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第1話 もう一つの世界の工房

 僕の人生は、いつだって予想外の連続だった。三十二年間、それなりに真面目に生きてきたつもりだけれど、まさか旋盤事故で死んで異世界に転生するなんて、誰が想像できただろうか。


「村上、また残業か?」


 同僚の声が頭の中でこだましている。あの時、僕はガレージで木工をしていた。平日の疲れを癒やすための、ささやかな趣味の時間。旋盤を回して、小さなペン立てを作っている最中だった。集中していたせいで、安全装置の確認を怠った。回転する刃物に袖が巻き込まれて、そして——気がついたら、森の奥で獣の遠吠えに震えていた。


 最初に感じたのは恐怖だった。見たことのない巨大な木々が空を覆い、どこからか野獣の唸り声が聞こえてくる。足音を殺しながら必死に森を抜け、小さな村にたどり着いた時には、空腹と疲労で意識が朦朧としていた。


「大丈夫かい、旅人さん?」


 声をかけてくれたのは、丸い顔をした中年の男性だった。宿屋の主人だと名乗った彼は、僕の様子を見て心配そうに眉をひそめる。村人たちも集まってきて、口々に心配の声をかけてくれた。


「記憶が曖昧で、どこから来たのかも覚えていないんです」


 嘘ではない。この世界での記憶は確かに曖昧だから。主人は「そういうこともあるさ」と優しく微笑んで、僕に温かいスープと簡素な部屋を提供してくれた。


 その温かさに、僕は思わず涙がこぼれそうになった。死んだと思っていた僕が、こうして生きている。しかも見知らぬ人たちが、何の見返りも求めずに助けてくれている。


「ありがとうございます。本当に」


 震え声で礼を言うと、主人は困ったような顔をして頭を掻いた。


「何言ってるんだい。困った時はお互い様だろう」


 三日ほど宿で過ごすうちに、この世界の基本的なことが分かってきた。ここはエルドリアという世界で、魔法やモンスターが存在する。僕がいるのはウィロウブルックという小さな村で、隣国との国境に近い辺境の地だった。


「帰る場所はないのかい?」と主人が尋ねるたび、僕は首を振るしかなかった。元の世界に帰る方法なんて、分からない。それに、もし帰れたとしても、僕はもう死んだことになっているのだろうか。


 でも、絶望ばかりしていても仕方がない。この世界で生きていくしかないのだ。幸い、転生した時になぜか持っていた小さな革袋には、金貨と銀貨が入っていた。この世界での通貨らしく、宿代を払っても十分な額が残っている。


 そして何より、前世の記憶と技術はそのまま残っていた。木工の知識も健在だった。もしかしたら、この技術で生計を立てられるかもしれない。


「工房を探しているって?」


 宿屋で相談すると、主人は興味深そうに聞き返した。村人たちも集まってきて、僕の話に耳を傾けている。


「ええ、木工ができる場所があれば…」


「それなら村の外れに古い工房があるよ」と、髭を生やした老人が口を挟んだ。「前の持ち主が亡くなって、もう二年も空いたままだ」


「でも、よそ者にそんな大切な場所を──」と僕が躊躇すると、主人は首を振った。


「何言ってるんだい。腕のある職人が村に住んでくれるなら、みんな大歓迎だ」


 村人たちも頷いて、僕の背中を押してくれる。この温かさに、胸が熱くなった。


 翌日、主人に案内された工房は思っていたより立派だった。石造りの建物で、屋根こそ少し傷んでいるものの、中は広々としている。作業台や基本的な道具も残されていて、手入れをすれば十分使えそうだ。


「いくらぐらいですか?」


「そうさね、金貨五枚もあれば十分だろう」


 主人の提示した額は、僕の予想より安かった。きっと辺境の土地だから、都市部より相場が安いのだろう。


「本当にいいんですか?こんな貴重な場所を」


「ああ、いいんだよ。それより、また村に職人の音が響くと思うと嬉しいんだ」


 主人の言葉に、僕は迷わず購入を決めた。ここで新しい生活を始めよう。このまま人生をやり直せるかもしれない。そんな小さな希望が、胸の奥で温かく輝いていた。


 工房の掃除と道具の手入れに一週間かかった。前の持ち主は丁寧に道具を管理していたようで、少し錆びた部分を磨けば十分使える状態だった。のこぎり、かんな、のみ、やすり。どれも見慣れた道具で、手に取ると前世の感覚が蘇ってくる。


