プラチナ・ブラッド1
プロローグ
湿った夜気にそぼぬれた粗目のアスファルトは、表面が磨かれたように暗闇に光っている。足音は不快になる程、湿っぽかった。
稲原伸一は、ただでさえ手狭な道を歩行車線で区切ったその内側を歩いていた。
深夜の十一時過ぎ。息をつめたような閑静な住宅街のそのさなか、トランク型にねじまがった交通標識をいつものように過ぎたところで、手前奥に立っていた電柱のその向こうに、ミニバンが駐まっているのを見た。黒色で、フロントウィンドウにスモークが掛かっている。比較的あたらしい車らしく、フロントグリルが、頭上のLED照明を受けて、翳りのない青白い光を飛ばしていた。
稲原はそのミニバンをじっと見つめた。普段に見ない車だった。
この界隈の住民が乗っているものなんかではない。感じた不穏から、思わず反対車線側に移動したくなった。が、相手の方のアクションが先だった。いきなり、目を直截的に射るハイビームが点されたのだった。
反射的に呻きが洩れる。喉を絞って濾し取ったような、じつに情けない声だ。遅れて目をかばう。その直後、ミニバンから降りてくる人影を二、三見た。素早い物腰で稲原に迫ってくる。逃げるまでもなかった。二度目の呻き。男たちは、ものなれた手つきで、稲原に掴みかかり、宅地と公道を仕切っていた木塀に押さえこんできた。
「少しでも動いてみろよ。てめえのかわいい腕をねじ切ってやるぞ」
威圧感のたっぷりこめられた一声だった。
ナイフをちらつかせられているわけではなかったが、稲原は差し迫った恐怖にすくみあがっていた。
動かないほうが無難だ。相手の感情をさかなでるような真似だけは、しない方がいい。いや、この場合、いやでも抵抗して脱出したほうがいいのだろうか……?
迷っているさなか、ぐっと後ろ手に手がねじられ、さらにスーツの裾をまくしあげられる。夜気に浸された素肌が冷気を受けて神経にその温度を直に伝える。しかし、恐慌さしせまる稲原には、それは恐怖を倍加させる情報でしかなかった。ひいっと短い悲鳴ののちに手を引っ込めようとする。
「動くなといっているだろうが!」
一喝ののちに、頭をぐっと押さえつけられた。頬が木塀につぶれる。炭化させた木板を数珠つなぎに並べただけのそれは、湿気を吸い込んで野焼きに似た匂いをはなっていた。その匂いと付き合うこと、五分あまり。よし、と相手の男のひとりが言った。指示役らしく、押さえつける実行部隊からはすこし距離をおいた位置に立っていた。
実行部隊の男の手が離される。
身体が弛緩したように、ぐーっと木塀にもたれかかっていった。緊張から解放された瞬間、自分を引き締めていた箍の一切が、ゆるんだのだった。
男たちを振り返ると、すでにミニバンに乗り込んでいた。最後に乗ったのは、指示役だろう。上背のある男だった。おそらく、百八十近くはある。鳩胸のような膨らみのある、なでつけ髪。見る角度によって、顔が異なって見えそうな極端なまでの盤台面だった。それは、あくまで横顔を見ただけの印象だ。正面切って見つめれば、またちがった感想をもつのかもしれない。その男もやがて、車というボックスの中に消えていった。猛発進するなり、稲原のすぐ後ろを風のように横切っていった。
二三分は、茫然とした。いや、それ以上は、あったかもしれない。
自制心をとり返したところで、自分の身にあったことを整理する。スラックスのポケットを探ると、財布は生き残っていた。中身も無事。免許証もカードも、保険証もあった。いや、所持品に略奪されたものはなかったはずだ。
一体、なにをされたというのだろうか……?
稲原は懸命に、自分の身をあらためた。結果、徒労に終わる。そして、まくしあげられたままになっていた、腕裾に気づく。
関節にほど近い、前腕部の付け根あたりに、血の玉がぷくりと膨れていた。針仕事で指先を間違えて刺してしまった、という程度の小さな赤。
注射痕……?
自分の身体に、何かしらの毒物が注入されたというのか。いや、そんなはずはない。意識はしっかりしているし、悪寒や、吐き気といった特有の薬理反応もこれといってない。
しかし、これからそれが表れるかもしれないと思ったら、急に怖くなってきた。最悪の場合、覚醒剤というようなことだって、あり得る。とりあえず、救急車を呼んだほうが良さそうだ。稲原は、呼吸を整えてから携帯をつなげ、自ら救急車を手配した。居場所を伝えるのに難儀したが、何とか伝わった。その後、どっと疲れが押し寄せて、丸くうずくまった。おぼろげな手つきで、腕裾をいじっているうちに、カフスボタンが失われているのに気づいた。
本体は、どこに……?
うずくまった体勢のまま、アスファルトの表面を撫でるように、探索した。コンタクトレンズを探すような、要領だ。見つからない。てのひらが汚れていく一方でしかなかった。そのうち、どうでもよくなった。サイレンを消した救急車がやってきたのは、それから十分が過ぎた頃だった。
第一章
1
港北区は横浜市のなかでもっとも人口が多く、三十二万もの区民を抱える土地柄だ。新横浜都心の大部分を占め、再開発がいつも後を絶たない。横行する犯罪は、東京型の模様を成していたし、その傾向は、すこしずつ知能犯の性質と、野蛮性を帯びつつあった。そして、犯罪全体に個性が形成されつつあった。陰湿で、確信的。都市は発展の代償を、明らかに犯罪という形で支払わされていた。
港北署の刑事課に勤める森光一秀は、二班の面々が事務仕事に明け暮れるさなか、自分に回されてきた調書をながめていた。いましがた作成されたもので、被害者なる人物はいまだ相談室の方にいるということだった。
たしかに、おかしな一件だった。
略奪された品は、皆無。くわえて、受けた傷害は、注射痕一点だけというものであった。さらに後者について言えば、何かしらの薬物を投与された形跡なしということで、これは実質、単なる傷害事件でしかないものだったのだ。
「これは、なぜおれの所に転がり込んできたんだ?」
すぐ近くに座っていた加隈に訊ねる。押し付けてきたのは、彼だった。
「いやがらせか? だとしたら、受けつけんぞ。こっちは、取りかかっている案件がいくつもあるんだ。暇じゃねえ」
調書を彼の机に叩きつけた。
だが、彼はそれを拾い上げると、もう一度森光に差しよこしてきた。
「いやがらせでも、押しつけでもない。重要な案件だ。だから、お前に回した」
「どう、重要なんだ?」
森光は調書をいきおいよく奪った。何度見ても、規定項目につづられた内容は、取り立てて物事を論じるようなものなんかではない。
「とりあえず、本人に会ってもらいたい。会えば分かるだろう。これは、係長に……いや、課長にまで報告する案件になると思われる。いいようのない不穏がうしろに隠れているってわけだ」
森光は彼の顔を、睨むように見た。特に怯む様子もなく、彼は見返している。どうやら、本気で言っているようだ。調書にない、重要な情報を押さえたのだろう。彼に直截問い質しても無駄だ。本人に聞け、と一蹴されるのが目に見えている。
「お前が行くべきなんだ。そうと判断したから、回した。それだけのことだ。……で、行くのか、行かないのか?」
顔に力をこめると、眉間がすこしだけ狭まった。
