、そんなところだろうか」
「介入など……」
「詐称」と、彼は覆い被せるように、語気を強くして言った。
たっぷり森光を見つめた後、顔を横向けて、気のない素振りをみせた。
「お前はそういう風にみているようだ。だが、いまいちど冷静になって考えてもらいたい。その一件について、いったいどこに詐欺行為にあたる部分があるのか、を」
気付いてはいた。
血液型を詐称して婚姻関係になったところで、それが詐欺行為にあたるかというと、そこは難しいところだった。これが成り立ちうるには、まず実質な金銭的被害がなければいけなかったが、これは事実上なく、そのほかに彼女の財産目当てだったという事実関係も成立しない。
特殊な血液型を相手にのぞむという彼女の特異な気質は、法律において幾分は考慮される余地を残しているのだったが、そこから先のことは民事上の問題でしかない。あくまでも彼女自身の問題であって、そこに警察の介入の余地はどこにもないということだ。
「お前は、余計なことをしようとしている」
係長はぴしゃりと言った。
言い返せなかった。
その通りだったからだ。自分は必要のないことをしている……。いや、事件の焦点はそこではないはずだ。
稲原の血が、悪用されようとしている。
そこにこそ、瞠目すべきだった。持って生まれた血はその人自身のものだ。それについて、他の誰かに利用されるというようなことがあってはならない。
「稲原の肉体から持ち出された血液は、依然として不明のままです」
「なにがいいたい」
彼はデスクの上で鷹揚に構えた。
「それがはっきりとしない限りには、この問題は解決しません。ご存知のとおり、彼の血液は、稀血というやつです。ボンベイ型と呼ばれる……本国において、百万人に一人という、非常に数少ない希少な血液型なのです」
「だから?」
「利用する余地は、いくらでもあるということです。佐高への詐称結婚にかぎらず、です。これを使った重大犯罪……それが起これば、防げるべくして防げたものを、みすみす見過ごしてしまったということになりましょう。防犯のためにも、捜査の継続は必要なのです。本部も、それをのぞんでいます。もし、お許しくださるのでしたら、本部盗犯係の柳澤という男と、接触してみてください」
彼はしばらく黙り込んでいた。
頭の中で箇条書きに並べたことを、ひとつひとつ噛み砕いているといった慎重な顔つきだった。
「まあ、一ヶ月の猶予……許そう」
彼は折れて言った。
安堵感が、森光の中に拡がった。
「ありがとうございます」
「ただし――」と、彼は条件をつけてきた。「一ヶ月以降、まだ膠着が続くようなものなら、そのときは考えなければいけない。いいな?」
「はい」
受け容れなければいけなかった。
他の事件に忙殺されたとはいえ、大前個人の調査をするだけで二週間も費やしてしまった自分の手際の悪さには、罰が与えられて当然なのだ。
一ヶ月の猶予……。十分だ。この期間内に解決できるだろう。
それで、大前の全てを明らかにする。そして、二つの事件にあったもろもろの背景についてすべてをつまびらかにする。
執念を、見せてやる――
燃え上がるものが、森光の内側から沸き上がっていた。
5
ヒントは大前の弟である、勇作の証言だった。そのうちの〝クロスタイ〟という点に森光は注目していた。
しかしながら、ホール係にクロスタイをえらんで支給しているところは、ごく限られており、県内のクラブ全てを取り上げたところで、該当のクラブは存在しないという結果におわることとなった。
すでに、クラブ自体が存在しないのではないか、という考えが次に起こった。倒産したのではなかったとしたら、摘発されている可能性が高い。生活安全課に取り次いで、いまから六年前から今日までのあいだに摘発したクラブの情報をもとめた。
浮かび上がったのは、古代ギリシア語で心、魂を意味する〝PSHCHE〟。
風営法二条一項三号の規制目的は、男女間の過度な享楽的雰囲気を抑制することにあるのだったが、〝PSHCHE〟では許容範囲外にあたるダンスを何度も客にうながし、振る舞いの自由を認めたということだった。潜入捜査員がその実態を押さえた上で、直截逮捕にふみきった。逮捕者は、経営者を含む三名。その他は、参考人招致として聴取部屋に連行した。いまから三年前の、平成二十三年のことだった。クラブは業務停止の処置を受け、いまはもう跡形もない。
