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第11話 偽りの勇者と、裸の王様

 扉の取っ手に触れた僕の手は、ぴくりとも動かなかった。


 この一枚の板を隔てた向こう側にいるのは、勇者であり、僕たちの運命を握る男だ。この扉を開くことは、彼を信じることか。それとも、僕が守ろうとしている全てを、僕自身の選択で壊してしまうことか。


 思い出すのは、この世界に来たばかりの頃の自分だ。何もできず、ただ怯え、リラエルの優しさに甘えていただけの、無力な男。今、僕は何かを成し遂げた気になっているだけじゃないのか? この村で得た絆も、自信も、全ては砂上の楼閣で、この扉を開けた瞬間に、あっけなく崩れ去ってしまうのではないか?


 一度知ってしまった温かい場所を失う恐怖が、鉛のように僕の腕に絡みつく。怖い。壊したくない。失いたくない。


 僕の弱さを見透かしたように、背後から凛とした声が響いた。


「タクミさん?」


 背後から、リラエルの声が聞こえた。僕の様子に気づいて、奥の部屋から出てきたのだろう。


「どうかなさったのですか?」


 僕は振り返った。薄暗い工房の中で、彼女の瞳が月光を反射して光っている。


「アルトさんが……扉の向こうに来ています」


 リラエルの表情が、一瞬で変わった。緊張と警戒、そして何かを諦めるような影が瞳の奥に宿る。


「分かりました」


 彼女は静かに頷き、僕の隣に立った。


「開けましょう」


 僕は意を決して、扉の鍵を外した。


 重い木の扉がゆっくりと開く。月光が工房の中に差し込み、アルトの疲れ切った顔を照らし出した。


「タクミ殿……」


 アルトの視線が、僕の肩越しにリラエルを捉えた。僕は息を呑んだ。勇者の纏う空気が、変わったからだ。


「今夜は、魔王軍のリラエルとしていますか?」


 昼間のような怒りはない。ただ、全てを諦めた巡礼者のような、静かな問いだった。


 その問いに呼応するように、リラエルの雰囲気も変わった。村の優しいお姉さんの気配がすうっと消え、代わりに背筋が鋼のように張り詰めていく。僕が今まで一度も見たことのない、冷徹な指揮官の顔がそこにあった。


「その通りです、勇者殿」


 彼女は、アルトを初めて「勇者殿」と呼んだ。その声は、僕が知る彼女の声より一段低く、澄み渡っていた。


「私が、魔王が懐刀が一人、第三師団長のリラエルです。この間は、失礼しました」


 ぞくり、と背筋が震えた。今、この小さな工房は、人間と魔族の最前線になったのだ。


「……信じられん」


 アルトは、目の前の現実が理解できないとでも言うように、かぶりを振った。


「なぜ、木工房なんかを営んでいる」


「それは……」


 リラエルが答えに詰まったのは、ほんの一瞬だった。だが、その沈黙は、彼女がこの工房で過ごした日々の重さと、それを失うことへの痛みを雄弁に物語っていた。


 その痛みを断ち切るように、僕は口を開いた。


「アルトさん、中へどうぞ。夜風に当たりながらするには、少し……冷えすぎる話だ」


 僕はあえて「重すぎる」という言葉を避けた。これ以上、目の前の壊れかけた青年に重圧をかけたくなかった。


 アルトは躊躇した。敵であるはずの魔族と、その協力者のテリトリーに足を踏み入れることへの警戒。だが、それ以上に、彼自身の混乱した心を落ち着かせる場所を求めているようにも見えた。やがて、彼は諦めたように小さく頷いた。


 工房の中に招き入れた三人分の沈黙は、やけに重かった。僕はその重さに耐えかねるように、急いで燭台に火を灯す。揺らめく炎が、三人の顔に複雑な陰影を落とした。


 アルトが、まるで重すぎる荷物を下ろすかのように、聖剣を腰から外してテーブルの上に置いた。カタリ、と硬質な音が響く。それは単なる武装解除の意思表示ではない。「俺は今、勇者であることをやめたい」という、彼の魂の悲鳴のように聞こえた。


 最初に口火を切ったのは、やはり彼だった。


「……分からないんだ」


 それは「混乱している」というよりも、もっと根源的な、迷子の子供のような響きを持っていた。


「王子は言う。魔族は絶対的な悪だ、と。根絶やしにすべき人類の敵だ、と。俺も……かつてはそう信じていた。いや、そう信じるしかなかった」


 彼の声に、深い悔恨の色が滲んだ。


「……僕は昔、魔族を信じた」


 それは、以前この工房で彼が口にした言葉だった。だが、今その言葉の響きは、あの時とは全く違う重みを持っていた。


「俺の故郷の隣村に、一人の魔族が流れ着いた。彼は人を助け、村に尽くした。誰もが彼を信じた。俺もだ。だが、それは罠だった。彼が手引きした魔王軍の襲撃で、村は……一夜にして地図から消えた」


 工房の空気が凍りつく。僕もリラエルも、息をすることもできなかった。彼の背負う過去は、僕の想像を遥かに超えて重い。


「俺は誓ったんだ。二度と感情に惑わされない、と。疑わしきは全て断つ。それが、犠牲になった者たちへの、俺なりの弔いだった。俺はもう、間違えられない……そう、自分に言い聞かせてきた」


 アルトの視線が、工房の中を彷徨った。僕が作った椅子に、リラエルが刺繍したクッションに、壁に飾られた小さな木彫りの鳥に。


「だが……君たちの作るものには、敵意が感じられない。それどころか、村人たちは君たちを心から慕っている。あの日の俺に、『間違っている』と教えてくれた君の言葉と、君の作る誠実な作品が……」


