プラチナ・ブラッド2
第二章
1
灰色の建造物群のオアシスと言った深緑のさなかに、歴史ある風格ただよわせる、その学舎はあった。尖塔をともなった講堂が横手にあって、若々しく華やいだ、それでいて気取りのないファッションスタイルの学生が出入りしている。暑熱がうっすら空気にただよう曖昧な時期だったが、皆、それを先取りする白基調の薄地スタイルであった。
キャンパスの向こうから現れた佐高も、その例外ではなかった。だが、どことなく神奈川の娘らしき、雰囲気を色濃く残しているところがあった。ピンストライプのワンピース。娘らしくひきしまった胸と、足元が若さを象徴している。華奢な腰には、エナメルの細いベルトが垂らす具合にまかれ、アクセントになっている。アクセサリーなどはどこにも見当たらず、手元なんかは健康的な腕をさらしていた。
ふたりは挨拶もそこそこに、構外に移動した。事前に母親にアポを取った上での面会だから、これは親公認のものであるといってよかった。
入店したのは、ボックス席がいくつか用意された、スターバックスである。バリスタの資格所持を意味する黒エプロンの店員の誘導により、壁際の席に向かい合って座った。彼女は、シンプルに、パンケーキにコーヒーベースのフラペチーノを頼んだ。森光はなんでもよかったので、メニューのなかで最初に目についたカフェ・アメリカーノにした。
メニューを取った店員がさっていくと、二人は見つめ合う形となった。森光は、出会ったその瞬間から感じていたが、彼女は実に、美しい女性だと分かった。仁田が激賞し、会ってみろとうながしてくることがよく分かる。そう持ち掛けられて、それが真であったことは実は少ないのだったが、今回はまさに真だった。メリハリの利いた上品な面相。支配的な黒の目はそれだけで彼女の世界ができあがっていた。病的に肌が白く、その事実が彼女の存在をいっそう幻想的にしたてあげている。これは、血液と関係があるのだろうか、と、どうしても森光はそう思ってしまう。
「今日は、すまなかったね」
森光が口を切った。彼女は待っていたように、薄く笑んだ。屈託のない、それでいて隙のない微笑みだ。
「いいえ、ずいぶんと以前から求められていましたのに、会うのが今日になってしまって、わたしのほうこそ、申し訳ありませんでした」
「堅苦しいことはなしにしよう。本題だよ。……今日は、きみ自身のことについて、知りたいと思っていてね」
「はい、なんでもお答えしたいと思います」
「Rhマイナス繋がろう会。これが、私が追っているものだ。きみは、これに加入している。そして、会員として会に貢献しているということだった」
「貢献だなんて……そんな」と、一先ず謙遜を口にする。「ささやかなことしか、できていませんですから。わたしは、単なるいち会員にすぎません。もっと、会のためにやって下さっているお方がいらっしゃいます」
「会に、所属しようと思ったのは、センター職員の紹介だったようだね」
「正確にいえば、センターの職員さんではありません。何度も出入りしていますから、そのように思えるというだけで、実際はちがうところに所属しているお方です」
「その人の名前は、いえます?」
彼女はその名前を口にした。大前稔人。県立医科大の勤務医で、各方面に出向している男。例の盗犯の事案の際、確認したセンターに出入りしている名簿の中に、この男の名前があったはずだ。
「彼がきみに、会に入った方がいいと薦めてきたんだね?」
「はい、そうです」
「血液型がRhマイナスであることについて、きみはどのように思っている?」
「誇らしく思っています。なんの取り柄もない自分ですが、そんな自分にもしっかりと神様がさずけてくれるものがあったんだって、わたしは勝手ながらそのように受けとめています」
急に、賢さの滲んだ穏やかなその目に、意欲的な色を浮かべた。ストイックに引き締まっていたはずの口許が、いつしか緩んでいる。が、気品は維持されていた。
「なんの取り柄もないだなんて、謙遜を。きみは、立派な大学に通っているし、そして立派に生きている、何より旺盛に活動している、ということではないか。そういったことは、強い意思と、そして積極性がないとできない。何かを達成しようとする、強い意思と積極性というのは、つまるところ、自分に自信がなければ持つことはできないはずなんだよ」
「特に、自分に自信なんてありません」と、彼女は森光の賛美をうち消すように言った。「わたしのなかにあるのは、特殊な血だけです。これだけなんですよ」
なにかしら、特殊な妄想にとらわれているというような感触を受け止めた。これは、仁田がそうであったことと、同じようなものだと見ていいのだろう。
「血、について、きみはこだわりがあるらしいね。それは、どうしてだろう?」
「これといった理由はないんです。あえていうのでしたら、美意識をかたむけられる対象というべきでしょうか。そうです、わたしちょっと、変わっているんです。自分でもそのことは自覚していますけれど、でも、自分に嘘をつくことはできません。わたしは、特殊な血が好きなのです。それもただの好きではありません。ずっと強い思いが入った好きなんです」
――それは、彼女に会ってみれば分かりますよ。実際、話を聞いてみて下さいよ
仁田が、あえて答えを言わなかったことの意味が何となく見えてきた。特異性。彼女は、すこし風変わりな気質を持っている娘のようだった。
彼女の頬は、熱を発しだしたらしく、すこし赤味を帯びていた。雰囲気は変わっていなかったが、これで興奮状態ということでいいのだろう。
「最初は、きっと自分を高めるために、自分の血液型に興奮していたのでしょうが、それが長く続くうちに、わたしのなかにそういった癖が定着してしまったようです。それは、すでにわたしの感覚の中に取り込まれていますから、どうにもならないのです。どのようにしてそうなっていったのかという具体的なメカニズムの程はわかりませんし、わたし自身、興味もありません」
「美意識をかたむけられる対象であるというのは、興味深い。だが、血液型というのは、曖昧なものだ。その人を見て、さて何型かなんていうのは、表面上分からないものだ。つまり、きみがある人の特殊な血液型が好きとなった場合、それは、後づけで好きになるということになってくる」
「そうですね、後づけです。血液型に一番関心があるわけですから、どうしてもそうなってしまいます」
「それで、話は飛ぶが、きみは今、交際というか、婚約するところまでいっている相手がいるそうだね、社会人の男と」
ちょうどその時、ウェイターがやってきて、メニューをおいていった。同時に笑顔が振りまかれたのだったが、それを気に掛ける余裕など二人にはなかった。
「本題は、それだったんですか?」
彼女は言い、フラペチーノを微量口にした。
「まあ、そうだ。そう受けとめてもらってけっこうだ」
焦点はあくまで別のところにあったのだったが、そこは機転を利かさなければいけなかった。
「婚約はしていません。まだ、純粋な交際関係です。ですが、それに近いようなことを、迫られている実情があるのは本当です。もしかしたら、……直に、正式な申し込みがあるのかもしれません」
「その相手のお方というのは……?」
「能勢忠利さんです。理化学研究所で、細胞学の研究員をされているお方です。いわゆる、学者さんなんです」
「その人は、稀血の所持者ということだったが……?」
「はい、そうです」彼女が一番に微笑んだ。「ボンベイ型という、稀血I群に属する、血の所持者です」
森光はしばらく何も言えなかった。
ボンベイ型という名詞がここで表れるだなんて、明らかにおかしい。百万人に一人という稀血中の稀血がどうして、自分の前に何度も現れるというのか。森光は強い違和感を感じていたが、それを無理に抑制した。いまここではそのことを、考える段階にはなかった。
「その人との、出会いというのはどのように? これまた、センターの大前を通して、じゃないだろうね」
「Rhマイナス繋がろう会ですよ。活動中の出向先で、能勢さんと出会いました。すると、あのお方もそういう血をもっているのだと明かされまして、そこから発展していきました」
延々と、彼女の説明を聞いているうちに、どうやら能勢の方が彼女に熱を上げているというように感じられた。それはそうだろう。彼女ほどの美貌の持ち主を目の辺りにして、何の感慨もわかないはずがなかった。まして、特殊な血液型をもっていることが有利に働いて、優先的に慕ってもらえるという条件が整っているなら、気持が前向きになるはずだった。
「彼は、細胞学の研究者ということだったが」
「そうですね。……ですが、何を具体的に研究しているかは分かりませんし、詳しいことは聞いていません。だって、教えてくれないんですから、これはどうしようもないことなのです。お付き合いをしている間柄なのに……と、おかしくお思いになるでしょう。でも、これは事実なんです。あの人は、わたしにとってただの研究者というのにすぎません。それ以上でも、それ以下でもないのです。わたしとしても、そういった面で何かを求めているというわけではありませんので、特にこれといって興味もないんです」
彼女が相手の男に求める条件は、特殊な〝血〟という条件だけだ。だから、職業の中身や、素性は二の次、三の次にすぎない。そのことはよく分かった。
