第一章 2話 紋章解放
「やっと、殺せる。――これでッ!! アイツに復讐できるッ!!」
「うわぁあああっ!!」
女が、逆手に持った注射器を振りかざす。
哀れな少年は為す術なく、腕を重ねて頭を覆った。
――瞬間、右手の甲に刻まれている "0" が激しく光る。
「う、ぎゃあぁあッ!」
「――え?」
まともに白光を眼球で捉えた女は、悲鳴を上げながら仰け反る。
テンリョウは腕で頭を覆い、また、その時に目をきつく閉じていた為に被害に遭うことはなかった。
光が閉じる。
女は顔を左手で覆って叫び散らしながら、注射器をブンブンと振り回す。
――このタイミングしかない。
「う、わぁ、ぁああああっ!!」
「――そこかァッ!!」
少年は大声を出しながら、スライド式のドアまで走ってしまった。
女は直ぐに反応し、右耳から伝わった絶叫を頼りに走る。逆手に持った注射器の針が光る。
危機的な状況。
しかし、その事に気づく余裕も時間も既に無かった。
テンリョウは取手を握る。急いで横に引っ張って逃げようとするが――、
「逃がさねぇよクソガキィッ! ――死ねぇっ!!」
「がぁあああっ!?」
女は執念で、少年の首根っこを引き掴んだ。
そして自らの手が届く範囲まで寄せた少年に向かって、殺意の言葉と共に注射器を振り下ろす。
視界が潰されたからであろうか。首を刺すつもりが、少年の右耳の裏を刺し抜いていた。
全体重を乗せたが故に、そのまま女と共に床に倒れ込む。
その衝撃で不恰好な丸い穴が、更に不細工に広げられる。
血が激しく漏れ出して、同時に鋭い痛みが頭全体を覆い絶叫するテンリョウ。
「苦しめ、解除ッ!!」
「ぁ、あああぁあぁああっ!!」
女はテンリョウの背中に跨りながら叫んだ。
――その瞬間、"メス"が少年の右耳を縦に突き破る。
ただでさえ出血が酷かった箇所から、更に血が吹き出した。それは白いドアと清潔な床に滲み散らす。
今までの苦痛と比にならないぐらい、苦しんでジタバタと暴れ回る。目からは涙が溢れ出しながらも必死に、必死に叫ぶ。
だが女は有利な体制、そして手も塞がれていない。音を頼りに左手で床に少年の頭を押さえつけつつ、注射器を強く握る。
「これで刺し殺してやるよ、抵抗しなきゃ楽に死ねたのになぁッ!?」
「い、嫌だっ! 誰か――」
「黙れッ!」
女は、左手で掴んでいた少年の頭を全力で引き寄せた後、投げる様に床に叩きつける。
少年にあった額の傷が押し広がり、軽い悲鳴を上げた。首と顔が左に向く。
それと同時に女は右腕を振り上げ、今度こそ首を狙い、そして――、
「死ねッ! 今度こそォッ!!」
――瞬間、"0"が前よりも更に煌めき輝く。
しかし、その光が誰にも届くことはなかった。
既に女は目を閉じ、この部屋にいる患者は皆、死んでいるのだから。
何も変わらない。誰も救わない。誰も。誰も。
「助け――」
だが決定的に、変化したものがあった。
女は右腕を振り下ろす。
「――っ!?」
少年の首に勢いよく突き刺した注射器の針が、音を立てて根本から折れた。
驚愕する女。この針は細いとはいえ、人間の皮膚や骨すらをも簡単に突き破ることのできる鋭利さと丈夫さを兼ね備えていたからだ。
それが折れた。少年の首に傷は無い。
少年の肌が急に、柔軟さを持つ硬化をしたのだ。
「なんで――」
「う、ぁあっ!!」
女が困惑する中、テンリョウは無我夢中で右脚を畳みながら蹴り上げる。
その踵は、運良く相手の背中を捉えた。
とてつもない脚力。
鈍く乾いた音と共に女の体は軽々と前方に吹っ飛び、ドアと顔が衝突した。
扉は揺れ、女の歯と鼻の先端は潰れてひしゃげる。
女の視界は既に封じられており、受け身など取れる筈がなかったのだ。
自身の顔を手で覆いながら、突然の痛みにもがき転ぶ女。
テンリョウはその隙に今度こそ、スライド式ドアを開けようとする。
だが先程の衝撃で少し歪んだのか、ザリザリと音を立てながら抵抗した。
うつ伏せの女は相手が逃げようとしていることに気付き、かっと血だらけの顔を上げてこちらを睨む。
「ひっ」
「ガァァアキィイィ……!!」
耳から伝わる鋭利な感覚をも忘れて、左足の先端をドアの隙間に突っ込んだ。
そして、全身を挟みねじ込む。必死にねじ込む。
少年の左半身が廊下に出たところで、女は発狂しながら走ってきた。