 彼は、まるで助けを求めるように僕を見た。


「あの村を滅ぼした魔族と同じ目で、リラエル殿を見ることができない。俺の誓いを、俺の正義を、この工房にある全てが、根底から否定してくるんだ……!」


 それは、ヒーローの苦悩ではなかった。一度犯した過ちの罪悪感から逃れるために作り上げた「正義」という名の鎧が、目の前の真実によって内側から砕かれていく、一人の人間の悲痛な叫びだった。


「アルトさん」


 僕は、彼の彷徨う視線を捕らえるように、静かに、しかしはっきりと語りかけた。


「僕は、この世界の常識も、魔族と人間の歴史も知りません。だから、あなたの言う『正義』が何なのかも分からない」


 僕は一度言葉を切り、隣に座るリラエルへと視線を移した。彼女はじっと自分の膝の上で組んだ手を見つめていた。


「でも、僕が知っている事実が一つだけあります。それは、僕がこの世界で初めて出会い、絶望の淵から救い出してくれたのが、他の誰でもない――リラエル、その人だということです」


 僕の声が、わずかに震えた。


「彼女が何者であろうと、その事実だけは、誰にも、何ものにも覆すことはできない。それが、僕の唯一の真実です」


 僕の言葉に、リラエルの肩が微かに震えた。彼女がゆっくりと顔を上げると、その蒼い瞳は潤み、燭台の光を弾いて星のようにきらめいていた。それは、僕が初めて見る彼女の涙だった。魔王軍幹部でも、村の看板娘でもない、一人のリラエルとしての、魂の涙だった。


 アルトは、テーブルの上で固く拳を握りしめていた。爪が食い込み、指の関節が白くなるほどに。


「俺も……」


 絞り出すような声が、彼の唇から漏れた。


「俺も、そう信じたい。お前たちの作る温かい世界が、本物であってほしいと、心の底から願っている。だが……!」


 ゴッ、と彼が息を詰める。その瞳に宿るのは、深い絶望の色だった。


「俺個人の感情で、勇者としての使命を放棄することはできないんだ……!」


 彼は一度、深い溜息をついた。手で額を覆い、その隙間から苦悶に満ちた視線を僕たちに向ける。


「俺は、ディエゴ王子に見出されて勇者となった。かつては正義の心を共にし、王国を守ろうと誓い合った仲だった。だが……今の王子殿下は、もう昔の彼ではない」


 アルトの声が、自嘲と悲しみを帯びてかすれ始める。


「父王の寵愛を得るため、手柄を焦っている。魔族討伐こそが、それを成し遂げる最短の道だと信じて疑わない。俺がいくら進言しようと、もはや彼の耳には届かない」


「それでも、あなたは勇者でしょう!」


 思わず、僕の声が強くなった。目の前の男が、あまりにも頼りなく、そして哀れに見えたからだ。


「勇者なら、王子の過ちを正すべきじゃないのか!」


 アルトは、僕の言葉に力なく首を振った。その顔には、諦観と深い疲労が刻み込まれている。


「勇者といえど、王家の勅命に逆らえば、それは国家への反逆とみなされる。俺一人の首で済むなら、まだいい。だが、俺を支えてくれた故郷の家族、俺を信じてくれた一族郎党まで、反逆者の汚名を着て処刑台に送られることになる……!」


 僕は言葉を失った。彼が背負っているものの重さを、僕はあまりにも理解していなかった。


「俺に……俺に、そんな選択ができると思うか……?」


 彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。月光が、彼の金色の髪を白銀に変えていた。その背中は、世界中の期待と責任を一身に背負い、今にも折れてしまいそうに見えた。