ここで、注意しなければいけないことが一つだけあった。それは、詐称である。
血液型というものは、どうあっても目に見えて分かるものではない。故に、後づけでその事実が分かる。そのほとんどが、自己申告であるという事実を踏まえれば、彼女の場合、詐称行為が行われる余地が存在することになるのだった。
「これは、あるいは愚問かもしれない。が、大事なことだと思うから、あえて訊く。もし、だよ。その人が、ボンベイ型ではなかったら、どうする?」
「わたしの相手に求める条件は、わたしと同等か、それ以上の稀血の所持者です。それに適わないことになるというだけのことでしょう」
彼女の美意識の対象外になる。それは、花婿候補から外れるということでいいはずだ。そうなると、いま二人を結びつけている根拠は、〝血〟、たったそれだけのこととなる。
「その彼がボンベイであるという証拠は確認している?」
彼女は首を振った。
「確認していません」
なぜかしら、不安をうかべるどころか、落ち着きを保ったままでいる。元来からして、物怖じのしない、しとやかな気質の持ち主らしい。これは、育ちがいい事の表れとみていいだろう。
「だったら――」
「信頼していますから」と、彼女は森光の言葉をさえぎった。それでも、森光はあきらめなかった。彼女がどのような美意識を持ち、どのような相手を好きになろうが一向に構わなかったが、しかし偽善がふくまれていて、彼女がだまされている可能性があるというのだったら、彼女の目を醒まさなければいけなかった。
「どうして、とおっしゃるのでしょう?」と、彼女は穏やかな口調で言った。「はじめてお会いしたとき、あの人の口からすぐに、その言葉が出されたからです。そして、人生において特殊な血液型に関する苦労を積んできたことを明かしてきました。その苦労というのは、自分の血に対する恐れや不安からくるものが大半だったようです。しかし、そういったことは特殊な血への誇りということでカバーしてきたということでした。それは、わたしの人生とそして考えてきたことと、同じものだったのです。聞いているうちに、確信しました。ああ、この人は間違いなく本物だって……」
稀血の主ならではの、人知れず悩んできたこと、誇りにしてきたことのもろもろが重なり合ったことで、彼女は彼を信頼するに至ったようだ。だが、そういったことも、嘘で何とかなるのではないか。事前に情報を得ているだけで、対応できることなのだ。それに、能勢は研究者だ。環境的にその手のことについて知見していることがたくさんあるはずだ。それを紐解いて瞬時に彼女の心を自分に引き寄せた――そういうこともできたはずだ。
森光は、やはり彼女は危ういところにいるのだという認識を崩さなかった。
「とにかく、その人に会ってみようと思う」と、森光は申し出た。強硬手段だ。もはや、そうするしかない。
「本気ですか?」
彼女はおどろいていた。
「本気ですよ。興味がわいたことには、すぐさま取りかかるのが、自分のやり口でね。今回もそうさせてもらう」
「もしかして、彼が目的だったとかそういうことなのでしょうか?」
「目的は、仁田さんの心証だよ。彼についての情報をあつめておきたいと思っていたんだ」
手の内の一部を明かしたのは、能勢について掛けた疑いについて、少しだけやわらいでおこうと思ったからだ。
「あの人は、律義なお方です。人から頼まれたことを、やり遂げるまでずっと取りかかっているというような人です」
「彼もまた、センター職員と通じているんだね?」
「事務方ですから、頻繁にそうする機会の多い方でしょう」
「大前という男のことも、知っている?」
「どうでしょうか? 大前先生は、わたしが病気したときのお医者様で、実質、センターの人間ではないですから。でも、仁田さんは顔が広い人。知っていても、特に驚くことというまででもないです」
大前が仁田からマスターカードを受け取っていたとすれば、彼が組織内部に侵入することは可能だろうか。
IDの必要のない平日で、なおかつ、ウォルポールが言っていたように、シリンダーを解錠するキーが必要だ。内部従事者なら、これらをパスしていく手段は少なからずあったはずだ。とはいえ、どこまで可能だったかどうかは、慎重を期す必要がある。その点、もう少し大前について掘り下げなければいけなかった。
ここで問題にすべきは、やはり仁田だ。
「仁田さんの交友関係について、好ましいものを持っているようですね。しかし、健全な付き合いというのは、やはりどこかそこか、利害関係があったりするものです。彼の裏について、何か知っていることはありませんか?」
「仁田さんを悪く言うのですか?」
彼女は片眉をひねって、はじめて不愉快そうな表情をたたえた。
「どのような人間も疑ってかからなければいけない事情がこちらにはあるのです。そうです、ある事件が起こって、そこで人が被害に遭っています。中身を探っていくと、その途上に彼がいたというわけで、まず捜査線から外すためにもその潔白を明らかにしなければいけません。われわれの〝疑い〟というやつは、健全でかつ、公平無私そのものです。言ってみれば、その人が正しい、という証明をするために疑うのです」
彼女は落ち着きを取り戻した。納得してくれたようだった。給仕を呼んで、手つかずのままだったメニューを下げてもらった。そして、あたらしい注文を告げる。
「仁田さんは、人に何かを求めるようなそんな人ではありません。純粋にことにあたって、励み、その先に向かって行く人です」
「裏はない、と」
ええ、と彼女は落ち着き払った様子でうなずく。
「ありません」
「勤め先については、何か言っていたことはありましたか? というより、彼が働いている会社、ご存知でしょうか?」
「セキュリティーの会社ですよね? ロックシステムのエンジニアということでした。システムデータについてもたずさわっているようです。こと機械ということになると、滅法強いところがある印象があります。……仕事については、誇りを持っているというふうに見受けられます。きっと、働くことがお好きなんでしょう。いま、自分が一番好きなことがやれているのではないでしょうか」
「好きなことがやれているとは、どうしていえるのです?」
「それを口にしていたとき、輝いた顔をしていましたから」
仁田は彼女に対して、懸想含みのあこがれを抱いている。だから、いつしかそういう風になったのではないか。それをすべて彼の仕事への情熱と受けとめているあたり、彼女は男との駆け引きについて鈍感なほうなのだろう。
その鈍感さは、実はもっと広義におよんでいて、彼の正体を本質を掴んでいないといえば、そうなのかもしれなかった。彼女の意見というのは、大部分でそのままには受け容れることはできない、内容のないものでしかないということだ。
「それで、仁田さんとあなたの関係はどうなのです?」
「関係ですか?」
彼女の頼んだ、混じりけのないコーヒーがとどいた。すぐさま、彼女はそれに口をつけた。
「普通ですよ。気兼ねなくお付き合いできます」
「能勢さんのことは、伝えていますね」
「はい」
「何か言っていましたか?」
彼女は思案に暮れた。一度だけ、深いまばたきをして見せた。店内は、入口の付近だけ混んでいた。全体的に、学生が多い。飲食を楽しんでいるというより、スタイリッシュな店内の洒落た気配を楽しんでいるという雰囲気があった。
「そういう相手がいることについて、うらやましがっていたことは覚えていますが……」
「彼は、能勢さんにお会いしたことがあったりとか?」
「ないですね」
「では、単なる口上でのやりとりにすぎないものなんだね。……彼の方の彼女さんうんぬんの話はどう、したことはあっただろうか?」
「仁田さんにはいらっしゃらないようですよ」
「それは、どうして?」
「よく分かりません。そのつもりがないのじゃないでしょうか。いつも、その話となると、照れくさそうにしますから……もしかしたら、隠れてお慕いしている人がいらっしゃってもおかしくはありませんね」
彼女の仁田の心証は、必ずしも悪くはない。
「彼から、そういったお誘いを受けるようなことは過去にありませんでしたか?」
彼女はきょとんとした。また手に掛けようとしていた、カップを取り止める。
「それはありません。あり得ませんでしょう。わたしには、そういう人がいるのですから……」
彼女には仮定の話は通用しないようだ。
「でも、その資格はあるんですよね。彼だって、Rhマイナスの持ち主で、いわゆる稀血なんですから」
「まあ、その点は、否定できませんでしょう……。でも、やっぱり、わたしよりも稀血であった方がいいんです」
彼女は今度こそ、カップをもちあげてコーヒーを啜った。なんとなく、重苦しさのある沈黙がつづいた。
結局、その点の話はうやむやに終わった。
もしかして、彼女が例の会に所属するようになったのは、自分の交際相手を探すためだったのではないか、と次に森光はそのように考えついた。あり得ないことではなかった。彼女の美意識はその一点だけに向いているのだ。日常の生活で滅多に出会うことはない、特殊な性質の血を持った人間たち。それが集まっているところに出向かない限りには、彼女はずっと、恋人なんかできるはずもなかった。作ろうとすることもないはずだった。
