第2話 木彫鳥像と指輪
朝の光が工房の窓から差し込む頃、僕は昨日作りかけだった木のボウルの仕上げに取り掛かっていた。リラと共に工房を営むようになって、もう一か月が過ぎた。彼女は僕が起きる前に既に作業台を整え、道具を並べてくれている。その気配りには、いつも感謝していた。
「おはようございます、タクミさん」
振り返ると、リラが銀色の髪を三つ編みにして、いつものように品のある佇まいで立っていた。彼女の青い瞳は落ち着いているが、時々見せる表情の変化が、何か深い過去を物語っているような気がする。僕にはまだ分からない、遠い記憶の影のようなものが。
「おはよう、リラ。今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
リラは微笑んで、昨日途中まで削っていた木のスプーンを手に取った。その手つきは既に慣れたもので、最初の頃のぎこちなさはもうない。リラの器用さには本当に驚かされる。だが同時に、その手つきには何か軍事的な訓練を受けたかのような正確さがあることに、僕は気づき始めていた。
そのとき、工房の扉が勢いよく開いた。
「タクミさん!おはよう!」
ミラだった。茶色い髪を束ね、いつものように元気いっぱいの笑顔を浮かべている。しかし、リラを見ると少し表情が変わる。憧れのような、でもどこか遠慮がちな態度。二人の間には見えない壁のようなものがまだあった。
「あ、リラさんもおはようございます」
「おはようございます、ミラさん」
リラの返答は丁寧だが、どこか距離を置いているように聞こえる。ミラの方も、リラの美しさと上品さの前で、自分の村娘らしさを恥じているような気がした。
「今日は何の用?」
「そうそう!グレース婆さんが、タクミに頼みがあるって言ってるの」
「グレース婆さん?」
ミラの表情が少し真剣になった。
「村の端に住んでる一人暮らしのお婆さんよ。とても大切なものが壊れちゃったから、直してもらいたいんだって。でも……」
「でも?」
「お金がそんなにないから、お支払いができるかどうか心配してるの」
ミラの言葉に、リラがわずかに眉をひそめた。まるで、お金で価値が決まることに違和感を感じているような表情だった。心配しているように見えるが、気のせいかも知らない。
修理の依頼については正直に言って、予想外だった。僕はまだ村に来て二か月ほどしか経っていない。外人である僕に修理を頼んでくれるということは、少しずつだが信頼を得られているということだろうか。
「分かった。どんなものを直すのか聞いてみよう」
僕の返答に、ミラがほっとした表情を見せた。その隣で、リラが僕を見つめている。その視線には、何か探るような、でも温かいものが込められていた。
しばらくして、小柄で腰の曲がった老婦人が工房を訪れた。グレースは大切そうに布に包んだ何かを抱えている。その手の震えから、どれほど緊張しているかが伝わってきた。
「タクミさん、初めまして。バレンタイン・グレースと申します」
「こちらこそ、はじめまして。ウィロウブルックで木工師を務めているタクミです。よろしければ、先に依頼品をご拝見いただいてもよろしいでしょうか」
グレースは僕とリラを見回して、安心したような表情を浮かべた。特にリラの品のある佇まいを見て、深く頷いているのが印象的だった。
「ありがとうございます。優しそうな方たちですね」
そう言って、彼女は慎重に布を解いた。現れたのは、小さな木彫の鳥像だった。翼を広げた美しい彫刻だったが、片方の翼が根元から折れてしまっている。
「これは……」
僕が息を呑むと、グレースの目に涙が浮かんだ。
「亡くなった主人が作ってくれたんです。結婚十周年の記念品でした」
グレースの声が震えていた。僕はその表情を見て、胸が詰まった。その隣でリラも、いつもの冷静さを失ったような驚きの表情を浮かべている。まるで、そんな深い愛情を込められた物があることに、初めて気づいたような顔だった。
「昨日、掃除をしていて、うっかり落としてしまって……主人との最後の思い出なのに……でも、きっとお高いでしょうし……」