 最初に作ったのは、簡単な木のスプーンだった。村の森で拾った樫の枝を使って、手慣れた手つきで削っていく。木を削る音が工房に響き、木屑の香りが鼻をくすぐる。


 ああ、この感覚。やっぱり僕は木工が好きだった。不安で押しつぶされそうだった心が、少しずつ軽くなっていく。


「きれいに削れましたね」


 振り返ると、工房の入り口に女の子が立っていた。茶色い髪を三つ編みにした、十八歳ぐらいの子だった。好奇心旺盛そうな瞳で、僕の手元を見つめている。


「あ、ごめんなさい、勝手に入ってしまって。私、ミラです」


「いえいえ、大丈夫ですよ。僕は…、そうだね。タクミと呼んでください」


 本名の村上むらかみたくみをそのまま名乗るのは不自然だと思い、名前だけ伝えた。ミラは人懐っこい笑顔を浮かべて、スプーンを興味深そうに眺める。


「木でこんなに滑らかなスプーンが作れるんですね。すごいです」


「これは失敗作ですよ。もっと上手な人なら、もっときれいに作れます」


 僕の謙遜に、ミラは首をかしげた。そして、少し考え込むような表情になる。


「失敗作?でも、とてもきれいじゃないですか。それに」


 彼女は少し頬を赤らめて続けた。


「タクミさんって、とても優しい手をしてるんですね。こんなに丁寧に作られたスプーンなら、きっと使う人も幸せな気持ちになります」


 彼女の素直な反応に、僕は少し気恥ずかしくなった。前世でも、自分の作品に自信を持つのは苦手だった。でも、こうして喜んでもらえるのは嬉しい。


 その日から、ミラは時々工房を訪れるようになった。木工の過程を見るのが楽しいらしく、僕が作業していると熱心に質問をしてくる。


「どうしてそんなに薄く削れるんですか?」


「コツがあるんです。木の繊維の向きを見極めて、一定の力で…」


 説明しながら、僕はかんなで薄い木屑を削り取る。くるりと丸まった木屑を見て、ミラは目を輝かせた。


「わあ、まるで木の花びらみたいです。タクミさんの手って魔法みたい」


 彼女の表現に、僕も思わず微笑んだ。確かに、薄く削れた木屑は花びらのようにも見える。


「魔法なんて大げさですよ。ただの技術です」


「でも、普通の木がこんなに美しいものに変わるなんて、やっぱり魔法だと思います」


 ミラの純粋な感動に触れて、僕は自分の仕事に対する誇りを思い出した。そうだ、木工は確かに魔法のような技術なのかもしれない。


 一週間ほどして、ようやく最初の作品群が完成した。スプーン、フォーク、木のボウル、小さな皿。どれも実用的で、シンプルなデザインのものばかりだ。


「市場で売ってみたらどうですか?」


 ミラの提案で、僕は作品を持って村の市場へ向かった。小さな市場だが、野菜や肉、日用品などを売る店が軒を連ねている。僕は端の方に小さな敷物を広げて、作品を並べた。


「これ、いくらで売るつもりですか?」


 隣で野菜を売っている老婆が、興味深そうに声をかけてきた。他の商人たちも、僕の作品を珍しそうに眺めている。


「そうですね。スプーンは銅貨五枚、ボウルは銀貨一枚ぐらいで販売しています」


 僕の値段設定に、老婆は驚いたような表情を見せた。


「随分安いじゃないか。この出来なら、もっと高く売れるよ」


 周りの商人たちも頷いて、口々に僕の作品を褒めてくれる。でも、僕には自信がなかった。前世でも趣味程度だった木工で、そんなに高い値段をつけるなんて申し訳ない気がする。


