第二十七話 革命は叫ぶものじゃない。帳簿を書き換えるものだ
路地を曲がった瞬間、鼻を刺す臭いが変わった。
腐臭と血の匂い。
下層区は、ただ貧しいのではない。
秩序そのものが削ぎ落とされている。
「やめろォ!」
男が叫び、次の瞬間、鈍い音が響く。
殴る音、骨の軋む音。
女性は地面に押し倒され、口を塞がれている。男は三人に囲まれ、蹴られ、踏まれ、財布を奪われていた。
俺の指が、無意識に剣の柄を握る。
斬れる。
この距離なら、一人目は確実に。
そのあとも、たぶんいける。
だが、ドナルドの手が俺の腕を掴んだ。
「やめろ」
低い声だった。
「見て見ぬ振りをしろ。命がいくつあっても足りなくなる」
視線だけで周囲を示す。
路地の奥。
屋根の上。
窓の隙間。
見ている。俺たちを。
暴漢だけじゃない、もっといる。
俺が一人斬れば、十人が出てくる。
十人斬れば、百人に目をつけられる。
ここは、そういう場所だ。
イベルタが小さく呟く。
「下層区はおそらく、空白なんです」
「空白?」
「スリーセブンスが抑えていた均衡が崩れた。誰が新しい支配者になるか、争いが始まってる」
また悲鳴が上がる。
俺の胃が軋む。
俺は異世界に来てまでまた、見ているだけか?
前世でもそうだった。
自分が沈むのに精一杯で、誰かを救う余裕なんてなかった。
だが今は、違うはずだろ。
この剣がある、なのに。
「……助けないのか」
俺の声は、自分でも驚くほど小さかった。
ドナルドは振り返らない。
「助けたいなら、王にでもなれ」
「……は?」
「この街を変える力を持て。半端な正義は、ただの自殺だ」
その言葉は冷酷だった。
だが、嘘はない。暴漢たちは男の財布を奪い、女性を引きずって路地の奥へ消えた。
俺は、動けなかった。
剣を抜くことも、目を逸らすこともできずに。
ただ、拳を握り締めていた。
何も変わらない。
ドナルドが歩き出す。
「来い」
俺は一度だけ、後ろを振り返った。
薄暗い路地。
転がる男。
遠ざかる足音。
名誉という光が照らすのは、こういう影なのかもしれない。俺は剣から手を離し、ドナルドの背中を追った。
朽ち果てた建物の奥。
光は薄く、空気は湿っている。
「アケミ、例の二人を連れてきた」
「ドナルドか」
女がゆっくりと立ち上がる。
「異界の賭博師と、金借りのイベルタ……だね?ゲインやロキから聞いてるよ。アタシはアケミ。スリーセブンスのリーダー。そして、アンタと同じ転生者だ」
「……は?」
頭が止まる。
「てかロキって誰だよ」
ドナルドが肩をすくめる。
「街の情報屋だ。金を払えば、正確な情報を寄越す。仲間じゃねぇ。ただの取引相手だ」
「ああ、あのフードの男か……」
点が繋がる。アケミは静かに続けた。
「まず誤解を解いておこう。ゲインはアタシの部下じゃない」
「……違うのか?」
「違う。スリーセブンスは組織であって、傘下を持たない。みんな、平等な仲間だ」
イベルタが怪訝な顔をする。
「じゃあ、あいつは」
「ただの下層の金貸し。でもね」
アケミの目が細くなる。
「最終的な資金の大元は、アタシだ」
空気が変わる。
「この街の裏金融の三割は、アタシの資金で回ってる。ゲインもその一人。表向きは独立。実際は、資金提供を受けた借り手だ」
つまり、イベルタの借金は、巡り巡ってここに辿り着く。アケミは淡々と続ける。
「スリーセブンスは義賊だ。上層部の腐った貴族から金を吸い上げ、下層に流す。だが同時に金貸しでもある」
「矛盾してねぇか?」
「してないさ、金は力だ。持たぬ者に貸す。だが返せない者からは回収する」
冷たいが、筋は通っている。
「そして今、上層部はアタシを邪魔だと思ってる」
「討伐依頼……」
イベルタが呟き、アケミは頷く。
「そう、スリーセブンス討伐依頼」
だからゲイン達が襲われた。
だから街が荒れている。
