謎の美少女
柔らかい揚げ鶏に甘辛いたれとたっぷりのタルタルソース。大地はチキン南蛮が大好きだった。特に、近所の食堂「おおのや」のチキン南蛮がお気に入りだった。健康面で問題がなければ、毎日食べたって構わないと思う。
――どうしてあんなにはっきりと幻覚を見たのだろう。
テレビをつけながらの一人の夕食。好物のチキン南蛮の味も、テレビの芸人たちの笑い声も大地の前をただすり抜けていくようだった。
大地はアパートで一人暮らしを続けているが、健康にはわりと自信があった。大病や大けがをしたこともなく、高校時代はラグビー部でそれなりの活躍をしていた。社会人になってからは毎日ではないが一応自炊もしているし、軽い運動もしている。仕事はなんとか普通にこなしているし、遊ぶ時も大きな羽目をはずすようなこともなく、割と規則正しい日々を送っている。一人暮らしの若い男性としては健康的な生活をしているほうだと自負している。
しかし、幻覚をはっきりと見てしまった。これは普通の健康状態ではないのでは――大地は危惧する。
――昨日買った本も少し読んでみたかったけど……。今日は早めに休もう。疲れているだけなんだ、きっと。
いつもより早く床につくことにした。普段どおりパジャマに着替えたつもりだったのに、ボタンが一つずつずれていた。苦笑しながら上から順番にボタンを留めなおす。少しだけ、指が震えていた。
ザー。
ザー。
ザー。
眠ろうにも雨の音が気になる。謎のメダルのことも、幻覚のことも気になる。考えを追い払うように寝返りを打ってみる。大地はしばらく眠れないでいた。
ザー。
ザー。
「どうしよう……。俺、もしかして脳の方の病気とか……」
恐ろしい考えが浮かび、不安のあまり思わず口に出していた。しかし言葉にしてしまうことで不安はより明確な形をとり、現実に実体を持って大地に襲いかかってくるような気がしてきた――ばかげている、と思いながらも大地は独り言を後悔する。
「あなたは、健康ですよ」
――えっ!?
唐突に、少女の明るい声がした。
大地は驚いて跳ね起きると同時に、急いで部屋の明かりをつけた。
目の前に、金色の髪の美しい少女がいた。その瞳は神秘的な湖を思わせる、澄んだ青い色をしていた。
――えええっ!?
一瞬にして総毛立つ。
「ついに出た! 家にも出た! アパートの心霊現象だ!」
大地は思わず叫んでいた。
――昨日も夜中のテレビ番組でやってた!一人暮らしのアパートでお化けが出たって話!そんなの嘘だろ、って思いながら見てたけど、ついに、ついに俺のところにもお化け、キターっ!
「あぱーとのしんれいげんしょう?」
謎の美少女は、小首をかしげながら大地の言葉をそのまま復唱した。
――あれ。お化けにしてはかわいいぞ。
十六から十八歳くらいに見えるその外国人とおぼしき美少女は、華奢な体に西洋の民族衣装のような不思議な衣装をまとっていた。豊かな金色の巻き毛、長い睫毛に縁どられた大きな瑠璃色の瞳、白くなめらかな肌に健康的な薔薇色の頬、ほのかに紅い愛らしい唇――とても幽霊には見えなかった。
「……外国のお化けはポップなのか?」
――よく見れば、ぜんぜん、怖くない。
「えーと。ここは日本ですよ。そして俺の家ですよ。今は夜だし、俺は男だし、君は女の子だし、早く帰ってください。ご家族もきっと心配しますよ」
ちょっと変てこな説得。大地の精いっぱいのジェントルマンな対応だった。
「驚かせてしまったみたいでごめんなさい。私は、イオといいます」
声もかわいらしかった。女と猫は声がずるいよなあ、と大地は思う。
――自己紹介したということは、俺もしておいたほうがいいのかなあ。いやいや昨日のテレビで幽霊は基本無視がいいって言ってたぞ。いくらかわいいからって下手に関わっては危険だ! 対処できるわけがないんだから。
そもそも、生きてる女の子にだってうまく対応できたためしがない、と大地は余計なことまで思い出す。
――ん? でも待てよ、これもやっぱり幻覚? それとも夢? 俺はもう眠ってしまっているのか?
