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第10話 嵐の前の静寂

 夜が、明けた。


 工房の窓から差し込む朝日は、昨日までと何も変わらない穏やかな光を投げかけている。だが、僕たちの世界は、もう昨日までと同じではなかった。


 僕は、ほとんど一睡もせずに彫り続けた木片を、そっと作業台に置いた。


 隣では、リラが静かに椅子に座っている。彼女もまた、一晩中、僕の作業をただ黙って見つめていた。その瞳は、絶望の淵からかろうじて此岸しがんに繋ぎ止められているかのように、危うく揺らめいている。


「……リラさん」


 僕が声をかけると、彼女の肩が微かに震えた。まるで、僕の声ですら彼女を脅かす鋭い刃のように感じているかのようだ。


 工房に、重い沈黙が落ちる。


 昨夜、ガリックは「何かあったらすぐに駆けつける」と言い残し、村の見回りに戻っていった。僕とリラは、二人きりでこの長い夜を過ごしたのだ。


 僕が彫り続けることでしか示せなかった覚悟。


 彼女が沈黙することでしか保てなかった心の均衡。


 工房の空気は、張り詰めた糸のように、今にも切れそうだった。


 やがて、彼女は意を決したように立ち上がった。


 しかし、その足取りはいつもの凛としたものではなく、何かから逃れるように、工房の奥へと向かう。


「タクミさん」


 壁際に立ったまま、彼女が僕を呼んだ。


「少し、お話があります」


 その声は、昨夜の絶望を引きずったまま、か細く震えていた。


 僕は手にしていた木材を静かに置き、覚悟を決めて彼女へと向き直った。


 リラは深く息を吸い込み、一度固く目を閉じた。まるで、これから渡る橋を焼き落とす覚悟を決めるかのように。次に目を開けた時、その瞳にはもう迷いの色はなかった。


 彼女は震える手で工房の扉を確認し、外から誰かが覗いていないか、神経質なまでに調べている。


「タクミさん……私について、お話ししなければならないことがあります」


 工房の中に、息が詰まるほどの静寂が満ちた。外から聞こえる鳥のさえずりや、遠くで作業をする村人たちの声が、まるで別世界の出来事のように遠ざかっていく。


 彼女は、僕の目を真っ直ぐに見つめて、一言一言を区切るように、はっきりと告げた。


「私の、本当の名前は――リラエル、です」


 リラエル。


 その名前に聞き覚えがあった。いつかミラが噂話で口にしていた、あるいは酒場で冒険者たちが恐ろしげに語っていた名前。


 彼女は僕の反応を待たず、続ける。まるで、一度口にしてしまえば、もう後戻りはできないとでも言うように。


「魔王軍四天王が一人――氷魔将のリラエル。それが、かつての私の名前です」


 彼女の告白は、雷鳴のように僕の頭を打ち抜いた。


 驚きと、困惑。当然だ。だが、その衝撃の渦の中心で、不思議なほど冷静な自分がいた。


 ああ、そうか。


 心のどこかで、ずっと感じていた違和感の正体が、今、すとんと腑に落ちたのだ。


 軍人のように無駄のない所作。僕の知らないはずの魔法武器に関する知識。そして、あの夜僕が見た、世界を凍らせるほどの圧倒的な氷の魔法。


 彼女がただの旅人でないことは分かっていた。だが、その正体が、まさかこれほどまでに大きなものだったとは。


 全てのピースが嵌まったパズルのように、彼女の存在が、僕の中で一つの鮮明な像を結んだ。


「だから、勇者と第一王子が私を追ってきているのです」


 リラエルは僕の顔を見つめた。その瞳には、拒絶されることへの恐怖と、それでも真実を伝えなければならないという覚悟が混在していた。


 僕は深く息を吸い込んだ。確かに衝撃的な告白だった。しかし、この数か月間、彼女と共に過ごしてきた日々を思い返してみると、彼女が悪人だとはどうしても思えなかった。


「リラさん」


 僕があえてそう呼ぶと、彼女の目に涙が浮かんだ。


「いえ、リラエルさん。あなたがどんな立場にいようと、僕にとってはこの工房で一緒に働いてくれる大切な仲間です」