当時、勤めていた男の一人に森光は会うことにした。彼は、別のクラブにて下働きをしていた。眉のうすい、権勢利欲に従順そうな、煩悩をこりかためたような面相。湯谷というのが、彼の名前だ。
「あの店のことは、全部忘れたよ」
自分に害が及ぶことを怖れてなのか、彼は邪慳だった。取り掛かっている仕事をやめようとしない。まず、誤解を解く必要があった。
彼に対し、不利になるようなことは何もない、と伝えた上で、資料作成がてら手にした大前のポートレートを取り出す。
「そいつが、どうかしたのか?」
「いま、彼について集中して情報を求めていてね。どんなことでもいいから、教えてもらいたいんだ」
彼は頭を掻いて、大儀そうな素振りを見せた。
「なんて言ったらいいのか……」
「当時、きみは、彼に対し、暴力を振るっていたようだね。それも、一度二度ではなく、頻繁に、だ」
「まあ、……使えないやつだったからな、つい不満から手が出ちまったよ。あいつは、こっちの世界にいるべきようなやつではなかった」
おそらく、大前が医大生であり、苦学生であるという事情は、この男は何も知らないのだろう。いや、興味がないのかもしれなかった。自分本位でものを考え、行動する。それが、彼のすべてだ。
「彼は、各方面に借金をしていたということだった。それについて、見聞きしたことがあったかどうか?」
湯谷は、首を鳴らすようなかっこうで、頸動脈のあたりに手を当てた。記憶をたぐっている。
「あのクラブには、いろんな人が来ていた。金貸し業の人間も、いた」
「私が探しているのは、正規じゃないほうの人間だ」
「だとしたら、あの人かもしれないな」
「教えて欲しい。でなければ、何度もきみの前に現れることになる。きみとしても、私のような人間とは、今日限りの付き合いにしたいだろう?」
彼は、観念したようにその男の名前を言った。沼田博昭。〝Messiah〟のクラブオーナー兼、マネージャーではあるが、〝PSHCHE〟とは業務提携というようなつながりはない。あくまで、オーナーであるママが個人的に付き合いがあるというような程度の関係だ。単なる同業者ということでいい。
辞去するなり、署に直帰し、早速沼田の情報を求めた。三件の前科があった。いずれも暴力をふるったことによる、暴行傷害罪だ。彼にとって擦り傷程度といった務めを果たした後、娑婆に復帰している。現在でも中区尾上町にて、高級ホストクラブを展開していることが分かった。森光はすぐさま、その店を訪ねた。
鼻を突くような、フレグランスがにおう若い男が出入り口に立ちはだかった。
「まだ、営業時間じゃありませんぜ、お客さん」
彼の背中向こう、店内の模様は、贅を尽くしたような豪壮なありさまだった。高級レザーのラウンジソファに、大理石の列柱。内装のいちいちに、金細工の装飾が付き添っていた。ちょっとした、ヴェルサイユ〝鏡の間〟だ。
「沼田はいるか?」
森光は強く出た。これぐらいでいかないと、相手になめられて、挙げ句にやりこめられるのがオチだ。
「オーナーは普段はいないよ。会いたいなら、アポを取るのが、常識っていうもんでしょ?」
「アポなんかどうでもいい。それが必要のない、相手がきたと思ってくれ」
森光は手っ取り早く、身分証を示した。
彼の反論を思い切り奪い上げる形となった。逃げ去るように、控え室に飛び込んでいく。相談したのは先輩ホストだ。森光の正体を知るやいなや、彼の顔色が悪くなった。そしてその男もどこぞに向かって消えていく。
十五分は待った。
現れたのは、背の小さな男だった。上物のスーツさえ脱げば、稼ぎの悪い、下っ端サラリーマンといった風情の平凡極まった顔つきでしかない、特徴性のうすい男。ワイシャツの趣味は悪く、猪首な彼にはサイズもあっているとは言い難かった。
「おれが沼田だ」と、彼は森光に向かって堂々と言った。「神奈川県警が何の用だ? なにか、うちらがおいたをしましたっけ?」
のそのそ小股に歩いて、近場のソファに斜に座った。ホストがその手前に付き添うような形で待機する。
「あなたの会社のことではない、あなた自身のことだ」
