5.知らない世界で就業初日
エリノア様は治癒秘術構成を持つ方として、国王陛下から特別に別邸を賜っております。
この邸内でのことならば、国王陛下のお言葉よりエリノア様が優先です。
ですので、セト様がこのお部屋に住まわれることを止める権利を持つ方はいらっしゃいません。
……とは、ジゼルの言である。
エリノアに「仕事くれ」と言って別れた後、俺の朝飯を世話しにやって来てくれたジゼルに「エリノアってお姫様だったんですね、この家に俺がいても大丈夫ですか」と聞いてみたのだが、彼女の返答は淡々としたものだった。
いいんだってさ。俺がいても。
俺がエリノアの父親だったら、同じ家に十一も歳上の男が一緒に住むなんてその男を殺してでも阻止するけどな。
いや、殺されても困るんだけどね。
食後にどうぞ、と淹れてもらった紅茶を飲みながら、傍らに立つジゼルと会話を続ける。
顔も声も無表情な人だけど、だからと言って無口ではないらしい彼女は、俺の質問ひとつひとつに丁寧な回答をくれた。
「現在、セト様はエリノア様のお客様として認識されております。エリノア様はただ、お客様をご自宅でおもてなししているに過ぎません」
「それで問題ないんですか?」
「問題ありません」
「我ながら、お姫様のお客さん、で納得してもらえる気がしないんですけど……。あ、客として扱うってことは、もしかして俺が働きたいと言ったのは想定外でした?」
「はい。ですが、セト様の要求をエリノア様は非常に面白がっておいででした」
「あー、確かに面白がってる感じでしたね」
「セト様が目を覚ます前から、お客様としてお迎えする準備を進めておりましたので。まさか職をお求めになるとは予想外だった、と仰っておられました」
空になった陶器のカップに紅茶のお代わりを注ぎながら、ジゼルが言う。俺は相槌がわりにひとつ頷くと、先ほどエリノアの身分を知って思ったことを聞いてみた。
「……ちなみにですけど。俺が目を覚ました時に、エリノアに襲いかかるとか、そういう懸念はなかったんですかね」
「王宮ではそのような懸念もあったかもしれませんが、私は存知ません。なお、セト様は三日間ほど気を失っていましたが、その看病をされる間、エリノア様は治療に騎士の同行を許しませんでした」
「騎士とかいるんだ……。っていうか、護衛なしってことですよね? 大丈夫なんですか?」
だってエリノアってお姫様なんだよね?
そのお姫様の家の庭に血まみれで転がってた俺が言えたことではないんだろうけど、いくらなんでも不用心すぎないか、と部外者ながら心配になった。
しかしジゼルは、焦った様子もなく「ご心配は不要です」ときっぱり言い切ると、さらに言葉を続けた。
「エリノア様は、宮での護衛をご自身でお認めになった騎士に限定しております。そのため常駐している騎士はごく僅かです。しかし、仮にセト様がエリノア様に襲いかかるような事態になったとしても、エリノア様はそれを一瞬で返り討ちにできるだけの力をお持ちです。その力があるからこそ、エリノア様はお一人で治療にあたられました。万が一にでも、そんな気の迷いを起こされませんよう」
「え? あ、はい、気をつけます」
なんか物騒な言葉が出てきたけど聞かなかったことにする。返り討ち? あの非力そうなお姫様が?
とりあえず、俺がエリノアを襲ったりしなければ返り討ちにはされないはずだ。
……そうだよね?
