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道徳理論

作者: 鈴木美脳

 道徳理論とは、古くから一部の人々によって研究され重視されている構造化された論理的知識のことだ。

 しかし、拝金主義的な大衆によって歴史的なエリート層が駆逐された現代では超マイノリティである。

 その内側に秘められた物語は、現代の常識とはまったく異なった広大な空間を備えている。


 人間とは何か、人はどう生きるべきか。そう言ってしまえば陳腐だが、それが哲学の視座だ。

 現代の道徳は考え方の多様性を説くが、それは実際には拝金主義のための事実認識への攻撃だ。

 本来の道徳は、考え方の多様性を強調するよりも、事実の唯一性を強調するものである。

 事実は一つしか存在しない。たった一つのこの真実が、大多数の衆愚にとっては死ぬまで絶対に理解できない。


 論理学の初歩にして奥義は、推論の妥当性だ。

 推論については、妥当か妥当でないかが言える。これによって、何でも相対化すればいいという多様性主義はほころびを生じる。

 推論は仮定から結論を導くものであり、前提となる事実は現実から拾ってこなければならない。

 したがって、実験や観察という操作が必要だが、まとめて言ってしまえば、実験や観察は推論の一部だということになる。


 つまり、主張を正当化する根拠となる事実そのものが散在して転がっているわけではない。

 馬鹿の口喧嘩においては論拠の権威が認知のすべてだが、価値の一切は推論の妥当性に宿っていてそこに貴賤はありえない。

 つまり、根拠となる事実そのものは自動的には価値を生じない。推論という知的操作があってはじめて価値が生じる。

 したがって、知性は事実を見るために目のようなものだ。多くの人は耳で聞いた情報で価値を測り人生をまっとうする。


 もしも推論の妥当性について一度でも考えたことがあれば、その人は自分の頭でものを考えたことのある人だ。

 それはつまり、「価値」というものが、他者や人々によって定義されるだけのものではなく、むしろ自ら積極的に定義すべきものだということだ。

 「価値」を自らの頭で定義できる人々は、この世界を生きている。

 それができない人々は石や植物のようなものであって、それぞれの意味で「生きている」とは言えても程度が異質に異なっている。


 社会における権力は必ず一部に偏っている。

 そして、権力は民衆が愚かなぶんだけ必ず嘘によって民衆が認知する事実を捻じ曲げる。

 そのような力の現実に単に迎合することは、誰にだってできる。

 しかし、自ら思考し自分の目で事実を眺めるなら、力が耳から入れる言葉でその人を騙すことはできない。

 したがって明らかに、論理学は倫理学の基底をなしている。これが、道徳倫理つまり社会的価値について論理を応用する有効性の根拠だ。


 だから、古今東西どの社会においても最も賢い人々が常に道徳理論の研究を最も重視してきたことは自然な必然だった。

 そこには豊かな実りが見られたが、今では空中庭園のように世俗から乖離してしまっている。

 なぜなら、現代人の知的能力では利己主義以上のことを理解するのは難しいからだ。それが、力や金に溺れた愚民の末路だ。


 道徳理論は、結論としては、道徳的な価値を訴える。簡単に言えば、互いに尊敬しあって助けあうことを推奨する。

 現代人の感覚からすれば、そんな綺麗事は現実の資本主義に対して通用しない。

 しかし、道徳理論からすれば、通用しない現実は価値の優劣まで転換しない。

 つまり、現代人が道徳的劣等を自覚するならそれを合理的選択と主張しうるが、そうでないからそうではないのだ。

 つまり、資本主義+民主主義というのは、それが最も合理的だという幻想とともに、幸福の果実を限りなく縮小していく構造なのだ。


 民主主義は必ずしも悪いものではない。

 しかし、個人的利己主義+民主主義でピリオド、というのは客観的には最善手だとは見なせない。

 つまり、自由主義市場による全体最適性というナラティブは、近代経済学によるファンタジーにほかならない。

 そうである以上は、歴史的な道徳理論を滅ぼす意味での個人的利己主義の別名としての「民主主義」はやはり否定される。


 道徳理論は、手順として、価値や尊厳を定義していく。

 それは、世俗的な価値や尊厳の否定でもある。学歴や富裕、健康や長寿の価値と尊厳はゼロだとまで断定される。

 価値や尊厳は、内面的な利他的な動機にまで遡ったところにやっと定義される。

 例えば、多くの人々は、社会において競争し争うなかで、立場の劣った者が単に立場が弱いゆえに、蔑んで笑う。

 道徳理論は、誰かを馬鹿にして笑うこと、つまり、他者の幸福や尊厳を傷つけて楽しむことを否定する。

 それは、滅んでいく者達が必ず死に怯えているという空想にもとづいた楽しみにすぎない。


 もしも、死が恐れるべきものだというのが、単なる錯覚だったらどうだろうか?

 もしも、身体を八つ裂きにされれば痛むというのが、錯覚だったらどうだろうか?

 もし、親や子を目の前で惨殺されれば耐えがたく心が痛むというのが、錯覚だったら?

 庶民が主観する幸福とは、本能に埋め込まれた恐怖心の鏡像にすぎない。

 それらの痛みはもちろん錯覚ではないが、普遍的な絶対ではないし、客観的実在でもない。


 一方で、価値は客観的に実在する。

 そして、客観的な価値に寄り添っていく道には、普遍的な安寧が伴う。

 義の価値に忠実に実践を重ねるほど、理性の目は鏡にうつる自己の価値を目撃する。

 それは、世俗的な価値を追求して弱者を蔑み、やがて老化などによってすべてを失い死んでいく道と異なる。


 したがって、道徳理論を愛好する者達は、辺境にまで追いやられて少数者となりながら、異端である自分達に満足している。

 道徳理論が再び花開く時代を予測して確信しているから満足しているのではない。

 貧しさのなかで蔑まれ一人ずつ順に殺されていく実践に満足しているのだ。

 義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽い。貴人達の理性においてその優劣が逆転する日は訪れない。


 勝利とは何か? 自分達が勝利したのだという幻想に溺れることではない。

 現代のこの現世が、勝ち残った者達の世界だなどと、安易に考える発想は捨て、少しは多様な視点を持ったほうがいい。

 ならば、道徳理論の庭の香りを、思い返す日があってもいいのではないか?

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― 新着の感想 ―
 こちらも再び読ませていただきに参りました。  どうやら私は手段という価値観に固執していたようで人としての幸せという本来の目的を見失っていたようです。  正直いってこの作品に人の価値観というものを判り…
 失礼致しました。人間としての精神的在り方について述べられている場において、このような価値観の多様性の話を持ち出したのは間違いでした。  ただ、あなたのことを詰り貶めることを悦びとする目的のコメントで…
 いろいろと道徳について述べられておられますが、忘れておられないでしょうか。所詮道徳も人が社会生活を築くための手段に過ぎないということを。  何を以て善とし悪とするかは、その環境と見方によって変わるも…
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