 その言葉を聞いた時、リラエルの表情が劇的に変化した。張り詰めていた緊張が一気に解けて、まるで重い荷物を下ろしたかのように肩の力が抜けた。


「タクミさん……」


 彼女の声は震えていた。きっと、拒絶されることを覚悟していたのだろう。僕は微笑みかけた。


「でも、このままではこの村に迷惑をかけてしまいます。何か対策を考えましょう」


 リラエルは目を拭うと、いつもの毅然とした表情を取り戻した。


「実は、一つ提案があります。少し大掛かりになりますが」


 彼女は工房の外を指差した。


「この村全体に幻影魔法をかけて、偽のウィロウブルックを隣に作り出すのです。王子と勇者の軍勢はそちらを調べることになり、本当の村は安全に保たれます」


 その提案を聞いて、僕の職人としての血が騒いだ。確かに魔法は使えないが、リアルな偽物を作ることなら得意分野だった。


「それなら、僕にも手伝えることがありそうです」


 僕は作業台の上に紙を広げ、村の簡単な見取り図を描き始めた。


「建物の構造や細部は僕が担当します。魔法でそれを実体化するのはリラエルさんにお願いできますか?」


 彼女の目が輝いた。


「素晴らしいです。タクミさんの創造力と私の魔法を組み合わせれば、完璧な偽装ができるはずです」


 その日の午後、僕たちは村はずれの空き地で作業を開始した。まず、僕が細かく建物の設計図を描き、リラエルがそれを魔法で立体化していく。


「この宿屋の看板、もう少し古びた感じにできますか?」


「こうでしょうか?」


 リラエルが魔法を唱えると、真新しかった看板に適度な汚れと傷が浮かび上がった。


「完璧です!」


 作業を続けるうちに、僕たちの息はぴったりと合ってきた。僕が細部を指摘すると、リラエルがそれを魔法で再現する。まるで長年連れ添った職人同士のような連携だった。


「タクミさんの観察力は本当に素晴らしいですね」


 リラエルが感嘆の声を上げた。


「魔法で物を作り出すことはできますが、これほど生活感のある細部まで再現するのは困難でした。あなたの指導があってこそです」


 僕は照れくさくなって頬を掻いた。


「いえいえ、リラエルさんの魔法があってこそできることです」


 夕暮れの茜色が、偽りの村の輪郭を黄金色に染めていた。大まかな外観は、ほぼ完璧に再現できている。しかし、一番の難題が、まるで巨大な影のように僕たちの前に横たわっていた。


「村人たちを……どうしましょう?」


 僕の問いに、リラエルは眉をひそめ、腕を組んだ。その表情は、百戦錬磨の将軍が難攻不落の城を前にした時のように、険しい。


「……そこが最大の難関です。魔法で人間そのものを創造するのは、神の領域。仮に形だけを作れても、魂のないただの泥人形では、勇者や王子の鋭い眼はごまかせません」


 彼女は一つため息をついた。


「精神を持たないゴーレムのような存在なら使役できますが、それではあまりに不自然すぎる……」


 精神を持たない人形。その言葉が、僕の頭の中で何かに引っかかった。


 僕は自分の手のひらをじっと見つめる。木屑にまみれ、タコのできた、この手。僕が今まで作ってきたものは、全て精神を持たない「物」だった。しかし――。


「リラエルさん」


 僕は、一つの可能性に賭けてみることにした。


「もし、その人形が、ただの泥人形ではなく……まるで生きているかのような『魂』を感じさせるものだったら、話は変わりませんか?」


「……魂を、感じさせる?」


 リラエルが怪訝な顔で僕を見る。


「ええ。僕たち職人は、ただ形を作るだけじゃありません。その人らしさ、その物が持つべき温もり、そういう『気配』のようなものを、素材に込めようとします。僕が、ウィロウブルックの村人たちの『気配』を木に写し取った、精巧な木彫り人形を彫り上げるとしたら……」


 僕は一息に続けた。


「その人形に、リラエルさんが最低限の動きを与える魔法をかける。それなら、魔法の負荷も少なく、かつ、人形が持つ元々の『気配』が、魂の不在を補ってくるる。……どうでしょう?」