「おれの?」
「大前稔人……こういう名前を聞いたことは?」
「しらねえな」
シラをきった。森光はかくべつ、どうということのない感情でいた。予想の範囲内ではあった。
「だったら、この写真を」
大前のポートレートを寄越す。
彼はあいだをおいて、引ったくるように写真を取り上げ、見た。すぐさま、右腕らしきホストにながされた。
「どうなんだ?」と、森光は迫った。「こちらは、すでにいくつかの情報をにぎっている。そっちがどのような対応をしても、突き返されないだけの、堅固で、確実な情報たちだ。つまり、われわれを甘く見ると、不愉快な思いをするのはそちらのほうだということだ。その点、しっかり認識した方がいい」
「知っている。金を貸したよ、大分前にな」
彼はひどく酔った男がときどき洩らすような吐息をついて、ぽつりと言った。
「貸したのは、十年前から八年前ぐらいだろう? 平成に換算すれば、十六年から、十八年のあいだだ」
「そんな細かいことは覚えていない。……それぐらいの頃に貸したのは、確かだ」
「いくら貸したんだ?」
「彼の方に、なぜ訊かん?」と、彼は身体を立て直して言った。「そういうのは、おれの方に訊くようなことでもないはずだろう? だいたい、こんなところに単身で乗り込んできているあたり、おかしいよ。勇気があるとかそういう問題ではない。なにか、いわくつきの事情があるんだな?」
「それはどうでもいいことだ」と、森光は突っぱねた。「質問にだけ答えればそれでいい」
彼は肩をそびやかした。
横手のホストは、森光を睨んでいる。侮辱するな、心労を掛けるようなことを言うな、彼の顔はそう言っている。
「ざっと、八百万は貸したかな?」
それが、私立医大を卒業するまでに大前家が支払えなかった金額だ。実費四千万だとしていいのなら、三千二百万まではなんとか自力でどうにかできたのだ。
「その八百万はどうなった?」
「もう、済んだ話ですよ。借金はなくなっています」
「いつ、解消した?」
彼は黙っていた。
駆け引きに出たというよりも、森光をどのように追い返そうか考え出しているといった案配だ。
「こっちの調べでは、二年前に支払われたのではないかと、見ているんだがな」
「それについて、根拠はあるので?」
大前の裏で起こっている諸般の事情を話すわけにはいかなかった。森光のかかえている状況を把握できなかった彼は、捜査の程度が浅薄なものであると受けとめたようだった。立ち上がり、用はないといった素っ気なさで立ち去ろうとした。
「どこにいくんだ。話はおわっていないぞ」森光は呼び止めた。「最初に言ったはずだ、こちらはそれなりの準備をして、やってきているのだ、と」
彼は森光を振り返った。ぎょろりとした眼光を飛ばす。
「根拠がない話には付き合えないんですよ」
「根拠がないわけではない。こみいった事情がある。それだけのことだ。お前さんぐらいなら、その界隈の都合のことぐらい承知しているだろう?」
彼はもう一度、ラウンジソファに腰掛けた。
「二年前かどうかはわからんが、帳消ししてもらったのはそれぐらいだったと思う」
「それまでお前さんと付き合いがあったということは、飼い殺しにしていた……そういうことだな」
「飼い殺しだなんて人聞きの悪い」と、彼は辟易して言った。すこし苦笑いが浮かんでいる。「おれは、あいつにとってよかれという手段を与えてやったんだよ。金を貸した上に、猶予をもうけさせてやった。そういうことだ。出資法にだって引っ掛からない」
自ら出資法だなんて言葉を口にするだなんて、いかにも自分の首を絞めるような行為だ。これで、彼が関係していることが、ほぼ確実になったようなものだった。
「猶予後、どうなったかが、問題だ。お前さんはきっと、肝入りの債権回収業者と手を組んで、彼から搾り取ったんだろう? 医者になってくれた大前はかっこうの金蔓だ。個人を狙ったのは、ヤクザたちの食い扶持の範疇外にあることを知っていたからだ。たいてい、企業ヤクザというのは、社長という肩書きを持った人間を標的とする。それ以外のおこぼれをひろっているあたり、ハイエナとやっていることは変わらない」
彼の機嫌がどんどん悪くなっていくのが分かった。
