2.死んだと思ったら生きていた
死の直前、俺に意識はなかった。
思考する力も記憶する力もない。ただただその瞬間を迎え、混濁した暗闇の中に落ち、静かに沈む。
恐怖はなく、俺は死という事実を思いのほかすんなりと受け入れた。
俺は死んだのだ。
いわゆる不慮な事故というやつで。
「気がつかれましたか?」
――だから俺は、目が覚めた時に見たその人のことを、いわゆる天使か何かだと疑わなかった。
目を開けた瞬間、まずはじめに視界に飛び込んできたのは、きれいな銀色と澄んだ青色だった。
太陽光を受けてキラキラと光るプラチナブロンドが揺れて、ガラス玉のようなサファイアブルーの目が俺を心配そうに覗きこんでいる。
それはまさしく、銀髪碧眼の天使だった。
「ご気分はいかがです? 痛いところはございませんか?」
そう言うと、銀髪碧眼の天使は俺のひたいを冷たいタオルで拭った。汗でじっとりと濡れていた肌に心地よい清涼さを感じる。
よく見てみると、枕元には金属製の水差しが置いてあった。どうやら天使は俺の看病をしてくれていたようだ。
ゆっくりと意識が覚醒する。……が、状況がいまいちよく分からない。
視線をぐるりと一巡させて見るけれど、屋内であること以外は何も見て取れなかった。俺はどうやらベッドの上に寝かされているらしい。体の疲労感からして、ずいぶんと眠ってしまっていたようだった。
なぜずっと眠っていたのか、ここはどこなのか、そしてこの天使は誰なのか。今の俺にはなにひとつ分からない。まさか本当に死後の世界に来てしまったのではあるまいな、と非現実的な想像に至りそうになった時、プラチナブロンドの天使が「よかった」と小さくつぶやいた。
「目が覚めたようで安心いたしました」
「あの……俺は、いったい」
「ずっと気を失っていらしたんです。お怪我もされていましたので、勝手ながらこちらで治療いたしました」
そう、怪我。怪我だ。
覚えている限り、俺はあの瞬間、確かに死んだはずだった。――死ぬほどの怪我を負った。なにせ頭上に百キロ近い看板が落っこちてきたのだから。
だというのに、俺の体はどこも痛くない。見える範囲に治療機器があるわけでもない。麻酔で痛みを感じないだけかと思い、おそるおそる気怠い腕を持ち上げて頭の部分を触ってみると、驚くべきことにそこには頭髪がしっかりと残っていた。頭が割れるような怪我をしたはずなのに、髪がそのまま残っているのはあまりにもおかしい。
状況が分からない。いまいちどころではない。
俺は、布団の中で足や首が動くことを確認してから、ゆっくりと体を起こした。四肢はある。髪もある。目も見える。……これはあまりにもおかしい。
「ええっと、……俺、結構な怪我してませんでした?」
「はい、大怪我をされておりましたので、こちらで治療いたしました」
「いやいや、その、治療でどうにかなるような怪我だったんですか?」
「通常の治療で快癒するようなお怪我ではございませんでした。そのため、少々特種な方法で治療いたしました」
特種な治療法?
