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五品目:クラーケンの刺身定食と墨汁(前編)

 ラッセン港──センブロム王国の北東にある貿易都市。

 昼夜を問わず商船が出入りし、桟橋では異国の言葉が飛び交う。

 塩と潮風と焼き魚の匂いが混ざり合い、まるで街そのものが海の鼓動に合わせて呼吸しているようだった。


 その港から数キロ先の沖合。

 オスカーは、一隻の漁船に立っていた。


「……本当に大丈夫か? 【孤高の鉄剣士(アルーフ・リベリ)】さんよ」


 舵を握る地元漁師の男が、不安げに海原を見渡す。

 背後には、数隻の漁船が並走していた。どの顔にも、覚悟と緊張の色が浮かんでいる。


「あぁ。問題ない。――海の上でも、剣は振るえる」


 短くそう言い切ると、オスカーは風に揺れるコートを押さえ、遠くの水平線を見つめた。


 彼がなぜ今、この海にいるのか──。




 それは数時間前、ギルド【翼竜の鉤爪】でのことだった。


「…………クラーケン?」

「あぁ。ラッセン港沖で目撃されてのぉ」


 リリアナが差し出した依頼書を読みながら、オスカーは目を細めた。

 彼女は老いてなお背筋の伸びた女性だった。だが、その穏やかな皺の奥には、長年冒険者を見送ってきた者の鋭い眼光が宿っていた。


「数日前から被害が出ておる。商船も漁船も、何隻か沈められた」

「海上戦か……分が悪いな」

「安心せい。地元の漁師たちが協力してくれる。冒険者でもあるAランクパーティー【夜明けの鴎】じゃ」

「……現地の冒険者を巻き込む気か?」

「巻き込むんじゃない。共に戦うんじゃよ」


 リリアナの声には、迷いがなかった。

 その静かな決意に、オスカーは小さく息を吐く。


「俺が行く意味、あるのか?」

「あるとも。……ワイバーンの一件以来、心が塞いでおるのじゃろ?」

「……別に、落ち込んでるわけじゃ」

「よいから行け。海の風にでも当たってくるといい」


 彼はしばし黙考し、やがて依頼書を手に取った。


「……分かった。受けよう」

「ふふ、そうこなくてはのぉ」




 そして今、オスカーは【夜明けの鴎】の船に乗り、沖へと向かっていた。


 舵を握るのは、リーダーのヨハン・マルクス。

 三十代半ば、日に焼けた肌と白い歯が印象的な海の男。

 その背に刻まれた無数の傷跡が、彼が海で生き抜いてきた証だった。


「作戦は伝えた通りだ。ヤツを誘き出す。水面に顔を出した瞬間、囲んで撃て。【孤高の鉄剣士】は船を足場に戦い、俺たちが銃で援護する。いいな?」


「あぁ。注意を引きつけてくれれば、俺が仕留める」


「頼もしいねぇ。──お前ら、準備はいいか!」

「「おぉっ!!」」


 号令と同時に、船上でマスケット銃が一斉に掲げられた。

 銃身が陽光を受けて輝き、海鳥の羽ばたきよりも早く装填の音が響く。


 やがて、海面の下に巨大な影が現れた。

 波の流れが変わり、周囲の海がざわめく。


「……来たな」


 オスカーはバスタードソードを抜く。

 重厚な鋼の刃が陽光を反射し、海の青を映す。

 船上の空気が、一瞬にして張り詰めた。


 影が沈んだ――次の瞬間。


 ドンッ!!

