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だが、もちろんそれで終わりではなかった。
王子が国中に尋ね人の貼り紙を貼らせたのだ。
でたらめの名前にでたらめの経歴、それにドレスアップした時の似顔絵。王子が知っているすべての情報が、そこに書かれていた。
おかげでフォントルロイ邸は、今までにない大騒ぎになってしまった。知り合いという知り合い、そして今まで鼻にも引っかけなかった貴族までが、競い合って事の真相を聞きにやって来たのだ。
それだけではない。王子と懇意にしているのなら、これを訴えてくれないかと頼んでくるものまでが引きもきらずにやって来るようになった。これにはフォントルロイの奥方もすっかり参ってしまった。
尋ね人の通達は、職業の貴賎や身分を問わず、すべての家庭に配られたので、シンデレラの顔は一躍有名になった。街なかにはポスターがべたべたと貼られ、王子が情報提供者に賞金まで出したことから、騒ぎは一段と大きくなった。
「シンデレラお嬢様に、とっても良く似ていらっしゃるんですよ。でも、名前がね……」
ある時、畑で採れた野菜を持って来てくれたサラにこう言われた時は、顔から血の気が引いたものだ。それを見て何かを感じたのか、サラはそれ以上は何も言わず、秘密であることを心得ているかのように頷いて帰って行った。
シンデレラが王子のもとを去ってから三日が過ぎたある日の夕げ時、継母が大きなため息をついてシンデレラを見た。
「ねえ、シンデレラや。もうこれ以上は無理ですよ。今日だって、あなたのことではないかと訊ねて来た人が十人はいたわ。そのうち、王子様はあなたのことを聞きつけて真偽を確かめにいらっしゃいますよ」
シンデレラは怯んだように継母を見返した。
「でも、お母様……」
「あなただってわかっているはずよ。この三日間、この家から一歩も外に出られないじゃありませんか。こんな生活が続けられるわけはないわ」
「でも、お母様……」
「一度王子様ときちんとお話しなさいな。あなたが見たこと、感じたことをすべて打ち明けるのです。いつまでもこそこそと隠れて生きていくつもりなのですか?」
「いいえ、お母様、でも……」
継母の悲しげな顔を見るとそれ以上は言えず、シンデレラはうつむいた。
その時突然、屋敷のドアが大きくノックされた。礼儀も何もかなぐり捨てた、乱暴なたたき方だ。
女所帯の心細さで、ソフィ以外の四人は青白い顔を見あわせた。
「フォントルロイ夫人、開けて下さい! フォントルロイ夫人!」
その声が紛れもなく王子本人の声であると知って、四人の女性は安心するどころか、震え上がった。
「シンデレラ、二階に行っていなさい。アンドレア、あなたも一緒に。シンデレラの部屋の前で見張りをしているのですよ。チェルシー、あなたは私と一緒にいらっしゃい」
娘達は母の指示に無言で従った。
ドアを開けると、乗馬服姿にマントをはおった王子が、憤懣やるかたないといった表情で立っていた。
「あなたは、一番上の娘はよんどころない事情でよそにいるとおっしゃいましたね。だが、一番上の娘はずっと家にいて妹達の世話をしている、そしてその娘はこの似顔絵の娘にそっくりだという通報を、今日一日で何件も受けましたよ! ナニーなんて雇ったことすらないということもね! さあ、その一番上の娘さんとやらをここに連れて来ていただきましょうか」
そう言いながら、王子はずかずかと家の中に入って行った。ホールを抜け、キッチンを通り過ぎて今しも食べかけの皿がテーブルに載った食堂へ。テーブルでは、幼児用の椅子に座ったソフィが、ぽかんとしたように闖入者を見詰めていた。
「そら、ちゃんと五人分ある!」
得意そうな、それでいて悔しさに歯ぎしりをしているようなだみ声で王子が言う。彼は足早に食堂を通りぬけて、奥の居間に入った。
「一体どこだ?」
唸るように叫ぶと、王子はシンデレラの姿を探して家中を走り回った。継母はへなへなと居間のソファに座り込み、チェルシーが心配そうにそんな母親の隣りに座る。
やがて、王子は階段を見つけて三段置きに駆け上がった。そして、たくさんの部屋の中から、アンドレアが前に立っている部屋に向かって、一直線に進んだ。
「おどきなさい」
王子が静かに言う。アンドレアはかぶりを振った。
「いやです」
「あなたに乱暴をしたくはない。どいて下さい」