僕は鳥の彫刻を慎重に手に取った。制作者の技術は確かで、羽根の一枚一枚まで丁寧に彫られている。木材はチェリーウッドだろうか。経年で美しい飴色に変化している。
折れた翼の断面を見ると、幸い接着面がきれいだ。適切な木工用接着剤と補強があれば、元通りに直せるはずだ。
その時、僕はリラの表情に変化があることに気づいた。彼女は鳥像を見つめながら、まるで何かを思い出しているような、遠い目をしていた。そして、その唇がかすかに動く。
「こんなにも、大切にされているものが……」
ほとんど聞こえないほど小さな声だった。僕は聞かなかったふりをした。きっと彼女なりに、何か思うところがあるのだろう。
「直せます。僕に任せてください」
僕がそう言うと、グレースの顔が明るくなった。その瞬間、老婆の目に涙が浮かんだ。
「ほ、本当ですか?では、お代を——」
「費用に関しては、まだ大丈夫です。」
僕は微笑んだ。
「一旦、修理に必要な材料を買ったん分だけ請求する形になります。特に今回の件は、壊れたカケラを全部集めていただいたので思ったより安く出るかも知りません」
グレースが驚いた表情を浮かべた瞬間、ミラも目を丸くし、リラは僕を見つめて、まるで信じられないものを見るような表情を浮かべていた。
「ただし、時間をください。急いで直すと、かえって弱くなってしまいます」
「もちろんです。いくらでもお時間をかけてください」
僕は作業台に鳥を置いて、詳しく観察した。リラも興味深そうに見ているが、その視線は複雑だった。まるで、初めて見る光景に戸惑っているような表情だった。
「折れた部分を削り直して、接着面を整える作業が必要です」
僕は作業手順を説明しながら、道具を準備した。先日、村の鍛冶師であるガリックに頼んで作ってもらった小さなノミと鉱石のトカゲの皮で作った紙やすりを順番通りに作業台の上に置いた。そして、最後にモンスターのニカワと漆が入った瓶を棚の中から出した。
異世界で新たな人生を始めた日から、現代の知識を活かすことは大変難しかった。あるものがなくてないはずのものがある世界。想像通りになることより、予想通りにならないことが多い日が続いて来た。
だとしても、じっくり調べる時間はあった。ここには、締切に追われて徹夜する日もなく、無理矢理に依頼品を急かす客もいない。店に寄って来る人々も皆、平凡な日常に報われた田舎の異世界人だけだ。
実に僕が望んだ世界に相応しいと思っている。
「まずは、設計図から始めましょう」
僕は細く削った黒鉛の塊を木の板の間に挟んで鉛筆にして、左手に握った。まだ完成形ではなくて壊れやすかったけど、基礎的な図を描くには使い勝手が良かった。
図を描くところも今まで使った普通の紙ではなく、川で生息している植物のモンスターから得られた茎を薄く裂いて、縦と横に並べ圧力を加えて脱水し、三日間を乾燥させた紙だった。ここでは、《ペッパー》と呼ばれているようで、そのまま紙をペッパーと名付けた。
図を描く作業が終わり、本格的に足りない部分を作る始めると、リラが静かに見守っていることに気づいた。その視線は真剣で、僕の手の動きを一つも見逃すまいとしているようだった。
「なぜ、そこまで丁寧に削るのですか?」
リラが小さな声で尋ねた。その声には、純粋な疑問が込められていた。
「接着面が完璧でないと、また同じところで折れてしまうから。それに——」
僕は手を止めて、グレースを見た。彼女は椅子に座って、心配そうに作業を見守っている。その表情には深い愛情が宿っていた。
「これは、ただの木の鳥じゃない。グレースにとって、亡くなったご主人との思い出そのものなんだ。だから、丁寧に、心を込めて直さなければいけない」
リラの表情が変わった。驚きというより、まったく理解できないという困惑に近い表情だった。まるで、今まで知らない概念に出会ったような戸惑いがそこにあった。
「思い出……それは、何かの価値があるものなのですか?」