仁田はその相手として、当初見られていた可能性がでてきた。
2
港北署の刑事部屋にて、別件の調書のまとめの提出期限に森光は追われていた。刑事というやつは、外勤よりも内務仕事の方が多いのは、あまり知られていないことだ。事件が起こるその度に、ものものしい出動要請がかかるのだったが、それ以外は、基本、署内で調べものをしている。会議や、ミーティングに明け暮れている。訓練だって、内務のあいまに行われる。しかも階級や、役職が上にあがっていくたびに、内務にたずさわる度合いは高まっていくのだった。
罫線にそって取り扱った事件についての報告をつづっていくその途中、視界を覆う、用紙がたたきつけられた。加隈であった。
「多々良からの報告があがってきたぞ」
森光は順を追って、精査した。見込みどおりの内容だったので、だいたいがとばし読みになった。
現場界隈から六種類の靴跡、十二種類もの髪の毛、皮膚片、その他、毛糸類を採取したが、傷害事件を裏づける直截的物証とまではいかない。採取したカフスボタンについては、稲原のものと特定されたが、つまるところこれだって弱い根拠でしかない。ボタンをむしりとって、事件を装うぐらいなら、だれだってできるのだ。
瞠目すべきは、まくられた腕に打たれた注射痕であった。
個人が自分で打つというようなことは位置関係から関節の仕組み上、不可能であった。問題は、使用された針であった。
脅威の0・2㎜針。
ナノパス33と呼ばれる、新規格の注射針だ。蚊の嘴を目指したとおりに、先細りしたテーパー状の針は、人が痛みを感じさせるのを麻痺させるほどの細さを保っている。
刺された感覚がないと稲原が口にしていたのは、本当だったのだ。採血の際は、特殊な針が使用されていた。
「この注射針は、岡崎工業というところでしか製造されていない。となれば、導入している先を割り出せば、だいたいしぼられてくる」
いい材料だった。
それでもって、そこから例の似顔絵の男を見つけ出せば、後は靴跡の照合で一発だ。
「攻めていく手掛かりができたということか」と、加隈は腕組みをして言った。「しかし、あれだな。こんな針を使っているということは、実行犯は、医療関係者ということになってくる」
「それは、どうかな。なめているわけではないがな、注射ぐらいは要領さえ分かれば、素人にもできる。指導役がいたという可能性を排除してはならないんだ」
「なるほど、指導役……そういう見方もあったか。ならば、線は一本に絞れないってことになるか」彼はそれからところ変わって生真面目な顔つきを見せた。「進捗の方、どうなっている?」
「すすんでいるさ。ただ、おれがいま、考えていることにはひとつ引っ掛かっていることがある。それは、動機だ」
森光は考えてきたこと、そして自分が推し進めてきたことのすべてをかいつまんで彼に話していく。警備会社に勤める仁田の存在。マスターカードを持ち出せる環境が彼にはあったが、人柄は申し分なく、かつそれを実行して彼にどんな恩恵があるのか、分からないと伝えた。
「好きな女を抱えた、会社の裏切り者か。……気持ちは分からんでもないが、しかしそいつは明らかに自分の首をしめている」
「彼が持ち出すことの理由が成立しなければ、おれが考えているこの線は、すべて折れる」
「まあ、単純に言えば、仁田の裏に男がいて、そいつの指示で動いた……ということになるだろうか。そこに、彼の意思はなかったということだ。立場も危うくなるような、そんな組織的な陰が動いたということ」
「その組織っていうやつは、なぜ、稲原を狙わなければいけなかったのか?」
「焦点は、稀血だろ。それしかない」
この点は、間違いないだろう。稲原には他に、特に取り上げるべき要素はない、普通の勤め人であるということが、その後の調査で何度も確認されている。交際関係にだって、不純な陰をもった人物はいない。献血という面でのつながりをのぞいて、今回浮上している関係者一同との接点もなし。
「稀血が欲しかった理由……それが紐解ければ、すべては解明するか」
森光は最終的にその疑問に絞った。
すぐさま、はっとする。稀血の持ち主が何度も登場することの違和感が、また頭を出してきた。いや、それは心のどこかでずっと尾を引いて存在していたものだったはずだ。
そうなのだ。ボンベイ型なんていう血液型なんて、そうそうあるものじゃない。それが、二人も自分の前の前に現れている。どう考えても、稀有な事態が起こっているとしかいいようがなかった。
この点について、いま、確かな答えを自分の中でださなければいけなかった。
「どうしたんだ。なにか、思いついたらしいな」
加隈は顔色ですぐさま、察知したようだった。
面倒であったが、しかし、彼からは協力を得ている以上、話さないわけにはいかなかった。すぐさま、佐高と能勢の存在をあげ、彼らにある少し特殊な関係性を打ち明けていった。
「稀血が、交際の第一条件か。それは、ちょっと、変わっている女だな」
だが、彼の顔は好奇心に満たされていた。特殊な癖を持つ、佐高に興味をもったようだった。
「実際、美人だったのか、その女は?」
「間違いないな。なんとなくテレビに出ている女優とかそういうのではない。もっと異質的な……輝きをもった子だったよ。実際、そういうのは目の辺りにしないと、分からない魅力ではないか?」
「お前がそこまでいうなら、これはよっぽどだ。ますます興味が出てきた。おっと、稀血を所望する理由。それについてだったな。……答えは、もう分かっているだろ。その交際しているやつが、黒幕だ。能勢――そいつが、佐高と交際するそのために、確かな証拠を提示しようとした。そういうことだろうよ」
「やはり、そういう結果におちつくのか……」
「能勢がボンベイ型だと分かった瞬間、すぐに、そいつが犯人だと分かっただろう?」
「頭のどこかでそう思ったのは事実だが、しかし、いやちがうんだってどこかで疑っていて、ずっともやもやしていた」
「どうかしているぞ、それは」彼は肩をすくめつつ、隣に位置する机に腰掛けた。「とくに考えずとも、すぐに出る答えだ」
彼のそれは、客観的な意見のはずだから、たしかなものが含まれているはずだった。
普通にやり過ごしていればすぐ気がつく違和感だった――そうなのかもしれなかった。
もしかしたら、彼女の美貌に当て込まれ、それでいろいろなことが狂わされていたのかもしれなかった。それぐらいの、女性であることは事実だ。そこは、素直に認めなければいけなかった。
とはいえ、それは森光にとって、心を惑わされるというレベルのものではない。あくまで、分別のある範囲内で彼女の美しさを認めたのに過ぎない。
「しかし、奇妙なものだ」と、加隈は椅子の上で仰け反って言う。「自分の血が、稀血だってことを示すために、稲原を襲撃して血を直截抜き取るだなんてな。もっと、他にやり口があっただろうよ。そういえば、例のセンターのほうの件は、始末がついたのか?」
ちら、と横向けてきた彼の顔に向かって、森光はかぶりを振った。
「まだ、捜査中だ。瞠目すべき指紋や足跡が挙がっていないから、どうも膠着しているようだ。それに、ロックのパスを通した記録。これだって、特に不穏当な動きがあった事実も確認されていない」
そもそも、血液の冷凍庫なのだから、衛生と、防寒の二つを兼ねた装備の仕様着で入らなければいけなかった。ゴム手袋の装着は当たり前で、足元も清潔でなければ、消毒液やゴムマットなどを使って自ら洗浄することが義務づけられていた。これは、鑑識面での捜査介入において難しい条件が揃っていることを意味している。
「だったら、本部のほうも手をわずらわせているってわけか」
「いや、向こうはただの盗犯事案という扱いしかしていない。だから、焦点は絞られているだけに、捜査線はそう大きく張られていない」
加隈は、いぶかしい表情をして姿勢をただした。
「稲原の件とは、無関係とみているってわけか?」
「そうだ。そっちの件については、興味を持っていないようだ。さしたる事件性のない、傷害事件……それだけの扱いだ」
「ハッキングの件は?」
「それも、別件とみてサイバー対策課に丸投げの状態だ」
彼はしばらく思案に耽った。
「まあ、至極冷静に考えれば、あるいは、それで正解かもしれんがな。稲原に起こった事件が、あまりにも奇妙すぎる。盗みだされたのは、〝血〟だけ。その他に暴行や、傷害が加えられた形跡はなく、注射を打たれたことによる、感染症などの事後疾患もなかったわけだから、事件自体も小事として扱うのはやむを得ない状況にある。仮に裏があるとにおっていたところで、介入するだけの材料がなければ、どうにもならない。民事干渉に觝触する恐れがあるなら、なおのことだ」
彼はそれから真顔を見せた。
「稲原を直截狙ったのは、そのストック保存された輸血をねらった後なのではないか?」
「おれもそう思っていたところだ」
彼は考えの一致を受けて、にやりとした。
「こういう順番だろ? 情報をハッキングしたのちに、それを元に、ウィンドウ・ピリオドにストックされた血液を盗みだした。だが、その冷凍血では、持ち出したやつの目的を果たせないなにかしらの障害が生じて、本人から直截持ち出さなければいけない、となった。それで、彼を襲った――」