「いやです。お姉様はあの日、泣いてらしたんです。あんなお姉様は初めて見ました! あなたが何か悪いことをなさったからですわ!」
アンドレアの非難を受けて、王子の体がショックを受けたように強張った。
「神に誓って、あなたのお姉様を悲しませることはしなかった」
ぎろりとアンドレアを睨みつけながら、言う。アンドレアも負けずに王子を睨み返した。
「埒があかないな」
そうつぶやくと、王子はアンドレアの肩をつかみ、力ずくでどかせて、ドアを開けた。
だが、そこにはシンデレラの姿はなかった。フランス窓が大きく開き、カーテンが風に揺れている。だが、そのカーテンは明らかに枚数が足りなかった。
王子はヒステリックにわめくアンドレアをうるさそうに押しのけると、窓の方に走り寄った。
案の定、バルコニーの手すりにカーテンが結ばれて吊るされている。その中ほどにシンデレラはいた。
「この……お転婆め!」
王子の声を聞きつけて、シンデレラがびくりとする。思わず顔を上げて、何度も夢に見た愛しい人の顔を見た途端、シンデレラの手から力が抜けた。
「危ない!」
王子が叫ぶのと、シンデレラが地面に落ちるのが同時だった。
だが、かなり下に進んでいたので、少々の打ち身で済んだようだ。ショックから立ち直ったシンデレラは、お尻をさすりながら立ち上がり、急いで森の方へ走った。
「待ちなさい! シンデレラ!」
王子がいくら叫んでも、シンデレラは振り返りもせずに走り続ける。王子は乗馬用の鞭でぴしりと自分の太腿を叩くと、唇に指を当てて、ひゅっと口笛を吹いた。
間もなく、バルコニーの下に王子の愛馬が現れた。王子はひらりとバルコニーを飛び越え、アンドレアの悲鳴を背に、愛馬に飛び乗った。
「はいっ!」
馬の腹を打ち、シンデレラが逃げていった方角に走らせる。思った以上に遠くまで逃げて、蟻のように小さくなっていたシンデレラの姿が、見る見るうちに大きくなっていった。
馬のひづめの音を聞きつけて、シンデレラは息を切らしながら振り返った。そこに王子の姿を認めて、息を呑む。王子は復讐の鬼と化したような、凄まじい形相で馬を走らせていた。
シンデレラは観念してへなへなとその場に座り込み、王子が手綱を引いて馬を立ち止まらせ、身軽な動作で地面に飛び降りるのをじっと見詰めていた。
しばらく、二人は無言で相手を見詰め合った。
「なぜ逃げたんですか?」
王子の厳しい言葉でシンデレラは我に返り、ぷいとそっぽを向いた。
風がそよぎ、草原がさわさわと軽やかな音を立てる。沈みかけていた夕日は真っ赤に空を染め上げながら、山の向こうに姿を隠そうとしていた。不穏な空気を感じ取ったように、馬がいなないた。
ふっと王子の匂いを感じたと思ったら、彼はシンデレラの目の前にひざまずいていた。
「なぜ逃げたんですか?」
王子の顔に険しさはなく、今はただ、寂寥とした表情があるだけだ。シンデレラは突然胸が締めつけられるように感じた。
「私……嘘をついていました」
シンデレラが震える声で囁くと、王子は頷いた。
「わかっています。あなたはサラ・フォートナーなどではない。ましてやナニーでもない。フォントルロイ男爵の御令嬢、シンデレラ姫だ」
シンデレラはまっすぐな王子の視線に耐えられず、頷いたままうつむいた。
そっと、顎をつかまれる。その手に力がこもって、シンデレラの顔は上に上げられた。だが、シンデレラは決して目を上げようとはしなかった。
「そんなことはどうでもいいのです。あなたは私から逃げ出した。今日のことを言ってるんじゃない。あの最後の舞踏会の日、私が部屋に戻ると、あなたは姿を消した後だった。急いで大広間に戻ってみたが、二人の妹姫も姿がない。誰もあなたがたが帰ったことを知らなかった」
そこで言葉を切り、王子は大きく息を吸いこんだ。
「私があなたを動揺させることをしたんですね? あなたの妹姫は、あなたがあの日ひどく悲しんでいたと私を責めました。教えてください、私は一体どんなひどいことをあなたにしたというのですか」
静かな悲しみに満ちた王子の声は、シンデレラの心を揺さ振った。
王子の怒りになら、対抗できただろう。強引に聞き出されても、持ち前の強情さで抵抗したに違いない。
だが、王子の悲しみ、そして苦しみには、シンデレラは抵抗する術を持っていなかった。王子の寂寥とした瞳が、不安に震える指が、そして蒼白なその顔が、シンデレラの頑なな心をほころばせた。