彼女の質問は、あまりにも純粋で、そして悲しかった。まるで、誰かを想い、大切にするという感情を知らないような言葉だった。
「そう。物には、それを大切にする人の気持ちが込められている。僕たちは技術だけじゃなく、その気持ちも一緒に直すんだ」
リラは何も言わなかった。ただ、じっと僕を見つめている。その瞳に、何か深い考えが浮かんでいるような気がした。まるで、今まで知らなかった新しい世界を見つけたような表情だった。
ミラがその様子を見て、少し心配そうにリラに歩み寄った。
「リラさん、大丈夫?」
「え?あ、はい……すみません」
リラは慌てたように首を振った。その仕草が、いつもの彼女らしくなく動揺を隠せずにいた。
「ただ、初めて知ることが多くて少し戸惑いました」
ミラの素朴な心配が、リラの心に何かを与えたように見えた。彼女の表情が少しずつ柔らかくなっていく。
木屑の舞う静かな工房に、ノミの音だけが響いていた。
昼頃になって、ようやく鳥の翼が接着できた。僕は慎重にニカワと漆を少しずっつ塗り、正確な位置で翼を固定した。
「よし、できました。後は、くっつけた部分が完全に固まるまで待つだけです」
「大変お疲れ様でした。ありがとうございます」
グレースが涙ぐんでいた。その涙は悲しみではなく、安堵と喜びの涙だった。
「まだ仕上げが残ってるので、明日の夕方にもう一度来てください。色合わせをして、完全に元通りにします」
「本当にありがとうございます。お支払いは——」
「いえ、結構です」
僕は首を振った。
「高い材料を使った訳でもないので今回の依頼は無償でサービスさせていただきます」
グレースは驚いた表情を浮かべた。その隣でミラも目を丸くしている。そして、リラも僕を見つめて、まるで信じられないものを見るような表情を浮かべていた。
「そんな、タクミさんの貴重な時間を提供した費用は支払う必要があります」
「いや、実はですね。僕が来た世界ではこれくらいで費用を請求するとボッタクリだと叩かれますよ。それに——」
僕は鳥の彫刻を見つめた。
「こんな素晴らしい作品を直させてもらえるなんて、僕の方が大変勉強になりました。本当に、僕の工房に来ていただいてありがたいです」
リラが僕を見つめていた。本当に理解できないという困惑があった。彼女の知る世界では、すべてに対価が求められるのだろう。しかし、ここは僕の木工房だ。外の価値観は多少でも通用しなくても問題にならない場所である。
グレースは何度もお辞儀をして、工房を後にした。その後ろ姿には、安心と喜びが満ちていた。
夕暮れの光が工房に差し込んでいた。
僕が片づけをしていると、リラが静かに近づいてきた。
「タクミさん」
「あ、リラさん。今日もお疲れ様でした」僕が軽く挨拶をした。「何か聞きたいことでもありますか?」
「なぜ、お金を受け取らなかったのですか?」
僕は手を止めて、彼女を見た。その表情には、本当に理解できないという困惑と、同時に何かを必死に理解しようとする意志があった。
「先ほどお客様に説明した通りですよ?材料代が発生していないから費用は請求しなかった。ただそれだけです」
「でも、グレースさんは、依頼としてタクミさんの技術と時間を利用しました。それなのに代金は払わず済みました。無償なんてあり得ない契約の形です」
「契約って、大袈裟ですよ」
僕は苦笑した。
「僕なんか、まだまだ学びが必要な素人です。持っている技術は確かにあります。ですが、周りの人より優れていたからと言って、この業界が建てたサービスの基準を勝手に自分に合わせて変えりたくはありません」
リラは長い間、僕を見つめていた。その瞳には、何か複雑な感情が浮かんでいるように見えた。驚きと、困惑と、そして何か新しい発見をしたような光が混じっていた。
「やはり変わった人ですね。考え方がこの世の人間とはだいぶ違います」
「お恥ずかしながら、頑固者だと昔からよく言われます」
リラは慌てたように首を振った。その仕草が、いつもの彼女らしくなく動揺を隠せずにいた。
「そう言う意味ではなく……いえ、何でもありません」