「いくさ。そこまで言うならね。ただ、どうしようもない案件だったら、ただじゃおかんぞ」
「もちろん、責任はとる。そのつもりでいる」
「よし」
頼りにされていると受け取ることもできた。だとすれば、いくべきだろう。森光は取りかかっていた案件をすべて後回しにし、被害者である稲原伸一に会うことにした。刑事部屋から、すこし行った先にある階段に向かった。
総合相談室は、一階地域課の管轄する部屋のさなかにある。出入り口から対極的な位置の、港北署の片隅。
日当たりのいい十二畳間で待っていたのは、好青年と評すべき、若さと気概にみなぎった男であった。出勤前に駆け込んだらしく、スーツ姿であった。用件が済めば、すぐに出社するのだと思われる。森光は担当の警官と入れ替わって、彼と相対した。
「稲原明慶くんで、いいね?」
「はい」と、彼は力づよい声で応えた。とてもおちついた物腰だ。事件に巻き込まれてから一夜明けたいま、冷静になれているにちがいなかった。まずは、調書に書かれた内容を、彼の口述でもって手短に確認する。
「それでなんだが、被害届けをだそうと思ったのは、どうしてかね。稲原くんを診た医者がそうしろといったのかね?」
「自分の判断です。あくまで、お医者さんには、診断表を作ってもらっただけにすぎません。ぼくが後から自分で警察署まで出むくから、と言ったわけです」
「劇物や、薬物の注入の事実はなかった……とあらば、なかなか首を縦に振らなかっただろう? それともなにか。ほかに、君には彼の腰をあげさせるだけの材料があったというのだろうか」
「血液型です」
彼は真っ直ぐに言った。背筋がぴんと立った、堂々とした回答だった。
「そうです。ぼくの血液型は稀血とよばれるほどの、稀少なものなんです。ボンベイ型という血液型をきいたことがありませんか?」
いや、と森光があいまいに首を捻ると、彼からものなれた懇切丁寧な説明が始まった。 医学的表記で言う、Oh型。稀血中の稀血とよばれる、Ⅰ群に属する血液型だ。O型の亜種と呼ばれているが、これは実際のところ、ただしい見方ではない。A型と、B型の抗原をもっていて実質AB型だったとしても、それらの受け皿であるH抗原がないために血液型検査でA、Bの遺伝子が検査で引っ掛かってくれず、単にO型となってしまうのだ。検査が通用しない、特殊な性質。もちろん、この血を身体に通わせる者の輸血はボンベイ型でなくてはならず、存在抗原にあった血液を注入したところで、血はうまく溶け合ってくれない。故に、既存種である四つの血液型のいずれにも当てはまらないと言っていい。
「なるほど、稀血……」
森光は自分にこの案件が回されてきたことの意味を悟った。
「これが採取されたというのは、たしかに何かありそうだ。事情を詳しく聞いておくことには意味がある。……いや、その前に、君自身について聞かなければいけないな。こういったことは、過去にあったのかどうか?」
彼はすぐに首を振った。
「ありません」
「初めて、と」
「はい」
「何かしらの、大きなことに巻き込まれていると感じたことは。日常生活の中で」
数拍、彼は思案に暮れた。
「特にないんですが……、神経質に注意してみれば、あれはそうだったかもしれないとなってくる事案は、何点かありますね」
「聞いておこうか」
ペンを握って、森光は丹念な筆記に取りかかった。彼の述懐を、丁寧に段落ごとにまとめていく。そこは森光の得意とするところだった。だが、有用性のある情報は、皆無と判断せざるを得なかった。いってみれば、日常の些細ないざこざの延長のようなものに過ぎない。警察が腰を上げて捜査をするには、もっと具体的な危険や、事件性をにおわせるものでなくてはならなかった。
森光は途中でペンを休めた。けっきょく分かったことは、彼が警察署なんかには縁がないほどに、普段から健全に過ごしている青年であるということぐらいなものだった。
「押さえられたときの事なんだが、男たちの内、一人の顔を見たようだね。はっきりと覚えているだろうか」
「見たのは、横顔なんですが。それも、一瞬、見れたというだけに過ぎません」
「ならば、横顔でも結構。似顔絵作成に、応じてもらおう。協力してもらえるね?」
「はい……可能なかぎり、お付き合いさせていただきたく思います」
消極的な声色になったのは、余計に掛かる時間を気にしたからだろう。精勤をモットーとしていそうな彼を拘束するのは、気の毒だったが、ここはやむを得ない。森光としても、この案件は奥行きがありそうだと思っていた。
「それにしても、よく君は暴漢におそわれて、怪我ひとつなかったものだ。その点は、不幸中のさいわいだったというべきか」
いくらか、彼の顔つきが和らいだ。
「自分も、そう思います。ふつう採血するならば、気絶させるなり、医療設備が整ったどこぞに連れこんで丁重に抜くといった手口を採るはずでしょう。こういったことは、衛生事情が関係してきますから。まさか、あんな大胆なやり口で血を抜いて逃げていくだなんて……。最初は、血が抜かれたなんて分かりませんでしたから、自分でも一体、何が起こったのかって、ずっとそればかりを考えていました」
「注射されたとき、痛みがなかったのかね? よく考えてみれば、血が抜かれたことが分からなかっただなんて、それはおかしな話だ」
すると、彼は慎重な顔つきをした。
「痛みはありませんでした。塀に身体を押さえつけられていましたから、そちらが痛かったということもあるのですが、注射されたときの痛みはなかったはずです」
詳しいことを聞けば、後ろ手に回された腕は、しっかり押さえられた状態で裾口がまくられ、素肌を夜気に思い切りさらされたようであった。その冷たく湿った空気の気配について、彼は肌をあわせたように、しっかり感じ取っていた。
「それならば、腕だけ敏感になっていたはずだ。やはり、注射されたことが分からなかっただなんて、おかしい」
森光は腕を組んで彼を見たが、肯定の気配をみせるようなことはしなかった。
「本当に、分かりませんでした。ちくっという痛みもなかったんです。よほど、助かることに夢中になっていたのでしょうか。実際、あの時は、かなり怖ろしい気持にやられていましたから……」
夜道歩いていたところをミニバンから降りてきた男たちに訳もなく押さえつけられたとあらば、混乱は避けられないだろう。その手の鍛錬をしてきた警察官でさえも、冷静ではいられない。まして、段取りよく注射されれば、実際あった痛みなど神経が脳に伝えきれないのかもしれなかった。どうあっても意識的に知覚できないということだ。ならば、他にされていることがあっても、彼はまだ気付いていないことがあるのかもしれなかった。
それにしても、襲い掛かった男たちは何の目的があって、彼の肉体から血液を持ち出したのだろうか。稀血というものであるからその血液に稀少価値があったとしても、たとえば抜き取られた数量が、献血のいち採血基準である、四百ミリリットルであったとして、それがいったい何の役に立つというのか。血液製剤に加工して、輸血用にするにしては量がおよばないし、そういった血液が単独で高値がつくとも考えにくい。研究用に使うのだというのなら、もっと利口な手口があったはずだろう。
それとも、彼の陳述した些細な日常に、ヒントがある……?