「債権回収業者とかいったがな、そんなものとバッティングしている事実なんてない。適当なことをいうのは、よしてもらいたいもんだな」
捜査の焦点は、債権回収業者の特定だ。
それが判明次第、この男がむさぼった暴利の内訳をあばける。注意しなければいけなかった。たいがいがそうであるように、債権回収業者は、ごろつきという名の、アルバイトの寄せあつめだ。目的だけを果たして、時期がきたら即解散という形を取るため、後に何も残さないケースが多い。
彼もまた、暴かれない自信があるにちがいなかった。
「しかし、うまいもんだな」と、森光は彼にあわせず、牽制球を投げる。「大前が医者になることを当て込んで、カードを控えさせておくだなんてな。ある意味、闇金融の投資事業というようなものだ」
この男が、大前を搾取したのはほぼまちがいない。だからこそ、もっと彼に本音を吐かせる必要があった。
「挑発か、それにはのらんよ」
彼はふん、と鼻を鳴らして言った。だが、少なからず動揺は、あるようだった。落ち着きのない挙動を繰り返し、たえず何かを考えているようだった。
「闇金業者よばわりされた、このうらみは忘れないわ」と、彼は森光を見すえて言った。「というより、債権回収業者というやつがどのような手口で金を回収しているのか、あんた分かっているのかね?」
「こっちは、それを取り締まる側だ。あまく見んで欲しいな。たとえば、約束手形。例えば抵当……、不渡り手形回収に空手形の発行、……担保をたてにした占拠、直截的な恐喝行為にはじまって、はては税金対策としてペーパーカンパニーという仕上げまで用意する。
言ってみれば、なんでもござれ、だ。大事なのは、相手に法律的対抗措置があるということを、気づかせないということか」
闇金融に手を付けることは悪いことなのだという後ろめたさから、警察や法的手段にうったえようとすることを退ける者は少なくなかった。限定したところでものを考えていることから、視野を広くできない分、さらに闇金業者に手込めにされるという魔のパターンがその先に控えていたりする。
「けっこう。そんな怖ろしい輩と、どうしておれがつながるというんだ。おれは、あの男にとって、足長おじさんだよ」
「まとめて返した金は、なんぼだったんだ?」
森光は本筋に切り込んだ。彼はしばらく黙っていた。
「貸した分だけだよ」
「おそらく、支払ったのは借金返済ではなく、利子完納でもなく、手切れ金だったのではないか?」
付きまとわれることが精神的につらくなって、破綻したように相手の理不尽な要求に応じてしまうというようなケースはそう珍しくはなかった。この男は、きっとそうした人の弱みを知悉しているはずだった。
「そういうのは、ないな」と、彼は首を振りながら言った。「なぜ、足長おじさんであるこのおれが、縁切りなんてされなきゃいけないんだ」
調べるしか手段はない。
Messiahの会計外の収入事情を押さえれば、即刻判明する。もし、記載の事実がなければ本部二課に回して脱税の捜査をしてもらわなければいけない。
この男が大前を飼い殺しにしていた期間は、四年間だ。小遣い稼ぎに彼を利用していたのか、それとも本気で搾取し、彼を完膚なきまでに追い詰める気でいたのか、そのあたりの事情は、これからはっきりとする。どちらに振れるかで、この男の人間としての本性の本当のところを知ることになろう。
「足長おじさんを名乗るのは、けっこうだ」と、森光は言った。「健全な思いで彼の人生を応援しようと思っていたというのならばだがな」
「もちろん、健全そのものだ」
彼は剛胆に、言った。嘘をついている気配がないところから、この男はどこまでも図太い精神の持ち主のはずだった。心臓に毛が生えているという表現では飽き足りない、鋼でこしらえられているというべきだ。
「いまでも、あの子のことを案じている。なにかあれば、応援してやるつもりでいる……」
目を細めて言った彼の顔には、親心を滲ませた色合いは、どこにもなかった。
6
しなる釣り竿にかかっている魚は、大物のはずだった。
釣り上げれば、大捕物となる。
沼田博昭の収入事情から投資法違反、別名義で開かれていた会社についての貸金業規制法違反の有無まで検査し、さらには脱税の有無まで見ていく捜査は多くの人員を投入する大掛かりなものになることが、避けられない見通しとなっていた。
