遺言
作者初のハウダニットです(拙作「小説家になろう殺人事件」も若干ハウダニットは意識したのですが,今作ほど本格ではありませんでした)。
とにかく「館ものが書きたい病」に罹ってしまい,構想1日,執筆1日で書き上げました。
作者も気軽に書いた作品なので,気軽にお楽しみください。
生前,平藤正治郎は,日本を代表する資産家であった。
大学卒業後,大手銀行に勤めた平藤は,投資に人並みはずれた才覚を持っていた。彼は株式の売買によって資産を右肩上がりに増やしていった。総資産額は30億円を超えるとまで言われている。
また,正治郎は,冒険家でもあった。
10代の頃から登山が趣味だった正治郎は,金が手に入り出してからは,毎年のように海外に行き,世界中の山に挑戦し続けた。30歳でエベレストの登頂に成功した正治郎は,それ以降は,冒険のバリュエーションをさらに広げ,密林や沼地など,普段人が立ち入らない秘境を探索するようになった。
無論,そこでは幾度となく命の危険に晒されたが,正治郎は持ち前の根性と運で乗り切り,生還し続けた。
平藤正治郎は輝かしい経歴を有していた一方で,人望は全くなかった。
それは偏に正治郎個人のパーソナリティーによる。
正治郎は,人の血が通っているのかと疑いたくなるほどに,他者には厳しく,冷淡だった。
その上,正治郎には変態的な趣味があった。
正治郎は,人の死に強い関心を抱いていた。とりわけグロテスクなものを大層気に入っており,ナチスドイツの人体実験や731部隊についての資料を集めるのが正治郎のライフワークだった。
極め付けとして,正治郎は,金に物を言わせて,中世のコロシアムのような施設を東京に作ろうとした。
人間同士に凶器ありのデスマッチをさせようとしたのである。正治郎は,出演者や観客の同意が取れさえすれば,そのような施設を作ることも法律に違反しない,と主張し,一部の同様の嗜好を持った者たちから賛同の署名を集め,風営法の許可を取ろうとした。
もっとも,当然ながら国は正治郎の主張を認めず,コロシアム計画は実現しなかった。
このように正治郎はイカれた人間であったから,正治郎が69歳で肺がんで他界した際,悪趣味な遺言書が見つかったときにも,誰も驚くことはなかった。
遺言書にはこのように書かれていた。
「私の法定相続人は5人の子どもたちであるが,5人の子どもたちは,私の死後14日が経過したのちの最初の月曜日に,私が建てた潜水館に集結すること。潜水館の危険な仕掛けをくぐり抜け,逃げずに生き延びた者に私の全財産を相続させる」