プラチナブロンドの天使の言葉に、俺は思わずぽかんと呆ける。
しかし天使は、俺に疑問を遮るようにニッコリと笑った。
「それは後々ご説明いたします。まずは後遺症の確認をいたしましょう」
「あ、……はい」
流されるようにして、俺は天使の触診を受け、痛みや倦怠感についての質問に答えていく。まるで医者のようだと思ったけれど、パッと見た感じ二十歳にもなっていない女の子が医師免許を取れるわけがない。そもそも、今いるこの部屋は病院と似ても似つかない豪華絢爛な洋室だ。
どんな理由で俺がここに寝かされていたのかは分からないけど、後で説明する、と言った天使の言葉どおりに俺は淡々と彼女の診察を受けた。
そんなことをやり始めて約十分ほど経った頃、プラチナブロンドの天使が安心したように息をついた。
「ふぅ、どうやら大丈夫なようです。ご安心ください、頭の傷はすでに塞がっております。後遺症もないようです」
「あ……そうですか」
大丈夫ですと言われても、今までどんな状況になっていたのかが分からないので、危機感も感動もない。
とりあえず、割れた頭をどうにかしてくれたのは彼女に間違いないようなので、俺は「ありがとうございました」と言って頭を下げた。
すると彼女は、ニコッと笑みを深くして、それからベッドの傍らにあった椅子に腰をおろした。まるで中世ヨーロッパを思わせるロココ調の椅子に、派手さはないが普段着には程遠いミルキーピンクのドレス。改めて認識したそれらを見るに、きっとここは日本ではないのだろう、と思った。
「申し遅れました。私はエリノア・エメラルディアと申します。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「……瀬戸亮輔です。この度は怪我を治して頂いたようで、ありがとうございます」
「お気になさらないでくださいませ。それにしても珍しいお名前ですね。セト様、とお呼びしてもよろしいですか?」
「いや、様なんてつけなくていいんですけど……」
「さようですか? それでは、セト、とお呼びいたします。私のことは、エリノアと呼んでくださいませ」
そう言って、プラチナブロンドの天使ことエリノアは、人好きのする顔で笑った。少女らしい可愛らしい笑顔だ。
しかし、「様をつけるな」とは言ったけれども、瀬戸さん、をすっ飛ばして呼び捨てにされるとは思わなかった。エリノアの容姿を見る限りここは日本ではないようなので、もしかしたらそういう文化なのかもしれない。郷に入れば郷に従え。俺が「分かりました」と答えると、エリノアは嬉しそうに「ありがとうございます」と言った。
「それで、俺の怪我はなんで治っているんですか? そう簡単に治る怪我ではないはずなんですけど……」
あの事故の日から数年が経過してる可能性もある。それなら怪我が完治しているのも髪がはえているのもおかしくはない。
でも、それにしては体がしっかりと動くし、起きてすぐに声も出た。何ヶ月、何年も寝たきりならそうがいかないだろう。
そもそも、先ほどエリノアは「特種な治療法で治した」と言っていた。
いったい俺は彼女になにをされたのか。まさか法外な治療費が発生するような治療法なのか?
そのへんもあわせて聞かなければならない、と俺が真剣な顔で考えている、と。
「それは、私の治癒秘術でセトの怪我を治したからです」
首を少し傾けて、ニッコリと可愛らしく笑う。その仕草はまさに美少女そのものだ。
……だけれども。彼女の言葉の中に、明らかにおかしなフレーズが混ざっていた。
「治癒術?」
「治癒秘術です」
聞き直してみる。が、聞き間違いではなかったらしい。
治癒秘術。ちゆひじゅつ。エリノアはたしかにそう言った。
「……それはなんですか?」
「まあ、ご存知ありませんか。治癒秘術は、血統にて受け継がれる治癒の構成を体内に宿した者だけが行使できる、治癒の魔術です。医学を超えた治療を可能にする術として広く知れ渡っております」
血統。構成。行使。魔術?
話がおかしい。エリノアは何を言っているんだ?
……頭がクラクラする。おそらくこれは怪我の後遺症ではないだろう。
もう一度だけ、視線をぐるりと一巡させる。
部屋の中はロココ調といって差し支えない調度品で整えられていた。枕元のサイドボードに置かれた水差しはよく見ると見事な装飾があしらわれている。目の前のエリノアの容姿は日本人と程遠く、着ているドレスも日本の普段着とはまったく違う。
嫌な予感がする。
ゲーム一辺倒でほとんど小説や漫画に手を出してこなかった俺でも、この展開はなんとなく予想がつく。
「あの、聞きたいことがあるんですが」
「なんでしょうか?」
背中が汗で濡れているのが分かる。
聞きたくない、が、聞かなければならない。
「ここはどこですか?」
できるかぎり真剣に、俺はそう問いかけた。
するとエリノアは、その質問が意外だったのかぱちぱちと目を瞬かせると、
「エメラルディア王国の王都・クリスタリアです」
俺が人生で一度も聞いたことのない国と都市の名前を平然と言い放ち、優しく笑った。