係長はおろか課長までがゴーサインを出したのは、Messiahを監視している本部二課長の押しが入った結果だ。沼田博昭はくさい男で、その内情をいつかに掘り下げてやろうとかねてより算段していた。その好機が巡ってきたのを見逃さず、彼は一気に攻勢を掛けたというわけである。
森光のほうの捜査としては、大前が〝PSHCHE〟に勤めていた実態を探るべく、登用記録簿を探っていたのだったが、あるはずの記録が改竄されてその実態がないことが分かった。これは、贈与税などの税金対策として従業員の数を操作したことによる。摘発時にこれが発覚しなかったのは、この対策をやったのがそれ以前の行為だったためだ。
やっかいなことだった。
大前が働いていたとする実態がないということは、クラブの動きを監視する生活安全課のほうに、捜査の取り分を譲ることになる。
署内にて行き場なく、悩んでいる森光の携帯が鳴った。相手は、見慣れない番号だった。
「もしもし、森光です」
出ると、相手は名乗った。おどろくべき人物だった。あの、能勢だったのだ。そういえば、名刺を渡していたのだった。
「どうかされたのです?」
森光は即刻ながらも、息が切れないように配慮しつつ、人のいないパブリックスペースに移動した。
「実は、あなたがおっしゃられていた、とある事件についての事件の中身をしっかり押さえたのですよ。わたしは、一応それなりの社会的立場に就いている、人間だと自覚しているつもりだ。警察にだって、取りあおうと思えば、それができるバイパスがある」
彼はそれから、ゆっくりと息をついた。
「中身を知って驚きました。まさか、わたしと同じ血液型の人間が事件にからんでいただなんてね。どうりで、わたしのところにこそこそやってくるはずだ。はっきり言えばよかったのです。捜査線に入っている、あなたこそが疑わしいんだとね」
何となく声色が、この間会った時のそれとは異なっているように感じられた。それは、彼の心の状態がちがうからだろう。
まさか、佐高と進展があったというのか……?
だとすれば、由々しきことだ。自分の捜査が間に合わなかったことになる。二週間ほどの捜査膠着期間があったとはいえ、あれだけ逼迫した思いでやってきたことの苦労のすべてが不意になることを意味する。
「あくまで、参考にと思って会っただけですよ」
森光は平静をよそおって言った。
四方山話が始まった。血液型について彼はやはり、自分はまちがいなくボンベイ型なのだと主張する。それが自分を構成している中心なのだ、とまで彼は口にする。なぜ、このようなことをわざわざ自分に言わなければいけないのか、という疑念が森光の胸に起こった。
「――それでなんですが、今日電話をしましたのは、そういうことじゃありません」と、彼はところ変わってそう切り出してきた。
「出張の件だろうか? それならば――」
いいえ、と彼は遮ってきた。
「そういうこともありましょうが、それではありません。もっと別のことです。……公務中のあなたの立場を思えば本当に心苦しいものがありますが、お伝えしたいのは、あくまで私事なんですよ」
やはり、進展があったのだ。
森光は次に宣告される言葉に、一種の恐怖心を感じた。どきどき、と胸がいやな具合に高鳴りだす。
「出て行く前に、プロポーズを決行しようと思いまして……その報告ですよ。いえ、まちがえました。プロポーズしてきたんです。先程に――」
森光の推理どおり、彼が主犯であるというのだったら、これは一種の挑発のようなものだ。しかも、彼自身そのことを自覚しているというのなら、なおのことたちが悪い挑発だ。
「なぜ、……それを私に?」
森光は相手の気配を探りながら訊ねた。
すました耳には、彼の僅かな吐息と、雑音が入り込んでいる。
「捜査中でしょう。まだ、われらは共に捜査線上の中に入っているのでしょう? それも、どまんなかの辺りに。だから、差し支えがないよう、一応報告しておこうと思いましてね。先程にもあなたが指摘されたように、出張の件もふくめて同じです」
「ご丁寧にどうも、すいません」
森光は律義に応えた。内心は、暗い気分で沈んでいた。だが、この敗北は認めなければいけなかった。