いや、そんなことはない。これには、もっと、大きな裏があるはずなのだ。
森光は彼があじわったという恐怖をたっぷりなだめすかした後、ぽつりと言った。
「君の周りに、同じような稀血をもった親族がいるのかな?」
「いえ、ふつうです。ぼくだけが、変わったこれなんです」
「遠縁の親族も含めて、いえること?」
彼は躊躇した後に、
「はい」
と、短く答えた。
「だったら、親からも輸血してもらうというようなことができないんだね」
たいてい、血液型というのは親のどちらかの抗原を引き継ぐものだ。それだけに、親からも輸血できないというのは、かなり特異な条件といえる。
「ボンベイ型は、ほんとうにやっかいな血液型だそうですから」
彼は苦笑いを浮かべて言った。それは彼にとってつきあい馴れたことである、という彼特有の事情が如実に表れた顔であった。
「百万人に一人といった確立だそうです。つまり、いまの日本の人口は、四捨五入して一億三千万ですから、単純計算で、一億三千万割る百万で、百三十人です。それぐらいしか、いないのです」
「ならば、君は大病なんてわずらってしまったら、大変だ。君も、受け容れる病院も手の打ちようのない特殊な事態にまきこまれることとなる――」
仮定の話だったとしても、もっと神経を遣うべきだったかもしれないと、言ってから森光は後悔を感じたが、彼の顔には、これといった気後れはなかった。
「大変です。大病なんて、わずらっている場合ではありませんし、許されないことでしょう」
などと、受け流すほどだ。
この余裕に、内側からみなぎってくるような持ち前の気概。
きっと、彼は特殊な血液型をもって生まれついて、そのことを障害としているどころか、誇りに思っているらしかった。それは、最初に顔合わせしたその時から、彼に表れていたというべきだった。
「百三十人と言いましたが、あくまで確立値ですから、実際はもっと少ないんです。母子手帳を取得すると、そこに子供の血液型が書き込まれるものだと思われがちですが、そのような記述欄を設けてない市町村の母子手帳もけっこう多いんです。産婦人科だって、民事的な問題を気にしてのことか、子供の血液型を教えないところが増えているみたいですし。つまり、何が言いたいかと言いますと、特殊な血液型だって、分からないままでいる人が、この日本には、まだたくさんいるということなんです。数字は明らかにされていませんが、Oh型にかぎっていえば、実質、赤十字の血液センターさんが把握しているのは、百を切る数字かもしれません。いえ、もっと少なくても、おかしくはないですね」
「そういえば、私も、自分の血液がどのように調べられたのか、分からないな。義務になっているとばっかり思っていたんだが」
森光は頭を指先で掻いた。
「刑事さんの時代がどうであったかは、ぼくは分かりませんが、ぼくの場合で言いますと、義務なんかなかったんです。それでも、母が掛かった病院に、調べていただいたきました。きっと、母が要請したのでしょう。母子手帳には、採取した臍帯血から、Oh型と確認――とメモ一覧のはじっこのあたりに書かれています。これは聞いた話ですが、採取した血を、外部機関に回して調べてもらい、血液型カードを発行するといったようなことをしているところも多いようですね」
何となく話を聞いているうちに、赤十字社が喧伝というまでに献血を呼び掛けて回るのは、個々の人間の血液型を把握するそのためでもあるのかもしれない、と思った。端的にいえば稀血を探し出す目的があるということだ。大切なことだ。稀血のストック量の管理。彼らも、それに追われている現場の人間なのだ。
「こんなことを聞いたら、あるいはきみの気持を害するかもしれないんだが……」と、森光は背をかがめて持ち掛けた。「あるいは、大病を発症してしまい、それこそ手術でも受けなければいけないとなった場合のとき、きみの型と同型の血液が足りないとなったら、どうするのか? いや、それにそなえて、きみは丹念に輸血をしているというべきか?」
彼はこの質問が予想できていたかのような、顔つきでいた。さらりと受け答えに掛かる。
「献血は、そんなに真面目にやっているほうではないです。だいいち、自分が献血した血が自分の手術に使われるだなんて、自己輸血を希望しないかぎり、あり得ないことです。一般に、採血した血は、洗浄されてまたは、成分ごとに分解されて、輸血用血液パックになりますが、これには有効期間というのがありまして、いつまでも冷凍保存されるとかそういうわけじゃないんです。たいてい、採血から、二十一日以内って決まっています」
分解された血液は、それぞれ有効期間や、管理状況が異なっているようだ。これは、成分と本質に関係している。血小板にいたっては、採血後四日と短く、逆にもっとも長いもので、血しょうの一年となっている。
「となると、例えば、いつかに献血したきみの血は、すでに、どこぞの病院で使われたということになるか」
「そうですね。それも付け加えて言えば、国内だけとはかぎりません。赤十字社は、国際社会にもバイパスがありますから、求められればそちらにも提供しているようです。こういうのは、国際水準があって決められていることですから、相互協力関係がなりたつんです」
彼のような、稀少な血液型を持つ人間にとっては、頼もしいバイパスといえよう。つまり、いつ大事があっても、赤十字社はそれに対応できる構えがあるということになる。
「私との、話はここまでで終わりにしよう」と、言って森光は立ち上がった。「あと、似顔絵の方、御協力おねがいしますよ」
「そうですね。そちらのほうは、しっかりやります」
この案件は、どこに落ちつくのか正直なところよく分からなかった。なにかが、形になりそうな気がするが、それはあくまで捜査手段に関することに過ぎなかった。
森光は、いくつかのワードを頭の中で唱える。
赤十字社、稀血、血液製剤、血液型カード……。
これらすべてに共通している、そして関係しているワードとは、なにかあっただろうか。
2
うねった小道はわずかに傾斜がついていて、しかも入り組んでいるために、もうけられた交通標識やら、注意をうながす立て看板などが肩身狭そうだった。
「じっくりと、やらせてもらいますから、森光さん、仕事してていいですよ」
鑑識課からよびよせた多々良は、野球で言えばキャッチャーが似合いそうな強健そうな体つき、そして面体をしていた。しゃくれ顎を押さえながらも、現場に挑むその小さな目は、本物だ。動物の毛一本も、見逃さない眼力を有す。
「いや、しばらくここで見ていていいだろう」
「なんだ。張り合いがない声だ。疲れているのか」
近くにはハッチバックが開いたままの、護送車カラーのバンが停められている。そこには、鑑識の七つ道具と、検査機器、その他、防護布や、ブルーシートなど、現場保存のための非常用セット一式が搭載されている。彼は搭載ケースの一つに取り掛かって、なにかのアイテムを取り出そうとしていた。
「そんなんじゃない。考えているんだ」
「何を?」
「この案件の裏を引っ張り出す、捜査手段だ。どう切り込んだものか、と思ってね」
彼からヒントを得るべく、それに関連したワードを森光は並べ立てていった。
「血液バンクとか、そういうこと?」
彼は気のない風に言って、コンクリート蓋がならぶ、側溝の物陰に向かって四つんばいになった。ケースから取りだした道具は、ルーペ類だった。幾段ものレンズがスライド式に束ねられた仕様。用途に合わせた倍率レンズで対象を見つめることができる。
森光は念入りに地に目を這わせて捜査する彼の背中に刻まれた、黄文字の〝神奈川県警〟を目で追いながら、ぼんやりと思案にくれる。
彼からそっけなく吐き出された、バンクという言葉は、適切だった。
派生的に、データバンクと森光の頭が導き出していた。そうだ、データバンクだ。稀血と呼ばれる、稲原の血液型について知っているのは、親近者にかぎられる。だが、血液型を取り扱うデータバンクの関係者ならば、そのかぎりではないはずだ。
森光は携帯を署につなげた。そして、加隈を呼び出す。
「どうした?」
「例の案件だ。やってもらいたいことがある」
「ひとを顎で使うな。それは、まだ重要案件に昇格していないんだ。おれたちにとっては、まだ雑用でしかない」