それを見たテンリョウは、冷や汗が頭の先まで登ってきた感覚に襲われる。
女への恐怖の感情よりも、間近の死への恐怖が勝る。それこそ、右耳に突き刺さったメスの存在を忘れてしまう程に。
「あがっ!?」
メスの刃先がドアの隙間に引っかかり、耳の端が浅く引き裂かれる。
痛みで止まる一瞬。
女がその隙に追いつき、両手で少年に掴みかかる。何でも良い。何か掴めれば良いのだ。
左手は髪を、右手はメスの持ち手を掴んだ。力を込める。
「こっち来いガキィ!」
「痛いっ!! い、嫌だっ! 離れてよっ」
少年の頭を何度もランダムに揺らし、何度も引き寄せようとする。
その首はぐわんぐわんと回り、頭は壁やドアに打ちつけ、右耳の傷はますます深くなる。
テンリョウは耐えきれなくなり、右足で女の腹を全力で蹴り飛ばした。
女は「が」と呻き声を出し、部屋の奥まで吹っ飛んだ。
「――え、え? 何この力」
少年は困惑する。
女はぐったりとして動かない。しかし、今はただ逃げなければ。
何も分からない。何も分からない。何も分からない。自分には何の能力も無かった筈ではないのか。
テンリョウの目尻に涙が溜まる。まだ子供の心には、この現実は重すぎる。
右耳からメスをぶら下げながら、漸く廊下に出た。
そしてそのまま勢いよく倒れ込むテンリョウ。
「うぅう……痛い、痛いよぉっ」
横向きに蹲り、両手で右耳付近を覆う。血は止まらない。
一連の騒ぎを聞きつけた本物の看護師、慌てた顔をした中年の警備員、甲高い悲鳴をあげる野次馬。
小さい血溜まりができていた。
「う、う……ぅ」
――少年の意識は、熱さと痛みと共に深く闇に沈んだ。
○○○○○
「――ぅ、ん」
少年はベットの上で目を覚ました。
右耳を覆い包む、ぶ厚いガーゼ。そしてニュースキャスターが原稿を読む声。
その内容は連続乳児誘拐バラバラ殺人事件についてだ。この事件は12年前から続く、あまりにも猟奇的な惨劇。
未だ性別すら不明な犯人は、シングルマザーやシングルファザー内でも周りの支援を受けず、たった一人だけで赤子を育てている家を狙う。
そして彼らが居ない内に、家に侵入して赤ん坊を拐うのだ。
だが、金や他の要求をすることはない。
――代わりに赤子が殺される。
被害にあった家の付近にある保育園、もしくは幼稚園の砂場にバラバラ死体となって、ばら撒かれる。
必ず殺される訳ではなく、拐われたまま戻ってこない事もあるが、何を基準にしているのかは不明なままだ。
どうやら、昨日も殺されたらしい。
「お……? 大丈夫か坊主! 聞こえるか!?」
突然、その視界に白髪混じりの中年の顔が混じり込む。
他人。男性。大声。それらの要素が集まれば当然――、
「――うわぁっ!? 襲わないで下さいっ!!」
「襲わねぇよっ」
テンリョウは叫び、ごろんと横に方向転換しながら、自分にかけられていた白いシーツで頭全体を覆い隠す。
いかにも刑事という格好だ。茶色のコートにくたびれたズボン。
そのズボン以上にくたびれた中年の男は反応した後、困ったかの様に頭を掻いた。
無理もない。人間、しかも子供があんな体験をしたのだ。
よくてトラウマ、悪くてPTSDだ。
しかし、そんな状態になっても尚、丁寧な言葉使いを止めないとは恐れいくが。
中年の男はその事を加味し、慎重に言葉を選びながら話しかける。
「あー、なんだ。大丈夫だったか坊主? あぁ! 自己紹介がまだだったな、すまんすまん! 俺は斉藤孝だ」
「……佐々木天涼です」
シーツから少しだけ顔を覗かせたテンリョウ。その顔は困り顔だ。
非常に可愛らしい顔立ちをしているので、この場面を一部の人間が見れば幸福発狂死すると思うが、この中年の男には一ミリも効かなかった。
そんな事よりも、興味を強く惹かれる"モノ"を見つけたからだ。
(――ゼロを示す核痣……? 珍しいな。見た事が無い。しかも、何故誰も彼に注目しなかったんだ? こんな核痣が発見されたら直ぐニュースに取り上げられそうだが……まぁ、帰ったら調べてみるか)
それは、シーツを掴む右手の甲。0を示す核痣。
今まで生きてきて1未満の数字を見たことがない。もし、この少年の存在が公になれば、この世界の常識をびっくり返す事ができる。
しかしそれは同時に、少年が世間から好奇の視線に晒され続ける事になるのを意味していた。