「そのようなことは配慮なさらなくてもけっこうです。……いえ、一応、告げておいたほうがいいのでしょうか? おめでとうございます、と――」
彼はそれを導き出したくて、電話を掛けてきたというのだろうか。どうも、森光にはそうとしか思えなくなってきた。
電話の向こうから笑い声が聞こえてきた。
「……いや、失敬。おめでとうございます、ではありませんよ、まだ。こちらがプロポーズしただけのことであって、彼女からはまだ返事は受け取っていません。彼女のことだから、申し込めば、その時点ですぐにうんと言うんじゃないかと思って、ね。だから、あえて選択権を与えるために、返事は保留にしておいてくれ、とわたしからそう申し出たんだ。後日、結果を出して欲しい、と」
「なぜ、選択権なんかを?」
「言ったはずでしょう、わたしは彼女の前で、ひとりの男でいたい、と。これまでは失われた、満ち足りない人生だったのです。わたしを男としてみてくれるというような、幸福を恵んでくれる女性は、いませんでした。それがいま、わたしの前に、現れている。なんだか実感がないんですよ。まやかしかな、とも思うときがある。だから、確かなものを掴むそのために、そして、わたしたちの結びつきが、本物であるそのために、保留にしたわけです。選択権の猶予は、彼女にとって、悪くないことのはずです」
彼は長々と息をついた。何となく、電話の向こうにいる彼の姿が想像できるような気がした。
「いつだかに言いましたよね、彼女は本当の意味で私を愛していないと。それは、今もそうなんです。彼女はある意味、わたしという記号を愛そうしているだけ……」
彼は数拍黙ってから、気持を取り直すように息を吸い込んだ。
「それであっても構わないので、せめて猶予をもうけて、念入りに考えてもらえれば、幾分わたしを愛することをもう一度見つめ直してくれるだろうと考えたわけだ。そのための猶予でもある。本当は、いろいろと不安なのかもな」
じっくり悩んで、彼女なりの答えをだせばいい、と彼は静かな口調で語った。
手渡されたエンゲージリングに、Oh型の血液型証明書……。さらに一歩踏み込めば、一方だけが書き綴りおわった、婚姻届けもあったかもしれない。
佐高にしてみれば、最強の組み合わせとみてもいいのかもしれなかった。特に、稀血の血液型証明書は何より大きいものがある。これを受けて、ノーということはないはずだ。
いずれにせよ、保留期間中は、思い思いに過ごすことになる。
それは、二人にとって、最後の他人同士としての煩悶だ。
「彼女さんは、きっと、いい返事を出してくれますよ……」
複雑な胸中を抑制して、森光は何とか言った。
彼はありがとう、と素な返事を返した。純粋に、うれしい気持をもったのだろう。それを受けとめられる、幸せにみちている。
「それで、保留期間はいつまでに?」
「出張に出かけていく、その前が期限です……一応。しかし、具体的にいつまでというのを決めているわけではありません。彼女がその決心をして動こうとなったら、すぐさまわたしも応じますよ。研究一念の人生ですから、さすがに、顕微鏡を投げ放してはせ参じるというわけにはいかないが、それに見合うだけのことはするかもしれない。事実、わたしはもう、いても立ってもいられない、そういう状況にあるんだ」
そこから先は、聞くに堪えない延々としたのろけ話となった。森光は流す程度に相槌を返しつづける。
小十分もすると、彼は時間を気にして、切った。謝意という礼節を忘れるほどのあわてぶりだった。
切った後も余韻は残った。
複雑な、余韻だ。
温かなものなのか、それとも毒々しいものなのか、どっちともつかないものだ。どちらにせよ、長く胸のうちに留まって欲しくないものであることは確かだった。窓の外は、侘びしい風景が拡がっていた。代替えが完成して、空き家となった警察官用旧官舎が、置き去りにされて一年にならないというのに、なんだか色を失ってすでに廃墟化していた。土色の壁肌に風にざわめく街路樹が虚しい影を落としている。
森光は、警務課に連絡を入れ、港北区役所の戸籍係から情報について、協力してもらうよう要請の旨を申し入れた。能勢と佐高の婚姻届けの受理。それについて、いち早く情報を得る準備を整える必要があった。後手では遅いのだ。
