大魔女アルデバラン
「……イオ」
初めて大地が名前を呼んだ。
「はい?」
大地をまっすぐ見つめ返すイオ。瑠璃色の瞳はどこまでも青く透明だ。
――この子は、本当に、本当に、存在するんだろうか。
大地は手を伸ばし、そっとイオの頬に触れてみた。
――あたたかい。ちゃんと生きている。イオも、そしてそれを感じられる俺も。
「き、急になんですか? いったい?」
イオの頬が赤く染まる。瑠璃色の瞳が初めて動揺の色を映し出す。長い睫毛の下でかすかに揺れている。
「いやあ、ほんとにイオはいるんだなあと思って」
さらにまじまじとイオを見つめる。
「なにを、いまさら……」
――ほんとに、綺麗な子だな。花や青空、自然豊かな景色がよく似合う――
そんなに長い時間ではなかったのかもしれない。
しばし、時間が止まっていた。
見つめる大地と、ただ見つめられるイオ。空の高いところでゆっくりと雲が流れていた。蜂蜜のように輝く長い金の巻き毛が、柔らかな風に揺れる。
イオは動揺しているのを気付かれないように大地の視線をふりほどき、とりあえず前を見つめ歩くことに専念することにした。足元にはひときわ鮮やかな赤い花が咲いていたが、イオはそれにも目をくれず歩いていく。
小道の両脇に、林檎のような実のなっている木々が並んでいる。林檎に似ているが、よく見ると違う果物のようだ。この木も見たことがない、と大地は思う。
「この実、食えるの?」
「はい。とても美味しいです。人はもちろん、鳥や動物たちの大好物です」
「鳥も動物もいるんだ」
――そういえば、コンビニエンスストアの前で感じた幻でも鳥のさえずりが聞こえていたっけ。ああ、そうか。あれも幻覚じゃなく、あのときも実際にここに来てたんだ――
「なぜ、俺はここに来ることになったんだ? なぜ? いったい、なんのために?」
「それは、これからアルデ様が説明してくださいます」
常に目を見てにこやかに説明してくれるイオが、前を向いたまま答えた。
前方に石造りの塀が見えてきた。その中央には、美しいアーチを描く門が見える。
「イオ」
「はい」
イオは正面を向いたまま、優美な佇まいの門に向って歩み続ける。大地はイオの半歩後ろを歩きながら、少しためらいがちに声をかけた。
「……もしかして、怒ってる?」
「え?」
足を止め、イオが振り返る。金の巻き毛が揺れ、甘い香りがほのかに漂う。
大地は、イオが自分に対して怒っているのだと思っていた。よく考えれば――というかよく考えなくてもわかることだが――、知らない人物、しかも異性に頬を触れられるなんて嫌に決まっている、大地はイオに不躾に触れてしまったことを反省していた。
――デリカシーに欠けるところが、きっと女性とうまく付き合えない原因の一つなんだ。
「……ごめん」
「えっ? どうして謝るんですか?」
イオは驚いて大地を見た。
――よかった、怒ってはいないようだ。
イオの反応を見て、大地は安堵する。
「ほんと、ごめん」
「え? そんな、信じられないのは当たり前です。私に謝る必要なんてないですよ」
自分の話をまったく信じなかったことを大地は謝っているんだ、とイオは理解した。
「えっ? いやそうじゃなくて、その……」
つい、触っちゃって、ごめん、と大地は説明しようと思ったが、言葉にするのはためらわれた。
キイイ。
かすかな音をたてて門の扉が開いた。扉の向こうには、幾重にも花びらが重なりあった美しい深紅の花々が咲き誇る、見事な庭園となっていた。濃厚な花の香りが辺りを包む。門の外の明るい春の光景とは趣の異なった、深く静かな緑の空間になっていた。
「これはまた、すごい雰囲気のあるところだなあ」
思わず率直な感想を述べる大地。
――俺の人生には無縁の場所って感じだ。
俺の日常にはまずない世界、そう大地は思った。自分が似合うのは、日本の郊外のどこにでもある風景、日本国中よくある平凡な街並み。暮らしやすさだけが取り柄の、特にとりたてて特徴のない住居――洒落た雰囲気や、高級な空間、重厚な空気はどこか自分の世界とは遠いものと感じていた。
正面には石造りの古い洋館のような建物が見える。二人はゆっくりと玄関まで続く石畳を歩いていく。
「前のかたも、やっぱり私の話を信じてくださるのに時間がかかりました」
「……前のかた?」
「ええ。あなたの前に、ここにお越しになったかたです」
「俺と同じようにここに来た――つまり、『選ばれし者』?」
「そうです」
「……俺が『選ばれし者』ってのはピンとこないんだけど」
「大地さんは間違いなく『選ばれし者』……特別で尊いひとです」
「へっ!?」
思わずなんとも間抜けな声が出てしまった。
「人は、誰でも一人ひとりが異なる物語を持つ特別で尊い存在ですが、大地さんは私たちにとって特に重要で、かけがえのないひとなのです」
木製の大きく重い扉を開く。
ビロードのような絨毯が敷き詰められた広間に、一人の美しい女性が立っていた。
「いらっしゃい。待っていたのよ」
まるで、美しい名画のようだった。圧倒的な強い存在感――それは単に外見の美しさによるものだけでなく、内面の計り知れない奥深さ、魂の強さというべきもの――を感じさせた。
黒のロングドレスに身をつつんだ、長身の妖艶な美女――艶やかな黒髪は長く美しい首元を引き立てるようなショートカットで、黒い瞳は宝石のオニキスのように深い光をたたえている。なまめかしい白い肌と赤い口紅が黒の配色に鮮烈な印象を与えていた。
低めの艶のある美しい声が、静寂な空気に妖しさを漂わせる。
――うわあ。ほんと、「魔女」って感じだ……。
アルデバランという大魔女――大地はいいしれぬ迫力に、圧倒されていた。