「明日……夜明けと共に、王子が動く」


 僕とリラエルの間に、緊張が走った。


「何をするつもりですか」


 リラエルの低い声が、工房の空気を切り裂いた。


「村を包囲し、魔族――リラエル殿を引き渡さなければ、村人ごと焼き払う、と」


 工房に、死のような沈黙が落ちた。燭台の炎がパチリと爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。


「俺は止めようとした。必死に食い下がった」


 アルトが、懺悔するように続けた。


「だが、王子の決意は固い。俺にできるのは……」


 彼はゆっくりと振り返り、その光を失った瞳で、僕たちを真っ直ぐに見つめた。


「夜明け前に、二人だけでこの村から逃げることだ。それが、勇者アルトではなく……一人の男として君たちにできる、最後の贖罪だ」


 僕は首を振った。


「それはできません」


「タクミさん!」


 アルトが声を荒げた。


「分からないのか。王子は本気だ。躊躇なく村を燃やすぞ」


「分かっています」


 僕は静かに答えた。


「でも、僕たちの居場所はここです。村の人たちを見捨てて逃げることなんて、できません」


 リラエルが立ち上がった。


「私が、行きます」


 アルトが消えた闇を見つめたまま、リラエルが静かに言った。投降、という言葉さえ使わない。まるで、それがずっと前から決まっていた当然の義務であるかのように。


「一人で行けば、村は助かる。それが、最も合理的な判断です」


「合理性なんて、クソ食らえだ」


 僕も立ち上がっていた。気づけば、自分でも驚くほど、強い力で、彼女の腕を掴んでいた。


「そんな判断のために、僕たちがこの工房を作ってきたわけじゃないだろう!」


 声が荒くなる。彼女が差し出す「正しさ」を、僕はどうしても受け入れたくなかった。


「リラエルさんがいない工房に、何の意味がある? そんなのは、灰になったのと同じだ。僕にとっては……!」


 僕は、掴んだ彼女の腕から、その冷たい手に自分の指を絡ませた。震えていた。僕を拒絶するためじゃない。自分の運命を受け入れようとする、最後の抵抗のように。


 この手を離したら、彼女はきっと夜の闇に溶けるように消えてしまう。僕の前から、永遠に。その予感が、背筋を凍らせた。


「逃げるのでも、差し出すのでもない。僕たちだけのやり方で、足掻こう」


 僕がそう言うと、リラエルは息を呑んだ。その瞳が、僕の言葉を信じようとする光と、僕を巻き込むことへの罪悪感との間で、激しく揺れ動くのが見えた。


「……ですが、それは」彼女の声がかすれた。「あなたを、死地に追いやることになります」


「構わない」


 僕は即答していた。


「リラエルさんのいない明日が来るくらいなら、僕は、あなたと一緒に今日の終わりを見たい」


 僕の覚悟が伝わったのだろう。彼女の瞳の揺らぎが、ぴたりと止まった。そして、諦めとも、あるいは救いともつかない、美しい微笑みが彼女の唇に浮かんだ。


「……あなたは、本当に、ずるい人ですね」


 涙が一筋、彼女の頬を伝った。


「分かりました。タクミさんの作る工房で、タクミさんの隣で……最後まで、共犯者でいさせてください」


 彼女はそう言うと、僕が握っていた手に、そっと自分の手を重ねてきた。それはもう、震えてはいなかった。


 アルトは呆然と僕とリラを見つめていた。そして、深い溜息をついた。


「君たちの覚悟は……分かった」


 彼は聖剣を取り、立ち上がった。


「俺は……君たちの信じる正義を、見届けることしかできない」


「アルトさん」


 僕は彼を見つめた。


「あなたが一度でも僕たちを信じようとしてくれたこと、忘れません」


 アルトは微かに微笑んだ。それは勇者のものでも、敗者のものでもなく、ただ一人の応援者としての、悲しい笑顔だった。彼は何も言わずに頷くと、その身を翻し、夜の闇へと溶けるように消えていった。


 彼の足音が聞こえなくなっても、僕とリラエルはしばらく動けなかった。まるで、彼がいた場所に、ぽっかりと穴が開いてしまったかのように。その穴から、夜明けと共に訪れるであろう絶望が、冷たい風となって工房に流れ込んでくる。


 沈黙が痛い。


 僕は、自分の心臓の音がやけに大きく響くのを聞いていた。恐怖が、じわりじわりと足元から這い上がってくる感覚。守ると決めたはずなのに、いざその時を前にすると、この手があまりにも無力に思える。結局僕は、異世界に来る前と何も変わっていないのではないか。そんな自己嫌悪が、胸を締め付けた。


 ふと、隣のリラエルに視線を移す。


 彼女は、僕とは違う種類の静寂の中にいた。顔を伏せ、きつく結んだ両手はじっと動かない。だが、その硬直した姿そのものが、彼女が今、どれほどの重圧と戦っているのかを雄弁に物語っていた。魔王軍幹部としての責任、僕を巻き込んでしまったことへの罪悪感、そして、一人の人間としての純粋な恐怖。その全てを、たった一人でその華奢な背中に背負い、押し潰されそうになっている。


 僕は、彼女のその沈黙を破らなければならないと思った。彼女を一人にしてはいけない。


「……怖いですか」


 絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。それは問いかけというより、僕自身の弱さの告白だった。


 僕の言葉に、リラエルの肩がゆっくりと揺れた。彼女は顔を上げない。ただ、か細い声で答えた。


「……怖くない、と言えば、嘘になりますね」


 その声に含まれた諦念が、僕の胸を抉る。彼女はもう、自分一人が犠牲になる未来を受け入れようとしているのだ。


 違う。そうじゃない。僕が聞きたかったのは、そんな答えじゃない。


「僕を見てください、リラエルさん」


 僕は一歩彼女に近づき、その震える両手を、僕の両手でそっと包み込んだ。氷のように冷たい指先が、僕の心を突き刺す。


「僕は、怖い」


 僕は、彼女の瞳を探して、はっきりと告げた。


「リラエルさんを失うかもしれないと思うと、気が狂いそうだ。でも、あなたを一人で行かせるくらいなら、僕は、喜んでその恐怖の隣に立ちます」


 僕の言葉に、リラエルがはっと顔を上げた。その蒼い瞳が、驚きに見開かれている。その瞳の奥に、僕と同じ恐怖と、そして、僕が差し出した覚悟を受け止める、小さな光が灯るのが見えた。


 涙が、彼女の瞳の縁から静かに溢れ出した。


「……あなたと一緒なら」


 彼女の声は、もう諦めてはいなかった。震えながらも、確かな意志がそこにはあった。


「どんな終わりでも、受け入れられます」


 僕は、工房をゆっくりと見回した。


 それは、僕がこの世界で生きてきた証そのものだった。


 壁際には、村人たちの注文で作った椅子やテーブルが、出荷を待って静かに佇んでいる。月光が、磨き上げたオーク材の木目を滑らかに照らし出し、まるで呼吸しているかのように見えた。あの椅子に座るハンスの娘は、きっと喜んでくれるだろうか。あのテーブルを囲む宿屋の夫婦は、どんな会話をするのだろうか。一つ一つに、使う人の笑顔を思い浮かべながら作った記憶が宿っている。


 窓辺には、リラエルが毎日水をやっている小さな鉢植えと、僕が端材で作った木彫りの小鳥が並んでいる。彼女が初めて僕の作品を「素敵です」と褒めてくれた、あの不格好な小鳥だ。


 そして、作業台の上。


 使い込まれて手に馴染んだかんなのみ。それぞれが、僕の手の延長だ。壁に掛けられた設計図には、これから作るはずだったベビーベッドのスケッチが描かれている。先日、子供が生まれる若い夫婦から頼まれたものだ。そんな、ささやかで温かい未来の約束が、この場所には満ちていた。