それから、佐高本人につなぎ、会って欲しいと告げた。
彼女は大学内にいた。
いつでも来て構わないということだった。
森光は、署外に飛び出した。
向かうは東京だった。身体を直上から押さえつけてくるような、熱波が待っていた。
7
店内はすべてが反射だけで、構成されていた。
ピーター・ラビットの小さな額絵が飾られた、洒落た装飾性にみちた実に華やいだところだったのだが、すべてが日陰に没して、全体が単色模様になっていた。
「これです」
見せられたのは、ケースに入った婚約指輪だった。キネティックアートのような流線型のデザインリングの中心に、かなり粒の大きなダイヤが埋められていた。セレブリティー溢れる優雅な、煌めき。0・7カラットのブシュロン。暗い店内を照らす、一粒の恒星だった。
それを大事そうに見つめる彼女は、切ないほどの物憂い影を彎曲するまつげに背負い込んでいた。
「大学内に、それを持ち込むだなんて、あなたはよっぽどの酔狂だ」
森光は非難して言った。
「もちろん、取りだしてみたりとかそういうことはしていませんよ。常識外れであるということも分かっています。失うべきものではないでしょう。でも、なぜか、手放せないのです。それに、わたしに与えられた時間は少ないのです。だから、ちょっとした時間でも、あの人のことを考えられるよう、わたしはあえて、戒めのつもりでこれを持ち歩いているんです。無くしたり、盗まれたりしたらそれまでのことです。わたしには、それを持っている権利と、運命がなかったということ」
「運命に身を任せているとか、そういうことじゃないだろうね」
「そんなようなものでしょうか」彼女は、浮ついた笑顔を見せつつ言った。「いま、こうしてわたしが立たされているところも、運命的な導きのはずなの」
森光は何も言えなくなった。
彼女は依然として、特殊な夢想にかられている。彼女自身の分別がどのラインにあるのかも、推し量れなかった。こういったことは、気分によって左右されるということもあろう、と森光は深く考えることを差し止めた。
「刑事さんは、運命というものを信じていらっしゃいますか? そう訊くと、まるで、なんだか面倒くさい女のように思われましょうが……でも、訊いてみたいんです」
「面倒くさいだなんて、思ってない。今日は、ある意味大事な接見だから」と、森光は、律義に言った。「運命についての回答なんだが……これは、難しい。自分は、それについてまったく、良い思いをしたことがないから、そういうのが存在したとしても、やはり信じる手掛かりが自分にないというべきか。仕事について言えば、偶然が問題を解決したことはない。一度も、だよ。だから、ある意味、シビアなまでに現実派でいなければいけないように思える」
「夢がないんですね」
彼女は吐息とともに言って、ケースを閉じた。赤茶色がまぶしいバーキンの中にそっと差し入れる。代わりに取りだしたのは、一枚の用紙だ。
それこそが、森光の目的だった。
ボンベイ型の血液型証明書……。
「もっと、運命は信じて良いはずでしょう。わたしは、運命信者ではないけれど、でも、信じている。自分のところに、巡って欲しいことを引き寄せるためには、祈りのような、思う力も必要なんです。この祈りというものは、単純な感情では成立しないものです。心を磨いて、綺麗に整えて、そうして心の底からやっとすくいあげるという、強い感情でもって、意思でもって、ようやく力が生み出されるものなんです」
あ、すみません、と言って、彼女は我に返った。
「中等学校と、高等学校は、ミッション系の学校に通っていたんです。ですから、私の心の根元の部分に、そういうのがあるわけです」
「なるほど、そういうことか」
気になってならない血液型証明書を注視していると、彼女はどうぞ、と差し出してきた。
「いいんですか?」
彼女は愛想よくうなずいた。
「もちろんです」
用紙の中身をつぶさに見た。
医療法人社団、仁慶会総合病院というつづりが最初にあった。これは、大前が所属している病院ではない。出向先の機関にも該当しない、まったく外部の病院であった。検体検査とよばれるなかで、いくつかあるうちの血液検査だけを受けた。