 僕の提案に、リラエルの目が見開かれた。


 彼女は魔法の専門家として、僕の言葉の意味を瞬時に理解したのだろう。その表情が、驚愕から、次第に興奮の色へと変わっていく。


「……なるほど。魔法で『魂』を創造するのではなく、元々『魂』が宿っているかのような器に、魔法で『動き』を与える、ということですね……?」


「その通りです!」


「……常識外の発想です。ですが……」


 リラエルは僕の顔と、僕の手を交互に見つめた。まるで、僕という職人の可能性を、今初めて本当の意味で理解したかのように。


 彼女の口元に、ふっと笑みが浮かんだ。それは、先ほどまでの険しさは微塵もない、難問の答えを見つけた研究者のような、あるいは最高の玩具を見つけた子供のような、知的な好奇心に満ちた輝かしい笑顔だった。


「……面白い。ええ、実に面白い。タクミさん、あなたという人はいつも予想外な話を持ち込みます」


 彼女は楽しそうに、ポンと手を叩いた。


「やりましょう。あなたの職人技と、私の魔法。二つが合わされば、あるいは神の領域すら欺けるかもしれない」


 その夜から、僕たちの工房は、世界を欺くための秘密の工場となった。宿屋の主人ベルンハルトの人の良さそうな笑顔、パン屋のマーサの優しげな表情、そして酒場で見かける冒-険者たちの逞しい体つき。僕は、彼らの魂を木に写し取るように、一心不乱に刃を走らせた。


 普段なら一体につき半日はかかる精密な作業を、時間との勝負で進めなければならない。僕は今まで培ってきた全ての技術を総動員し、無心になって刃を走らせた。リラエルを守りたい、村を守りたいという強い想いが、僕の集中力を研ぎ澄まし、手先に魔法のような精確さを与えてくれた。


 三日三晩、僕は作業に没頭した。リラエルとミラが交代で食事を運んでくれ、短い仮眠を挟みながら、ついに二十体余りの木彫り人形が完成した。


「……タクミさん、もう朝ですよ」


 リラエルの心配そうな声で、僕は我に返った。どうやら刃を握ったまま、一瞬意識が飛んでいたらしい。ほとんど眠らずに木を削り続けた体は、鉛のように重かった。


「大丈夫です……。それより、見てください」


 僕は震える手で布をめくり上げた。工房の床一面に並べられた、二十体余りの木彫り人形たち。その光景に、リラエルが息を呑むのが分かった。


「……信じられない」


 彼女は膝をつき、一体一体の人形を、まるで聖遺物にでも触れるかのように慎重に手に取った。


「三日でこれだけの数を……いえ、問題は数ではありません。この……『気配』は、何なのですか?」


 彼女の指が、木彫りのベルンハルトの人の良さそうな笑顔をそっと撫でる。


「この人形たちは、ただの木ではない。まるで、この木の中にベルンハルトさん本人の魂が眠っているかのようです。魔法使いは魔力を物に込めますが、これは違う。あなたは魔力を使わずに、技術と魂だけで、これほどの『存在感』を物に与えている……」