 木の匂い、オイルの香り、そしてリラエルが淹れてくれるハーブティーの残り香。それらが混じり合った、この工房の空気。


 僕が守りたいのは、これら全てだった。この、名前のない時間と、温もりの全てだった。


「リラエルさん、あなたの魔法で、僕の作品に力を込めることはできますか?」


 リラエルが驚きに目を見開いた。絶望の淵にあった彼女の瞳に、初めて戸惑いとは違う色の光が宿る。


「魔力を木工品に……?それは可能ですが……一体、何を?」


「まだ、ただの設計図だ。僕の頭の中にしかない、無謀な計画かもしれない」


 僕は、冷たいリラの手を握る自分の手に、さらに力を込めた。彼女の体温を、魂を、こちらに引き寄せるように。


「でも、これしか思いつかない。そして、これなら勝てるかもしれない。……いや、勝つんだ。僕と、あなたと……そして、この村の全てを懸けて」


「村の……全て……?」


 リラエルの声が、かすかに震えた。


「ああ。ガリックさんの鉄を打つ腕も、ミラの人を惹きつける声も、パン屋の親父さんの頑固さも、大工の爺さんの知恵も……全部だ。僕たちの工房は、もう僕たち二人だけのものじゃない。この村の心臓なんだ。その心臓の力、全部借りるぞ」


 僕は、言葉を叩きつけるように言った。それは懇願ではなかった。有無を言わさぬ、宣言だった。


「僕たちは逃げない。へりくだりもしない。僕たちの武器は剣でも魔法でもない。この村で生きてきた、全ての人間の誇りだ。僕たちらしいやり方で、世界の理不尽に一発食らわせてやる」


 僕は立ち上がり、彼女に向かって手を差し伸べた。


「さあ、行きましょう。リラエルさん。僕たちの戦争を始めに」


 リラエルは、僕が差し出した手と、僕の顔を交互に見た。彼女の瞳に浮かんでいた涙は、いつの間にか乾き、代わりに、決意の炎が燃え上がっていた。それは、魔王軍幹部としての冷徹な炎ではない。一人の人間として、愛する場所を守ろうとする、熱く、気高い炎だった。


「……ええ、喜んで」


 彼女は差し出された僕の手を、力強く握り返した。


「あなたの隣に、最後まで立たせてください」


 僕たちは、もはや一歩も振り返らなかった。工房の扉を蹴るように開け放ち、夜の闇へと飛び出す。


 ◇


 冷たい夜気が、火照った頬を撫でていく。見上げた空には月がなく、星々だけが僕たちの覚悟を見下ろしていた。普段は静まり返っているはずの村の小道を、僕たちは走った。リラエルのドレスの裾が翻り、僕の足音が土を蹴る。恐怖は消えていない。だが、それ以上に、これから始まる反撃への高揚感が、僕の心を燃やしていた。


 やがて、道の先に、闇を切り裂くような赤い光が見えてきた。チィン、チィンと、規則正しく響く金属音。


 村のもう一つの心臓――ガリックの鍛冶場だ。


 彼は、こんな夜更けまで鉄を打っている。その変わらない日常の営みが、僕には途方もなく心強く思えた。


 僕たちは鍛冶場の前で息を整えると、燃え盛る炉の熱気を感じながら、声を張り上げた。


「ガリックさん!」


 金属音がぴたりと止み、奥から汗まみれの巨躯がぬっと現れた。


「タクミか。こんな夜中に何の用だ?」


「実は……」


 僕は、勇者アルトから聞いた王子の脅し、そして僕たちの決意、その全てを洗いざらい話した。


 ガリックは腕を組んで黙って聞いていたが、俺の話が全て終わると、やがて鼻で笑った。


「面白い。お前という奴は、いつも俺の予想を上回るな」


 彼は大きな手で僕の肩を叩いた。しかし、その眼差しには、確かな心配の色が宿っている。


「で、俺に何をしろと?」


「特別な金属部品を作ってもらえませんか。僕の設計図通りに」


 僕は急いで工房から持ってきた設計図を広げた。それは、巨大な木製の装置の一部だった。


「ほう……これは何だ?」


 ガリックは眉をひそめながら、設計図を詳しく見た。


「僕とリラエルさんの魔法を組み合わせた、特別な装置です。でも、要となる部分は、ガリックさんにしか作れません」


「複雑だが……面白い仕組みだな」


 ガリックはしばらく考え込んだ後、力強く頷いた。


「よし、やってやろう。だが、本当に効果があるんだろうな?」


「信じてください」


 僕が真剣な表情で答えると、ガリックも表情を引き締めた。


「分かった。徹夜作業だ。お前たちも覚悟しろよ」


 彼は鍛冶炉に石炭をくべ始めた。火の粉が舞い踊り、工房は一気に熱気に包まれる。


 次に向かったのは、ミラの家だった。


 小さな窓に明かりが灯っている。まだ起きているようだ。


「ミラ」


 僕が小石を窓に投げると、すぐにミラが顔を出した。


「タクミさん?こんな夜中に……あ、リラさんも」


「緊急事態なんだ。下に降りてもらえるか?」


 ミラは急いで家から出てきた。僕たちは事情を説明した。


「そんな……王子様が村を?」


 ミラの顔が青ざめた。しかし、すぐに強い意志の光を瞳に宿す。


「でも、私に何ができますか?」


「君の力が必要なんだ。村の人たちに声をかけて、僕たちを手伝ってもらえないか?」


 ミラは一瞬、戸惑いを見せた。それはそうだろう。王子に逆らうということの重大さを、彼女も理解している。


 だが、次の瞬間には、決意を固めた表情に変わった。


「もちろん!」


 ミラは力強く頷いた。


「みんな、タクミさんとリラさんを慕ってる。きっと協力してくれるわ」


 彼女は走り出しかけて、振り返った。


「でも……本当に大丈夫ですか?王子様相手に」


「大丈夫」


 僕は微笑んだ。


「僕たちには、僕たちなりの戦い方があるから」


 それから、僕たちは村中を駆け回った。


 宿屋の主人、パン屋のハンス、農家の人たち。一軒一軒を訪ね歩き、事情を説明した。


 最初に訪れたのは、パン屋のハンスだった。夜更けにも関わらず、工房にはパン生地を発酵させる酵母の匂いが満ちている。僕たちの顔を見るなり、彼は人の良さそうな顔を曇らせた。