力の均衡が崩れ始めている。
俺は思い出す、マスターの言葉を。
二人目は、エーテルキングスカジノで爆勝ちした。貴族の庇護を受けたが、三年後に忽然と消えた。
俺はゆっくりアケミを見る。
「……まさか」
アケミは笑った。
「気づいたかい」
「エーテルキングスカジノで爆勝ちしたの、お前か」
「そうさ」
静かに答える。
「この街最大の巨大カジノ、エーテルキングスカジノ。あそこで三年、勝ち続けた」
「三年……?」
「貴族が黙ってるわけないだろ。最初は排除しようとした。でも途中で気づいた」
アケミは指で机を叩く。
「利用した方が得だってね」
貴族の庇護。
表向きの保護。
実際は監視。
「だが、三年後に消えた」
「消えたんじゃない。消したのさ」
自分で。
「勝ちすぎた。貴族の資金の流れが読めるようになった。裏帳簿も見えた」
そして。
「その金を、こっち側に回した」
それが、スリーセブンスの資金源。
爆勝ちの利益。
貴族の金。
カジノの裏。
全部、今ここに繋がっている。
ドナルドが低く言う。
「俺はただの回収屋だ。スリーセブンスからも依頼を受ける。他の金貸しからも受ける。だが一番大口は、こいつだ」
アケミは、イベルタを見る。
「アンタの借金も、消し飛ばせるかもよ。協力してくれるならね」
イベルタが目を見開く。
「何をすればいいんですか?」
この瞬間、アケミとイベルタの間に、明確な上下関係ができやがった。この女、食えねぇな。
「ゲイン達の敵討ちさ。目障りな上層部に、一泡吹かせる。協力してくれるかい?」
「……戦うって事ですか?」
アケミは笑い飛ばして言った。
「実力行使は分が悪いよ、上層部を倒す方法はいくつもある。刃物だけが武器じゃない」
イベルタが低く言う。
「……どうするんですか」
アケミは笑った。
「あんた達は賭博師だろ?」
その一言で、空気が変わる。
「エーテルキングスカジノは、この街の血管だ。貴族も議員も騎士団も、裏ではあそこに金を沈めてる」
「そこから金を抜く?」
俺が言うと、アケミは指を鳴らした。
「正解」
ドナルドが壁に寄りかかる。
「上層は下層を搾取してると思ってるだろ?」
「違うのか?」
「逆だ」
アケミが続ける。
「欲望は上にある。金は下から吸い上げられる。でも溶けるのは上層のほうだ」
机の上に古びた地図を広げる。
「カジノは金融拠点だ。あそこで流れる金は、貴族の裏金、議員の賄賂、騎士団の予算調整資金……全部繋がってる」
「つまり」
俺の胸が熱くなる。
「血管を切れば、体は痩せる」
「そう」
アケミの目が光る。
「血を止めれば、体は弱る」
イベルタが小さく呟く。
「……それで、下層は?」
「下層に流す」
即答だった。
「勝った金は下層に回す。暴力を買うんじゃない。生活を安定させる。暴漢が増えるのは、空腹だからだ」
さっきの路地が浮かぶ。
俺は拳を握る。
「欲望を利用して、構造をひっくり返すってわけか」
アケミは立ち上がった。
「上層部と下層区をひっくり返す」
その声は静かだが、確信に満ちている。
「革命は叫ぶものじゃない。帳簿を書き換えるものだ」
鳥肌が立った。
イベルタがこちらを見る。
「……ギャンさん」
目はもう迷っていない。
「私は、逃げたくないと言いました」
ああ、分かってる。
俺はゆっくり息を吐く。
「エーテルキングスカジノか」
アケミが頷く。
「アンタは異界の賭博師だろ?」
挑発するように笑う。
「欲望は嫌いかい?」
俺は笑った。
「嫌いじゃない。だが飲まれはしない」
ドナルドが鼻で笑う。
「言うじゃねぇか」
アケミは最後に言った。
「これは戦争じゃない。収奪の逆流だ」
静寂。
下層の腐臭の奥で、
新しい匂いがした。
血じゃない。
金だ。
俺は剣ではなく、拳を握った。
「行こうぜ」
名誉という光の裏側から、影そのものを焦がす。