――あなたの血液型は、ボンベイ型(Oh型)です。
シンプルにつづられた、機械字のその表記が、ひどく毒々しいものに見えていた。
この結果は、当然といえば、当然だった。
稲原の血液さえ使えば、わけはないのだ。今日という日まで冷凍しつづけてきたそれを取り出し、この病院に検体血液として提出した。
事情あり、ということで申し込めば、病院内での採血じゃなくても受け付けてくれるのかもしれない。能勢ほどの男ならば、そういった病院を見つけ出すのはそう難しいことではなかったことだろう。いくつかのバイパスを持っている男なのだから。
無言で彼女に返すと、
「どうでしたんですか」
と、心配そうに問われた。
「どうもない。ボンベイ型だったよ。この病院が確かな答えを出してくれた。ただ、それだけのことだ。きみこそ、どう思っているんだ。稀血だ。きみの肉体に流れているそれよりもずっと、稀少な、稀血の証明書だ」
「うれしいですね。これを見ていると、なんだか、沸き上がるものがあるんです」と、彼女は心持ち頬を紅潮させて言う。「あの人の言葉をちゃんと信じていましたけれど、でも、こういうのをちゃんと自分の目で見られるだなんて、やっぱりちがうものがある。といいますより、Rhマイナスではない、稀血の検査結果表……これを目にすることがあるだなんて、ちょっと信じられない気持なんです」
「なにをおっしゃる」と、森光は語気を鋭くして言った。「あなたは、その人と結婚すれば、そういうのが当たり前になるんですよ」
「そうですね」
彼女ははにかんだのちに目を伏せて、自分に納得するようにうなずきを繰り返した。
「それで、どうするのです?」
しばらくしたのちに、森光は問うた。一番に緊張する質問のはずだったが、しかし心は苛立っていた。なんだか、事件が自分を素通りして進行していくような気がしてならないのだ。
「まだ、とくに決めていません」
彼女は検査結果表をたたんで言った。幼さのある肌色は、なんだかとてもじゃないが、結婚に悩む子女のそれではなかった。一種の残酷さのようなものがあるのだ。未成熟な部分があるほど、彼女が進んで行こうとしている未来が、どうも間違っていることのように思えてならない。
「しかし、あなたはもう心で決めているように思える」
あとは、弾みだけだ。
それは、ちょっとした些細なことで、彼女の中に宿る。
「……どうでしょう?」と、彼女は自分に嘘をつくように、はぐらかした。「わたしは、まだ自分に何も訊いていませんし、答えを求めていません。考える事が、なんだか億劫なんです。もっと、真剣にそうしなくっちゃ、とは思うのですけれど、そちらに気持が向かないんです」
「友達には?」
かぶりを振った。
「言ってません」
「相談できないとか、そういうことなのだろうか」
いいえ、としとやかな声が彼女のやわらかそうな口許からするりと抜け出てくる。
「いい友達を持っているつもりです。なんでも、相談できます。でも、この問題だけは、彼女たちに話すと、自分から切り離されるようで……怖かったりするのです」それから彼女は悩ましい息をついた。「わたしは、何だか自分で自分をうまくコントロールできなくなっているみたい……」
「なにはともあれ、最後の決断は、あなたの中でしっかりと構築した意思で決めてもらいたい。私には干渉する理由や、権利は持ち合わせておりません。すべては、あなたが決めることなのです。どのような選択をしても、私はあなたを支持します」
彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます。刑事さん」
フランス窓の外は、古い映画フィルムのようにモノクロームの幕が掛かっていた。まだ、本格的ではない中途半端な陽炎が全体に瑞々しさを注ぎ込んでいる。行き交う若い子女たちの太陽を吸った白地の綿布が、淡いシルエットを残して日向色にかがやいていた。
「すまないがね、もう一度、検査表を見せてもらえないか」
森光ははっと思いだして、言った。
「ええ、どうぞ」
彼女はデータ表をもう一度森光に手渡してきた。筆記の用意をして、彼女に断りを入れてからその中身の一部を写した。
担当者、瀬川秀哉。
検査科の勤務医だ。
この男が、すべての鍵を握っている。