「……何の騒ぎだい、タクミくん。こんな時間に村中を駆け回って」


「ハンスさん、聞いてください」


 僕は単刀直入に事情を説明した。王子が軍を率いてくること。リラエルを引き渡さなければ、村が焼かれること。そして、僕たちがそれに抵抗しようとしていること。


 話が進むにつれて、ハンスの血の気が引いていくのが分かった。彼は暖炉のそばまで後ずさると、震える手で火かき棒を握りしめた。


「……正気か、君たち」


 絞り出すような声だった。


「王子様に逆らうだと? 我々は一介のパン屋だぞ! 国を相手に何ができる! 馬鹿なことはやめて、リラエルさんにはどこかへ逃げてもらうんだ。それが一番じゃないか!」


 彼は、僕たちを説得しようと必死だった。それは僕たちを案じているからではない。自分たちの平穏な日常に、面倒事を持ち込まれたくないという、切実な拒絶だった。


「俺には守らなきゃならんもんがあるんだ」ハンスは工房の隅にある小麦粉の袋や、年季の入った石窯に目をやった。「この店は、親父から受け継いだ大事な宝なんだ。税金だって真面目に納めてきた。波風立てずに、真っ当に生きてきたんだ。それを、君たちのせいで……!」


「ハンスさん、僕たちは――」


「聞きたくない!」


 彼は耳を塞いだ。


「頼むから、帰ってくれ。俺たちを巻き込まないでくれ……!」


 その時、二階から小さな足音が聞こえた。ハンスの娘、七つになるアニーが、眠い目をこすりながら階段を降りてくる。


「パパ?どうしたの?」


 アニーは僕たちを見つけると、ぱあっと顔を輝かせた。


「タクミお兄ちゃん!リラお姉ちゃん!」


 彼女は僕たちに抱きついてきた。そして、父親の暗い表情に気づく。


「パパ、怖い顔してる。タクミお兄ちゃんたちが困ってるの?」


 ハンスは娘を見つめ、そして僕たちを見た。何かが、彼の心の中で変わったようだった。


「アニー、お前はタクミとリラの作ったものが好きだったな」


「うん!椅子も、お人形さんも、全部好き!」


 アニーは無邪気に答えた。


「二人がいなくなったら、もう作ってもらえなくなるのよね」


 ミラが優しく説明した。


「え?」


 アニーの目に涙が浮かんだ。


「やだ!タクミお兄ちゃんたちがいなくなるのはやだ!パパ、助けてあげて!」


 彼女は父親の袖を引っ張って泣きついた。


 ハンスおじさんは長い間黙っていたが、やがて大きく息を吐いた。


「娘にカッコ悪いとこは見せられねえからな」


 彼は僕たちを見つめた。


「分かった。協力しよう。夜食のパンも用意してやる」


「ハンスさん……」


「礼はいらねえ。ただし」


 彼は厳しい表情を見せた。


「本当に村を守れるんだろうな?」


「はい」


 僕は力強く頷いた。


「絶対に」


 宿屋では、夫婦の間で激しい口論が起きた。


「俺たちまで巻き込まれるのはごめんだ」


 主人のヨルゲンが反対した。


「王子様に目をつけられたら、宿の営業もできなくなる」


「あの二人が来てから、この村にどれだけ笑顔が増えたか忘れたのかい!」


 女将のブリギッテが一喝した。


「タクミの作った椅子で、あんたの腰痛がどれだけ楽になったか。リラの手料理を食べて、お客さんたちがどれだけ喜んだか」


「それはそうだが……」


「情けない!」


 ブリギッテはヨルゲンの胸を小さな拳で叩いた。


「昔のあんたなら、迷わず立ち上がったはずよ!」


 ヨルゲンは妻を見つめ、そして深い溜息をついた。


「分かったよ。やってやる」


 彼は僕たちに向き直った。


「資材運び、手伝ってやる。だが、本当にうまくいくんだろうな?」


「はい」


 僕は頷いた。


「信じてください」


 夫婦は顔を見合わせ、そして小さく微笑んだ。


 こうして、一軒一軒の説得が続いた。最初は躊躇していた村人たちも、僕たちの決意を聞くと、次々に協力を申し出てくれた。


「タクミの作った椅子のおかげで、腰痛が治ったんだ」


 農夫のオラフが言った。


「リラの手料理は村一番だったからな」


 牛飼いのトルステンが続けた。


「二人とも、俺たちの仲間だ」


 村の大工のエリックが力強く宣言した。


 村人たちの温かい言葉に、胸が熱くなった。


 夜が更けるにつれ、工房の周りには大勢の人が集まった。


「それで、具体的に何をすればいいんだ?」


 宿屋の主人が尋ねた。


 僕は設計図を広げて説明した。


「村の入り口から工房まで、この装置を設置します。木材の調達と組み立てを手伝ってください」


「おお、これは……」


 大工のエリックが興味深そうに設計図を見た。


「面白い仕組みじゃないか。まるで楽器みたいだな」


「はい。リラエルさんの魔法を音色に変換して、村全体に響かせる装置です」


 僕はリラエルを見た。彼女は少し躊躇うような表情を見せた。


「私の魔法の本質は『氷』……つまり『動きを止める』『鎮める』力です」


 リラエルは、自らの手のひらに浮かべた小さな氷の結晶を見つめながら言った。それは月光を受けて、ダイヤモンドのように美しく輝いている。


「今までは、敵の動きを封じるためにしか使ってきませんでした。でも、タクミさんの木工品を通してこの力を音色に変えれば、きっと……荒ぶる人の心さえも、穏やかに鎮めることができるはずです」