「押しつけてきたのは、お前だ。いやとはいわせん。それに、責任をとると言ったのは、お前だ」
舌打ちが聞こえた。
「データバンクだ。そう、赤十字社だ。そこの中央で、献血データを取り扱っている責任者と連絡を取り、情報が持ち出された事実がないかどうか、確認してもらいたい」
「……分かった。電話一本で済むなら、受けよう。報告は、お前が帰ってくるまでにする」
「ありがとう。そっちにもどるのは、あと、二時間っていったところか」
「了解」
二人は互いに、電話を切った。ちょうどその時、多々良が被っていた帽子を、ぐるりと半回転させて、つばを後ろ向きにした。すぐさま、こっちへきてくれ、とひょいひょい手招きされた。なにか見つけたようだった。
「これね」と、彼が捜査手袋をした指でつまみあげたのは、ワイシャツ用のカフスボタンだ。起伏のない、ありふれた仕様。雨が降らなかったことが幸いしてか、きれいな状態を保っていた。
「稲原が失ったという、ボタンに間違いないだろう」
森光が太鼓判を押すと、彼は携帯していた遺留品入れ用ビニールに、それをそっと入れた。
「色はこれで間違いなかったか?」
「同じだ」
彼はうなずくと、再捜査に掛かった。森光はたっぷりと見届けてから、最寄りの家の敷地内に入った。庭は広いが、家の建蔽率は小さくとられた、中産階級の見本のような家。木塀のうらは、金木犀とかマルメロといった、季節の折々に臭いを楽しませてくれる木ばかりが好んで植えられていた。
青銅のノッカーのついた真鍮製のドア。チャイムは、押しボタンに音符が浮かんでいた。
「はい……」
呼び鈴を押してから、すぐに主婦が出た。六十に迫った婦人だ。好奇心旺盛そうな顔つきをしているが、それを抑制しているといった具合が、顔の機微に表れていた。おそらく、現場捜査をしているところを、窓からこっそり見ていたにちがいない。
「神奈川県警、港北署の森光と申します」
森光は如才ない手つきで名刺を渡す。用件を話した。六月八日の深夜十一時過ぎ頃に、この付近に停まっていた、日産製のミニバンタイプの2WD、セレナ。色は、黒。後部席のスライドドアが開け放たれ、助手席にいた者も含めて、三名ほどの男が飛び出した――。事実関係をそのままに伝えるのは、彼女自身に注意喚起をうながすためでもある。
「見たことはないですわね……」
主婦は頬に手を当てて、困惑顔をしていた。森光はセレナの印刷写真を引き抜いて、入れ替わりに男の人相書きをさっと差し出した。スポーツ刈りの、見事な盤台面。横顔のみの描写であったが、その事がはっきりと分かるのは、珍しいことなのかもしれない。
「これも……分かりません。見たことがないです」
このコピーも引っ込めることにした。手帳を取り出す。
「それでは、昨晩の深夜十一時頃、何をされていましたか」
「もう、寝ていました。うちは、寝るのが早いんです。というより、この辺は年寄りが多いから、みんな寝るのが早いわね」
「十一時には、起きている方はいない、と」
「そうですわね……八十過ぎのご夫婦で、そんな時間まで起きていてもやることはないでしょうに」それから婦人は、思いだしたようにあっと洩らして、手を打った。「一軒向こう、斜向かいの梅村さんなら、四十になる息子さんがいますわ。その人なら、起きているわ」
消されないカーテン越しの光。彼女はいつもそれを見かけているようであった。
「……と、奥さん自身はどうなのでしょう。これまでにこういった不審車が、この付近をうろうろしている姿を見かけたことはあったりします?」
「ないわ。……ないはずよ。だって、この辺なんて、特になにもないんだからね」
「車が通る音がすれば、お分かりになります?」
「どうでしょう?」彼女は曖昧に首を捻った。「分かるときは分かるんだろうけれど、でも、はっきりとは言えないわ」
どうやら、得られるものはないようだった。婦人が紹介してくれた男に期待したい。その後、不審車について見かけたら近づかないよう告げた上で、その場で即連絡を入れるよう要請した。通報する際は、署の番号でも、森光の番号でもどちらでも構わないと伝えた。
婦人が紹介してくれた男を訪ねる。が、彼は仕事に出ているらしく、在宅していなかった。
代わりにやせ細った男の母親が相手となった。けっこうな年をとっているはずだったが、その澄んだ色が彼女の人生を象徴するように、角膜は二十歳は若い光を帯びていた。
「不審車ねえ……。まったく関係ないようなことでしかない話しか、思い浮かばないんだけれど。はたして、こんなところでいって良いものかしら」
彼女の逡巡を打ち消すように、森光はつとめて優しい声音でうながした。彼女は導かれるように語り出した。
半年ほど前から、同僚を送っているらしきSUVが通りかかるようになった。運転しているのは若い女性で、送迎人は、同僚と思しきスーツ姿の婦人たちであった。だいたい九時頃から十時頃に二、三回この付近を通りかかるとのことだったが、ときには十一時を過ぎる時もあったということであった。車種がちがうことから、探している該当の車ではないことは明らかだったが、この車の主が目撃者になる可能性もあった。掘り当てていく価値はある。森光は、情報を募って、手帳にまとめた。
ヒントは、車にプリントされた〝ミキ・サポートシステムズ〟という屋号であった。
森光は梅村家を辞去すると、さっそく警務課に携帯を掛けた。情報照会だ。ミキ・サポートシステムズの所在地、所属員、会社の中身がすぐに割れた。商品に付ける値札、タグを委託製造、印刷する会社ということだった。また、委託を受けた先の機械を保守、点検する業務をになっている。女性ばかりを採用しているのは、元々、アパレル業からスタートしたためだという。
森光は、まだ作業中であった多々良に男の件を告げて委任してから、タクシーで向かった。四つ辻を三つすぎて、長い直線路を十分ばかり走った先に、その会社はあった。
訪ねると、受付をしていた三十輩の女性が、社長を連れてきた。二つに結った髪だけを茶色く染めた、派手好みの関西気質を感じさせる婦人であった。事情を告げると、彼女は協力的に対応してくれた。通り道を使用しているのは、確かだという。
「昨晩の十時半頃、そこ通りましたよ」
「正確に思いだして下さい。十時、何分ですか」
彼女の顔は、思案に曇った。女性には好ましくない毛穴が頬にたくさんあるのは、肌の手入れがおろそかになっている証拠であった。彼女はエンジニアという肩書きを誇りにしていて、そのこと以外には特に、気に掛けていないとみえる。
「十時、三十……五分くらい」
SUVのインパネに埋め込まれたデジタル時計が示していた数字だ。誤差があって、二三分ほどそれは早く進んでいる。
「例の通りに、不審車の姿を見かけましたか? 車種は、これです。日産の、セレナ――」
森光は同型車の写真を取りだして、彼女に示した。
「ありませんでした……、けど、この車、黒なんでしょう? この写真にあるとおりでいいんでしょう? だとしたら、二日前に見かけていますよ」
「それは、何時です」
「昨晩よりも十分は早いぐらいでしょうか?」
「乗っていた男は、見ましたか?」
彼女は首を振った。いきなり、ハイビームに切り替えて、視界をくらましてきたようであった。それで、彼らの顔が遮られた。結果、シルエットでしか見ることができなかった。
「運転席と、助手席に乗っていたんですね?」
「いえ、運転席のひとりだけです」
「後部席は?」
「スモークガラスですから、そちらの方は見えません。でも、なんとなく独りだったように思えるんですが……」
「その車について、どこかで見かけたことは?」
彼女は躊躇を示してから、首を振った。
「……ありませんね」
「では、これを御覧ください」
森光は似顔絵のコピーを懐から取りだして示した。彼女は、それにじっと食い入るように見つめた。が、その目色には、確かなものを掴んだというような感触は感じられなかった。
「見たことがない顔です……」
用紙を突き返しての返答となった。森光は受け取り、折り畳んでから引っ込めた。そして、彼女が見かけたセレナについて、微細なことを聞いていく。手帳に押さえていくその文字のあり様を、彼女は目で追っていた。