 彼女は驚愕と畏敬の入り混じった瞳で僕を見上げた。


「タクミさん、あなたは天才という言葉ですら生ぬるい。あなたは……『魂の器』を作る人間だ」


 僕には、彼女が言っていることの半分も理解できなかった。ただ、無心で村人たちの顔を思い浮かべ、彼ららしさを木に写し取ろうとしただけだ。


「これほどの器があるのなら、私の魔法は、ほんの少し『息吹』を吹き込むだけでいい」


 リラエルは立ち上がると、人形たちの中心にそっと手をかざした。詠唱はない。彼女の唇から漏れたのは、まるで歌うような、穏やかなハミングだけだった。


 彼女の手のひらから、淡雪のように繊細な氷の魔力が舞い降りる。それは人形たちを包み込むのではなく、一体一体の胸の中に、そっと吸い込まれていくようだった。

 木が、呼吸を始める。


 最初に、パン屋のマーサの人形が、ふわりとパンの焼ける匂いを漂わせた。次に、冒険者の人形が、かすかに汗と革の匂いを放つ。


 そして――。


「いやあ、おはようございます。今朝も良い天気ですな」


 木彫りのベルンハルトが、その朗らかな声で、にかっと笑った。その動き、声色、佇まい。それはもう、僕が知っている宿屋の主人そのものだった。


「……すごい」


 僕は思わず手を叩いた。他の人形たちも、次々と起き上がり、あくびをしたり、背伸びをしたり、ごく自然な日常の動作を始めている。


「いいえ」


 リラエルは、額に浮かんだ汗を拭いながら、優しく微笑んだ。


「これで準備は整いました」


 リラエルが安堵の表情を見せた。


「偽の村は完成し、村人たちも配置できました。王子と勇者が来ても、本物の村は安全です」


 しかし、その時だった。村の入口の方から、緊張した足音が近づいてくる。ミラの声が響いた。


「タクミさん、リラさん、大変です!」


 彼女は息を切らしながら工房に駆け込んできた。


「村の外に、見慣れない兵士たちがいるのを見かけました。斥候のようでした」


 リラエルの顔が青ざめた。


「もう近くまで来ているのですね」


 僕は慌てて外を覗いた。確かに、森の中に金色の鎧を纏った兵士の姿がちらりと見えた。


「急いで最後の準備を!」


 リラエルが魔法を発動させると、偽の村が本物の村から少し離れた場所に出現した。同時に、本物の村全体が薄い霞のような魔法に包まれて見えなくなった。


「完璧です」


 僕は感動していた。傍から見れば、偽の村が本物のウィロウブルックにしか見えない。


「タクミさん、ありがとうございます」


 リラエルが僕の手を握った。その手は少し冷たかったが、確かな温もりを感じた。


「あなたがいなければ、こんなに完璧な偽装はできませんでした」


「僕こそ、リラエルさんがいなければ何もできませんでした」


 二人で微笑み合っていると、ミラが慌てた様子で割り込んできた。


「あの、お二人とも、今は感動している場合じゃないと思うんですが」


 確かに彼女の言う通りだった。斥候がいるということは、本隊もすぐ近くまで来ているはずだ。


「ミラ、村の人たちに伝えてください。今日一日、できるだけ家の中で静かに過ごすようにと」


 リラエルがミラに指示を出した。


「分かりました!」


 ミラは元気よく返事をすると、村人たちに知らせるために駆け出していった。


「さて、僕たちはどうしましょう?」


 僕がリラエルに尋ねると、彼女は少し困った顔をした。


「できれば、偽の村の様子を遠くから監視していたいのですが……」


「それなら、工房の屋根裏から覗けませんか?」


 僕は工房の二階を指差した。


「あそこなら、偽の村全体を見渡せるはずです」


 二人は工房の屋根裏に上った。小さな窓から外を覗くと、偽の村では木彫りの村人たちが自然に生活を営んでいた。ベルンハルトが宿屋の前で掃除をし、マーサがパンを焼く煙を上げている。


「本当にリアルですね」


 僕は自分の作品ながら感心していた。


「タクミさんの技術と私の魔法の合作です」


 リラエルも誇らしげだった。


 そして、ついにその時が来た。森の向こうから、眩い光を纏った一団が現れた。先頭に立つ青年は、まさに勇者と呼ぶにふさわしい威風堂々とした姿だった。金髪を風になびかせ、聖剣を腰に帯びている。


 その隣には、王冠を戴いた気品のある男性がいた。第一王子ディエゴ・ライトブレイドに違いない。


「来ましたね」


 リラエルが呟いた。その声には緊張が込められていたが、同時に不思議な安堵感も漂っていた。


 勇者一行は偽の村に近づいていく。木彫りのベルンハルトが彼らに気づき、愛想よく手を振った。


「いらっしゃいませ、旅の方々!」


 完璧な演技だった。勇者たちは何の疑いもなく偽の村に足を踏み入れた。


「やりましたね」


 僕は小声でリラエルに言った。


「ええ、でもまだ安心はできません。勇者は非常に感が鋭い人間ですから」


 案の定、勇者は村の中を慎重に調べ回っていた。家々を訪問し、村人たちに質問を投げかけている。しかし、木彫りの村人たちは僕が再現した個性に基づいて、自然に受け答えをしていた。