 彼女の瞳に、希望の光が宿った。初めて、自分の力を人を傷つけるためではなく、守るために使うことができる。その喜びが、表情に現れていた。


「なるほど……」


 村人たちがざわめいた。


「つまり、戦わずして相手の戦意を削ぐということか」


「そうです」


 僕は頷いた。


「僕たちは、暴力では戦いません。美しさと、心の力で戦います」


 作業が始まった。


 男たちは森から木材を切り出し、女たちは食事の準備をした。子供たちも、小さな部品の組み立てを手伝った。


 しかし、作業は順調ではなかった。


 夜中過ぎ、重要な支柱となる木材のサイズを間違えて切り出してしまうトラブルが発生した。


「くそっ!」


 若い大工のカールが頭を抱えた。


「これじゃあ、装置が完成しない」


 誰もが絶望しかけた時、村の長老である老大工のオットーが前に出た。


「わしの若い頃の技術を見せてやるわい」


 彼は特殊な継ぎ木技術で、見事にリカバリーしてみせた。職人の技が光る瞬間だった。


「さすがはオットーじいさん!」


 若い大工たちが歓声を上げた。


 夜が更けて皆の疲労がピークに達した時、誰かが村の労働歌を歌い始めた。


 〜陽は昇り、また沈んで〜


 それはパン屋のハンスだった。


 〜今日も働く手がある……〜


 他の村人たちも、次々と歌声に加わった。


 〜仲間がいれば、怖くない……〜


 歌声が村全体に響き渡り、疲れ切っていた皆の士気が再び高まった。


 ガリックの鍛冶場からは、一晩中ハンマーの音が響いていた。


 僕とリラエルは、装置の中核となる部分の製作に集中した。


「この木材に、魔力を込めてください」


「はい」


 リラエルの手から、青白い光が溢れた。それは木材に染み込み、微かな音色を奏で始めた。


「美しい……」


 僕は思わず呟いた。


「あなたの魔法は、こんなにも美しいものなのですね」


「タクミさんの木工品があるからです」


 リラエルも微笑んだ。


「あなたの作品には、人の心を癒す力がある。私の魔法は、それを増幅しているに過ぎません」


 作業の最中、徹夜作業で疲れが見え始めたミラに、ガリックが声をかけた。


「へばってんじゃねえ、小娘」


 彼の言葉は荒いが、そこには確かな優しさがあった。


「お前が声かけなきゃ、ここまで人は集まらなかったんだ。胸を張れ」


 ミラは涙ぐんで頷いた。


「ありがとう、ガリックおじさん」


 夜中過ぎ、ミラが興奮して駆けてきた。


「タクミさん!隣村の人たちも来てくれた!」


「隣村の?」


「タクミさんの家具を買った人たちよ。噂を聞いて、手伝いに来てくれるの」


 遠くから、松明の明かりが見えた。数十人の人々が、荷車に資材を積んで向かってくる。


「これは……」


 僕は言葉を失った。


 知らない間に、僕たちの作った絆が、村を越えて広がっていたのだ。


「みんな……」


 リラエルの目にも涙が浮かんだ。


「こんなにたくさんの人が……」


 隣村の人々は、疲れも見せずに作業に加わった。


「タクミさんの椅子、娘が気に入っててねえ」


 隣村の農夫が笑顔で言った。


「こんな時だから、恩返しをさせてもらうよ」


 隣村の農夫が、力強くそう言って笑った。


 松明の明かりが次々と加わり、夜の闇に沈んでいた村の広場が、まるで祭りの前夜のように明るく照らし出される。新たな活力を得て、作業は最後の追い込みへと加速した。


 槌を打つ音、木を削る音、人々の掛け声。それらが渾然一体となって、一つの力強い交響曲のように夜のしじまに響き渡る。誰もが汗と木屑にまみれ、疲労は限界のはずなのに、その瞳は夜空の星々よりも強く輝いていた。


 東の空が、深い藍色から、わずかに白み始めた頃。


 最後の一本の支柱が打ち込まれ、ガリックが鍛えた最後の金属部品がはめ込まれた。


「……できた」


 誰かが、かすれた声で呟いた。


 その一言を合図に、あれほど騒がしかった音が、ぴたりと止んだ。


 村の入り口から、僕たちの工房まで。


 朝日が地平線から顔を出す最初の光を受けて、巨大な木製の装置が、その全貌を現した。


 それは、鳥の翼を思わせる優雅な曲線を描き、弦楽器のハープを彷彿とさせる繊細な弦が何本も張られていた。村の木々から切り出されたばかりのオークや白樺の木肌が、朝露に濡れて宝石のようにきらめいている。ガリックの打った鉄の部品は、無骨ながらも全体の構造を力強く支え、まるで古えの遺跡のような荘厳ささえ漂わせていた。


