第二十話 どんな物語の、どんな異世界の魔王よりも、最強最悪で理不尽な相手
「イベルタ!!」
「あ……ギャンさん……」
振り向いたイベルタの目は、焦点が合っていなかった。スロット台の上部に浮かぶ魔導表示。
残高40G。致命傷だ。
もう、ここまで来たら期待値的には相当厳しい。
「イベルタ、もう無理だ」
「いや……ここまできたら、もう行くとこまで行く」
その言葉に、俺は胃が冷える。
ゼロじゃない。確率は、常にゼロじゃない。
だが、ここまでやられている日。
ここまで削られた状態。
そこで奇跡的に取り返すなんてことは、理論上はあっても、体感的にはほぼ起きない。
もうギャンブルじゃない。もはや寄付だ。
胴元への、情けない献金。
ドナルドが俺の肩に手を置いた。
「コイツは無理だ。今日は止められねぇ顔してる。またクエストでもやらせて、来月の支払い分貯めさせてやってくれ」
それだけ言って、去っていった。
止めるプロが、止めないと判断した。
その意味は重い。
最後のコインが、吸い込まれる。
演出は派手だった。
無駄に煽る光。雷鳴。王冠のシルエット。
だが、揃わない。静かに、表示がゼロになる。
イベルタはしばらく画面を見つめていた。
「なんでスロットなんだよ」
俺は吐き捨てる。
「一撃があるんです。1万G級、引いたこともあります」
「何回だよ。それ、何百、何千回回してだよ」
イベルタは黙る。
カジノにおいて、スロットは基本的に長時間やればやるほど不利になる構造だ。
日本のパチンコやパチスロは、法律の枠内で設計されている。理論上の出玉率は機種ごとに決まっていて、設定次第では機械割が100%を超える台も存在する。
だから「条件付きで勝てる可能性」はある。
だが、カジノスロットは違う。
還元率は機種によるが、概ね90%台前半〜後半。
高いものでも95〜97%程度が一般的だ。
つまり長期的には、必ずプレイヤー側がマイナスになる設計。しかも多くがハイボラティリティ。
ごく薄い確率の超高配当を含めた数値でトータル還元率が構成されている。それを引けなければ右肩下がり。どころではない、崖だ。
体感はほぼ当たらない。ぶっちゃけ大当たりなんて存在するのか疑うほどに。
イベルタは台を撫でる。
「でも……夢があるじゃないですか」
「そんなんだから、勝てないんだろ」
俺はため息をつく。
「お前さ、勝った日の記憶だけ残ってるだろ」
「……」
「負けた回数、ちゃんと数えてるか?」
数えていない。
だからまた来る。
俺は周囲を見る。
煌びやかなフロア。
笑っている客。
泣いている客。
そして静かに金を回収するこの建物。
エーテルキングスカジノ。
俺はイベルタの肩を掴んだ。
「今日は帰るぞ」
「……ギャンさん」
「次やるなら、勝ち逃げできる時だけだ。それ以外はクエスト。装備強化。金は生存率に変える」
イベルタはしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
その背中は、小さく見えた。
俺は思う。この世界で……いや、全ての異世界においても、一番強いのは、魔王でも騎士でもない。
何よりも恐ろしく、何よりも理不尽で、そして世界中の、ありとあらゆる物語の魔王よりも恐ろしい存在。
確率だ。
そして俺たちは、その確率という究極の魔王と、毎日戦っている。
今日の戦績。
イベルタ、全損。
俺、300G残存。
……まだ、生きている。
だが油断すれば、明日は俺があそこに座っている。
スロットのレバーに、手をかけながら。
確率というなの、最強の魔王の前で。
時刻は正午前。
フロアの照明は相変わらず昼も夜も区別がつかない。だが体内時計は正直だ。腹が鳴る。
「飯いくぞ、イベルタ」
スロット台の前で抜け殻のように座るイベルタに声をかける。
「……ほっといてください」
視線は落ちたまま。
魔導表示はゼロのまま動かない。
自暴自棄、あの顔は知っている。
わかる。誰よりも。
死にたくもなるよな。
落ち込まない奴なんていない。俺だって前世で、何度も、吐き気がするほど自己嫌悪した。
金を溶かした夜。
嘘をついた朝。
平気な顔をして、内側で腐っていく感覚。
しかも、人に迷惑をかけてまで。
いや、人に迷惑をかけるから、自己嫌悪するのか。
もし自分の金だけで完結する遊びなら、きっとここまで落ちない。
あるのは、「今日はツイてなかった」という納得か、「この店やってんだろ!」という胴元への理不尽な怒りだけだ。
だが借金が絡むと違う。
誰かの生活が絡む。
未来が絡む。
だから重い。俺は少しだけ黙り込んだあと、背を向ける。
「Johnnyカジノのバーで待ってるからな」
返事はない。
だが聞こえているはずだ。
俺は歩き出す。
カジノの喧騒を抜け、重い扉を押し開ける。
外の光が目に刺さる。
現実の光だ。
石畳を踏みしめながら、思う。
あいつは来るか?来なければ、それはそれで、もっと深い場所に落ちているということだ。
Johnnyカジノは、エーテルキングスカジノほど豪奢ではない。だがバーは落ち着いている。昼間は客も少ない。
俺はカウンター席に腰を下ろす。
「水をくれ」
マスターが無言でグラスを置く。
冷たい水が喉を落ちる。
300G。
俺の残高だ。紙一重だな、と笑う。
昨日の勝ちがなければ、俺があそこに座っていた可能性は十分にある。
確率の魔王は平等だ。
グラスを置いた瞬間、扉の鈴が鳴った。
カラン、と乾いた音。
振り向かなくてもわかる。重い足取り。
イベルタだ。
思ったより早かった、コイツはまだ大丈夫だな。
さて、ここからどう立て直す?