「だいたい、そうだ」と、森光はうなずいて言った。「ここで次に焦点をあてなければいけないのは、なぜ備蓄されている分の血では駄目だったのかという点だ」
ふうむ、と彼の口から悩ましい嘆息めいた相槌が打たれた。顎を指で押さえるなど、分かりやすい思案の仕草をする。
「単純に考えて、量が足りなかった……あるいは、質が粗悪だった……もしくは、冷凍血の解凍方法を誤ってしまった、分からなかった……この三点になってくるか?」
「最後の、解凍方法を誤ったというのは、ないな。能勢は、細胞学の研究者ということだった。つまり、その道のエキスパートということだ。医学にもある程度通じているとみていい。冷凍血の取り扱いを誤るなど、初歩中の初歩のミスを犯すなどあり得ない」
「なんの研究をしているって?」
「それが、分からないんだ。佐高にも報されていないことのようだ」
「恋人なのに?」
「そう」
彼は首を振った。
「そんな馬鹿げたことがあるか。恋人の職業ぐらい把握できて当たり前だろう。それができていないなんて、この先やっていけるはずがない」
「それは、おれだって同じ考えだ。だが、彼女は言った。何も分からないのだ、と――これは、事実なんだよ」
「いかにも怪しいな。徹底的に洗い出してやるというぐらいの、念入りな素性調査にかける必要があるようだな」
「いま、手が足りない状態だ。それを、頼まれてくれないか」
森光は勢いに乗じて、頼み込んだ。
「またか」
彼の肩がおもいきり下がった。だが、拒否を示す表情をしているわけではなかった。しょうがねえな、と言った。
「やるよ。そいつの顔がどんなものか、おれも化けの皮を剥いでやりたくなってきた。とんでもないものが出てきそうだよ、いまからその予感がしている。いや、確実にそういうものが出てくるはずだ」
「これは、遊びではないんだ、分かっているな?」
彼の中の軽はずみな感情を打ち消すべく森光は言った。
「分かっているって。遊ぶつもりなんかない。こっちは真剣だ。そいつと真っ向勝負する気でいる。いま、おれの中にあるのは、あらぶる戦闘意欲ってやつだ。武者震いなんて古くさい感情は湧かない。代わりに、そういうのは顔に出ちまうっていうだけのことだ」
一応、自覚症状はあるようだ。あえて彼の熱を冷ますようなことは言いつらねるべきではない、と踏んだ。
「そうそう」彼は、いくらか興奮の口振りで言った。「ウィンドウ・ピリオドに保管されていた血液が駄目で、稲原の肉体から直截〝血〟を持ちだしたことの事実関係から、分かることが一つだけあることを告げておくよ」
彼は悪巧みをするような笑みを、口許だけに湛えた。
「なんだ、もったいぶるな。さっさと言え」
「それは、〝鮮度〟だ」
鮮度――
たしかに、血液にとって大切な要素のはずだった。
いつだかに聞いたことがあった。血液は生き物なのだ、と――。それは多分、殺人現場をともに臨場した検死官からさずかった教えだ。血はしかばねの腐敗を速める。その腐敗を止めようとするならば、血を抜かなければいけない。しかしながら、一度肉体が滅びてしまうと、血を抜くのは俄然むずかしくなる。この論理は、漁場にて〝血抜き〟という形で応用されているということだった。
「なるほど、鮮度――」
大事なことだった。
つまり、犯人は鮮度にこだわらなければいけないだけの、相当な医学的な処置に挑んでいるということになる。
能勢の肩書きは、研究者だ。血を外部機関に持ち出し、欠陥のない血液型証明証を発行させようとたくらめば、その限りではないはずだった。
しかし、犯人がやることといったら、何かしらもっとスケールが大きいことのように思えてならない。そう感じるのは、まるで事件の方向性が見えないためだろう。拡大解釈をしなければいけないだけの、不安が胸の内にはしっかりと居座っていた。
森光の悩ましい思案は、その日、遅くなるまでずっとつづいた。
3
能勢の洗い出し作業は、加隈に任せきりにすることはしなかった。森光も進んで、資料あさりに取りかかった。
能勢忠利――
この男の経歴は、実に手堅く高尚なものだった。海外のトップ校に留学の経歴もある。その道のエキスパートとして、恵まれた研鑽をつんできたようだ。場当たり的に考えうる最高の履歴を作成したところで、彼のそれに追いつかない。肩書きは研究員となっているが、縁があった海外の理系大学の臨時講師も兼ねているようだ。事あるごとに、召致され、出向という形で研究室を不在にしているのだと思われる。
具体的な研究の中身については、彼自身が執筆したとする論文を参照にするしかなかった。タンパク質系の物質の一つを取り上げて、構造生物学的研究をしている。タンパク質分解系に起因する神経疾患のメカニズムの基盤を明らかにすることが、その目的だ。同時に、研究対象にしているタンパク質系の全体の考察、研究でもって、創薬を目標とした、学術的応用の知見について模索している。
注目すべきは、研究内容というよりも、血液型だろう。
ボンベイ型。
百万人に一人という、Ⅰ群に属する、稀血の王者の一つ。
しかしながら、ほりさげてもほりさげても、彼の血液型は不明、あるいはO型という形でおわってしまう。周囲に稀血の所持者であると認識している者は、存在しなかった。
これはいよいよ、疑わしい材料が揃ってきたと、森光は手堅いものを感じてきた。だが、ABO血液型判定では、H抗原を持ち合わせないOh型は何度試験を繰り返したところで、正常な判定は出ず、O型になってしまうことは、忘れてはならなかった。遺伝子レベルまで解明する本格的な検査を受けない限り、ある意味、O型という記載は正しいのだ。この問題は、直截、彼本人の血を調べない限りには、どうにもならないという結論に落ちつくこととなった。
血液型の次に驚かされたのは、年齢だった。彼は五十近い男だったのだ。まだ学生をしている佐高とは、二十五歳もの年の開きがある。
年の差カップルという既成事実。そのこと自体について、特に珍しいという感情は持ち合わせていない。森光の驚きは別の所にあった。それは、彼女について、もっと特異な条件だったとしても、それを受け容れたのだろうかという、考える程に後ろめたい感情が膨らむ疑問が起こった事によるものだ。
しかし、熟考を重ねても正当な答えは結局、得られなかった。何かしら、自分の内側にあるしがらみのようなものが絡みついて、それが邪魔立てするのだった。
彼女の中にも、何かしらの狙いがあったりしたするのではないか……? そこまで煮つめたところで、考える事を止めることにした。すると、気持ちがクリアになって、やる気が持ち直されるに至った。
気分が一新したところで、次に資料整理に取りかかる。その矢先に、森光に出向の指示がかかった。それは事件とは無関係な単なる事務処理だったため、刑事課の係長に森光は寄り道をしたい、と申し出た。もちろん、係長はすぐには首をたてに振らなかったが、要領は分かっていたようで、その後にしぶしぶといった承諾を得た。
埼玉の和光市の住宅街。ひなびた荒野がちょっとした土手を挟んで、裏庭の向こうに見える家だった。屋根はひどく色褪せ、ざらめの壁の高い所には かえらなかった蛾虫の卵がこびり付いている。とてもじゃないが、エリート研究者を世に送った風格はどこにも感じられなかった。
「あの子は、しっかりとしたO型ですよ」
教育にうるさそうな、婦人であった。さすがに年はとっているが、しかしそれすらも許さないといった、毅然とした意思が彼女にはやどっている。
「それは、いつ分かったことなんですか?」
「出産で、入院していた時ですよ。ほら、生まれたばかりの子供って、血液型とか安定しないんでしょう? そういったことがないように、じっくり待ってから先生に依頼したんです。それで、O型と」
「証明書は、受け取ったのです?」
「あったはずですよ……ただ、それを取り出せと言われれば、ちょっと困りますけれどね。家の中をひっくり返さなければいけなくなってきます」
そうした行為に手を出すのは避けたいという拒否が、彼女の面体には強く表れていた。森光は話題を切り替えなければいけなかった。
「血液型モザイクっていう言葉は知っていますか?」
「モザイク……ですか?」
その顔を見る限り、知見はないようだった。森光は彼女の気を害さない口振りで、説明にくれた。亜型とよばれる血液タイプで、ABO血液型判定では、どうしても間違った判定が出る。彼女が知っている生まれたばかりの子供に見る、血液型キメラと同じ状態だ。
「あの子が、O型じゃなかったとでもいうのですか?」
彼女は抗議するように言った。
「その可能性があるのです。血液型モザイクは説明のとおり、本来の血液のタイプが結果として出てくれません。もし、そういったモザイクだったとしたら、彼は稀血とよばれる類の仲間ということになってきますし、われわれがある事件について瞠目していることに深い関わりがあるということになってきます」
「事件って……」
婦人は唖然とした顔つきをする。すこし恐怖さえ起こっているというような気配があった。そのようなこととは、まるきり縁がない家柄なのだろう。だが、忠利という男は、この家を出てから何年も経っている。だから、もう婦人がそうだろうと思っている像とは掛け離れた存在でしかない。