 最初の客は、若い主婦だった。木のスプーンを手に取って、滑らかな表面を指で確かめている。


「手触りがとてもいいですね。これ、本当に銅貨五枚でいいんですか?」


「はい、よろしければ……」


 彼女は迷わず購入を決めた。続いて中年の男性がボウルを買い、老人がフォークを選んだ。気がつくと、持参した作品の半分以上が売れていた。


「ありがとうございました」


 一人ひとりに丁寧にお礼を言うと、お客さんたちは皆、満足そうな表情で去っていく。その後ろ姿を見送りながら、僕の胸には温かな充実感が広がっていた。


「タクミさんの作品、評判になってますよ」


 夕方、ミラが興奮した様子で工房にやってきた。


「評判って、誰にですか?」


「市場で買った人たちが、みんな『こんなにきれいな木工品は初めて見た』って言ってるんです。特に木のボウル、触り心地が全然違うって」


「お母さんも言ってました」と、ミラは嬉しそうに続けた。「『あの職人さんは、きっと木の気持ちが分かるのね』って言いました!」


 僕の作品がそんなに評価されているなんて、信じられなかった。確かに、丁寧に作ったつもりだけれど、特別なことをしたわけじゃない。


「村の商人さんも興味を示してるって聞きました。もしかしたら、定期的に買い取ってくれるかもしれません」


 ミラの言葉に、僕は少しほっとした。この世界で生活していくためには、収入が必要だ。木工で生計を立てられるなら、これほどありがたいことはない。


 翌日、予想通り商人がやってきた。がっしりした体格の中年男性で、鋭い目つきで僕の作品を検分している。


「ほほう、これは確かにいい出来だ。特にこのボウルの内側の仕上げ、手間がかかっているね」


 商人は木のボウルを逆さにして、底の部分まで細かくチェックしていた。その真剣な眼差しに、僕は緊張する。


「どこで修行したんだい?都市部の工房か?」


「いえ、独学で…趣味程度のものです」


 僕の答えに、商人は眉をひそめた。


「趣味でこの技術?それはないだろう。まあ、出自はどうでもいい。問題は品質と値段だ」


 商人は残っていた作品をすべて買い取ると申し出た。提示された金額は、僕が市場で売った価格の二倍近くだった。


「え、そんなに高く買い取っていただけるんですか?」


「当然さ。これだけの品質なら、都市部でもっと高く売れる。定期的に納品してもらえるなら、継続的な取引も考えよう」


 商人の言葉に、僕の心は躍った。これで本当に、この世界で職人として生きていけるかもしれない。


 商人との契約により、僕の工房経営は軌道に乗り始めた。毎週決まった数の作品を納品し、安定した収入を得られるようになった。ウィロウブルック村での生活も、徐々に馴染んできた。


 宿屋の主人は相変わらず親切で、時々夕食をご馳走してくれる。ガリックという鍛冶屋とも知り合いになった。最初はよそ者の僕を警戒していたようだが、仕事に対する姿勢を認めてくれたのか、今では時々工房を訪れて雑談していく。