わざわざ部屋まで運んでもらった朝食を終え、ジゼルがそれをてきぱきと片付ける。白パンとスープというシンプルな朝食に給仕の必要などほとんどないのに、ジゼルは食事中もずっとテーブルの傍から離れようとしなかった。徹底してるなぁ。
「それでは失礼いたします。この後、エリノア様に改めて怪我の経過をご確認いただきます。それで問題がなければ完治とのことです」
「分かりました」
「湯殿をご用意いたしますので、後ほどお声がけください。四日間、清拭だけでしたから色々とご不快でしょう。どうぞごゆっくりなさってください」
「ありがとうございます」
そう言って、ジゼルは深々と一礼し、部屋から出て行った。こっちが怪我人だったせいか看護師さんと接しているような感覚が抜けないけれど、着ている服も英国メイドっぽい給仕服だし、改めて別の世界に来ていることを実感する。
ちなみに、彼女の言う「清拭」については深く考えないようにしようと決めている。四日間寝ていたわりに体の不快感がそこまでひどくないので、たぶん寝ている間に拭いてくれたんだろう。誰がって、そりゃ当然ジゼルが。あの無表情系クールビューティに素っ裸にされて体中を拭いてもらったとか、その手の業界ではご褒美なのかもしれないが、残念ながら俺にとってはご褒美ではない。考えただけで死にそうだ。なので深く考えないことにした。
そう、ここは違う世界、俺の知らない世界なのだ。文化も価値観も常識も、俺が知っているそれとまったく違う。
ジゼルは看護師ではなくメイドさんで、エリノアはお姫様で、どうやら魔術という謎の技術があって、そして俺は帰れない。
でも俺は、なんとかして生きていかなければいけない。
粉砕系かつ脳脱系だったという俺の大怪我は完治した。生きていることが不思議なほどの大怪我だが、とりあえず俺は生きているのだ。
その後、怪我の経過を確認したエリノアから「完治」とのお言葉をいただいた。粉砕系の怪我がたった四日で治るのだから、エリノアの言う「治癒秘術」は本当に魔法のようだと思う。寝たきりだったのに、目覚めてすぐエリノアと話をする体力があったことも、俺にとっては驚きだった。
うん、生きてる。色々と不思議なことはあるけど、俺は死ななかった。助けられたのだ。
せっかく助けてもらった命を投げ出すような真似はしたくない。
だからせめて、俺の知っている「地球」に帰る方法が分かるその日まで、この世界でなんとかして生きていこう。そう思う。
そんなわけで、エリノアは約束した通り、俺に仕事を用意してくれた。
ニコニコと、そりゃあもう楽しそうな笑顔で一言。
「王宮書庫の整理をお願いします」
……ああうん、定職をくれ、とは言わなかったもんな。確かに。
*
王宮書庫、と言っても、一般的な「王宮」の中にあるわけではないらしい。というより、王宮とは城のことを指すのではなく、関係する建物の敷地すべてをまとめて「王宮」と呼ぶそうだ。というわけで、王宮書庫とは「王宮の敷地内にある書物庫」であり、高々とそびえ立つ城とはまったく別の場所にあるのだという。
ちなみに、王宮のど真ん中に建っている城は、なんていうか、いわゆる「城」って感じの城だった。ヨーロッパにこういうのあるよね、みたいなの。
「興味がないわけじゃない、けど」
ジゼルの話を聞くかぎり、「エリノアのお客さん」である俺は、王宮の方々にあまり良く思われてなさそうだ。嫌われていると明言されたわけではないけれど、しばらくはあまり関わらないようにしたい。
ジゼルに教えてもらった道を頼りに王宮書庫を目指す。王宮はその敷地全体を高い壁で囲っていて、書庫はその端にあるらしい。普通に道が敷かれていて、花壇があって、木々が並んでいるのを見る限り、まるでひとつの街のようだ。
すれ違う人々は皆、慌ただしく目的地に向かって走ったり歩いたり。王宮の朝はいつもこんな感じなのだろうかと、なんだか日本の朝市を思い出した。
「お、ここだな」
王宮の正門から見て左側、仕入れの人々のために用意された通称「西門」より更に奥。西と北を区切っているちょっとした林の、すぐ隣に建っている馬鹿でかい建物。
赤茶の煉瓦で造られたその建物は二階建で、書物を扱うせいか煙突はなく、窓も少ない。蔦でも巻きつければちょっとしたお化け屋敷になりそうな、おどろおどろしい陰気さを纏っている。
……うん、ジゼルが言っていた特徴と一致するな。
これが俺の働く「王宮書庫」だ。
さて、晴れて今日が就業初日。
念のため、鉄製の扉をノックする。それから挨拶。その辺の常識は世界が変わっても同じだろう。
「すみませーん、今日からお世話になります瀬戸と申しますが」
「あー、はい、どうぞー」
二回のノックと挨拶の後、扉の向こうから聞こえた声に、俺はひとまず安堵する。どうやら中にいるのは男性らしい。
エリノアから「先任がいる」とは聞いていたので、詳細は彼から聞けということだろう。
「失礼します」
扉を開けて中に入る。
……と、そこにいたのは、
「どうも、王宮専属魔術研究所所員のルドルフ・プレストンです」
「本が喋ってる!」
薄暗い部屋の中、大量にある本棚と本棚の間、雪崩を起こしたらしい大量の書物に埋まっている男だった。