セレナは、様子見で現場に常駐していたようだ。下見をしていたといっていいだろう。そうなると、稲原の帰宅路を押さえたうえで、襲い掛かる場所もえらんでいたというべきか。つまり、血を抜き出されたのは、計画的だったということだ。しかも、入念に練られた計画だ。これは、裏のある組織的な犯行の可能性が高い。
稲原は、狙われるべくして、狙われた――
「その通り道を利用している、通行人の顔ぶれについて、あなたは把握していらっしゃる?」
森光は話題を転じた。彼女は、ええ、と縮こまった姿勢でうなずいた。
「だいたいといいますか、いつも通っているお方は、決まっていますね」
「二十代後半のサラリーマンについて、覚えはありますか?」
「きっと、……その人が、事件に巻き込まれた人なんですね……?」
森光は返答せず、彼女の口許をじっと見ていた。
「覚えがあります」と、社長は顎を少しうわむけて言った。
「彼について、ちょっと教えていただけませんか?」
彼女が持っている情報は、断片の寄せあつめといった細々としたものではあったが、それなりに有益なものであった。稲原はいつも徒歩でその道を通過するわけだったが、蛍光コードの携帯プレーヤーを装着しているときが多く、車の往来について気づかない、あるいは避けようとしないらしかった。彼の付近に不審人物や、不審車輌がついて回った事実は確認していない。この事実は、過去にそういったことがあったとしても、稲原は気づかなかったとする裏付けになる。暴漢たちは、下見を実行していたばかりではなく、少なくとも一週間ほどは念入りに稲原を監視していたのではないか。
「御協力ありがとうございました。聴取は、これで終わりにしたいと思います」
連絡先を念入りに彼女に伝えたところで、森光は事務所を辞去した。タクシーを使って、まっすぐ港北署に向かう。時刻は四時を回っていた。そのことを認めてから多々良に携帯をつなぐと、委任していた件について、特に収穫はなかったという報告を受けた。
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「ネットワークを使って、データ管理が統一されたのは最近のことらしい。そして、ホストコンピューターをどーんと中心に据えた、配線と巨大サーバーだらけのデータ管理室……お前がイメージで言っていたやつだ。こういうのは実際にあって、中央だけではなく、地方ブロックにも情報管理の強化面から用意されているということだった」
加隈の話を、森光は熱いコーヒーをすすりながらじっと聞いていた。また一口、熱い液をすすってから、
「つまり、地方で作成されたデータを、どこからでも共有できるようにしてあるわけなんだな?」
「そういうことだ。全国で一年間にあつめられる情報は、献血データだけでのべ五百二十五万件をこえるそうだ。中央の人間にはとても扱いきれない、膨大をきわめる情報量といっていい。だから、地方の担当者が担当分のデータ作成をし、それを自己管理する形をとっている。分割責任管理というべきか。そもそも、弾き出される検査データや記録ばかりではなく、現物としての献血血液に、検体血液そのものだって、個人情報として取り扱って管理しているわけだから、こういう形をとるしかないんだよ」
本題に直截切り込まずに、前説をこんなに長く持ち掛けるのは、相当入念な説明を受けたためにちがいない。これは言ってみれば、面倒なことの相手をさせられたことの鬱憤晴らしというわけだ。
「それで、おれが相手するのは、神奈川の赤十字社ということでいいんだな?」
森光は頃合を計って、切り込んだ。ぴたり、と一瞬彼の動きが止められた。
「そうだな、県の赤十字社だ。担当の者も、紹介してもらっている。接見に向かえば、直截会って話を聞いてくれるとのこと」
メモの切れはしがさっとよこされた。
走り書きで、窪島と書かれてある。
「神奈川県の血液データバンクにハッキングがあった事実は?」
「確認中ということだった」
「なら、おれらに会う段取りもできていないということじゃないか」
「データ部分について、特に機密の内容は、外部機関に委託しているということだった。そちらから情報を受けながら、警察と今後の進展について考えていこうとでも思っているのかもしれない」
外部機関に委託するということは、それだけ堅固なネット防衛が成されているということだ。ファイヤーウォール一枚一枚に、プロフェッショナル集団の知恵が結集されている。それを突破しての情報奪取とあらば、由々しき事態が起こったというべきだろう。やはり、相手は専門集団なのだろうか。仮に、個人だったとしても相当、その手の技術に通じているはずだ。
とりあえず、直截会って話を聞いたほうが、早そうだ。
「いつでも会ってくれるといっていたか?」
「窪島さんは、情報収集担当者らしいから、外勤が多いらしい。センターの方にいるのは、一日の勤務で三分の一ということだった。だから、確実に会えるのは、医療機関に出向するその前の朝の十時頃か、帰ってきてからの五時以降しかない。つまり、今日を蹴れば、明日早朝からそちらに出なければいけないこととなる」
「いまから出るよ」
「おれから連絡いれようか?」
彼は顔を引きしめて言った。森光はていよく断った。
「自分でやるさ。いろいろと聞きたいことがあるんでな。まず、挨拶が必要だ」
区境をとびこえて神奈川県赤十字血液センターに到着したのは、六時半を過ぎたころだった。四角い清潔な白で拵えられた、血液のストック所。巨大施設と言っていい。周辺に五つほどの、分館を抱え込んでいる。いずれも飾り気のない造りで、落ちてきた支配的な夜の闇をはねかえすように、確固たる存在感を保っていた。植樹まで整然としていて、すべてが合理的に造り込まれていた。
出入りするのは白衣に身を包んだ研究者ばかりだろうと勝手に想像したのだったが、それは本当に勝手な想像でしかなかった。多くは、スーツ姿の職員ばかりであった。窪島もそのひとりで、彼は灰褐色の背広をまとっていた。営業マン然とした、風貌。ワイシャツの襟が、すこしだけ高いのは基礎体力の駆使を意識した、外勤組の証左というべきだった。
エントランスを抜けて、請じ入れられたのは、小さなミーティング室だ。机と、壁の距離が近い。そして、背面に大きなホワイトボード。あえてこの部屋をえらんだのは、他の職員の目と耳をしりぞくためだろうか。
「よろしくお願いします。窪島です」
機械的に差し出された名刺には、〝Medial Representative〟 、あいだをおいて学術課と、彼の肩書きが書かれてあった。いわゆる、MR担当者ということでいいようだった。血液製剤に関する医療情報を関係者に提供し、かわりに処方効果などの臨床現場の情報を収拾しては、商品にそれらの意見をフィードバックさせる橋渡し役。医療製品の陰の立て役者だ。
彼は挨拶もそこそこに、ものうい面持ちで委託した外部機関から受けた情報を開陳しはじめた。トラブルがあったことが確認された。しかしながら、その機関は組織の面子から、隠蔽に走った。事実関係がはっきりとしなかった背景には、組織内部にて膠着があったからのようだ。
「――情報はもちだされていたのです。これから広報とともに、この醜態についてわれわれはマスコミを通じて、県民に謝罪をしなければなりません」
森光は手をさしのべ、制した。彼は、はっとしたように目を二三度、しばたたかせた。
「その話は、けっこう。私がきたのは、持ち出された情報についてだけでいいのです」
「そうですか、それは失礼いたしました」彼は心持ちほっとしたように緊張を解いた。「ハッキング行為があったのは、五月の末日――三十一日だそうです。持ち出された情報は単数……ということでした」
「その単数の中身は?」
彼は厳しい顔を見せた。
「明かさなければいけませんか?」
「被害報告があがっていますことをお伝えします。つまり、情報を開示してもらわなければいけない状況になっているということです」
「その被害報告……といいますと?」
彼の声は、若干ひるみがあった。もう少し、恐怖が上乗せされていたら、かすれ声になっていたことだろう。
森光は考え込んだ。
こういう場合、明かさない方が、自分にとって有利に働くのではないか。その作戦を選択する方向でいこう。
「あなたがすべてを明かしてから、お教えすることに致しましょう。その情報も、こちらにとっては一応捜査情報であり、機密に觝触するのです」
