ヌヴェル34 空蝉
今日は、百八巻目の写経を納経する。
薬師寺の写経道場。霜月八日、薬師縁日の日。
徐に墨をする花江の横、障子戸の隙間から秋の気配が伺える。
花江が写経を始めたのは、八年前だ。定年退職した夫の健一が念願の寺社巡りをするようになり、それに同行するようになったが、その中で薬師寺の写経も経験した。
西国三十三所巡りの折、般若心経を知った。その般若心経を写経する。今まで味わったことのない厳かな空気に包まれた。
その空気感を味わいたくて、健一と数度訪れたが、写経の頻度が増えたのは、健一を亡くしてからだ。
墨をする、ゆっくりと。
用紙を調え、合掌し、写経観念文を読む。
そして、写経を始める。一文字一文字丁寧に筆を運ぶ。
ゆったりと流れる時間。
健一に優しく抱かれているような感覚。
やり場のない心、もぬけの殻となった心、それを安らかにたゆたえる場所へと誘う。
健一に逢いたい。
花江は、いつもそう思いながら、こう願文を書く。
“一日でも早く、私の夫・健一に逢うことができますように”
今日は、願文を変えてみようと思う。
今までの願文は、花江を健一のもとへは来させまいとする、健一の優しが仇になっていたように思う。
ゆえに、こう書く。
“一日でも早く、私の夫・健一を忘れることができますように”
こう記せば、花江を愛している健一は、忘れられては困ると健一のもとへ招いてくれるのではないか。
書き上げた写経をお供えし、花江は合掌した。
“どうか、私の願いを叶えてくださいませ”
そのとき、衣服だけを残し、己の身体、魂が天に昇っていくように感じた。
ゆらゆらと、ゆらゆらと。




