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この世には――
数多の世界があるけれど、同一のものは存在しない
貴方は一人しかいないし
私も一人しかいない
誰も代わりにはならない
一度消えてしまったら
二度と生まれることは無い
青く澄んだ空を見上げ、朝を告げる太陽の眩しさに目を細める。上げた右手で光を遮ると、適度に散った雲の動きが良く見えた。
季節は春。
心地よい風が背後から吹き、少年の髪と、周囲に立ち並ぶ木々の葉を揺らした。
「おーい、コルド!」
ふと上がった呼び声に視線を落とすと、少し距離を開けた前方に、別の少年が立っているのが見えた。
年は十代中頃。短めに切られた癖のない赤い髪が風に揺れ、焦げ茶色の瞳には活発さが表れている。まだ幼さを残す顔立ちは平凡で、地味な少年だった。
服装は黒茶のズボンに赤い丸首シャツ。その上に山吹色のロングカーディガンを、前を開いて羽織っていた。
「早く来いよ! 先行くぞ?」
左手で持った小型のトランクを前後に揺らし、嬉々とした様子の少年に、コルドと呼ばれた少年はくすっと笑った。
ゆるくウェーブのかかった栗色の髪を肩下まで伸ばし、後ろで一つに束ねていた。髪と同じ色の目は三白眼に近く、若干冷めた感がある。赤毛の少年と同じ年だが、端正な顔立ちと落ち着きのある表情のおかげで、実年齢より大人びて見える。
服装は先の少年とほぼ同じで、シャツとカーディガンの色が逆になっているだけだった。
尚、コルドはカーディガンのボタンを三つ止め、風で暴れないようにしていた。
コルドはやんわりと微笑み、
「迷わないなら、ご自由に」
「ひっでぇー!」
赤毛の少年が不満そうな大声を出す。
コルドは平然たる態度で、
「何が?」
「初めて行く場所なのに、地図も無しで行けってかぁ!?」
「シキが自分で言ったんじゃない……」
「冗談だよ! 俺がお前を置いて行くわけないだろ?」
シキと呼ばれた赤毛の少年が、当然と言うように胸を張った。
コルドが呆れた顔をする。
「よく言うよ。いつも一人で突っ走って行くくせに」
シキの元まで歩を進め、空いている左手を腰に当てる。右手には、シキと同じトランクを持っていた。
「なはは! まぁいいじゃん! 俺はほら、えーっと……」
シキは何故か上を指差し、引きつった笑みを浮かべ、
「こ……こうらんおーとー? って奴だから!」
「……もしかして、好奇心旺盛って言いたい?」
コルドがそう聞くと、シキはパッと顔を輝かせた。
「あぁ! それそれ! よくわかったな、さすがコルド!」
まるで他人事のようにケラケラ笑うシキに、コルドは深い溜め息を吐いた。
訳あって生まれ故郷を捨て、二人で旅に出たのは八年前。その頃はまだ十にも満たない幼子だった。当然、旅は困難を極めた。幼子だけで生きていける程、世の中は甘くない。コルドが稀に見る秀才でなければ、二人揃ってとっくに死んでいただろう。
それに対し――
シキは非常に物覚えが悪かった。はっきり言って、バカである。
知識が無いと困るからと、旅の合間にコルドが教えているのだが、恐らく半分も理解していないだろう。本人曰く、コルドがいる安心感から勉強する意欲がわかないらしい。
コルドとしては、そんな人任せな甘い考えは捨てて、せめて人並みの知識は持っていてほしいところだ。勉強嫌いを人のせいにするのもどうかと思っている。
自分より少し低い位置にある顔をじっと見ていると、シキが、なんだよ、と言って眉根を寄せた。
「いや……バカだな、と思って」
「それ、今言う必要あんの?」
「ないけど言いたかったんだよ」
「じゃあ仕方ないな!」
これで納得してにっこり笑うシキは、ある意味大物かもしれない。
懐が深いとも言えるが、どちらかというと単純と言った方が合っているだろう。悪人に騙されないよう、祈るばかりだ。
シキの将来は不安だが、今後の予定のためにコルドは頭を切り替える。
「それよりシキ。この森を抜ければ次の村があるから、正午には着けるかもしれないよ」
「マジか、やった! 久しぶりにまともな飯が食えるじゃん!」
ぱぁっと目を輝かせ、飛び跳ねるようにシキは喜んだ。
前の町を出たのが二日前だから、余計に嬉しいのだろう。無味に近い携帯食料を好んで食べようとする者は少ないし、もちろん二人も出来るだけ食べたくないと思っている。
シキはすぐに踵を返すと、鼻歌交じりで歩きだした。
「よし! 行くぞコルド!」
「はいはい」
コルドはいつもの微笑を浮かべ、その後に続く。
所々で道幅の変わる荒れた道を、二人は苦も無く進む。遥か昔では、道行く人や旅人と行き交うこともあっただろうが、今では道中に他人と会うことなど滅多にない。国や町を結ぶ道のほとんどが廃れているのが現状だった。国や町などの集落の外に出る者は極僅かであり、よほどの事情が無ければ行商すらしない。そんな中で国を離れようとするのは、かなり腕の立つ者か、酔狂な者くらいだ。それ程の脅威が、この世界に満ちていた。