「まさか、直截的な被害を受けたとか……そういうことでしょうか?」
「まあ、そう受け取って良いでしょう」
彼の顔は、青ざめた。個人情報を預かっている手前、盗みだされた情報の主に、直截連絡を取る手段は彼らに残されている。が、その時は謝罪ばかりではなく、補償の話まで進めなければいけないこととなるから、彼らとしてはもっと情報を収拾しなければいけないはずだった。
「盗みだされた情報の中身……教えていただけますか?」
森光は強く切り込んだ。
彼は怯えたような目をあげた。グレーと黒の半端なまだら髪は、進行する老いの程度をそのままに表していた。
彼はうなずいてから語り出した。
稲原明慶。
持ち出されたのは彼についての個人情報であった。その個人情報というのは、献血初体験の際に登録する診療録が中心で、そのほかに、献血血液のy-GTP指数や、コレステロール値などにみる十四項目にわたる生化学検査データまでふくまれる。しかも、後者は更新制であっても、過去のデータは比較のために保存されることから、健康指数まで割り出すことが可能な、きわめて微に入った私的な情報といえた。
問題は、持ち出されたのが彼の分、一件のみということであった。血液センターが委託した外部機関が隠蔽工作に走ったのは、微少被害におわっていることがもっともな理由であった。小火がおこって、すぐに消えたという程度にしか受け止めなかったのだろう。だから、もみ消すだけで事足りると踏んだ。それから、情報を封鎖する自分たちの名誉を守る保守的行動におよんだ。
照準が絞られた攻撃というのは、危険性が高い。彼らがそのことを意識していないのは、セキュリティ会社としては致命的だ。おそらく、防御一辺倒に機能している会社であって、ハッカーに出会せば、二次元上での戦闘には応じるものの、そのこと以外には、頭が回らないところなのだろう。
「気になったんだがね、いいだろうか」
森光は鼻先を掻きながら、訊ねる。
「なんでしょうか」
「掘り出された個人情報のなかには、血液情報もふくまれるわけでしょう」
「ああ、はい」
「ならば、どこに献血した血液が保管されているかも特定できるのだろうか?」
「それは、特定可能です」と、彼は勢いのある口調で言った。「遡及調査ができるように、自主ガイドラインが厚労省の指導の下、作成されています。保管庫に備蓄されています、血液製剤に加工用の献血はおろか、それが使用されてしまった後でも、ウィンドウ・ピリオドという場所にて、全献血者の輸血用血液の一部を、冷凍保存していますから、十年以内であれば、すぐに感染症のもとになる血液を割り出せるようになっています」
ウィンドウ・ピリオドは、室内全体がマイナス二〇度に調整された、冷凍保管庫だ。何段もの棚がかけられたスチールラックに、採取した年月ごとに、仕様ケースに収められた献血液がさながら商品陳列のようにずらりとならんでいる。当然、担当者がいて、血液製剤の保管庫同様、彼の許可がえられないかぎり、重役でもそこに立ち入ることはできない。
今回稲原の情報がもちだされたのは、僅かに一週間と少し前だ。そのあいだに、この血液センターから彼の血を持ちだそうとたくらんでいたとすれば、ウィンドウ・ピリオドのほうの血を狙うのかもしれない。加工用に回された献血のほうは、すでに使用されてしまって、存在しない可能性が高いからだ。
問題は、犯人がこの遡及調査ガイドラインに沿ってもうけられた保管庫を知っているかどうかという点だろう。
「ウィンドウ・ピリオドについて、調べてもらえないだろうか」
森光はだしぬけに言った。
唐突の度合いを示すように、彼は呆けていた。本気だろうかとでも思っているにちがいない。森光は本気のつもりでいた。
「……いや、調べて欲しい。調べなければいけない。隠蔽したんだろう? 県民への裏切りだ。あなた方は、われわれの要請に応じる義務がある」
彼の顔がこわばった。そして、ぎこちない動きで立ち上がる。
「ちょっと、出てもいいですか」
「けっこう」
彼は部屋の外に消えていった。その後、暇がつづいた森光は携帯をいじっていたが、すぐに飽きて、外の景色に視線が移った。角張った印象だけが際立った総合体育館といった施設が見えている。アクリル板でこしらえられた円柱式の連絡通路が渡されていて、その中に研究員らしき婦人が謹厳な足取りで歩いている姿があった。
それから十五分は過ぎた。
ドアが開くなり、窪島がはいってきた。髪が乱れている。ウィンドウ・ピリオドに立ち入ったのかもしれない。零下二十度の冷凍保管庫とあらば、防寒をかねた防疫着なるものを装着しなければならない。
「確認してもらえたようですね?」
「……はい」
彼は息を切らしながら、森光の正面前に立つ。
「それで、どうだったのです」
「ありませんでした」
盗まれたということだ。
いよいよ、警察が介入していい事態となってきた。全体としては良くない兆候だが、しかし皮肉なことにこちらには都合が良かった。
「応援を呼びます、いいですね?」
森光は携帯を取りだして、言った。彼は息を呑んだのち、固いうなずきをした。役員のほうと何かしらの口あわせがあったのかもしれない。それで出方をはかっているといった具合だ。
森光は彼の顔色を窺いながら、本部に繋げた。そして、応援部隊の派遣を取りつける。そのあとは、細やかな説明に入った。そのあいだ、森光は窪島の顔色をうかがっていた。ひどく悪かった。突然、吐いてもおかしくはない。どうやら、危機意識が薄かったのは、彼も例外ではなかったようだ。
4
ウィンドウ・ピリオドに保管される検血液の入ったケースは年間、二十九万にもおよぶ。これが十年間分も備蓄されるわけだから、もはや保管庫は、ちょっとした図書館の様相を呈する。
侵入者は、二つのロックをパスして、保管庫の中に立ち入った。このパスは、発行された社員コードで成り立っているため、外部からの人間には解錠する余地はない。また、データが記録装置にアクセスされることから、もし社員の中に犯人がいるというのだったら、そのデータ録に個人固有の認証IDが残されていることになる。
「それにしても、よくあんなところから、目的のものを見つけ出すことができたものだ」
駆けつけた県警の刑事が言った。柳澤という男だ。刑事部一課の盗犯係に所属している。森光よりもずっと若いが、階級が同じであることからか、人を食って掛かるようなところがあって、年の差が二人のあいだでないようなものになっていた。
「あんたは、あの中に入ったのか?」
柳澤は返事しない森光を気に掛けて言った。
「もちろんだ。が、ちらっとだけだ。持ち出された箇所を、確認しただけだ」
「それで、何か分かったことは?」
かぶりを振った。
「特に、ないね。そこに、何かがあるとは思えなかったから、ちがうことを考えていた」
彼は軸足を変えて、森光に向き合ってきた。
「そのちがうこととは?」
「最初に伝えたとおり、今回の件は、稲原の件とつながっている。だから、こういったことがあって、なぜその後に、彼から直截、血を採取するという、大胆なまでの強硬手段におよんだのか」
「それは決まっているだろう。ウィンドウ・ピリオドから持ち出された血液の量が足りなかったからだ」
「それは、つまり、足りない……ということを知らなかったということになる。となれば、このセンターの職員ではないということになってくる」
彼はかち、と口の中で歯をぶつけ合う音を立てた。窓を顎で示して、
「これだけの施設だ。分かっているじゃないか。職員が何人いると思っているんだよ。しかも専門職だから、それぞれの部門の知識にかたよっている。だもんだから、保管にたずさわる人間外はいわゆる門外漢で、なにもしらないということになってくる」
「本当に、そう思っているのか?」
「なに?」
「こういったことは、基本的な知識の部類だ。ウィンドウ・ピリオドがもうけられたのは、遡及調査ガイドラインが打ち立てられたことによるものだった。これは、センター全体が改革される厳しい安全対策の一貫である、という説明を職員から聞き受けている。輸血用血液の感染性因子の不活化導入に、E型肝炎ウィルスの疫学調査……、凍結血しょうを保管することになったのも、このガイドラインによるものということだった。全体が、請け負うだけの大掛かりなものだったというのに、個々の職員が自分の担当分だけを把握するだけで終わっているということなど、ありえるだろうか。そもそも、ガイドラインが作成されたのは、B型肝炎感染事例が多数発生したことから、危機的意識を政府が持ったためなんだ。こうした血液の保管は、国家全体の重要事案であるということだ」