 一夜にして、この小さな村に出現した、巨大な楽器。いや、これはもはや、村人たちの祈りそのものが結晶化した、一つの芸術作品だった。


「……すげぇな、これ」


 隣にいたガリックが、呆然と呟いた。それは、自分の仕事への自負と、目の前にある想像を超えた創造物への、純粋な畏敬の念が入り混じった声だった。


「音が響く仕組みはわかるが、本当に効果があるのか?」


「試してみましょう」


 リラエルが装置の中央に立った。そして、静かに魔力を込めた。


 瞬間、村全体に美しい音色が響いた。


 まるで天使の歌声のような、心を洗う音色。聞く者の心を穏やかにし、争いの気持ちを消し去る力を持った音色。


「おお……」


 村人たちが感嘆の声を上げた。


 子供たちは目を輝かせ、大人たちは安らぎの表情を浮かべている。


「これなら……」


 僕は確信した。


「きっと通じる」


 東の空が白み始めた。そして、地響きと共に、騎馬隊の足音が聞こえてきた。


 僕とリラエルは装置の前に立った。その後ろには、武器を持った村人たちが並んでいる。農具を手にした者、鍋の蓋を盾にした者。誰も逃げようとはしなかった。


「来ましたね」


 リラエルが呟いた。


「ええ」


 僕は頷いた。


「でも、もう怖くありません。みんながいますから」


 騎馬隊が村の入り口に現れた。先頭に立つのは、金色の鎧に身を包んだ第一王子、ディエゴ・ライトブレイド。その後ろに、勇者アルトの姿も見えた。


 ディエゴは馬から降り、堂々とした足取りで僕たちに近づいてきた。


「魔王軍第三師団長、リラエル」


 彼の声は冷たく、有無を言わせぬ威圧感を放っていた。


「貴様の正体は既に割れている。大人しく投降せよ」


 リラエルは一歩前に出た。


「私はリラエル。確かに魔王軍の一員です」


 村人たちがざわめいたが、誰も動じなかった。彼らの視線には、確固とした信頼が宿っている。


「だが」


 リラエルが続けた。


「この村で、この工房で過ごした日々に、一片の偽りもありません」


 ディエゴは鼻で笑った。


「魔族の戯言など聞く耳は持たん。最後通牒だ。今すぐ投降せよ」


 その時、僕が前に出た。


「王子殿下」


「何だ、木工職人」


 ディエゴが冷たい視線を向けた。


「僕たちの答えは、これです」


 僕はディエゴの目から視線を外し、隣に立つリラエルへと、全幅の信頼を込めて頷いた。


 彼女は応えるように、そっと目を閉じる。そして、作り上げたばかりの巨大な装置に、震える指先をかざした。


 彼女の手から放たれた青白い魔力が、まるで夜明けの光が木々の間を伝うように、装置全体へと流れ込んでいく。


 最初は、何も起こらなかった。


 一秒が、永遠のように感じられるほどの静寂。ディエゴの唇に、嘲笑が浮かびかけた、その時だった。


 キィン……、と。


 まるで、凍てついた湖の氷に最初の亀裂が入るような、澄み切った高い音が一つ、響いた。


 それを合図にするかのように、村中に設置された装置が共鳴を始める。木が歌い、鉄が震え、僕たちが一晩かけて紡ぎ上げた祈りが、一つの旋律となって解き放たれた。


 それは、ただの音ではなかった。


 僕の足元の大地から、頭上の空から、身体中の細胞の一つ一つに直接語りかけてくるような、慈愛に満ちた波動。戦場で荒んだ兵士たちの心を洗い、故郷で待つ家族の温もりを思い出させる、魂の旋律だった。張り詰めていた殺意が、まるで春の陽光を浴びた雪解け水のように、音もなく溶かされていく。


「なっ……なんだ、これは……」


 最初に言葉を失ったのは、最前列にいた若い兵士だった。カラン、と乾いた音を立てて、彼の手から槍が滑り落ちる。その瞳は焦点が合わず、まるでここではない、遠いどこか――麦畑が広がる故郷の丘でも見ているかのように、虚ろに潤んでいた。


 一人、また一人と、鋼の兵士たちが崩れていく。


 屈強な体つきの傭兵が、無意識に自らの胸当てをぎゅっと掴んだ。まるで、そこに幼い娘の「お守り」でも縫い付けてあるかのように。兜の隙間から、嗚咽を噛み殺すような、くぐもった声が漏れた。


 歴戦の騎士団長さえ例外ではない。彼は鬼神のごとき表情をどこかへ消し去り、ただ震える手で自らの剣の柄を握りしめている。それは敵を斬るためではなく、すがりつく最後の理性を保つための、必死の行為に見えた。


 その旋律は、人間だけに作用するのではなかった。あれほど荒々しく鼻息を立てていた軍馬たちが、ぴたりと動きを止め、まるで母親に寄り添うように穏やかに佇んでいる。その静けさは、戦場のそれとはあまりにも異質だった。


 音楽は、敵味方の区別なく降り注ぐ。


 僕の後ろで、恐怖に震えていた子供が、母親の腕の中ですう、と安らかな寝息を立て始めた。固く農具を握りしめていた村人たちの指先から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。


「……ああ」


 僕の後ろで、農夫の誰かが、祈るように呟いた。


「これが……俺たちの、戦いか」


 その静かな覚悟の言葉とは対照的に、ただ一人、旋律の慈愛を拒絶する者がいた。


「――黙れ」


 ディエゴ王子が、歯を食いしばって絞り出した声は、憎悪に満ちていた。


「その耳障りな音を、止めろと言っている!」


 彼は剣を構え直すが、その切っ先は、音楽そのものではなく、音に心を奪われた自らの兵士たちに向けられていた。彼の瞳に映っているのは、もはや魔族ではない。自らの権威が、威光が、こんな得体の知れない木工細工と耳心地の良いだけの旋律ごときに、崩されていく屈辱だった。


「俺は、ライトブレイドの嫡男ぞ……! 父上より、この王国を受け継ぐべき、唯一の存在……!」


 それは誰に言うでもない、自分自身に言い聞かせるための叫びだった。彼の脳裏をよぎるのは、常に自分を侮蔑の目で見ていた兄たちの顔か、あるいは、一度も自分を正視しようとしなかった偉大すぎる父王の背中か。