「あなたはあの方とベッドに入っていらっしゃいました」
王子の指を外してうつむき、真っ赤になった顔を隠しながら、シンデレラはきっぱりと打ち明けた。
「私はもう子供ではありません。男と女が一つのベッドに入って何をするかは存じております。殿下があの方と……お楽しみならば、私は帰った方がいいと思いましたの」
腹立ち紛れにきつい言葉で説明する。
王子がシンデレラの両肩をぐっとつかんだ。
「それは違う!」
シンデレラはきっと顔を上げ、王子の蒼白な顔を睨みつけた。
「何が違うとおっしゃるの? 私はこの目ではっきりと見ました!」
「シンデレラ……」
本名を呼ばれると、くすぐったいような、恥ずかしいような、なんとも形容しがたい感情が走り抜ける。だがそんなことはおくびにも出さずに、シンデレラは王子を睨み続けた。
「あなたを傷つけてしまったことはお詫びします。本当に、申し訳ない。だが、実際の話はあなたが思っているようなこととはまったく違う」
シンデレラが胡散臭そうな表情になったのを見て、王子は声を張り上げた。
「聞いてくれ! あの女性とは、確かに数ヶ月つきあっていた。褒められたことではないが、完全に遊びだったんだ。それは彼女も納得しているはずだった。一ヶ月前、公務で国外にしばらく行くことになったからと別れを告げた時初めて、彼女が野望を持っていたことを知ったんだ。王太子妃になるという野望をね」
王子の唇が、シニカルな笑いに歪む。
「私は公務を口実に、これ幸いと彼女から逃げ出した。そしてほとぼりが冷めた頃合を見計らって国に帰ってきたら、今度は母が私の花嫁探しのための舞踏会を開くと言う。他の女性から逃げたばかりなのに、また新しい女性とつきあえというのだから、たまったものではないだろう? 舞踏会をどうやって切り抜けようかと、そればかり考えていた」
王子はシンデレラの顔を両の手のひらでそっと包みこんで微笑んだ。
「だが、そこにあなたはいた。生真面目な表情で、つまらなそうに大広間の隅に立って。試しに声をかけて見たら、あなたは今まで私が出会ったどの女性とも違っていた。嬉しい驚きだったよ。物珍しい気持ちは、あなたの輝くような微笑みを見た瞬間に恋に変わった。そして、その日の終わりにはもう、あなたを愛していることをはっきりと自覚していたんだ。だが、あなたを怒らせてしまったことは自分でもわかっていた。私は母に助言を請い、それを実行した。それで……上手くいったと思っていた」
王子の瞳は真剣で、嘘をついているようには見えなかった。信じたいという気持ちと、騙されてはいけないという気持ちとの板挟みになって、シンデレラの心は大きく揺れた。
「あの日のことだが、あなたが時間を訊いたのを機に、実は国王夫妻を呼びに行ったんだ。王子が求婚する時は、国王夫妻の前でという習わしだからね。あの日のあなたの態度で、あなたの気持ちにも確信が持てた。だから、正式に求婚しようと思ったんだ……」
では、王子は本当に求婚するつもりだったのだ!
シンデレラは大きく目を見開いた。
「だが……」
そう言って、王子はじっとシンデレラの瞳を見詰めた。
「大広間に着く前に、彼女につかまってしまった。相手にしたくはなかったのだが、すぐ近くで舞踏会が開かれているところで、私の醜聞をあることないこと言いふらされてはかなわない。それで、手近な部屋に入ったんだ。私は言葉を尽くして彼女を説得した。だが彼女は聞く耳を持たず、もう一度……その、ベッドを共にしたら考えが変わると、私を押し倒したのだ。あなたが見たのはその場面だと思う。どんな会話を交わしたかは覚えてないが、抵抗するより、私が彼女に無関心であることを態度で示した方がいいと思った」
王子の声音がやさしくなった。
「聞きたくないだろうが、聞いてくれ。彼女はあなたには聞かせられないほど破廉恥な真似をしたが、私は動じなかった。私の心はあなたのものだからだ。何をしても私が燃えないとわかると、彼女は私を罵倒し始めた。聞くに耐えない罵倒だったし、また本当のことでもなかったので、彼女には丁重にお帰りになっていただいた。それ以来、会ってもいない」
そこで一旦言葉を切って、王子は緊張した面持ちをシンデレラに向けた。
「愛している。あなたに会えなかったこの三日間は地獄だった。どうか、その地獄に逆戻りさせないでくれ。私と共に、戻ってくれ……」
震える声で真情を吐露し、シンデレラの両手を取って、その指の一つ一つにキスを落としていく。