夢であってほしい、大地はそう強く願っていた。そうでなければ病院で精密検査か――大地は怪奇現象の恐怖にうってかわって現実的な恐怖に襲われていた。
「大地さんに出会えて、本当に嬉しいです!」
輝く笑顔。飾り気のない無機質な自分の部屋全体が、急にいきいきと明るくなったような気がした。大地はただ戸惑う。
「えええ? 嬉しいって? どういうこと!?」
「私たちは、この日を待っていました」
――「私たち」?
「天に感謝します」
イオは、祈りを捧げる清らかな乙女のように頭を垂れ、瑠璃色の瞳をそっと閉じた。
「ちょ、ちょっと待って! なにがなんだかさっぱり……」
言いかけて大地は思い出す――あ、そういえばこれは幻なんだっけ――自分の頭の中から生まれたであろう産物に説明を求めてもなにもならない、そう大地は考えた。
大地の思考とは関係なく、イオは微笑みをたたえ穏やかな声で話を続ける。
「昨日大地さんが手にした本、あれは異界へと通じる扉なのです。でもあの本を入手した誰もが異界へ接することができるわけではありません。『選ばれし者』だけが異界へと通じる道を通ることができるのです。大地さんは『世界』に選ばれた者なのです」
「昨日買った……? あ、あの変な本!」
「書かれている内容は関係ないのです。大切なものはいつも奥深く、目には見えないところ、表層には現れないところにあるのです。あなたが本を手にしたのは、あなたが本を見つけたからではなく、本があなたを見つけたからです」
「よくわからん……」
大地は混乱していた――なにをどう理解したらよいのか、平凡な男であるはずの自分の身になにが起こっているのか。
――「選ばれし者」って、なんだか王道の妄想だよなあ……。俺、自分ではごくフツウなヤツだと思ってたけど、内心そういう「自分は他と違った特別な人間でありたい」というような欲求があったんだなあ……。
人間という生き物の複雑さ、業の深さというようなものをしみじみと噛みしめながら、大地は黙って布団にもぐることにした。明日は会社を休んで病院に行ってみよう。とりあえず、今は余計なことは考えず、ただ眠ろう、そう決めた。
「なに寝てるんですか」
「…………」
「おーい」
「…………」
「…………」
ザー。
ザー。
ザー。
雨は降り続く。
「うわああああっ!」
再び大地は跳ね起きた。布団の中に、イオがもぐりこんできたのである。摘みたての花のような甘い、良い香りがした。
「なんで布団に入ってくるんだよ!?」
「なぜなにごともなかったかのように寝ようとしてるんですか」
――困った。幻覚が消えない。それどころかリアルに触った感じがある。
「俺、欲求不満なのかなあ……」
大地は前の彼女にフラれて一年が経っていた。彼女は大地より三歳年上の仕事のできる大人の女性だった。実はまだ彼女のことが忘れられない。大地は、背が高くがっしりしたスポーツマンタイプの好青年、女性にモテないというわけではなかった。しかし、失恋の痛手をいまだにひきずっており、新たな恋を見つけることができないでいた。
「でもなぜ俺の好みのタイプの女性の幻覚じゃないんだろう」
大地は人間の心理の奥深さに思いを巡らす。
「……喧嘩売ってます?」
イオはふくれた顔になる。まったく失礼な話だった。
「もう! 問答無用で連行します!」
イオは大地の腕をつかんだ。その瞬間、目の前に虹色の光が現れた。
――え!?
次の瞬間、大地は大自然の中にいた。
「どうなっているんだ……、いったい……」