「魔族の気配は感じられませんが……」


 勇者の声が風に乗って聞こえてきた。


「この村に変わった訪問者はいませんでしたか?特に、美しい女性で、少し神秘的な雰囲気を持った方は」


 木彫りのベルンハルトが首を振った。


「いえいえ、この村にそのような方が訪れたことはございません。ここは本当に静かな辺境の村でして」


 完璧な返答だった。僕はホッと息をついた。


 しかし、第一王子ディエゴの表情は険しいままだった。彼は村の隅々まで鋭い視線を向けて観察している。


「何かおかしいな」


 彼が呟いた。


「確かにこの村から魔族の気配は感じられない。しかし、魔法の痕跡が残っている」


 僕とリラエルは顔を見合わせた。流石は王子、魔法の痕跡を感知する能力があるようだ。


「おそらく、最近この辺りで何らかの魔法が使われたのでしょう」


 勇者が答えた。


「しかし、それが魔族によるものとは限りません。この辺りには魔法使いの旅人も時々通りますから」


 勇者アルトは踵を返そうとした。しかし、第一王子ディエゴは動かなかった。彼は冷たい目で偽の村を睥睨し、静かに口を開いた。


「アルト、君は甘いな」


 その声は氷のように冷たかった。


「確かにここには魔族の本体はいない。だが、この村全体が『嘘』をついている。この木偶どもも、この家々も……全てが精巧に作られた『罠』だ」


 王子は腰の剣に手をかけた。その動作に、僕の血の気が引いた。


「ならば、答えは簡単だ。この偽りの村ごと燃やし尽くし、本物の村人を人質にして、炙り出してやればいい」


「お待ちください、ディエゴ殿下!無関係な村人を巻き込むなど……!」


 勇者が慌てて制止したが、王子は冷ややかに笑った。


「国を守るためだ。多少の犠牲は厭わん。魔族一匹を野放しにするリスクの方が遥かに大きい」


 王子の命令で、騎士たちが木彫りの村人たちに剣を突きつけ始めた。屋根裏から見ていた僕とリラエルの血の気が引いた。


「そんな……!なぜ偽物だと……!」


 リラエルが絶句する。その時、王子が、まるで僕たちのいる場所が分かっているかのように、工房の方をちらりと見た。その目は、全てを見透かしているかのように鋭く光っていた。


「隠れているなら、早く出てこい。さもなくば、この村の全てを灰にしてやる」


 王子の声が風に乗って聞こえてきた。


「ディエゴ殿下、それは行き過ぎです!」


 勇者が必死に止めようとしたが、王子は聞く耳を持たなかった。


「一分与えよう。それで出てこなければ、放火開始だ」


 騎士たちが松明に火を灯し始めた。僕とリラエルは震え上がった。


「私が出ます」


 リラエルが立ち上がった。その顔は決意に満ちていた。


「だめです!」


 僕は彼女の腕を掴んだ。


「出て行ったら、あなたが捕まってしまいます!」


「でも、このままでは村人たちが……」


 その時だった。勇者アルトが王子の前に立ちはだかった。


「ディエゴ殿下、これ以上は許しません!」


 勇者の剣が鞘から抜かれた。その刃は神聖な光を放っている。


「どけ、アルト。君までもが国を裏切るつもりか?」


「裏切るも何も、無関係な民を害するのは正義ではありません!」


 二人の間に緊張が走った。騎士たちも戸惑いを見せている。


「……チッ」


 王子は舌打ちをすると、剣から手を離した。


「今回は見逃してやる。だが、次は容赦せん。魔族を匿う者は、全て国の敵だ」


 王子は踵を返すと、部下たちを従えて森の奥へと消えていった。勇者アルトは最後まで偽の村を見つめていたが、やがて彼もまた姿を消した。


「助かりました……」


 リラエルがへたり込んだ。僕も安堵のあまり、力が抜けてしまった。


「でも、これで完全に敵視されてしまいましたね」


「ええ。次に会う時は、間違いなく戦いになるでしょう」


 リラエルの表情は複雑だった。


 その後、偽の村は魔法の力で消去された。まるで最初から何もなかったかのように、そこには普通の空き地が広がっていた。


「これで一安心……とは言えませんね」


 僕は工房に戻りながら言った。


「ええ、むしろここからが本当の試練の始まりです」


 リラエルの瞳には、覚悟の光が宿っていた。


「タクミさん」


 彼女が立ち止まった。


「今日は本当にありがとうございました。あなたがいなければ、きっとこの村に迷惑をかけることになっていました」


「そんな、僕は当たり前のことをしただけです」


 僕は照れくさそうに答えた。


「リラエルさんは僕の大切な仲間ですから」


 その言葉を聞いた時、リラエルの顔が少し赤くなった。夕焼けの光のせいかもしれないが、確かに頬が染まっているように見えた。


「仲間……ですか」


 彼女が呟いた。その声音には、嬉しさと少しの複雑な感情が混じっていた。


「はい、もちろんです」


 僕は迷わず答えた。


「これからも一緒に工房で働いていただけるなら、とても嬉しいです」


 リラエルは微笑んだ。それは、今まで見た中で最も美しい笑顔だった。


「こちらこそ、よろしくお願いします、タクミさん」


 工房に戻ると、夜の静寂が戻っていた。しかし、僕の心は今日一日の出来事で満たされていた。リラエルの正体を知り、共に困難を乗り越えたことで、僕たちの絆はより深くなったような気がした。


