プロローグ
2021年4月の出来事だ。私は娘の文子の書いた文章を校正していた。
「うん。いいと思うよ。ちょっと砕けた表現が多いけど悪くないと思う」
「ありがとう。もうちょい直せそうだから直してみるよ」
文子は頭をポリポリ掻くと小さく首を傾げた。
「大丈夫だよ。フミは私より書くの上手いんだから自信持って」
「そうかなぁ。お母さんに比べたら全然だよ。また校正お願いね」
自分の娘ながら大したものだ。私なんかよりずっと才能があると思う。こういうと親バカのように聞こえるかもしれないけれど。
娘の性格はどちらかと言えば夫に似ていると思う。夫は私なんかよりずっと有能だし才能もあるのだ。自分を卑下しているわけではない。どちらかといえば夫を尊敬しているのだ。
私はファンタジー・大衆文芸を書いて生計を立てていた。そこまで売れているわけではないけれど、まぁまぁ生活の足しにはなっていると思う。夫は出版社で編集をしている。彼とは高校時代に知り合って、それが縁で結婚した。22歳で結婚したので割と早かったと思う。
私の家系は良くも悪くも文芸一家だった。私の祖父は純文学作家だったし、母の本子も大衆文芸を書いていた。だから私が文芸作家になったのは血筋なのだと思う。そしてその血筋は娘の文子にもしっかり受け継がれていた。
文子は高校生になってから何作か小説を書いていた。母の書くような大衆文芸でも私の書くファンタジーでもない。ジャンルで言うならばキャラクター文芸というものだ。彼女の書く文章は私のものよりも夫のものに近いと思う。もっとも、夫はもう自身で小説を書いたりはしなくなったけれど。
文子は物語を情緒的に書くというよりも、プロットをしっかり立ててストーリーを練るタイプの作家だった。彼女曰く、将来はドラマ化やアニメ化を念頭に置いているらしい。
だから思うのだけれど、私はそう遠くない未来に娘に追い越される気がしていた。もしかしたら既に追い越されているのかもしれない。そう考えると娘の成長が楽しみな反面、少しだけ悔しく思う。やはり私も作家としてのプライドが多少はあるのだろう。
ダイニングテーブルで娘がパソコンに向かい合っていた。彼女はワードパッドと睨めっこしながら文章を書いている。
「あんまり根を詰めると良くないよ?」
「大丈夫だって! それに再来月、WEB大賞あるから急がなきゃだしさ」
やはりこの子は夫に似ている。その承認欲求の高さも文芸に対する姿勢もそっくりだ……。
娘が執筆している横で私はテレビを付けた。画面にはコメンテーター数人が何やら傷害事件について話している。
『このような凶行は決して許される者ではありません』
犯罪心理学者はそんなありふれたコメントをしている。たしかこの人にはいつかの受賞パーティで会ったことがある気がする。
最初はボーッと見ていたワイドショーだったけれど、加害者の写真が映し出されると私は絶句した。
”人気パンクバンド『アフロディーテ』のヴォーカル、鴨川月子容疑者”、画面には加害者の写真とそんなテロップが映し出されていた。
鴨川月子……。私の親友にして、1番の理解者。
このときはまだ、彼女に何が起こったのか理解できなかった。なぜ月子はこんな凶行に及んだのだろう?
その真相をしるのはそれから間もなくのことだった。