何故なら"外"には、人間の敵がいるから。
**
「シキ」
急に聞こえた低い声音に、シキは足を止めて振り向いた。すぐに腰の後ろに右手を伸ばし、斜めに挿してある短剣の柄に手を掛ける。警戒するような鋭い眼差しを右奥に向けるコルドを視界に捉え、
「来た?」
シキも小声で問いかけた。
「うん。でも少ないよ。三体だね」
「え~……ここで戦うのかよ。めっちゃ狭いんだけど」
「あいつらには関係ないからねぇ」
不満顔のシキにそう言い、コルドは持っていたトランクを近くの木の陰に置いた。投げ渡されたシキのトランクも一緒に置き、なるべく動きやすいように道の中央に立つ。
「早く着きたいのに……」
「こればかりは仕方ないよ」
ぼやくシキに、コルドは諭すように言った。
少し離れた場所から、荒々しい足音が聞こえてくる。音は徐々に大きくなっていき、敵が真っ直ぐ近付いていることを二人に知らせた。
コルドは下ろした右手を軽く開き、音も無く一瞬で現れた一本の槍を掴んだ。尖端を上にして肩に掛ける。槍は穂先が刃状になっていて、斬撃にも使えるタイプだ。
シキは短剣を逆手で抜き放ち、コルドの槍を一瞥した。
「いいよなぁ、物質召喚。俺もそれ、出来るようになりたい」
「相性が合わないからね。仕方ないよ。
でもシキは短剣だから、持ち運びには困らないじゃない」
「まぁそうだけど……」
呑気に話す二人の前で、小さな黄色い花が踏み潰された。
人より二回り以上大きな体躯のそれは、獣のような唸り声を上げる。
「来たか"悪鬼"!」
肩の位置で短剣を構え、シキはにやりと笑った。
**
遥か昔。
突如魔界から移り来た、妖魔と呼ばれる化け物達によって、世界は混沌の波に飲まれた。
奴らは人間を襲い、苦痛を与え、そして殺すことを目的としていた。
悪鬼は、完全に人と同じ形を取る魔族や悪魔と違い、人型ではあるが、青や黄や赤黒い硬い皮膚を持ち、人の二倍ほどの背丈がある。その名の通り鬼のような外見をしていた。知能が低く、妖魔の中でも最弱とされているが、常人の十数倍もの筋力を持っている為、多少力に自信のある人間が数人で挑んだとしてもまず勝てない。多少傷を与えた所で、備わった魔力を使って自己再生してしまうので、一撃で粉砕できるようなかなり威力の高い武器か、達人レベルの腕前が無ければ、相手にするのは無謀というものだった。
――"術師"以外ならば。
**
「"凍れ"!」
コルドがそう言った瞬間、現れた三体の内、先頭にいた悪鬼が厚い氷に包まれた。
そのすぐ後ろにいた別の一体が、氷漬けになった悪鬼の横を抜けて、太い腕を振りかざし、シキに殴りかかる。シキは半歩左に移動しながらそれを避け、短剣を振り上げて悪鬼の首を刎ねた。頭を失った悪鬼は、力無く前に倒れ伏す。
パチンッ
コルドがフィンガースナップを使うと、氷漬けにされた悪鬼が派手な音を立てながら粉々に砕け散った。その陰から残る一体が飛び出し、コルドに向けて右手を突き出す。手の内に魔力が集まるのを感じ取ったコルドは、瞬時に槍を振り下ろし、悪鬼の腕を切り落とした。
刹那。
「避けろよ、コルド!」
左掌に光球を生み出し、こっちに投げようとしているシキの姿が視界に入る。
「……え」
目を見開くコルドの方に向かって、シキは光球を投げた。
声で気付いた悪鬼も、反射的にシキを見やる。
ぽひっ
それはシキの手を離れてすぐに、なんとも情けない音を残して弾けて消えた。
緊迫していただけに何とも言えない微妙な空気が流れ、その場の全員の動きが止まる。
――一瞬だけだった。
バックステップで距離を取っていたコルドは、すぐに悪鬼の懐に飛び込み、槍を顔面に突き刺した。穂先は頭部を貫き、悪鬼はそのまま後ろに倒れた。
コルドはゆっくり息を吐き、
「失敗したから良かったけど、こんな森の中で火炎系の"術"使わないでくれない?
威力調整が出来ないくらい、使い方下手なのに。また火事起こしたいの?」
動かなくなった悪鬼達は、黒い粒子となって消えていく。
「いやー……今度こそ成功すると思ったんだけどなー」
シキが後ろ頭をかきながら言った。短剣を鞘に戻しつつ、トランクを取りに行く。
コルドは地面に刺さったままの槍を引き抜き、呆れ顔をシキに向けた。槍は宙に溶けるように消えた。
「やるならせめて水場の近くにしてよ。シキも僕も、水系の術使えないんだから」
「前みたいに凍らせればいいじゃん」
「あの時は他に方法が無かったし、咄嗟だったから仕方なくまとめて凍らせただけ。
燃え広がるよりはマシかもしれないけど、辺り一面氷像だらけになったじゃないか」
「まぁ火が消えりゃいんじゃね?」
「良くない。どちらにしろ、自然破壊に変わりはないよ」
自分のトランクをシキから受け取り、淡々とコルドは言った。
シキはそのまま目的地の方向へ歩き出し、いつものように、一歩遅れてコルドが続く。
自然が如何に大切かを語り始めたコルドの声を、適当に聞き流しながら、シキは今日の昼食に何を食べようか考えた。