第三十一話 大切な人
私の名前はイベルタ。
息が、まだ荒い。下層区の細い路地をいくつも曲がり、崩れかけた石階段を降り、ようやく辿り着いた。
アケミさんのアジト。
外から見れば、ただの廃屋。
中は最低限の家具と、地図と武器。
ここまで来ても、胸のざわつきが止まらない。
「……ギャンさん」
あの瞬間。
人混みに紛れて走った。
振り返ったとき、もう彼はいなかった。
「まさか、捕まったのかな」
言葉にした途端、胸が締めつけられる。
私の唯一の仲間。
ギャンさんに何かあったら……
「大丈夫よ」
軽い声。アケミさんは椅子に腰掛け、靴を脱ぎながら言った。
汗もかいていない。本当に同じ距離を走ったのか疑いたくなる。
私は思わず顔を上げる。
「……なんで、大丈夫なんですか?」
声が少し強くなる。
この人は、心配じゃないの?
「アイツはアタシとアンタとは違う」
アケミさんは水を飲み、続ける。
「捕まっても殺されない。せいぜい人質よ」
「……人質?」
「アタシたちを炙り出すためのね」
当然のように言う。アケミさんが鼻で笑う。
「甘いわね、革命は感情じゃやれない」
「分かってます」
「分かってない」
ぴしゃり。
「アイツが捕まったのは、自業自得。逃げ切れなかった。それだけ」
冷たい。本当にこの人は冷たい。
でも、だからこそ強い。
私は拳を握る。
「……助けに行きます」
「は?」
アケミさんが眉を上げる。
「どこにいるかも分からないのに?」
「上層区。騎士団か、その周辺」
「自殺志願?」
「違います」
胸の鼓動が速い。
怖い。でも、止まれない。
「人質なら、まだ生きてる」
「……」
「何もせずに待つ方が、後悔します」
アケミさんはしばらく黙る。
そして、小さく息を吐いた。
「好きにしな」
「……止めないんですか?」
「止めたら止まるの?」
言葉に詰まる。
「アンタ、そういう顔してない」
立ち上がり、壁から一本の短剣を外す。
「持ってきな」
投げ渡される。
私はそれを受け取る。
「それは、アンタの持ってるそのしょぼい短剣の百倍マシだ。貸しだからな、売り払ったら殺す」
ぶっきらぼうな声。
「……アンタまで失ったら、計算狂う」
それは、優しさなのか。
打算なのか。
分からない。
でも今は、それでいい。私は扉に向かう。
下層区の空気が、重くまとわりつく。
怖い。
上層区は敵地。
騎士団。
アルベルト。
コルディ。
そして、エタルド。
でも、あの人は私を置いていかなかった。
なら、今度は、私の番。
私は一人、夜の街へ走り出した。
石畳は磨かれ、街灯は柔らかく夜を照らしている。
下層区の湿った空気とは違う。静かで、整いすぎていて、息が詰まりそうだった。
その光の中に立つ姉は、まるで別の世界の人間みたいだった。
「イベルタ?」
「あ、お姉ちゃん……」
ミネルヴァ=プロメティウス
名家に嫁いだ、私の姉。
私を敵として見ない、数少ない身内。
その隣に立つのは、整った鎧を纏った騎士。
ライネル
管轄はエタルドと違うと聞いている。小さな男の子が眠そうに目をこすり、女の子が母の裾を握っていた。
家族の匂いがする。
「どうしたの? こんな時間に」
「それが……」
私は迷った。
ここは上層区。壁も、灯りも、全てが敵側。
けれど、姉さんになら。
「ギャンさんが……私の仲間が、捕まったかもしれない」
ミネルヴァの表情がわずかに強張る。
「叔父さんやアルベルト達が動いてるの」
名前を出した瞬間、ライネルの目が僅かに細くなる。
「……エタルド氏の管轄ですね」
彼は落ち着いた声で言った。
「エタルド氏は、私念でイベルタさんを狙っています。僕を含め、ほとんどの騎士はあなたを討伐対象にはしていませんよ」
その言葉は、救いのようでいて、刃でもあった。
ほとんどという曖昧さ。
「あの……スリーセブンスは?」
喉が乾く。
「はい。そちらは討伐対象です」
はっきりとした返答。
胸が冷える。
アケミさんは、明確な敵。
私は違う。でも、違うだけ。
夜は更けていた。鐘の音が遠くで鳴る。
ミネルヴァが、私の手を取った。
「こんなところで立ち話はだめ。来なさい」
「でも……」
「妹を家に入れるのに、誰の許可がいるの?」
強い声だった。昔から変わらない。
ライネルは周囲を一瞥し、小さく頷く。
「我が家なら安全です。少なくとも、今夜は」
今夜は。期限付きの安堵。
私は、姉の家の門をくぐった。
高い柵。整えられた庭。
温かな灯りが窓から漏れている。
ここは敵地の中心。
なのに、少しだけ涙が出そうになった。
「お腹、空いてるでしょ」
姉が微笑む。その優しさが、逆に苦しい。
ギャンさんは、今どこにいるのだろう。
暖かな家の灯りと、冷たい石牢。
その差が、胸を締めつける。
私は靴を脱いだ。
ここにいていいのは、今夜だけかもしれないのに。
食卓には、温かなスープと焼き立てのパン。
子どもたちは先に寝かされ、広い屋敷の一室には、私と姉だけが残った。
暖炉の火が、ぱち、と小さく弾ける。
「……でも、あなたに仲間ができてよかった」
姉は、静かに言った。
その声は責めるでもなく、ただ本当に安堵しているようだった。
私は視線を落とす。
“金借りのイベルタ”。
その異名は、冗談では済まない破壊力を持っていた。
金を借りる。
返せない。
逃げる。
裏切り者。厄介者。疫病神。
近づく者はいなくなった。声をかけられることもなくなった。
だから、エーテルディアの隣村で。
見慣れない男に、私は自分から声をかけた。
ちょっと変わっていて、なんだかんだいいながら、私といてくれる人。
それが、ギャンさんだった。
あのとき、私は初めて逃げ場じゃない人に出会った。姉は、私の沈黙を見つめている。
そして、やわらかく言った。
「大切な人なんだね」
否定する言葉は、浮かばなかった。
私は、否定しなかった。
暖炉の火が揺れる。
上層区の静かな夜。
守られた家。
優しい姉。
それでも、胸の奥は落ち着かない。
あの人は、今どこにいるのだろう。
冷たい石の床の上か。鎖の音が響く部屋か。
私は、拳を握る。
「……助けます」
小さな声だった。
でも、確かだった。
姉は少しだけ目を細める。
「そう言うと思った」
怒らない。止めない。
ただ、覚悟を測る目。
「なら、明日までに情報を集める。無茶はしないこと。これは約束」
姉は貴族の妻だ。
けれど、私の姉でもある。
「ありがとう」
その言葉が、こんなに重いとは思わなかった。
守られる側にいるのは、楽だ。
温かい。
でも、私は立ち上がる側でいたい。
暖炉の火が、静かに燃え続ける。
今夜だけは、この灯りの下で目を閉じる。
明日、私は敵地に踏み込む。
ギャンさんを、取り戻すために。