「木工と鍛冶は似ているところがあるな」


 ガリックは僕の作業を見ながら、そんなことを言った。彼は無骨な外見だが、職人としての誇りを持った良い男だった。


「どちらも、素材の性質を理解することから始まる。木には木の、鉄には鉄の扱い方がある」


 彼の言葉に、僕は深く頷いた。確かに、木工でも木の性質を理解することが重要だ。繊維の向き、硬さ、乾燥具合。それらを見極めて、適切な技法を選択する。


「でも、タクミの技術は本当に独学なのか?」


 ガリックは疑問に思っているようだった。少し困ったような表情で首をひねる。


「信じていただけないかもしれませんが、本当に独学なんです」


 前世での経験があることは言えないが、嘘ではない。師匠について習ったわけではないから。


「だとしたら、天性の才能だな。うらやましい限りだ」


 ガリックの率直な評価に、僕は照れくさくなった。天性の才能なんて大げさだ。ただ、木工が好きだから続けてきただけのことなのに。


 村での生活が一か月を過ぎた頃、工房に変化が起きた。夜遅く作業をしていると、外で何かが倒れる音がした。慌てて外に出ると、工房の入り口近くで人影が倒れている。


 フードを深くかぶった人物で、性別も年齢も分からない。でも、規則正しい呼吸をしているところを見ると、気を失っているだけのようだ。


「大丈夫ですか?」


 声をかけても反応がない。仕方なく、僕はその人を工房の中に運び入れた。思っていたより軽く、多分女性だろう。疲労で倒れたような感じで、外傷は見当たらない。


 毛布をかけて、枕代わりにタオルを折って頭の下に置く。できることはそれぐらいだった。あとは朝まで様子を見るしかない。


 その夜、僕は工房の片隅で仮眠を取った。見知らぬ人を一人にしておくのは心配だったし、もし何かあった時にすぐ対応できるように。


 朝方、小さな音で目が覚めた。見ると、倒れていた人が起き上がろうとしている。


「気がつかれましたか?大丈夫ですか?」


 僕の声に、その人はゆっくりと振り返った。フードが少しずれて、美しい女性の顔が見えた。年齢は二十代半ばぐらいだろうか。整った顔立ちだが、どこか疲れた様子で、警戒するような鋭い瞳をしている。


「ここは?」


「僕の工房です。昨夜、入り口で倒れていらしたので」


 女性は素早く周囲を見回し、状況を把握しようとしているようだった。その動きには、どこか軍人のような機敏さがある。でも同時に、安堵したような表情も浮かべた。


「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」


 丁寧な口調で謝罪する彼女に、僕は首を振った。


「いえいえ、大丈夫です。でも、体調はいかがですか?どこか痛むところは?」


「少し疲れているだけです。すぐに立ち去りますのでお気になさらず──」


 そう言って立ち上がろうとした彼女だが、足に力が入らないようでよろめいた。僕は慌てて支えようとするが、彼女は素早く距離を取る。


「大丈夫、心配いりません」


 強がっているようだが、明らかに体調が優れない。顔色も悪いし、手も微かに震えている。


「もう少し休んでいかれた方がいいのでは?無理をされると、倒れた時より危険です」


 僕の心配そうな表情を見て、彼女は困ったような表情を見せた。何か事情があるのかもしれないが、このまま送り出すのは心配だ。


「お腹は空いていませんか?簡単なものですが、何か作りますよ」


 結局、彼女は僕の申し出を受け入れた。簡単なスープと、昨日宿屋で買ったパンを温めて差し出すと、彼女は少し驚いたような表情を見せた。


「ありがとうございます。お名前は?」


「タクミです」


「私は、リラと申します。旅の途中で、少し疲れが出てしまいました」


 リラと名乗った彼女は、スープを一口飲んで小さくほっとしたような息を吐いた。どこか上品な仕草で、きっと良家の出身なのだろう。でも、なぜこんな辺境の村に一人で?


「差し支えなければ、どちらへ向かわれるのですか?」


 僕の質問に、リラは少し躊躇した後で答えた。


「特に決まった目的地はありません。しばらく、静かな場所で過ごしたいと思っていました」


 曖昧な答えだが、それ以上詮索するのは失礼だろう。きっと彼女なりの事情があるのだ。


「でしたら、しばらくこの村にいらっしゃってはいかがですか?ウィロウブルックは小さな村ですが、平和で住みやすいところです」


 リラは僕の提案を考え込むように、しばらく黙っていた。その間、彼女の表情には様々な感情が浮かんでは消えていく。


「もしよろしければ」と彼女は言った。「少しの間、こちらでお世話になれませんでしょうか?もちろん、ただでお世話になるつもりはありません。何かお手伝いできることがあれば、なんでも任せてください」