血液の安全が守られるそのために、ガイドラインが生まれたのだということを、森光は強調する。彼を口を封じ込めさせることができるだけの、強い材料はその他にもいくつもあった。職員の話を、事前にしっかりと聞いておいたことがここで有利に働くこととなった。彼の顔から、とうとう対抗意識が失せるにいたった。
「あんたのいわんとすることは分かったよ。だが、あんたがそう思っているほど、人間なんてのは完全な存在じゃない。どこか、抜けているんだ。そして、そこから崩れていくように、全体が成りたっている。おれらの仕事は、そういった箇所を探すことにある」
彼は自分の考えを曲げるつもりはないようだった。
それは、それで構わないと森光は思っていた。いまのところ、どこに答えがあるだなんて、確かな事は何も言えないのだ。
「ならば、記録装置に残された職員のパス記録を徹底してあさってみるんだな」
「そのつもりでいる」
「で、ここの職員が稲原をねらったとする理由はどのように考えている?」
森光は抑揚なしに訊ねた。
「それとは別件だ」と、彼は期待はずれな回答をした。「そう、二つの案件は切り離して考えなければいけない。今回の案件は、職権濫用に、窃盗行為だ。たったそれだけなのだ。この二つをつめていくその先に、稲原の件の答えが導き出される――そういうことになる」
同僚によびだされると、彼はすばやく消えていった。後に残された森光は何ともいえない気持に支配されたまま、しばらくじっとした。
難しい案件だった。
どちらにせよ、センターの職員を疑うのは、筋違いのように思える。ホストコンピューターに踏み込んで、中枢にて保管されていた情報を引き出したやり手のハッカーだ。その男がセンター職員だったとして、ロックを解錠するパスを持っているから、みすみす記録が残るような下手な真似をするだろうか。
ふとここで、森光はある違和感に気づいた。すぐさま、廊下を走り出し、窪島の姿を求めた。彼は、べつの捜査官の聴取を受けている途中だったが、強引に引っ張り出して、離れたところにつれだした。
「なにかあったのです?」
彼はいぶかしい表情を抑制する顔つきをしていた。
「聞きたいことがまだあった」
「なんでしょう」
「戸のロック装置だ。それを管理しているのは、誰なのか? こちらの会社ではないだろう?」
「……外部機関です」
やはり、そうだったのだ。これは、その会社がいくらでも改竄できる余地があるということを示している。
「例の、データバンクを管理してもらっている会社と同じか?」
「いえ、ちがいます。べつの会社です」
一緒ではなかったが、まあ十分だ。調べていく先が決まった。
「なんというところだ。教えてもらえないか」
彼は逡巡を示したあと、言った。
「……アムネスタ警備システムズです」
5
常駐する警備員と、防犯システムをセットで販売するのが、アムネスタ警備システムズのやり口だった。大口の法人だけを相手とする、システマティックな警備会社ということだ。ルールブックまで会社側が請け負う形でセンター内の安全を確保する。もともとICパスを企画、製造する外資系電機会社であったのだったが、警備会社を買収して合弁企業となったのだった。
提供されるロックシステムにはいくつかの種類があり、そしてモードを設定し直すことができる。センターが採用しているのは、法人仕様一般のもので、モードは通常はカンパニー・モードだが、施設が閉鎖されているときは、セキュリティ・モードに切り替えられる。この二つの違いは、IDが使用できるできないという点にある。
「これは、何かの間違いだと、いまでも疑っていますよ、刑事さん」
えび茶色のヘリンボーン・スーツは決して仕立てがいいものではない。だが、顔から身体が人一倍大きくて、熱っぽさを感じさせるこの男には、良くあっているといっていいのかもしれなかった。アムネスタの代表取締役、レニー・ウォルポール。ITの聖地シリコンバレーで学んで、研究に努めたあげくに、堅実な研鑽に相応しい勤務実績をあげ、成功を収めてきた実力派、起業家。日本語も、達者であった。
「われわれの構築したシステムに、欠陥などはありません」
自分が提供するものに、相当な自信を持っているようだった。そのことの確かさを思い知らせてくるほどに、澱みない彼の得意な弁舌が披露される。
森光は彼の熱が冷めるまで付き合うつもりだった。が、一向に収まる気配がなかったので、けっきょく途中で遮って言った。
「あなたが提供するシステムが完全なのは、理解しました。だが、それ以上は言わないほうがいいのかもしれない。というのも、完全であればあるほど、抜け道は限定してしまうからですよ。そうです、あなたの企業の中に、そういったことに手を貸す、あるいは手を出す人間がいたということになってくるのです」
彼はおおげさに肩をそびやかし、おてあげを示した。そして首を振る。思い切り、彼の意気を挫く形となった。だが、森光はフォローするつもりはなかった。端からそこに突っ込んでいくつもりでいたからだ。
「実際、どうなのです? 社員に協力者がいたとしたら、問題の記録装置に引っ掛からない方法を提供することは可能ですか」
彼は考えたこともないといった具合に、首を左右に揺すった。しばらくすると、口先に力をこめ、顔をあらためた。考えと気持を入れ替えたようだった。
「協力者がいたなら、可能でしょう」
はっきりとした返答だった。
「具体的な中身をお教えねがいたい。社員用のものとはちがう、IDを独自に発行するのだろうか?」
「マスターカードというのがありましてね、これでもって、機械を麻痺させることが可能なのです。つまり、どういうことかと言いますと、ロックを維持したまま、解錠することが可能だということです。開ける方法は、マスターカードを差し込んだままに、付属のシリンダーに鍵で直截――ということになります」
「鍵とカードが二つ揃っていなければいけないということですか」
「はい」
「カードはあなた方が管理しているとして、鍵、こちらの方はどうです」
「同じです。管理しています。そして、警備室の方にも残されています」
アムネスタの職員と通じていたなら、センター職員のだれでも、記録を残すことなしに、侵入可能だったということになる。
焦点は、二つのロックをくぐり抜けても、疑われない人物であるという点だ。IDの必要としない日――つまり、平日の出勤日に保管庫に頻繁に出入りする人間であり、なおかつ、ロックシステムの中身についてある程度の知識がある、さらには稀血について強い関心をもっている人間……。
「ところで、ウォルポールさん、持ち出された情報についての中身について、押さえていますでしょうか?」
「なんでも、稀血の所有者の情報が持ち出されたということでしたね」
「それです。稀血と聞いて、なにか思い当たることがあれば是非に、申しあげていただきたい」
どんなことでも、彼から吸い上げておきたいところだった。きっと、事件を解き明かすキーワードはそこにこそあるはずなのだから。
「例えば、どんなことでしょう」
彼は困ったように、首をひねった。
「社員にそういった人と繋がりがあるというような人がいたりとか、しないでしょうか?あるいは、本人がそうであるとか――」
「……一人だけいますよ、稀血の主が」
稀血の持ち主というのは、そうそう出会えるようなものなんかではないはずだ。それなのに、彼はそんなことを言うのだった。
「教えて下さい、名前を」
「仁田大悟といいます」
「どういう人物です? というより、正確なブラッド・タイプが知りたいですね」
「真面目な職員です。そして、タイプは、Rhマイナスなんですよ、彼は。だから、ボンベイ型のように、極端なものでもないですが、まあ稀血です。我ら白人では、十人に一人がこれなんですが、日本ではそれをずっと下回る確立だそうですね。特に、タイプABは、二千人に一人だそうで。そのことを、強く意識しているようで、彼はそういった人間が集まる、団体に所属しているようです」
仁田大悟。