 爆音とともに海面が裂け、水柱が空へと突き上がった。

 潮の霧が視界を覆い、無数の触手が海から飛び出す。


「来たぞッ! 撃てぇぇっ!!」


 ヨハンの叫びが響く。

 銃声が連続し、雷光が閃く。

 魔力を帯びた弾丸が触手を撃ち抜くたび、雷の爆ぜる音と共に焦げた海臭が漂った。


 触手の一本が船を薙ぎ払おうと迫る。

 オスカーは身を沈め、すれ違いざまに斬り上げた。

 金属が擦れるような音とともに、触手が真っ二つに裂け、飛沫を上げて落ちる。


「おぉ……!」

「なんつう速さだ……!」


 船員たちが息を呑む間にも、オスカーは甲板から飛び出していた。

 海面に浮かぶ触手を足場に、次々と跳び移る。

 まるで海の上を駆ける獣のようだった。


 目の前に、クラーケンの巨体が姿を現す。

 白銀の肌に、無数の古傷。まるで海そのものが形を取ったかのような威容。

 そして、無数の瞳がこちらを見据えた。


「クラーケン……」


 オスカーの瞳が細まる。


 風が吹いた。

 海が吠えた。

 そして、剣が閃いた。


 一閃。

 触手が斬り落とされ、赤黒い体液が霧のように舞う。

 雷撃がその液を焼き、青白く光る火花が夜明けのように海を照らした。


「撃てぇっ! 頭を狙えぇっ!!」


 ヨハンたちの銃弾が次々と放たれ、光線のようにクラーケンの頭部を撃ち抜く。

 雷鳴が轟き、海が泡立った。


 クラーケンが苦鳴を上げる。

 その瞬間、オスカーは剣を振り上げ、渾身の力で叩き下ろした。


 刃が眉間を裂き、海が爆ぜる。

 巨体が震え、やがて海中へ沈んでいった。


「……終わったか?」

「いや、違う」


 オスカーは眉をひそめ、海を見つめた。

 波間に、もう一つ――巨大な影が蠢いている。


「まさか……」

「二体目か!!」


 ドンッ!!

 凄まじい衝撃。船体が跳ね上がり、悲鳴が上がる。

 次の瞬間、より巨大なクラーケンが姿を現した。

 先ほどの個体の倍はある。腕のような触手が十数本、荒れ狂う海を叩きつける。


「おいおい、さっきのがクラーケンが子供に見えるぜ……!」

「ヨハン、全船退避だ! これは――」

「いや、ここで仕留める! 逃がしゃ、被害が広がる!」


 ヨハンの声が雷鳴にかき消される中、オスカーは剣を構える。

 海風が吹き荒れ、髪が舞う。


 巨大な触手が迫る。

 オスカーは一歩踏み込み、斜めに斬り払った。

 だが、肉の塊のような触手は重く、弾かれた衝撃で彼の足場が崩れる。

 次の触手が叩きつけられ、船が軋む。


「持たねぇ!」

「なら、突っ込む!」


 ヨハンが舵を握り直し、船を加速させる。

 まっすぐ、怪物の本体へ――。


「俺が突っ込む! お前は飛び乗れ、オスカー!」

「死ぬ気か!?」

「漁師は毎日、命懸けだ!」


 船がクラーケン目前に迫った瞬間、オスカーはヨハンを海へ蹴り飛ばした。


「おい!?」

「死ぬな。ここは俺がやる!」


 次の瞬間、船がクラーケンの胴に激突。

 轟音と爆炎、そして海水の奔流。

 オスカーは爆風の中で宙を舞い、燃える船板を足場に跳躍する。


「いけぇぇぇっ!!」

「ぶった斬れぇぇっ、鉄剣士ぃぃぃ!!」


 仲間たちの叫びが、波音に溶けた。

 オスカーは渾身の力で剣を突き出す。

 刃が怪物の右目を貫き、雷鳴のような悲鳴が海を裂いた。


 雷光が降り注ぐ。

 船員たちの放つ魔弾が、まるで空の怒りのように降り注いだ。

 光と音が交錯し、世界が白く染まる。


 その閃光の中、オスカーが叫ぶ。


「これで――終わりだッ!!」


 一閃。

 刃が頭部を真っ二つに裂き、赤い霧が舞い上がる。

 巨体が崩れ、海面が赤く染まった。


 ――静寂。


 しばらくして、オスカーは海に落ちた。

 重い鉄鎧が沈みかけたその腕を、ヨハンが掴む。


「はぁ……はぁ……見事だ、鉄剣士!」

「……援護がなければ、無理だった。感謝する」

「ハハッ! 漁師と剣士の共闘ってやつだな!」


 やがて、最初のクラーケンの死骸も浮かび上がった。


「……どうして二体目は、一体目の死体を抱えて沈もうとしてた?」

「たぶん、つがいだったんだろうな。小さい方が雌、でかい方が雄だ」

「……どこで分かるんだ」

「ガッハッハッハ! 漁師の勘さ。どうだ? 一緒に船乗りやらねぇか?」

「……断る」

「だよな! そう言うと思ったぜ!」


 ヨハンが豪快に笑い、オスカーの背を叩く。


「よし、今日は宴だ! 二体まとめて港に持ち帰るぞ!!」


 海風が吹き抜け、空が晴れ渡る。

 波間に漂う血潮の赤を、陽光が黄金に染めていた。


 その光景は――まるで海が戦いの終焉を祝福しているようだった。

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