「お手伝い?」


「はい。掃除でも、整理整頓でも。こちらの工房のお仕事について、少し教えていただければ、何かお役に立てるかもしれません」


 リラの申し出は意外だった。見たところ、肉体労働には慣れていなさそうなのに。でも、一人で工房を切り盛りするのは確かに大変だ。特に、商人との契約で作品の数も増えているし。


「それでは、しばらくの間ということで、これからよろしくお願いします」


 こうして、リラは僕の工房で働くことになった。最初は様子見のつもりだったが、彼女の働きぶりは予想以上だった。器用で、覚えが早く、僕が説明すると すぐに理解してくれる。


 村人たちも、リラの存在を温かく受け入れてくれた。「タクミさんのところに、きれいなお嬢さんが来たね」と宿屋の主人は嬉しそうに言った。ミラは特に彼女を気に入ったようで、工房を訪れるたびにリラと楽しそうに話している。


「リラさんって、とてもかっこいいですよね」


 ある日、ミラがそんなことを言った。


「かっこいい?」


「はい。なんというか、凛としていて。でも優しくて、頼りになる感じです」


 確かに、リラには独特の魅力がある。美しいだけではなく、内面から滲み出る強さのようなものを感じる。でも同時に、どこか影のある表情を見せることもあった。


 特に印象的だったのは、彼女が工房の隅で僕の木の指輪を見つけた時のことだった。それは以前、暇つぶしに作った小さな指輪で、特に意味のない装飾品だった。


「これ、とても美しいですね」


 リラは指輪を手に取って、じっくりと眺めていた。その瞳には、何か特別な感情が宿っているように見えた。


「ああ、それは失敗作なんです。木の節の部分をうまく処理できなくて完璧に円にできませんでした」


 僕の説明を聞いても、リラは指輪から目を離さなかった。


「失敗作。こんなに美しいものが?」


「木目の出方が思った通りにならなくて。もっと均一に仕上げるつもりだったんですが」


 でも、リラは首を振った。その表情は、まるで大切な思い出に触れたかのように優しかった。


「いえ、この不規則な木目こそが美しいのです。自然の造形を そのまま活かした芸術品ですね」


 彼女の言葉に、僕は驚いた。確かに、偶然できた木目の模様は面白い形をしているが、芸術品なんて大げさな。


「よろしければ、これをいただけませんでしょうか?」


「え?でも、本当に失敗作なんですよ」


「私には、とても大切なものに見えます」


 リラの真剣な表情に押し切られて、僕は指輪を彼女に渡した。彼女はそれを大切そうに指にはめて、満足げに微笑んだ。その笑顔は、初めて見る彼女の素の表情のように思えた。


 リラが工房で働き始めてから、確かに作業効率は上がった。彼女は細かい仕上げ作業が得意で、やすりがけや表面処理を任せると、僕以上にきれいに仕上げてくれる。


「どこでこんなに器用に?」


 僕の質問に、リラは曖昧に微笑んだ。


「昔から手先は器用な方でした。それに、丁寧に教えてくださる師匠が隣にいるから、大して難しくありません」


 謙遜しているが、明らかに何かの訓練を受けた手つきだ。でも、詮索するのは野暮だろう。誰にでも話したくない過去はある。


「リラさんの作る指輪、とても人気ですよね」


 ミラの言葉で気がついたが、確かにリラが手伝うようになってから、僕たちの作品の評判はさらに上がった。特に彼女が仕上げを担当した小物類は、村の女性たちに大好評だった。


「私は仕上げを手伝っただけです。デザインも技術も、すべてタクミさんのものです」


 謙遜するリラだが、彼女の感性と技術が加わったことで、作品の質は確実に向上している。二人で作業していると、まるで長年連れ添った職人同士のように息が合うのが不思議だった。


 夕方、作業を終えた後でリラがお茶を入れてくれる。それが日課になっていた。工房の窓から見える夕日を眺めながら、一日の作業を振り返る。穏やかで、幸せなひとときだった。