そうなる事は、この男の望む展開ではない。
男が自身の忌まわしき紋章に注目している事に気付いた少年は、右手をシーツの中に入れる。
じっと見つめられた中年は気まずくなり、そっぽを向きながら話と空気を変える。
「お前がこの病院に運ばれた時、いつの間にか居なくなってたようだぜ。探そうにも他の奴らが、いや……あぁ! そうそう。院長から本当に申し訳ないと伝えておくれってさ」
「そ、そうですか」
中年は少年に起こった事実をかい摘んで伝える。言わなくても十分な事を言いそうになったが、何とか飲み込んだ。
まだ少年だ。それも怪我を負っている今、残酷な話は毒になるだろう。
外が騒がしくなる。
「……おい坊主! まだ安静にしてろ!」
「――いえ、大丈夫です」
少年が立ち上がり、窓に向かって歩く。
へたへたと歩く音が聞こえた中年の男は、急いで振り返り静止する。
耳に大怪我を負っただけなので、特にそこまで心配する必要はない。
だが自身の心がもたないし、こんな場面を本物の看護師に見られたらと思うと、恐ろしくて身震いする。
少年はそんな中年を全く意に介する事なく、閉め切った窓から見下ろす。
散らばったパトカーと、纏まったマスコミ関係者が地面を覆っていた。
騒音の原因は、どうやら例の女らしい。
二人の女性警察官が暴れる女の両脇を片方ずつ持ち、パトカーに連行している最中。
「人間、生まれ変わるのに360°じゃ足りねぇってことか」
見下ろし続ける少年の後ろからゆっくりと歩いてきた中年は同じく下を見つめ、呟く。
叫び、暴れ、頭を振り回す女。
どうして、何故この人生を歩んだのかは誰も知らない。本人以外、知る由も無い選択肢。
しかし、中年の男は憐れみを抱く。一生、幸せなど無いだろうから。
暴れ続ける女は、少年に気付いた。
目が合う。
「――私は死刑にならねえッ!! いつか、いつかァッ!! 塀から出てテメェを殺してやるからなぁ!!」
唾を飛ばしながら叫んだ。
テンリョウは恐ろしくなり、素早く後退りする。
同時にマスコミはその一瞬を逃さず、悪辣に写真に収めた。
「坊主、気にすんな」
中年は勢いよくカーテンを閉めた。
揺れる端。床に映る光が揺れる。
「お前の身の安全は、俺ら警察がちゃんと責任持って守るよ。――だから、安心しろ」
「――――」
守る。その言葉を聞いたのは、いつかたぶりか。
薄れた幼少期の記憶内でのみ存在する"それ"は、少年の、いや、佐々木 天涼の心を大きく揺さぶった。
除け者にされ、虐げられ、何度も蹴られ殴られ殺されかけ、自分を失くしかけていた者。
感情も無くただ呆然する少年の耳に、再度響く。
――男女の悲鳴が。
「なんだっ!?」
中年はカーテンを握り開け、状況を確認する。
テンリョウはただならぬ雰囲気に呑まれ、鼓動を早めながら摘み開けようとするが――、
「――見るなっ!!」
「――っ!?」
飛び跳ねて驚く少年は、指から離す。
白いカーテンの向こう。少し汚れた窓の先。
何が起こったのか、しかし、目の前に居る大人の反応だけで十分だった。
(なんて酷いっ……! 自分自身の異能力で自殺したのか!? いやでも、しかし)
中年の目線の先。女の口から異質に巨大化したメスの先が、背中からはその持ち手が突き飛び出していた。
鮮血が体中から勢いよく溢れ出している。
その威力を表す様に、マスコミのカメラには何滴も飛び散っていた。
その場から逃げる者達、懲りずに撮る者達、周辺を警戒して見回す者達、既に絶命しているのに助けようと走り寄ってくる者達、見下ろす二人。
野次馬が上から下まで増えていく。
――その時、流れ出る血に"口"が咲く。
赤い唇はどんどんと溢れ出した。
それは際限なく、地面を埋め尽くす程の。
「なん……だ、あれ」
中年は呟く。長く生きてきたが、あれを超える猟奇的な場面には遭遇した事がない。
何しろ嗤っているのだ。その口が、嗤っているのだ。
声は聞こえない。ただカタカタと動いている。
皆、手を下ろしていた。
そして狙ったかのように、女の真下から血を伝う猛火。
女は臭いと灰色の煙を撒き散らしながら黒く変色していく。崩れ落ちていく腕。罅割れていく後頭部。
――もう、誰も喚かなかった。
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