彼のことが、気に掛かってならなくなってきた。センターの職員と通じている事実を突き止めれば、そこから一気に突破口が開けそうだ。
そういえば、ここまではあくまで推測でなりたっている話に過ぎなかった。捜査に強制力は働かない。だから、いろいろな場面でこれから無理が生じる恐れが出てくる。ウォルポールにしたって、そのことは分かっているだろう。それでも律義に付き合ってくれているのは、不穏当なことを自分の身に残したくないという、潔癖なまでの自己信条からではないか。
「彼を、しばらく貸してもらいたいのですが、よろしいでしょうね?」
「何を、お聞きになさるので? 私は、彼の社内での心証が悪くなるようなことは、できるだけしたくないのです」
「彼が所属している団体です。それが、どうにも気になりましてね。捜査のヒントにしたい、と。あくまで、個人的な接触ですよ」
彼は、よく分からないといった顔つきのままで、わかりました、と短く応じた。取っつきにくい警戒感のようなものが、顔の端々にしっかり残されたままだった。
6
仁田は思いがけず、よくしゃべる男だった。
約束を取りつけていた森光と昼食時、ファミリーレストランで落ち合うなり、まくしたてるように話をつらねた。自分の血液型について、誇りを持っているようであった。一種の選民思想といってもいい。さすがに度を超しているというまでではなかったので、それらの話とは不快感情をかかえることなしにつきあうことができた。
「小さい頃、D抗原を持ちあわせていないということを、医学的専門用語で説明されて、そんな危なっかしい血が流れているだなんて、怖い……と思ったことがあります。その恐れは、いま誇りになっているとまで言っていいのかもしれません。というのも、自分の中にある特殊性、これについて付き合い方を変えることにしたわけですよ。どうせなら、自分の中にあるこれをもっと、尊重しよう、と――」
それが、そのまま彼の団体所属理由ということでいいようだ。
Rhマイナス繋がろう会。
会員、二十三名のちょっとした団体だ。主に、仲間を捜し当てて、献血を積極的に推進し、そのうえで報告会を開いては成果を確かめ合い、和睦を深めようという、実に健全なものだ。
神奈川県全体の赤十字の献血登録に署名しているRhマイナスの所有者は、五千人を少し上回るぐらいの大数にまで及ぶ。そのうちの1%にも満たない彼らの活動は、きっと同じ型の仲間を縁の下から支えているというような、そんな、ささやかなものに過ぎない。
「メンバーは、皆、Rhマイナスということでいいんだね。あくまで、お互い、そういった証明書を見せ合うというようなことはしていない、と」
「証明書なんて必要ないですがね。しかし、偽って、この団体に所属することにどういう意味があるというのです?」
やや、不機嫌な口調で彼は言った。
「気分を害されたなら、謝りますよ。すこし、聞いてみたかっただけです。なんでも、疑って掛かるのが、私の仕事ですからね」
「そんなに謝ってもらうほど害していませんよ。お気になさらずに。メンバーは確実に、皆、Rhマイナスのはずです。血液カードを見せてくれた方もいますし、同性のお方にかぎっていえば、生化学検査の結果とか見せ合ったりしたこともありました。だいいち、仲間を捜す方法というのは、口伝てに聞いたことをたどっていくというような、そんな手探りなんです。人から人に伝わっていることを自分たちがキャッチしていくわけで、その先で見つかったその人が当の血液じゃないってなれば、これは周囲に相当嘘を言い触らして回っているということになりますか」
彼の目で見れば、嘘を常態的につく癖のある人間は会の中にはいないということだった。仮にいつわった稀少血を誇りにしてそれを吹聴してまわっても、そのことがステータスとなるわけでもない。当人にこれといったメリットはないということだ。
「それにしても、手探りだなんて、地味なやり口だね。そんな古典的な方法で、成功するとは思えない」
彼の口尻が吊り上がって、失笑がたたえられた。
「たいてい、うまくいきませんよ。積極的にでていっても、個人情報保護の件が障害となって、その途中で打ち切りになります。なかには本人に行き着いても、門前払いを食うこともありますね。詐欺師の仲間と間違えられたりなんていうのは、仲間同士での笑い話だったりします」
「ちょっと、話題を変えるがね。献血を推奨する運動をしているということだったが、これは血液センターと密接に連絡を取り合っているということでいいんだね?」
「そうですね、連絡を取りあっています。事務所公認というわけではないのですが、健全な会であるということは理解していただいていまして、Rhマイナスの所持者があらたに登録されるようなことがあると、その当人に当方の会を紹介してもらっていただいているんです。あくまで、献血にたいして積極的な意思がおありのかた限定で、ですよ」
「なるほど、新規登録者。なら、センター紹介で登録したというお方もいらっしゃると」
「ぼくが知っているのは、三名ですね」
その三名について、森光はただしてみた。すると、ひとりだけ若い女性の名前がふくまれており、否応なしにその人物が気に掛かった。
佐高ゆいか。
そして、彼女の名前を挙げるなり、いつしか彼の口振りに興奮が入り混じっていることに、森光は気づいた。彼は熱に任せるままに言った。
「とびきり美人なんですよ、彼女。ちょっと、免疫がよわいところがあるらしくって、なよっとしている子なんですが、頭もいいし、英語をあやつれる才女ですよ。なんでも、国際貢献に興味があるらしくって、ユネスコの海外支援事業にたずさわる団体にも所属しているということでした」
「学生さんなのかね?」
「そうです。学生です」
彼は、彼女が所属している大学を口にした。案の定、語学留学を積極的に推奨している東京の学校だった。三回生で、文化部に所属している。字を書くことに興味があり、学内発行の新聞にことあるごとにコラムを寄稿している。その他、採算など考慮に入れない、NPO発行の事業目的外フリーペーパーにもいくつかたずさわっているということだった。
「刑事さんにも一目見てもらいたいお方ですよ。ああ違うなって納得できるぐらいの美人で、なんといいますか、格式を感じます」
「きみは、彼女のことが好きなのかね?」
森光はさして深い意味をもたせずに、さらりと訊ねた。すると、彼は心持ち抵抗感をもった具合に顔をしかめて、軽くのけぞった。
「そういうのじゃないですね。いえ、彼女のような子に好きだとか言われれば、そりゃ、まんざらでもない気にはなるんでしょうが、しかし、そういうのではないんですよ。それに――」彼は一旦言葉を切り、頬を掻いた。「彼女はすでに交際している男性がいらっしゃるわけですし……なんでも、婚約するとかしないとか、いろいろ噂になっていますが、本当のところは分かりませんが、まあ、つまるところぼくには関係ないことでしょう」
「学生さんなのに、すでに婚約どうこうの話になっているというのかね? 相手は、同じ学校の子? それとも?」
「学生さんじゃありませんよ、相手は。彼女が文筆の関係で参加しているもろもろの団体の人間でもありません。その外部にいるお方です。肩書きは研究者ということでした」
「研究者……? なんのかね」
「細胞学の研究者とおっしゃっていましたが、これまた、詳しいことは分かりません。……大事なのは、そういうことではなくて、その人の血液型でしょう。稀血なんです」
ぴく、と森光は心の内で反応した。
「もしや、Rhマイナスの所持者かね? だったら、君たちと――」
彼は首を振った。
「自分はちがうと思いますよ。というより、彼女からその型を直截きいたことがありません」
「聞いたことがないというのに、どうしてちがうと分かるのか」
「それは、彼女に会ってみれば分かりますよ。何も聞かずに、実際、話を聞いてみて下さいよ。そうすれば、分かりますから。なにより会って、まず彼女の美貌におどろいてくださいよ」
彼がそんなに積極的に推すなら、食指も動こうというものだ。出向いてやってもいい。いや、彼女が交際しているという男の正体を見ることも、捜査に意味があるはずなのだ。だから、これは単なる興味本位な接見ではない。
「分かったよ、情報ありがとう。その娘に会ってみるとするよ」