「とにかく、血を調べなければいけないのです。手掛かりになるものを貸していただけませんか?」
婦人はあとじさって、数拍、固化した。
そして、かぶりを振った。大胆な首の動きだった。
「そんなことして、なんになるというのですか。あの子は、その事件とは無関係のはずです。まったく見当ちがいです」
この時点で、森光は事件に能勢がかかわっている可能性は、七分を上回っているとみていた。だから、彼女のその拒否はひらたい目での観察となった。
「潔白が表明できれば、嫌疑は晴れます」
「だめです。あの子を疑うことだって、許しません。……もし、どうしてもとおっしゃられるのでしたら、その事件というやつをわたしに明かして下さい。最初から、丁寧に説明してもらいたいものです」
婦人はヒステリーじみた吐息を繰り返していた。深追いするのは、危険だ、と踏んだ。森光は一歩身を引いて、表情を緩めた。
「残念ながら、そういうことはできないんです。捜査上の秘密ですから。まあ、O型であると口頭での確認がとれれば、それで充分です。……まちがいないんですよね?」
森光の念押しに、婦人はとまどったように反応して、ぎこちない首肯を二三度くりかえした。
「O型ですよ……あの子は、ずっとO型です。わたしの血を、つよく引いた子なんです……」
忠利の成功を、彼女は我が事のように誇りにしている。だから、彼の血色が自分のそれと同じものであることに、ある種のこだわりと、自尊があった。これをくつがえらせられることは、彼女自身の否定につながるはずだった。ヒステリーの内訳が分かった。
「また、お伺いすることもあるかもしれません。その時は、よろしくお付き合い下さい。では――」
引き戸を閉じる直前に見た婦人のあり様は、虚脱であった。起こって欲しくないことが、不安を残す形で進行しているといったところであった。
4
残された手段は、能勢に直截面会することのみとなった。
機が熟していると感じたのは、能勢の母親訪問から三日を超したときであった。直前に学生時代の仲間に接触し、O型と名乗っていたことを突き止めたのだった。
能勢が血液型を詐称している疑いが確実に固まってきた。
よりによって、ボンベイ型というたぐい稀なる、希少種の血液型に詐称しているというのは、やはり見逃せないものがある。
察するに、佐高を手中にしたいという私欲がそのすべての動機なのだろうが、それにしても血液型の証明書を偽造しようとたくらむなど、潜む悪意の度合いは強くあった。いよいよ見逃されてはいけない事案となってきたのを、森光はひしひしと感じ取っていた。
理化学研究所、統合生命医科学研究センターは鶴見区の末広にあった。東京湾に面した、埋め立て地で、機械工場がすしづめになっているところだ。対岸に首都高速でつながった大黒埠頭があり、近くに県庁がみえる。
「このような、狭苦しいところしかなく、申し訳ありません」
やっと対面した、能勢は実際の年齢よりも、ずっと若やいで見えた。人類の英知を結集したというような、並外れた知性がからだ全体に溢れているためだろうか。六四分けの髪に、茶人のような落ちついた面相。肌は、少しだけ浅黒かった。
研究員らしく白衣をまとっていると思ったのだったが、そうではなく、ネクタイもしめない、水色のワイシャツ一枚に無難な紺のスラックスを合わせただけのラフな出で立ちであった。
「お伺いしたいことはかぎられています。それさえすめば、すぐに用は済みますので、ここでけっこうです」
請じ入れられた部屋は、彼にあたえられた個室であった。整理しきれないほどの資料と、書類、研究データに溢れかえっている。中には、極秘情報もふくまれているはずだったが、そのことに無頓着なのは、学者や研究者に共通したことであった。
「それで、何の用だったのです?」
「佐高さんのことです。ご存知ですね?」
彼の一重の目が、心持ち鋭くなった。
「恋人です」
「いつからですか?」
彼はしばらく何も言わないままに、森光を見ていた。
「なぜ、そのことを訊ねるのか、まず最初に説明すべきでは?」
「失礼」と言って、森光は咳払いした。先入観なしに、答えてもらうつもりでいたが、そうはいかないようだった。問い詰められることを承知の上で、大まかな説明だけをした。佐高から近い位置にいる男がとある事件にかかわっている疑いが強く、彼女の近辺も調査しなければいけなくなったというような仮定と匿名が入った、なかば創作じみた顛末だ。
「それで、わたしがどう関係あると?」
「その事件のテーマは、〝血〟です。それを聞いて、分からないとは言わせませんよ。佐高さんから事情を聞いていますからね」
彼は吐息をついた。
立ち上がって、ただでさえせまい室内をうろちょろとする。考えている顔を見せたくないのだろうか。
「あなたは、ボンベイ型ですね?」
森光が口を切った。
彼は背中を向いたまま固まった。いや、すぐさま森光を振り返った。
「そうだが」
「稀血……大変珍しい種類です。……それが、本物ならですよ」
彼がまばたきをしたその一瞬、邪慳な顔つきがのぞいた。気に触ったのだとみえる。
「本物なら、というのはどういうことです」
「いえ、ボンベイ型というのは滅多に会えるようなそんな血液型ではありません。それだけに、どうしてもなんとなく、慎重になってしまうんですよ」
彼は振り返って、森光の前に仁王立ちした。
「わたしは、ボンベイ型ですよ、れっきとした」
はっきりとした言葉だった。
その顔にも、嘘を言っているというような怯みはない。信念を持った宣言といったところだ。
たしかに、この男はボンベイ型と名乗った。
つまり、彼が犯人であるなら、闘いの火蓋はこの瞬間切って落とされたことになる。その台詞は、一種の宣戦布告のようなものだ。
「すばらしいですね、感動しましたよ」
森光は気のない声で言った。
彼には、その冷やかさが分かっていたらしく、やはり無感動だった。
「でも、おかしいんですよね。われわれの調査では、あなたの血液型はO型なんです。そうです、心苦しい限りですが、あなたについて身体検査を掛けたというわけです。事件にかかわった全員を調べるのが、われわれのやり口でしてね、そこから先は、消去法になるわけですよ。あなたは、自己申告するそれと、血液型が異なっている……それがとある事件について、あなたが唯一引っ掛かっている項目となっているのです」
「どうしたい、と? わたしの血液型を調べたいというのです?」
さしたる誘導もなしに、彼は乗ってくれた。森光はしめた、という感情になった。この展開運びを想定していたからである。
しかしながら、注意をしなければいけなかった。この男は、あるいは稲原の鮮血を少し前に、適量――研究試材として相当な量――採取したばかりなのだった。
この状況はまるで、血液が人質に取られているようなものだ――
「――だとしたら、お断りさせていただく、と申しあげるしかないですね」と、彼は突如、森光の沸き上がった期待をものの見事に打ち砕くように言った。思わず、肩透かしを越えて、虚脱した。
「どういうことです?」森光は、抗議めいた口調で突っ掛かった。「なぜ、急に拒否感情を持つにいたったのか、あなたの気の変わりようがしれませんね」
「こちらには、権利があるはずだ。それが頭に浮かんだにすぎない。とある事件といったが、その中身を語らないところを見れば、おそらく大部分が不明で、捜査材料が不足しているといったところだろう。それに対して、なぜわたしが協力なんてしなければいけないというのか。わたしを調べたいというのだったら、それなりの準備があって当たり前だろう。そもそも、今日の面会はそういったことではなかったはずだ」
森光は考えた。彼のいうとおりだ。はやまったことをしてしまったようだ。もう少し、自制が必要だった。そこは反省しなければいけない。
いずれにせよ、彼は来意と、調べている事件について知っているという確かなものを得た。それだけで十分な手掛かりを確保したと言っていい。
「失礼しました」
森光は詫び、それから丁重に謝意を告げた。彼の気持がある程度やわらいだところで言った。
「お話ししたかったことは、佐高さんとのつながりです。失礼ですが、彼女があなたをお慕いしているのは、血液型がその中心であるということでした」
「失礼もなにもないよ。事実だ。彼女は、わたしの血液型を愛している。わたしそのものは愛していない。それは、本当のことだ」
佐高の性質を、良く知っているようだった。
それは、納得というよりも拍子抜けといったような見方のほうが強い。だから、森光はたまらず訊いた。
「愛していない……というのは、これはどうなのです? あなたはそれで良かったのですか?」
「けっこう」と、彼は、潔く言った。その勢いからして、自分に無理に納得して聞かせているという感じにも受け取れなくはなかった。
「それでいいんだよ。血液型だけでも愛してもらえれば、十分わたしは幸せだ。彼女はわたしの誇りだからね。天の恵みだ。そばにいてくれるだけで、それでもう十分なんだ。わたしに不満などはどこにもない」
彼が熱烈的に、佐高を愛しているというのは正しかった。それはそうだろう。そうでなければ、結びつくことはなかったであろう組み合わせだと、森光は思う。もちろん、佐高の方の特殊な嗜好を満たしていることから、必ずしも一方的な思いの下で成立した関係とはいえないことも確かなのだったが、ここはやはり彼の強い押しがあったと見るべきだろう。