そして、再び作業に戻った。しかし、その動きの中に、以前にはなかった迷いのようなものが混じっているのが僕にも見て取れた。
午後になって、ミラが昼食を持って工房を訪れた。
「お疲れさま!お母さんが作ったサンドイッチ、みんなで食べましょう」
三人で簡単な昼食を取りながら、ミラが村の噂話をしてくれた。しかし、彼女の視線は時折リラに向かい、まだ完全に打ち解けていない様子が見て取れる。
「そうそう、リラさん」
ミラが少し遠慮がちに口を開いた。
「その指輪、すごく綺麗ですね」
リラは右手の薬指にはめた木の指輪を見つめた。それは僕が以前作った練習作品で、彼女がとても気に入って身につけているものだった。
「タクミさんに作っていただいたものです」
「わあ、タクミが作ったの?すごく上手!」
ミラの素直な反応に、僕は少し気恥ずかしくなった。でも、リラが大切そうに指輪を見つめているのを見ると、作ってよかったと思う。
「でも」とミラが続けた。「リラさんの手って本当に綺麗ですよね。お嬢様みたい」
確かに、リラの手は僕やミラのように荒れていない。白く細い指は、まるで貴族の令嬢のようだった。
「私は、まだ修行中ですから手が綺麗なだけです」
リラの答えは控えめだったが、ミラは納得していないような表情を見せた。村の娘らしい直感で、何かを感じ取っているのかもしれない。
「でも、とても上品で素敵です。私も、いつかリラさんみたいになりたいなあ」
ミラの憧れるような視線に、リラは困ったような表情を浮かべた。そして、少し寂しそうにも見えた。
「ミラさんは、ミラさんのままで十分に素敵です」
リラの言葉に、ミラは嬉しそうに頬を赤らめた。その瞬間、二人の間に少しだけ距離が縮まったような気がした。そして僕は気づいた。ミラの存在が、リラに何か大切なことを気づかせているのかもしれない、と。
夕方、工房の整理整頓をしていると、リラが僕の作業机の隅に置いてある小物を見つめているのに気づいた。それは以前作った木の小箱で、特に用途のない装飾品だった。
「これも、タクミさんの作品ですか?」
「ああ、それは失敗作だよ。蓋の合わせが完璧じゃなくて、実用的じゃないんだ」
リラは小箱を手に取って、じっくりと眺めていた。その表情は、まるで大切な宝物を見つけたかのように輝いていた。
「失敗作?こんなに美しいものが?信じられない」
「木目の出方が思った通りにならなくて。もっと均一に仕上げるつもりだったんだけど」
でも、リラは首を振った。その表情は、まるで大切な思い出に触れたかのように優しかった。
「いえ、この不規則な木目こそが美しいのです。自然の造形をそのまま活かしたような感覚です」
彼女は言いかけて、急に口を閉じた。まるで、何か言ってはいけないことを言いそうになったような表情だった。
「リラさん?」
「すみません。つい、夢中になってしまいました」
彼女は小箱を丁寧に元の場所に戻した。しかし、その手がわずかに震えているのが見えた。何か、彼女にとって特別な意味がある物だったのだろうか。
リラが工房で働き始めてから一か月が過ぎ、工房を始めた月より外からの依頼が倍になった。繊細なことから大量の仕事まで人より動く手が速くて予定より早く終わらせることも増えてきた。
「前にも言いましたが、リラさんは本当に上手ですね」
僕の質問に、リラは少し複雑な表情を浮かべた。
この世界では木工はどう言う印象を持っているだろう。ふと、僕はそう思い込んだ。よくメディアから出る異世界の話では男女の役割に決まりがなくて、好きな職業を選ぶように映るが、実際に来てみてそうでもないことに気づいた。
今までの村で出会った騎士や冒険者の中に女性は男性に比べて見れば少ない方だった。ギルドの依頼で村に尋ねた外の人々も殆どが男性で、女性は人外の存在が多かった。この村より大きい都会にはいるだろうけど、権力を持った国王が何を重視するかに寄って世間の常識が変わるだろう。
昔、この世に民主主義が存在していない時とほぼ似ている。あまり愉快な話ではないと、僕は思った。
