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ヌヴェル34 空蝉

作者: 寺澤樹生
掲載日:2026/09/18

今日は、百八巻目の写経を納経する。

薬師寺の写経道場。霜月八日、薬師縁日の日。

徐に墨をする花江の横、障子戸の隙間から秋の気配が伺える。

花江が写経を始めたのは、八年前だ。定年退職した夫の健一が念願の寺社巡りをするようになり、それに同行するようになったが、その中で薬師寺の写経も経験した。

西国三十三所巡りの折、般若心経を知った。その般若心経を写経する。今まで味わったことのない厳かな空気に包まれた。

その空気感を味わいたくて、健一と数度訪れたが、写経の頻度が増えたのは、健一を亡くしてからだ。


墨をする、ゆっくりと。

用紙を調え、合掌し、写経観念文を読む。

そして、写経を始める。一文字一文字丁寧に筆を運ぶ。

ゆったりと流れる時間。

健一に優しく抱かれているような感覚。

やり場のない心、もぬけの殻となった心、それを安らかにたゆたえる場所へと誘う。

健一に逢いたい。

花江は、いつもそう思いながら、こう願文を書く。

“一日でも早く、私の夫・健一に逢うことができますように”


今日は、願文を変えてみようと思う。

今までの願文は、花江を健一のもとへは来させまいとする、健一の優しが仇になっていたように思う。

ゆえに、こう書く。

“一日でも早く、私の夫・健一を忘れることができますように”

こう記せば、花江を愛している健一は、忘れられては困ると健一のもとへ招いてくれるのではないか。


書き上げた写経をお供えし、花江は合掌した。

“どうか、私の願いを叶えてくださいませ”

そのとき、衣服だけを残し、己の身体、魂が天に昇っていくように感じた。

ゆらゆらと、ゆらゆらと。



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― 新着の感想 ―
タイトルが意味深ですね。健一は花江より先に旅立つことが出来、幸せだった。花江への思いが残るものの……
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