問題は、いつ彼が佐高の存在を知り、そしてボンベイ型を名乗りだしたのかという点だ。これをはっきりとさせることで、詐称の事実関係がはっきりとする。
「そこまで強い思いがあるのなら、どうしていますぐにでも確かな形にしようとしないのでしょう? あなたには、そういった余裕があるはずです。彼女が、まだ学生であるということに、ためらいがあるというのでしょうか?」
彼は唸って、椅子に腰掛けた。キャスター台の上に、スニーカーの足を乗せ上げた。
「遠慮しているというわけではないです。すぐにでもそうしようと思ったら、可能でしょう。さいわい、彼女の父親はすでに亡いからあれですが、年齢の近い母親について、わたしについて否定的ではないんです。はっきりとした了解があるというわけではないのですが、まあ、受け容れて下さっていて、不都合はどこにもないということです」
「もしや、彼女に求められているのではないのですか? 証明書というやつを……?」
遠回しに説明する彼に焦れて、森光は切り込んだ。
「そんなものは、要求されていませんよ。自分から、見せるつもりでいた……というわけなんです」
「自分から?」
要求してきた警察には拒否を示し、彼女にはそうするつもりでいたという。この事実は、あるいは明かさない方が、心証を害さない無難な選択のはずだった。それが明かした――これは、あてつけというよりも何かしらの理由があるはずだった。案の定、彼はそのことを意識した説明にくれた。
「あれですよ、彼女には自分の誠意を示したかったんです。誰よりも先に、ボンベイ型であると示したかったわけです。それが、あなたに要求されたら形無しというようなものでしょう。わたしが、拒否したのは、そういう理由からです」
森光にはいいわけがましい、説明にしか聞こえなかった。
「それで、いつ彼女に示すというのです?」
「きたるべきときですね」
「その、きたるべきときというのは?」
彼は長い息をつき、それから決意のこもった口調で言った。
「その血液型の検査データ表――つまり、証明書はそのまま、プロポーズになります。わかりますね? きたるべきとき、という言葉の意味が?」
「なるほど……わかりましたよ」
まさか、血液の検査データ表が、婚姻の約束手形になるだなんて、想像もしたことがなかった。真にその血の持ち主かどうかの問題はさておき、これは、特殊な血を持った人間たちの、ちょっとした特権のようなものだろうか。
「それで、きたるべきというというのは、その予感はあるのです?」
森光は彼の顔色をうかがいながら訊ねた。彼がプロポーズをすれば高い確率で、本当の意味での婚約状態が成立する。ひいては婚姻関係が成立する。
あるいは、それは捜査の精神的敗北を意味することになるのかもしれなかった。それだけに、彼がそれを切り出すときというのは、森光にとっても大事なことだった。
「予感はない」と、彼は苦笑いで言った。「なにせ、そう頻繁に会えるような間柄じゃないからね。それに、あとちょっとしたら、二ヶ月ばかり長期出張しなければいけないんだ」
「それでは、検査を受ける時間もなさそうですね」
「おっと、その検査データについては、あなたが介入してもらっては困りますぞ。これは、わたしたちのあいだで大切なことなのです」
「もちろん、介入はいたしませんよ。もっとも、そういった個人情報を易々と提供してくれるところはありませんがね。いまは、どこでも感染症などに見る、実質的な被害報告があがらないかぎり、血液情報というのは、各関係機関によって固く保護されています。もし、あなたが私どもに提示なさるのでしたら、ご自分の意思で……という形でしかありません」
彼は安堵した顔になっていた。介入されない保証を得て、立場の優越を確信したのだろう。そして、漫然とした口調でながら、なにやら言い出した。
「勘違いしてもらいたくないからあえて言うがね、佐高くんと、わたしのあいだには、いまのところ何もない。身体の結びつきだって、接吻だってなにもない。もともと、わたしは研究するために生まれてきたような堅物なんだ。海外には渡航したが、向こうだって、ラボラトリーにひきこもって研究三昧だった。外の空気の味がどうだとか景色がどうだとか、それをたっぷり満喫するよりも、消毒と培養液、抗生物質のにおいにまみれた部屋とつき合ってきた。むろん、これまでに恋人がいたことがあったが、それは三十代の話であって、もう、ずっと昔のことだ」
その恋人だって交際歴は短く、すぐに離れていったということだった。薬品の臭いが、どうにも受け容れがたく、彼の身体にまで染み付いたそれが二人を必要以上に接近させることを阻んだ。察するに、身体のつながりだって無かったにちがいない。
「その娘が、もう自分のところに帰らないんだって分かったとき、ああ、そうか、と思った。わたしは、そういったこととは縁がないところに生まれついたのだ、と。だから、研究室に閉じこもることに覚悟が決まったというか……決まったんだ。自分の中の欲のすべてだって、そちらに傾けるべきだとなった。虚しくはないのか、なんて人はいうがね、それが案外虚しくないんだよ。自分がやっていることについて誇りと確信を持っているからということもあるが、それだけじゃない。わたしの気質的に、それにたえうる忍耐力があったんだ。天性的にそれがあったんだ」
「それで、今回彼女とであったというのは、あなたにとって、大きなことなのでは?」
「恥ずかしいことに、そういった結婚への意欲は自分の中にあったんだ。忍耐力うんぬんとかいったが、それは合理化だったのかもしれない。しかしながら、健全な想いだよ、それだけは確かに言っておきたい。どうしようもないほどの性欲があって、その捌け口として、彼女をえらぼうとしたとかそういうことではないんだ。わたしは純粋に彼女を愛している。ただ、それだけのことだ」
その後も彼は、自らの純粋な思いについて切々と語った。性欲はコントロールされている。むしろ、年齢に見合った淡泊な方だ。だから、彼女との結婚の思いは、純粋な愛情だけでなりたっている。そういうことであった。
聞いているうちに、森光も引き込まれて、彼にたいして同情的になっていた。この結びつきに裏がなければ、それなりにいい縁談なのではないか、とすら思った。なによりも双方の要求が一致しているというのは、大きい。
しかし森光は、自分はあくまで疑いを掛ける立場にある人間だということを忘れていなかったし、その位置から自分を外すつもりもなかった。
「けっこうな話でした」と、森光は無感動に言った。「あなたは大変な努力家で苦労人である、そして功労者であるということはよく分かりました。しかし、仕事に忙しいというのは、残酷なものですね。熱をもとうとする愛情すら切り刻む、容赦ない干渉が入る。いまのあなたは、焦れったいような、やるせないような、そんな気分でいるといったところではないでしょうか?」
「そういう感情は特にないね」と、彼は立ち上がって言った。「仕事はもはや、わたしそのものだからね。ここまで尽くした以上は、わたしの何割かが、そちらに移っているはずなんだ。研究は、わたしの分身だよ。そのものだといってもいい。だから、成果が挙がったものは、遠慮なく、そして隠し立てなく、後世に引き継がれるべきものだし、引き継いでもらいたいと思っている」
「そういえば、こちらは大変な施設でいらっしゃる」
彼は勢いを得た顔つきで顎をあげた。得意な短い笑いを洩らす。
「地理的には、本当に良くない場所だけれどね、それでもわたしにとってはいいところさ。なにせ、近くのラボラトリーには、超高磁場の舞台をつくってくれる、NMR装置システムがあるからね。これさえあれば、糖鎖修飾タンパク質の構造解析が、いつでも可能なんだ。原子レベルで構造変化や、分子間相互作用を明らかにすることができる。ちょっと先に行けば、すぐに未知の世界が待っている。いま、わたしはそういう所にいるんだ。誰もたどり着いたことがない未知の領域が、その先にあると分かっている冒険家の気分だよ。
あなたは、そんな状況におかれてじっとしていられるだろうか? わたしは、いられない。寝る間も惜しんで、ときには危険さえもはねつけて、フル回転でそちらに取りかからなければ気が済まないんだ」
彼が目指す創薬は、近いうちに実現できるようだ。そうならなければいけない、と彼は躍起になっている事からその手掛かりは掴んでいるのだろう。
「そこまでの研究がなされているのでしたら」と、森光はおずおずと問う。「例えば、iPS細胞の研究なんていうのもあったりするんでしょうかね? ……いえ、正直に言いますと、タンパク質どうこう言われましても、わたしには次元というやつがよく分からないんですよ。ですから、良く知られた有名どころといいますか、そこを引き合いにだしてまず基準というやつが知りたいのです」
「iPS細胞についての研究もありますよ」と、彼はさらりと答えた。「研究員だって、一人や二人なんかではなく、けっこうな数が集まっています。もちろん、そうした彼らとも交流もありますから、紹介もできます」