「タクミさん」
当日の夜、リラが僕に話をかけてきた。
「はい?」
「私と一緒に働いてくださって……本当にありがとうございます」
突然の感謝の言葉にどう反応すれば分からなかったが、僕は内心嬉しかった。
「何を言ってるんですか。僕の方こそ、助かってます」
「いえ、それだけではありません」
リラは指輪を見つめながら続けた。
「ここでの生活で、私は初めて……人を幸せにする仕事があることを知りました」
その言葉には、特別な重みがあった。僕には完全には理解できないが、彼女にとって重要な発見があったことは分かった。
夜の静寂が工房を包んでいた。
その夜、僕は遅くまで翌日の作業の準備をしていた。リラは「少し散歩をしてきます」と言って外に出ていた。最近、夜に一人で外に出ることが多くなったような気がするが、彼女なりの理由があるのだろう。
色合わせのための染料を調合しながら、今日のことを考えていた。グレースの涙、リラの困惑、そして指輪への深い愛着。
この世界に来てから、僕は自分の技術を過小評価していた。でも、今日グレースの笑顔を見て、少しだけ分かったような気がする。
技術の価値は、それを必要とする人が決める。僕の仕事で誰かが幸せになれるなら、それは価値のあることなのかもしれない。
そのとき、工房の外で何かがきらめくのが見えた。窓から外を覗くと、リラが立っていた。
月明かりの下で、彼女の周りに氷の結晶が舞っていた。
手を軽く振ると、空中に美しい氷の花が咲く。それはすぐに消えてしまったが、確かに魔法だった。しかも、かなり高度な魔法のようだった。
僕は息を呑んだ。この世界に来てから、魔法を間近で見るのは初めてだった。そして、リラがただの旅人ではないということも改めて確信した。
でも、なぜ身分を隠しているのだろう。そして、なぜ僕の工房で働きたがっているのだろう。
リラが振り返った。僕と目が合う。
一瞬、時が止まったような気がした。月明かりの下で、彼女の表情に驚きと困惑、そしてわずかな恐怖が浮かんだ。まるで、秘密を知られることを恐れているような表情だった。
僕は静かに窓から離れた。彼女が見られたくないなら、それには理由があるはずだ。もし、彼女が隠したい秘密があるなら、僕はそれを尊重したい。
僕は、ただの職人でいたい。複雑な事情に巻き込まれることなく、静かに木工を続けていたい。
しばらくして、リラが何事もなかったかのように工房に戻ってきた。しかし、その表情にはわずかな緊張が残っていた。
「先に失礼します。お疲れ様です」
「あ、はい。おやすみなさい」
僕は何も見なかったふりをした。彼女の秘密に踏み込むことはしない。それが、僕なりの優しさだった。
でも、心のどこかで思った。
リラは一体何者なのだろう。そして、僕の静かな工房生活は、これからどうなっていくのだろう。
指輪をつけたリラの手が、月明かりの下で静かに光っていた。その指輪を見つめる彼女の表情は、まるで失くした何かを見つけたような、深い安らぎに満ちていた。
翌日の夕方、グレースが約束通り工房を訪れた。僕は一日かけて鳥の色合わせを完璧に仕上げていた。
「あら、まあ……」
グレースが息を呑んだ。その表情は感動で輝いていた。
「まるで新品のようです。いえ、作られた当時よりも美しいかもしれません」
鳥は元通りになっていた。それどころか、僕が表面をわずかに磨き直したことで、木目の美しさが一層際立っている。
「ありがとうございます。主人が生き返ったような気がします」
グレースは鳥を胸に抱いて、静かに涙を流した。その涙は、深い愛情と安堵に満ちていた。その様子を見ていたリラの目にも、いつしか涙が浮かんでいた。
「これで、また主人とお話しできます」
僕は胸が熱くなった。作ってよかった。この気持ちは、お金では買えない。技術だけでは得られない、何か特別なものがあった。
リラも、その光景を静かに見つめていた。その表情には、今まで見たことのない温かさがあった。まるで、初めて人の幸せというものを目の当たりにしたような、戸惑いと感動が混じった表情だった。