王子のあまりにもやさしい仕草に、シンデレラの目に涙があふれた。涙は後から後からわいて出て、シンデレラの頬を濡らした。
顔を上げてそのことに気付いた王子が、苦しげな叫び声を上げてシンデレラを抱きしめた。
「泣かないで。お願いだ、あなたの輝く笑顔を見せておくれ。そして、私のことを愛していると言って欲しい……」
王子の体も小刻みに震えていることに気付いた瞬間、シンデレラは王子を、最愛の人を信じた。
シンデレラははっきりと頷き、王子の胸の中で囁いた。
「ええ……そういたしますわ。愛しています、殿下。あなたが望まれる限り、お側にお仕えいたします……」
「おお、姫!」
王子はしっかりとシンデレラの体をかき抱き、泣きじゃくる彼女をなだめるようにその頭を撫でた。
「殿下……はしたない誤解をした私を許してください……。私を探し出すために、不要な手間とお金をかけさせてしまったことも……」
「いや、もとはといえば身から出た錆だったのだ。あなたのように純真無垢な女性に、私の事情を察せよという方が無理だ。あなたを悲しませてしまったことをこそ、詫びなければ」
王子の真摯な言葉を胸の中の小箱に大切にしまいこんで、シンデレラは幸せな微笑みを浮かべた。
「もう、すべて忘れましょう。私たちは舞踏会で出会って恋に落ちたのですわ……」
「そうとも。シンデレラ……私の愛する人」
そうつぶやくと、王子はシンデレラの夢見るように微笑む唇をそっと奪った。シンデレラの腕がおずおずと王子の首筋に巻き付く。それを感じた途端、王子のくちづけが激しくなった。
「ああ、愛している……シンデレラ、愛している」
「殿下……愛していますわ」
和解した恋人たちは、暗くなっていく草むらの中でいつまでも約束の口づけを交わし合っていた。が、やがて王子が渋々腕を放す。
「こんなところにいては、いつまでたってもあなたに求婚できない。さあ、立ちなさい。お屋敷でやきもきして待っているであろう男爵夫人とあなたの妹姫達に、成り行きを説明しなければ」
「はい、殿下」
王子はしばらくシンデレラの輝く笑顔に見とれた後、さっと立ち上がった。シンデレラも立たせて、馬の背に横向きに乗せてやる。その後ろに自分も乗り、愛しい人を抱きかかえるようにして、馬をゆっくりと進ませた。
「乗馬はしますか?」
王子に聞かれて、シンデレラはにっこりした。
「はい、殿下。馬車も乗れます。宮殿の立派な四頭立てではありませんが、農場の経営にはもってこいの馬車がありますの」
それを聞いて、王子はふとシンデレラの手に視線を落とした。
薄暗がりであまりわからないが、ほんの数十分前にその手を持ち上げて指の一本一本にキスをしたのだ。シンデレラの手が水仕事であかぎれだらけなのを見逃すはずがない。今までシンデレラが通って来たいばらの道を思っただけで、王子の胸にもやもやとした腹立ちが湧き起こった。
「あなたを一生大切にします」
シンデレラにというより、自分に言い聞かせるように王子が宣言した。
シンデレラははにかむように微笑み、王子の胸に幸せそうにもたれかかった。
「でも、殿下」
不意に悪戯心を起こして、シンデレラは王子の顔を見上げた。
「本当にナニーに求婚なさるおつもりだったのですか?」
すると、王子は気分を害したようにしかめっ面になった。
「私が嘘をついていると? いいえ、もちろんそのつもりでした。あなたを信頼できる貴族の養女にするか、それともあなた自身に爵位を与えるか。それが国王の提案です。結婚した後、あなたが肩身の狭い思いをするのではないかという配慮から」
王子はにっこり微笑んだ。
「フォントルロイ家にも恩恵は与えられます。爵位を上げ、領地も今までとは比べ物にならないくらい広くなるでしょう。執事や召し使い、領地の監督人も王家がお世話をします。これであなたの母上も、過労で倒れたりする心配はなくなるでしょう」
「まあ……。何とお礼を言えばいいものやら……」
言いかけたシンデレラの口をやさしく唇でふさいでから、王子はシンデレラの耳元に囁きかけた。
「お礼をしてくださるというのなら、是非とも婚礼の夜に……」
王子のほのめかしに気付いて、シンデレラは真っ赤になった。
「殿下ったら……」
シンデレラのうろたえた様子を見て、王子は楽しげな笑い声を上げた。シンデレラは王子の広い胸の中でその笑い声を聞きながら、継母や妹達の反応を想像して微笑んだ。