ばあちゃんの水瓶
十月、健太はばあちゃんの家に泊りがけで遊びに行った。
ばあちゃんの家には何度か行ったことがあるけれど、泊まるのは初めてだった。
ばあちゃんの家には歳の離れた従兄がいて、健太が行くたびに快く相手をしてくれた。
初めてのお泊りだけれど、従兄がいてくれるので健太は心強かった。
少しのドキドキ、それ以上のワクワク。
ばあちゃんの家は古くて広くて、薄暗い屋根裏部屋があったり台所と食堂は土間だったり、健太はおおいに冒険心をくすぐられた。
今までの日帰りとは違い、今度はたっぷり時間がある。
健太は探検家になったような気分だった。
健太の父親は六人きょうだいの末っ子で、一番上の兄――健太にとっての伯父とは親子ほど歳が離れている。
だからばあちゃんももう、かなりの年寄りだった。
ばあちゃんはもともと背が低い上に腰も曲がっていたので、とても小さかった。
口数が少なく、健太にもめったに話しかけてこない。
もしかすると少し『ぼけ』がきているのか、表情にもほとんど変化がなく、常に薄笑いを浮かべたような顔をしていた。
過去に一度だけ、ばあちゃんが健太を見て「可愛らしい子やな」と呟いたことがある。ある日、廊下でばったり出くわしたときのことだ。
ばあちゃんはその一言だけで、そのまま向こうへ行ってしまった。
健太が泊まりに行った日は、お稲荷さんにたくさんの屋台が並ぶ日だった。
従兄が健太を連れて行ってくれて、熱々のフランクフルトを食べたり、焼きたてのベビーカステラを頬張ったりした。
ゲームもあれこれさせてもらって、帰りには金魚すくいもした。
従兄にコツを教わったおかげで、健太は五匹という大漁だった。
意気揚々と家に帰ると、従兄は金魚の入れ物を探してくれた。
台所の戸棚をあけようとしたところで、ばあちゃんが声をかけてきた。
よく聞き取れない話し方だが、従兄によると「あの甕を使たらええ」と言ったらしい。
ばあちゃんが指さした土間の片隅に、ひっそりとその水甕はあった。
陶器の水甕は、大きいものではなかったけれど、深さは十分にあった。
健太が試しに腕を入れてみると、肘まで入った。
従兄が水甕に水を張ってくれて、健太は金魚を入れた。
健太の家に帰ればちゃんとした水槽があるので、水甕は金魚たちの仮の住まいだ。
その夜は、従兄の部屋で、従兄と並んで寝た。
屋台の戦利品は、金魚のほかにビー玉やスーパーボールもあった。
健太は枕もとにビー玉とスーパーボールを大事に置いて、眠りについた。
次の日、健太は縁側に水甕を置いて、そのそばで遊んだ。
家の中を探検する前のウォーミングアップだ。
スーパーボールを高く跳ねさせてはキャッチする。うまく取れるかどうかのスリルが面白いのだ。
いい感じに体が温まったので、健太は羽織っていた綿のシャツを脱いだ。
次はビー玉を取り出してみる。これはどうやって遊ぼうか。
健太はビー玉の遊び方を知らなかった。あとで従兄に教えてもらおうと健太は思った。
きらきらきれいなビー玉だ。
健太は一番大きなやつを摘まんで、晴れた秋空にかざしてみた。
玉の中で光が揺れて、うねうねとした模様が探検家を不思議の世界へ導いているみたいだった。
健太はビー玉を持つ角度を変えてみた。
そのとき、うっかり指を滑らせ、水甕の中にビー玉を落としてしまった。
とぽん、と音がしてビー玉は水底に沈んだ。
健太は、ビー玉を拾おうと水甕に腕を入れた。
するとなぜか健太の手は底に届かず、腕を入れた勢いで前に倒れそうになった。
健太は慌てて水甕から腕を抜いて中を覗いたけれど、特に変わったことはない。
五匹の金魚もひらひらと泳いでいた。
底の方は暗いけれど、ビー玉が転がっている影はなんとなく見えた。
今のは勘違いだったのだろうか。まるで底がないみたいだった。
健太は、今度はゆっくりと腕を入れてみた。
すると腕はどこまでも水の中に入っていって、ついにTシャツの半袖を濡らした。
健太は左右にも手を伸ばしてみた。
どこにも当たらなかった。
怖くなった健太は、水甕から急いで腕を抜いた。
あらためて水甕を上から下まで眺めてみる。
やはりどう見ても普通の甕だ。金魚も何事もない顔で泳いでいる。
健太は急に心細くなった。
言葉もなく水甕を見つめていると、従兄が通りかかった。
「どしたん健太?」
健太は救世主に会ったように従兄を見上げた。
「ビー玉落としちゃったの。でも届かなくて。だってこの水甕――」
健太の説明に従兄は「届かへんことないやろ」と言い、水甕に手を突っ込んだ。
健太は「あっ」と思ったけれど、従兄は難なくビー玉を拾い上げ、健太に差し出した。
「ほら」
狐につままれたような気持ちで、健太は従兄の濡れた手を見た。
黙ってビー玉を受け取ると、従兄に「ありがとうは?」と言われた。
我に返った健太は急いで「ありがとう」とお礼を言った。
従兄は濡れた手を軽く振って、そのまま行ってしまった。
ふと座敷に目をやると、いつからいたのか、ばあちゃんがちんまりと座布団に座っていた。相変わらずの薄笑いを浮かべている。
「ばあちゃん、この水甕、ヘンだよ」
健太が言うと、ばあちゃんは健太と水甕とを交互に見た。
そして口もとに手をやり、かすれた声で「ほっほっ」と笑ったばあちゃんのおしりの陰に、ふと狐の尾のようなものが見えた気がした。