「研究員の紹介までは、望んでいませんよ。中身が知りたかっただけです。……こうなってくると、この分野でいうトップの機関という認識でいいようですね。となれば、ここに足を踏み込むだけでも、少し軽率だったところがあったのかもしれません。それに、あなたに対する敬意だって、足りないところがあったのかもしれません」
「そのような、敬意は必要のないことですよ」
それから熱に任せるままに、彼は本来は、関係者以外立ち入り禁止である、研究室に請じ入れてきた。研究者を支えるスタッフが寡黙に、作業に取り掛かっていた。来客は頻繁にあるのだろう。森光などさして気に掛ける素振りもしない。
トルコブルーのライトが照る、クリーン・ベンチが三台、それぞれ部屋の壁に沿って設置され、その間に冷蔵庫のようなCO2恒温器が三基寄り添っている。その他、金庫型の窓がない中型器が実験用の台座の端に、横並びに三基おかれてあった。いずれも扉の開閉なしに、庫内の状態を確認できるものだ。実験ガラス機器がずらりと陳列された棚の裏にも空間があって、そちらには細胞分画機器の中型機が、どんと存在感を示して居座り、その近くに低温作業スペースが広がっていた。
培養実験は、ほとんど彼らに委託するのだそうだ。研究員である彼は、指示を考えるだけでいい。時にはスタッフが実験方法について提案し、そちらでうまく行くこともあるが、やはり実験そのものの責任者は能勢であり、彼の栄誉になるのだった。
「あなたが何をやっているのかは、分かりましたよ」と、森光は、ぼんやりと気味にスタッフの仕事を眺めつつ言った。「ここは、あなたのような科学者が頭で思い浮かんだことがすぐさま形にできるような、そんなところだ」
「まあ、そんなところでしょうか。……ときに、なにか質問があったりしませんか? とくに気になったところがあれば、お答えいたしますよ。せっかく、ここまでいらしたわけですしね」
「先生にとっては、実にくだらないことばかりしか頭に浮かびませんね。その中で一番にあげられるのは、やっぱり、これらの機材の値段でしょう。一つ一つ取ってみても、けっこうな値がするように思えます」
「もちろん、決して安くはないですよ」と、彼ははにかんで言ってから、つづけざまに機器の説明にくれた。
森光はそれらをやはりぼんやりと聞き流しつつ、スタッフの手つきを眺めやっていた。扱うシャーレは、培養液に浸されて赤紫色になっていた。動物由来の血清でも使っているはずだった。意識すると、妙に研究室が動物くさいように感じられたのだったが、他の薬品の臭いがそれをすりつぶしてきた。
ふと、その彼が立っている奥手の方に、アルミのドアがあるのを見た。危険を知らせるシールが張られてある。ディープフリーザーとあることから、培養室及び、保管室ということでいいのだろう。履き替え用の靴が手前にあることから、関係者でさえ入るのに制限が掛けられているはずだった。
「でも、なぜこのようなことを彼女に伝えないというのでしょう。彼女は、あなたの仕事の中身について何も知らないということでした」
しばらく時間を置いた後、森光は彼に振り返って言った。
佐高は語学に通じていることからも、聡明な頭脳をもった才女だ。タンパク質の説明を専門用語をまじえて話したところで、何も分からないということはないだろう。
「特に意味はありません」と、彼はスタッフの仕事ぶりを眺めつつ言った。「面倒くさいだけですよ。それに、そのことを話したところで、手伝ってもらいたいとか、理解してもらいたいとか、そういう希望があるわけではないのです」
「いやしくも恋人同士ですぞ」
「関係ありません。あなただって、同じはずですよ。仕事の内容を家族に話しますか? わたしは、そういうのはないな、と思うんです。もっとも、妻の方も同じ分野の研究員だったなら話は別ですが」
突っ込めない状況になった。
「今後も、話すことはないのです?」
「ありませんね」
ずっと、秘密で通す。
それが理解できる能力が相手にありながら、秘匿することに意味があるのだろうか。彼はやはり稲原の血を保管していて、細工した検査データを用意しようとしているというのなら、その事実があるであろう、この空間そのものを、彼女から遠ざけようとするのかもしれない。
いじったデータを用いることは、研究者として科学者として、後ろめたいものがあるということだ。
それから、彼はやはり目を遠くしたままに、ぽつりと言った。
「彼女は、パートナーです。人生のパートナー……。わたしは、本当の意味で、彼女の前では素になるのです。研究者ではなく、彼女の前では、ひとりの男でありたいと思っている」
5
大前の勤め先である病院は、血液センターとの付き合いの頻度が多いところであった。そこには、稲原に打たれた脅威の規格0・2㎜針のナノパス33と呼ばれる注射が納入されている事実が確かめられた。
出向ばかりであちらこちらを働き蜂のように移動してまわっている彼を捕まえるには、出向先で待ち伏せをしなければいけなかった。
車から降りた以降の医療バッグを提げた彼は、うつむいて歩くのが癖らしく、その日も、そういった歩き方をしていた。
あわや通り過ぎようとしたところで、森光は三度目に呼び掛けた。呼ばれているのが自分だと気付いた彼は、仰け反るように反応した。
「大前先生でいらっしゃる?」
「あなたは?」
「神奈川県警、港北署のものです。森光と申します」
身分証を提示するなり、彼の顔が強張ったのを見た。いかにも正直な男だ。
こういった不穏は、容疑者によく見られる傾向で、森光は自分が進んでいる捜査の方向が正しいことをすぐさま確信した。
「警察さんが何の用です?」
用意していたような、ぎこちなさのある言葉だった。こうして目の前に来ると分かっていて、あらかじめ頭に描いていたのだろうか。だとすれば、捕まらないという自信があるのかもしれなかった。
「六月八日の深夜十一時過ぎ頃の話です。港北区内在住のひとりの男性が、何者かに襲われました。彼は何も取られることはなしに、無事ですんだ訳なのですが、盗まれたものがしっかりありましてね、それについて捜査しているのです」
「ぼくと、どう関係があるんでしょう」
「盗まれたものが、〝血液〟だったのです。そうです、血、が盗まれたのです。通行人を押さえつけて血を抜いて持っていくだなんて、その手口は実に大胆ですが、それが成功するだけの根拠はあったはずなんです。つまり、医療関係者がかかわっていた、と。そう結論づけるしかないわけです」
森光は手帳とペンを用意した。
「さいきん、その手のことについて、何か見聞きしたことはありませんでしょうか」
「いえ、特に。……初耳ですよ。というより、なぜ、それをぼくに聞くというのかが、やっぱり分かりませんね。なぜなんです? しかも、こんな場所で。ぼくは仕事中ですよ。邪魔をしたいのですか?」
「能勢忠利、研究員。この人物を知っていますか?」
反論する勢いが一気に失われた。どうやら知っているのは当たり前で、なおかつ頭が上がらない存在とみるべきだった。
「……知っていますよ」
小声だった。そのことを認めたくないというような、そんな消え入りそうな声だった。
「彼がどうかしたというのです?」と、つづけて怒ったように問う。
「疑われているとある人物と間接的にながら、つながっているわけですよ。それで、彼の潔白を証明するために調べている訳なんですが、どうなんでしょうね? 彼は人を使って、特定の人をやり込めるというようなことに加担する性質というようなものがあったりしませんか? そういった不穏当なことを匂わせる裏のある行動、付き合いをしている事実はありませんか?」
彼の顔が真っ赤に沸騰した。赦せない、という感情とばかばかしいという感情がぶつかりあって、彼の中で激しい反応を起こしたようだった。
「ばかげたことを言うな」と、声が枯れんばかりに言った。「そんなことが疑わしいなら、あんたが直截調べればいいだろうが!」
赤十字のマークがついた肩下げのバッグを押さえながら、憤然とした足取りでアプローチに向かう。森光は小走りに追いついて、また彼の前に立ち塞がった。この野郎、と言わんばかりに彼の鼻の穴が大きく開かれた。
「まだ、話はおわっていませんよ」
あえて憎まれ役になってやるつもりでいた。
「なんだ、能勢さんのことは何も答えられないぞ。あの人は、そんなことをする人じゃない。研究一念に生きてきた、ただしい人だ。あんたのような人間が見倣うべき、そんな尊いお方だ」
「それでは、人物について、保証して下さると」
やはり気に入らないとでもいうように、彼の目下がひくつく。
「あぁ……保証する。あの人は、疑うような隙もないような、そんな立派なお方だ」
「あなたとは、どういう御関係で? 彼は細胞学の研究者です。勤務医のあなたとは、直截的なつながりはどこにもないはずです」
「つながりがないというようなことはないだろう。あのお方は、研究を通して、神経疾患についてのメカニズムの解明に取りかかっている上に、あたらしい薬を開発するその手掛かりを求めていらっしゃる。やっていることは、医学に直結する、また新しい分野創出にかかわる次元の高く、有用性にみちたものだ。きわめて未来的な研究だよ。われわれにも、恩恵のあることなんだ。だから、同じ医療従事者として提供できるものはしなければいけないだろう。そういう間柄だよ、実際」