「こんな、虫けらのような村人どもに……俺の覇道が、止められてたまるか!」


 狂気に駆られた王子が、剣を天に振り上げた。だが、その刀身は朝日を浴びて輝くどころか、彼の心の迷いを映すように、哀れなほど細かく震えている。


 その姿を、彼の背後で、アルトは聖剣を握りしめたまま見つめていた。


 もはや彼の顔に、驚愕の色はなかった。代わりに宿っているのは、深い憐憫と……そして、一つの決別だった。


 ――これが、力だけを信じた者の、末路か。


 アルトは悟っていた。この音楽は、戦意を奪うだけではない。それは、あらゆる嘘や虚飾を剥ぎ取り、その人間の魂を「裸」にする力を持っているのだと。


 そして今、目の前にいるのは、金色の鎧を纏った、哀れな裸の王様だった。


「ええい、聞こえんのか! 全員、突撃せよッ!」


 ディエゴが狂乱したように叫ぶ。だが、誰一人動かない。いや、動けないのだ。


 その時、アルトが一歩前に出た。彼は聖剣を鞘に収めると、王子に向かって静かに首を振った。


「ディエゴ殿下。もう、おやめください」


「アルト! 貴様、私に逆らうか!」


「いいえ」


 アルトは村を、そして美しい音色を生み出す装置を見つめた。


「私は、勇者として、真の強さとは何かを彼らに教えられました。力で他者を屈服させることではない。心で人を動かすことこそが、本当の強さなのです」


 彼は僕たちを見つめた。


「これが、彼らの答えなのです。そして、これが私の答えでもあります」


 勇者が王子の前から動かない。その無言の抵抗は、王子にとって決定的な敗北宣言だった。


「貴様ら…全員…」


 ディエゴは震え声で呟いた。そして、ついに剣を地面に突き刺した。


 音楽は静かに消えていった。しかし、その余韻は人々の心に深く刻み込まれている。


 沈黙の中、一人の兵士が前に出た。


「王子殿下」


 彼は兜を脱ぎ、跪いた。


「私には、故郷で待つ家族がいます。こんな美しい村を、こんな心優しい人たちを、焼き払うことはできません」


 次々と、他の兵士たちも兜を脱いだ。


「私も同じです」


「俺たちは、人を守るために戦士になったんだ」


「魔族だろうと人間だろうと、関係ない」


 ディエゴは呆然と立ち尽くしていた。完全な孤立。彼の権威は、音もなく崩れ去った。


 僕は前に出て、深々と頭を下げた。


「王子殿下。僕たちはあなたと戦うつもりはありません。でも、この村の人たちを傷つけることも許せません」


 僕は顔を上げた。


「どうか、和解の道を探しませんか」


 ディエゴは、僕の言葉を鼻で笑った。だが、その笑みはひどく乾いていた。彼は孤立した自らの状況と、もはや戦意のない兵士たちを侮蔑するように一瞥する。


「……和解、だと? 戯言を」


 彼は地面に突き刺した剣を、ゆっくりと引き抜いた。その瞳には、反省の色など微塵もない。代わりに宿っているのは、盤面をひっくり返されたことへの冷たい怒りと、次の一手を考える策士の光だった。


「よかろう、木工職人。今日のところは、貴様らの『遊び』に付き合ってやっただけだ。この茶番、せいぜい楽しむがいい」


 彼は剣を鞘に収めると、まるで何事もなかったかのように言い放った。


「魔王軍幹部リラエル。貴様の身柄は、我が王家預かりとする。定期的に王都へ出頭し、魔王軍の動向を報告せよ。それが、この村の安全を保障する唯一の条件だ。拒否は許さん」


 それは、和解の提案などではなかった。敗北を認めず、逆にこちらに新たな「枷」をはめることで、自らの支配下に置こうとする、彼の最後のプライドであり、次なる策略の始まりだった。彼は、この敗北さえも「魔族を監視下に置いた」という手柄にすり替えるつもりなのだ。


「……分かりました」


 リラエルが、僕の前に出て答えた。


「その条件、飲みましょう」


「賢明な判断だ」


 ディエゴは馬に跨ると、僕たちを、特にアルトを射殺すような視線で一瞥し、言い捨てた。


「――せいぜい、短い平和を噛みしめるがいい」


 彼は、兵士たちを顧みることなく、一人で去って行った。


 残された兵士たちは、互いに顔を見合わせていたが、やがて一人、また一人と、僕たちに頭を下げて去って行った。


 最後に残ったのは、アルトだった。


 彼は僕たちに近づいてきて、深々と頭を下げた。


「すまなかった。そして…ありがとう」


「アルトさん」


 僕は彼の手を握った。


「あなたのおかげです。最後に、正しい選択をしてくれた」


 アルトは微笑んだ。


「君たちこそ、俺に本当の勇気を教えてくれた。力ではなく、心で戦う勇気を」


 彼は馬に乗ると、手を振って去って行った。


 村に静寂が戻った。しかし、それは恐怖の静寂ではなく、平和の静寂だった。


 村人たちが、次々と僕たちの元に駆け寄ってきた。


「やったな、タクミ!」


「リラ、お疲れ様!」


「最高だったぞ!」


 歓声と拍手が村に響いた。


 歓声の輪の中心で、僕とリラエルは、互いを見つめ合った。


 その瞳に映っているのは、もう魔王軍幹部でも、異世界人でもない。ただ、かけがえのないものを守り抜いた、一人の男と一人の女の顔だった。


「……終わりましたね」


 リラエルが、涙の跡が残る顔で、はにかむように微笑んだ。


「いいや」僕は首を振った。「始まったんだ。本当の意味で」


 僕は、彼女の隣で、祝福してくれる村人たちを見回した。ハンスの娘のアニーが手を振っている。ガリックが、腕を組んでそっぽを向きながら、口元だけ笑っている。


「この工房は、もう僕たち二人だけのものじゃない。この村の、みんなの工房になったんだ。これから、もっとたくさんの笑顔を作っていかないと」


「……大変ですね、それは」


 リラエルは困ったように笑うが、その声は弾んでいた。


「ええ。大変ですよ」僕は彼女の手をそっと握った。「だから、手伝ってください。これからも、ずっと隣で」


 彼女は、何も言わずに、ただ強く握り返してくれた。その手の温もりが、どんな言葉よりも雄弁に、彼女の答えを伝えてくる。


 夕日が、僕たちの村を黄金色に染めていた。


 王子との約束、魔王軍との関係、やるべきこと、考えるべきことは山積みだ。明日から始まるのは、決して平穏なだけの日々ではないだろう。


 だが、それでもいい。


 僕たちの工房から、再び温かい光が漏れ始める。それは、この村の未来を照らす、小さな、しかし何よりも確かな希望の灯火だった。


 この灯火がある限り、僕たちは、何度でも奇跡を起こせる。

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