ミラは、その場に立って工房の中を眺めていた。彼女は黙って様子を見守っていたが、その表情は複雑だった。グレースの涙と、リラの変化を、敏感に感じ取っているようだった。
「タクミさんの仕事を見ていて、分かりました」
グレースが帰った後、リラが僕のところに来て声をかけた。その声は、いつもより柔らかかった。
「何をですか?」
「壊れた物を直すだけではない。あなたは、人の心も一緒に治しています」
リラは指輪を触りながら僕に告げた。いつもより感情的な仕草に僕は口を閉じて時間を置いた。
「私は今まで、そんな仕事があるとは知りませんでした。破壊する手しか知らなかった私が、救う手があることを教えられました」
その言葉の意味を、僕は完全には理解できなかった。でも、彼女にとって重要な気づきがあったことは分かった。そして、その言葉に込められた重さも。
「あなたのような職人に出会えて、私は……本当に幸せです」
ミラが、二人の会話を静かに聞いていた。その表情には、何かを理解したような、でもまだ完全には理解しきれないような複雑な感情があった。
「リラさん」
ミラが突然口を開いた。二人とも彼女を見る。
「あなたって、本当に不思議な人ですね」
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「最初に会った時、すごく綺麗で上品で、私なんかとは全然違う人だって思ってました。でも——」
ミラは少し照れたように頬を染めながら続けた。
「今日のグレースを見てるリラさんの顔、すごく優しくて。なんだか、普通の女の子みたいでした」
リラは驚いたような表情を浮かべた。
「普通の……女の子?」
「はい。私と同じような、普通の女の子です」
ミラの素朴な言葉が、リラの心に何かを与えたように見えた。彼女の表情が、今まで見たことのないほど柔らかくなった。
「私が……普通の女の子……」
リラは小さくつぶやいた。その声には、まるで初めて自分の新しい一面を発見したような驚きが込められていた。
夜が遅くなるまで僕は何かに気を取られたように深く考え込んだ。リラは何者なのか、なぜ僕の工房にいるのか、そして彼女の魔法の正体は何なのか。
でも、今はそれでいいような気がした。彼女が僕の仕事を理解してくれて、一緒に働いてくれることが嬉しい。そして、彼女の中に何か変化が起きていることも感じられる。そのきっかけを作ったのが、ミラの素直な心だったのかもしれない。
きっと時が来れば、すべてが明らかになるだろう。
指輪をつけたリラの手が、作業台の上で静かに動いている。その姿を見ていると、不思議な安らぎを感じる。彼女もまた、この小さな工房で何かを見つけつつあるのかもしれない。
窓の外では、月が静かに輝いている。村は平和な眠りについているが、僕には分からない。この静かな夜の向こうで、どんな運命が待ち受けているのか。知る方法はいくらでもあっても今は大丈夫だった。
ただ一つ確かなことは、リラと過ごすこの時間が、僕にとってかけがえのないものになりつつあるということだった。彼女の秘密が何であれ、今はただ、この穏やかな時間を大切にしたい。
そんな中で、僕は前世の記憶を端無く思い出していた。
日本にいた頃、会社の同僚たちは僕のことを「村上」と呼んでいた。あの頃の僕は、ただサラリーマンとして毎日を過ごし、特に誰かを幸せにするような仕事をしていたわけではなかった。
でも今、この異世界で「タクミ」と呼ばれる僕は、グレースの涙を見て、リラの心の変化を感じて、ミラの素直な優しさに触れて、何か大切なものを見つけつつある。
前世では人と人とのつながりの温かさを感じる暇がなかった。
木の香りと、森の中から寝息が、月明かりに乗ってが木工房の中を満たしてくれている。心配ことがあっても異世界の生活は久々に撮った有給休暇のように感じる。今日も無事に終わり、明日は更に平凡な朝日が昇るだろうと、僕はそう信じて部屋に戻った。
明日は、また誰がこの工房に尋ねてくるか楽しみだ。