「タクミさん」


 ある夕方、リラが珍しく真剣な表情で僕を見つめた。


「はい?」


「……もし私に隠し事があったとしても、このまま一緒に働かせていただけますでしょうか?」


 突然の質問に、僕は戸惑った。


「隠し事?」


「詳しくは言えませんが、私の過去には話せないことがあります。でも、ここでの生活は本当に幸せで。できれば、ずっと続けていきたいのです」


 リラの瞳には、不安と希望が入り混じっていた。きっと彼女なりの複雑な事情があるのだろう。でも、この一か月間、彼女が誠実に働いてくれたことは間違いない。


「リラさんがここにいてくれて、僕は本当に助かっています」


 僕の答えに、リラの表情がぱっと明るくなった。


「過去のことは気にしません。今のリラさんと一緒に、いい作品を作っていければそれで十分です」


「ありがとうございます」


 彼女の小さな声に、深い感謝の気持ちが込められていた。その瞬間、僕は気づいた。リラがここにいることで、工房だけでなく僕自身も変わり始めている。一人で黙々と作業していた日々とは違う、温かな充実感がそこにあった。


 その夜、僕は工房で遅くまで作業をしていた。新しいデザインのボウルを試作していると、リラが心配そうに声をかけてきた。


「もう遅いですから、今日はここまでにしましょう」


「後少しで完成なので。リラさんも無理しないで、先に休んでください」


 リラは宿屋に部屋を借りているが、遅くまで工房にいることが多い。きっと、この場所が気に入ってくれたのだろう。


「でしたら、私も少し残業を──」


「無理しなくてもいいですよ」


「いえ、手伝わせてください。一人より二人の方が、作業も早く進みます」


 結局、僕たちは夜遅くまで一緒に作業した。時々雑談を交えながら、黙々と手を動かす。外は静寂に包まれ、工房には木を削る音と、僕たちの小さな会話だけが響いていた。


「タクミさん」


 ふと、リラが作業の手を止めて僕を見つめた。


「どうしました?」


「何かに夢中になる生活って、なんだか楽しいですね」


 彼女の素直な言葉に、僕の胸は温かくなった。


「全く同感です。僕もここに来てから作業に没頭して夜更かししている日々が続いています。リラさんが来てからは程々にするようにしていますけど」


「私なんて、お役に立てているかどうか」


「とんでもない。リラさんがいてくれるおかげで、作品の質も上がったし、何よりも──」


 僕は少し照れながら続けた。


「何よりも、一人よりは二人の方がもっと楽しく作業ができますよ」


 リラは嬉しそうに微笑んで、再び手元に集中し始めた。でも、その頬が少し赤らんでいるのを僕は見逃さなかった。


 こんな穏やかな日々がずっと続けばいいのに、と思った。でも、その時の僕は まだ知らなかった。リラの正体も、これから起こる出来事も。この平和な日常が、やがて大きく変わっていくことも。


 月が高く昇った頃、ようやく作業を終えた僕たちは、工房の外に出て夜空を見上げた。


「星がきれいですね」


 リラが呟くと、僕も同じように空を見上げた。前世では見ることのできなかった、満天の星空がそこにあった。


「こんなにたくさんの星が見えるなんて、初めてです」


「都市部では見られない光景です」


 リラの言葉に、僕は少し疑問を感じた。彼女は都市部出身なのだろうか?でも、今はそれを聞くタイミングではない。


「明日も一緒に、いい作品を作りましょう」


「はい」


 リラは木の指輪を大切そうに見つめながら答えた。その指輪が月光に照らされて、淡く輝いている。


 この出会いが、僕の静かな日常を変えることになるとは、まだ知らなかった。でも、木の指輪を大切そうに身につけたリラの笑顔だけは、確かに本物だった。そして、その笑顔こそが、僕にとって何より大切なものになっていくのだということを、この時の僕はまだ気づいていなかった。


 ただ一つ確かなことは、この異世界での新しい人生が、予想していた以上に温かく、希望に満ちているということだった。森で怯えていたあの夜から、僕はこんなにも幸せな日々を手に入れることができた。


 木工という技術と、この小さな村と、そして大切な仲間たち。それが僕にとっての新しい世界の全てだった。

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