能勢と、大前の関係は、そんなに強いものではないな、と森光はそう見なした。仮に親密だったとしても、それはお互いの立場関係を強く意識した、ある程度の距離を保った間柄というべきではないか。となれば、二人の関係は、利害関係でこそ成り立っているというべきだった。
「彼は最近、婚約をするということでした。その相手は、二十五も年下の、まだ学生の若い女です。その相手について、あなたは知っていますね?」
言うべきかためらったのちに、彼は言った。
「佐高ゆいかさんですか? 知っていますよ。ぼくの患者さんです」
「いつ頃から、彼女を知っているので?」
「記憶が間違いでなければ、五年前に出向した施設内での顔合わせが最初だったはずです。彼女は定期的に献血にきているくれる子で、そのうち顔をおぼえて、やり取りするようになったんです。自分の血液について、強い興味関心を持っているということでしたので、そのことについて、ぼくの話を聞きたがっていました。頭もいいし、とても好奇心旺盛で、意欲的な子です」
「Rhマイナスですね?」
ええ、と彼は顔を素に戻してうなずいた。
「そうです、まあ、珍しい血です。自覚がある分、血について、強い関心があるのでしょう」
「だからですか?」
「え?」
大前は森光に聞き返した。
「だからでしょうか、彼女に対して、能勢氏を紹介したのは?」
そういった事実を確認したわけではなかったが、人物の相互関係からして、能勢が佐高に出会うという線は、彼以外になかった。警備会社に勤める仁田が、Rhマイナス繋がろう会に所属している関係から、佐高と知己であって、その彼女を能勢に紹介したという可能性もあり得たが、しかし仁田と能勢という組み合わせは、どう考えても上手くつなげにくかった。まず、接点がない。
あり得るとしたら、能勢と大前がつながっていて、大前と仁田のつながりを能勢が利用したという線だろう。こちらのほうがよほど現実的な組み合わせだといえた。
「ボンベイ型……、彼の血は、とても興味深いものですね」
何も言わない彼に、森光は先んじて言った。
動揺ととらえても遜色はないほどに、彼は目をきょときょと動かして、考え事に耽っていた。すばやく適確な判断を求められたときに見られる、挙動である。
「まあ、そうですね」と、彼は努めて穏やかにそう流した。「珍しい血液型です。それこそ、滅多にみられるようなものではありません」
「紹介したのは、彼女の嗜好というやつを押さえていたからでしょう?」
森光は角で突き上げるように、容赦なしに問うた。彼はまずいものを口にしたという具合に、口許を歪めた。
「それは……」
「どうなのです? はっきりとしてもらいたい。いや、あなたは知っていたはずだ。彼女の嗜好について。でなければ、能勢氏と佐高が結びつくはずがないんだ。紹介したのはいつ頃でしょう?」
彼は耐えるように、森光を見たあと言った。
「二年前ですか……」
彼らの出会いはその時に、起こった。となると、大前と佐高が知り合ってから、三年間のブランクがあるということになる。これは、少し長すぎる空きだろう。佐高と大前を取り持つ話題は、血液型についてのことが中心だったとするなら、早い段階で佐高は自分の嗜好について、明らかにしたことだろう。
ならば、その時、大前が能勢の血液型を知っていたとしたら、彼女にその事を伝えるのではないか。能勢は仕事上の関係者にはちがいなかったが、担当分の患者とかそういうわけではない。つまり、彼の血液型についての情報は、彼にとっていわゆる個人情報にはあたらない。だから、伝えることには抵抗はなかったはずだ。
それなのに、三年ものブランクがあった。
由々しきことだといっていい。
もっと単純に考えていいのならば、この三年間のあいだに、能勢と大前が出会い、通じるようになったと導き出せる。それならば、ブランクという障害は解消されることになる。
能勢がなんらかの形で佐高の存在を知り、さらには相手についての交際条件に、稀血をあげているなどの諸般の事情を押さえるなどして、自分にチャンスがあることを知り、彼女の前に自然に現れる工作を仕掛けにいく――そのきっかけとして、能勢は大前を利用することにしたというわけだ。
能勢と大前は利害関係でなりたっている間柄だ。なにか、特に強い弱みがにぎられていて、それを解消するその代わりに、佐高の情報を提供したということだったのではないか。いってみれば、佐高を彼に売ったというわけだ。
「まちがいないんですね?」と、森光は威圧を掛けるように声を尖らせて言った。「あなたが彼女の嗜好の中身について知っていて、それがもとでの紹介だったことは」
彼はしばらく、いやなことを思いだして煩悶しているといった表情でうつむいていた。やがて、顔を上げた。
「これは、双方にとっていいことなんだから、特に問題はなかったはずだ」
居直ったかのような、あっけらかんとした口振りであった。その顔も、やや強気が入っている。とはいえ、その強気も確かなものというまでではないのは、彼ならではのことだった。
「私はこう思うのですよ。よかれ、と思ってやったとはかぎらない、とね」
「何が言いたいんだよ」
「人というのはね、純粋な人間を見ると、この人の世界を守ってあげよう、……あるいは、あげたいという人と、こいつは隙だらけだ、だから利用できるぞ、と思う人間にわかれると思うのです。その他に、聡明な人間の中には、この両方を持っていて、状況に応じて使い分ける――というような人もいましょうか。私が察するに、あなたは前者ではないか、と思うのです。というのは、お見受けする限り、嘘というやつがきらいな人間だからだ、と思うからです。そうであるならば、あなたは能勢氏に、佐高を紹介することに、ずいぶんと重たい、そして激しい苦しみをともなう、ためらいがあったはずなんだ」
「何を言っているんだ」と、声を上げて彼は不機嫌に森光を睨みつける。「仮にそれが正しいとして、ちゃんと世界観を守っての紹介だったというべきではないか。彼女は、稀血の持ち主を結婚相手に希望しているんです。ぼくは、そのたすき渡しをした。ただ、それだけのことです。どうして、彼女の世界観をこわしたようなことを言うのか。むしろ、それを守ってやったというべきだろう」
森光は戒めをこめて彼の顔を見つめたまま、かぶりを振った。
「彼女がかかえていた世界観の保全というのは、幻想という部分が大きくあります。私はそれをふくめて言ったつもりです。あなたとやり取りした時の彼女はまさに、屈託のない、実に純粋な少女だったのではないでしょうか? それこそ、どこにも手渡したくないと独占欲がわいてしまうような……」
彼はその時の彼女を思い出しているらしかった。そして、良心が痛み出している――それを抑制するような顔になっていた。
「そういう幻想をかかえた少女はですね、なにも幻想が現実化することなど、希望しないのです。幻想は幻想であると、ちゃんと認識できているはずですから。ところが、あなたはその幻想をかなえるような、そんな甘い選択肢を彼女に与えてしまったわけです。その瞬間、彼女の中で幻想と現実に境界線が無くなってしまったのではないか、とわたしは思うんですがね」
彼は胡乱げに森光を見つめた後、苛立たしそうに腕時計を見た。
「幻想だとか、現実だとか、そんなことになんの意味があるのかよく分かりませんね」と、彼は反論さえ許さない勢いで言った。「とにかく、こっちは忙しいんですよ。頼みますから、ここらで終わりにしていただけませんかね」
「では、最後にひとつ」森光は指を立てて、穏やかに問う。「彼女のことをどう思っているのか、それをお聞かせ願いたい」
彼は眉根を寄せ、いぶかしそうにした。
「どう思っているというのは、なんだ?」
「彼女は、まだ幻想に囚われたままです。これからも、それに囚われたままなのかもしれません。もしかしたらずっとつづく……というようなこともあり得ましょうか。これについて、どう思っているのか教えていただきたいということです」
彼の中の苛立ちが、ゆっくりと嗤笑に取って代わった。
「彼女は、出会いをよろこんでいましたよ。あなたも、彼女に会ったのでしょう。でしたら、彼女の幸せなありさまを目の辺りにしたのではありませんか? それが、すべてですよ。あなたがいう幻想にかかっていたとしても、それは彼女にとって、良いことなのです。なんら困るようなことはどこにもないのです。彼女は希望どおりの人生を歩んでいて、そして幸福に生きているはずです。その幸福が、彼女によってつづけられ、それはこれから先も継続されるはずなんです」
彼は足早に去っていった。突きでた門庇のなかに入っていくなり、その姿がすっぽり陰に覆われ、外勤の医者という彼の職業としての一面だけが浮き彫りになった。すれちがうスタッフに礼をしながら通りの向こうに進んで行く彼は、律義だった。やはり、表向きだけを取ってみれば、患者を売るというようなことはしない男のはずであった。
この大前を調べる事には、大きな意味がありそうだ、と森光は思っていた。彼は自分の論理を無理に呑み込んで、今回のことを意地でも肯定しようとしているように思えてならない。そういう強引さが、彼全体に溢れかえっていると言ってよかった。