「明日からは、また平穏な日々が戻りますね」


「そうですね」


 リラエルが答えた。しかし、その表情には微かな影があった。


「ただ、これは一時的な解決に過ぎません。いずれは、本当の決着をつけなければならない時が来るでしょう」


 僕はそれを聞いて、彼女の肩にそっと手を置いた。


「その時は、一緒に考えましょう。僕たちなら、きっと良い解決策が見つかります」


 リラエルは驚いたような顔をした後、温かい笑顔を見せた。


「ありがとうございます、タクミさん」


 その夜、工房は静かな空気に包まれていた。しかし、王子の冷酷さを目の当たりにして、僕たちの心には新たな決意が芽生えていた。


「タクミさん」


 リラエルが振り返った。


「今日のことで一つはっきりしました」


「何がですか?」


「王子は必ず戻ってきます。今度は、もっと容赦ない方法で」


 僕はそれを聞いて、彼女の肩にそっと手を置いた。


「その時は、一緒に考えましょう。僕たちなら、きっと良い解決策が見つかります」


 リラエルは感謝の眼差しを向けた後、決意に満ちた表情を見せた。


「ありがとうございます、タクミさん」


 ◇


 その夜、僕は一人工房で今日の出来事を振り返っていた。リラエルが魔王軍の幹部だったという事実、そして王子の恐ろしい冷酷さ。全てが僕の想像を超える現実だった。


 外から聞こえる虫の音が、いつもより静寂に響いた。平穏だった日々は変わってしまったかもしれないが、僕たちが築いた絆は確かなものになった。


 窓の外では、月が静かに工房を照らしていた。その光は、これからの道のりを照らす希望の光のように見えた。


 その時だった。


 コン、コン。


 工房の扉から、控えめなノックの音がした。


 こんな夜更けに誰だろうか。村人なら、もっと大きな声で呼びかけるはずだ。僕は訝しみながら扉に近づき、小さな覗き窓から外を見た。


 ――月光の下に立つその姿に、僕は息を呑んだ。


 勇者、アルト。


 昼間、王子と共に僕たちの偽りを見破ったはずの男が、今はただ一人、まるで亡霊のようにそこに佇んでいた。


 聖剣の輝きも、ヒーローとしての威厳もない。そこにいたのは、自らが背負う光の重みに、押し潰されそうになっている一人の青年だった。


 彼は、僕の視線に気づいている。覗き窓の小さな闇の奥にいる僕を、まっすぐに見つめていた。


 そして、静かに口を開いた。


「……そこにいるのだろう、タクミ殿」


 その声は、昼間の威厳に満ちたものではなかった。ひどく、疲れていた。

 扉の向こうで、彼が続ける。


「一人だ。王子には、告げていない」


 僕は震える手で扉の鍵に触れた。


 脳裏をよぎるのは、かつてこの場所で交わした約束。『今回はあなたの作品と言葉を信じよう』――そう言って彼は、一度だけ僕たちの未来を肯定してくれた。


 その彼が、なぜ。


 僕の葛藤を打ち破るように、彼の声が夜の空気に染みた。


「リラエルに……話がある」


 本名を、呼んだ。それは、もはや疑念ではない。確信だ。


「頼む」


 その一言は、勇者の命令ではなく、一人の人間の、魂からの懇願だった。


「俺は……信じたかった。君たちの作る、あの温かいものを。だが……」


 彼は言葉を切り、うつむいた。月光が、彼の金色の髪を白く照らし出す。


「……何が正しいのか、もう分からない」


 ヒーローの仮面が剥がれ落ちた、無防備な告白。


 僕の手は、扉の取っ手の上で止まったままだった。


 この扉を開けることは、彼を信じることか。それとも、彼を再び絶望させることになるのか。


 時が止まったかのような静寂の中で、月だけが、僕たちの決断を静かに見下ろしていた。


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