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淡く儚い汚泥の底の、

 病院の床は冷えていた。夏季をとうに迎えた陽気なのに、リノリウムの床だけは冷えている。院内の冷房がそうさせているのではない気がする。椅子から体を浮かせ、床に掌をつけた。じんわりと冷たさが伝わり、クローズの口からため息となってこぼれる。


 アンナが入っていった手術室のランプは灯ったままだった。やがて店主が駆けつけ、椅子に腰かけるクローズの胸倉を掴んで立たせる。



「お前何をした! アンナを追っていったろ! 何をしたんだ!」



 店主の仲間や看護士達が慌てて引き剥がすが、店主は肩で息をしてクローズを睨む。



「僕の目の前ではねられた。どうする事もできなかった」



 クローズはシャツを整えて、改めて椅子に身を委ねた。見下ろす店主は自分の膝を叩くと、手術室のランプに悪態をつく。




 クローズはアンナを追って、通りを駆け後ろ姿を見つけた。彼女の肩に手を置いて振り向かせるつもりでいた。

 何故あんな事を言ったのか、何かを知っているのではないかと問うつもりでいた。

 しかしクローズが声をかけようとした瞬間、駆けてくる足音を聞いたのか、アンナは数メートル前で振り返り、その瞬間に車にはね飛ばされた。スローモーションで彼女の体が宙を舞い、不運にも首からアスファルトに落下した。

 途端に道路には赤い華が咲き、割れて砕けた首の骨が喉の脇から皮膚を突き破って外に顔を覗かせていた。

 誰もが即死だと思ったが、アンナは痙攣をくり返して血反吐を吐きながらも、何か言葉を出そうと口を開閉していた。

 道路に跪き、アンナの口へと耳を寄せてみたが、血飛沫を噴くだけで意味は皆無だった。





 手術室のランプが消え、明らかに落胆した医師が出てくると、アンナの死を告げた。店主はがっくりと肩を落として、首を振った。

 クローズはそれだけを見届けると、すっかり重くなった腰を上げた。横目で気づいた店主が道を塞ぐ。



「どこへ行く気だ! まだ話は終わっていない!」

「僕には話す事などない。退け」

「アンナを殺して何がしたかった!」

「僕は記者だ。話を聞きたかっただけだ。本人が死んだなら、もう用はない」



 クローズの突き放つ言葉に、店主だけでなく周囲の人間も目を丸くする。



「君、そういう言い方はないのではないか?」

「あなた一体どなたなの?」

「コイツがアンナを殺したんだ! そうに違いない!」

「僕はマリー・エンバンスを探している」



 突然の声に、一同は首を傾げた。そのほとんどがクローズが放った名にピンときていない。だが───



「皆さん、もう良いではないですか。この方も余所の地から来られたようだ。我々と関わり合いのない方だ。アンナは気の毒だったが、この方が殺したなどと、めったな事を言うものじゃありませんよ。さぁ、あなたも、もうお帰りなさい。出口まで送って差し上げよう」



 1人の老人が杖をつきながらクローズの背に手を当てて促す。皆、納得などしていなかったが、唸り声を上げるしかなかった。老人の言う事は正しいと感じていたからだ。


 廊下を進む最中も、老人はクローズの背に手を当てたままだった。まるで急かされているような状態に、クローズは正面を見つめたまま声に出した。



「あなたはご存知のようだ。マリー・エンバ───」

「その名を口にしてはならない。忘れなさい」

「やはりご存知な───」

「黙るんだ」



 老人の圧力がクローズの背中を押す。クローズの口角がせり上がる。



「マリー・エンバンスはここから始まった。この地からだ。僕はそれをずっと追っている。マリー・エンバンスはどこにいる? 今はどこの地で───」

「口にするなと言っただろう」



 いつの間にか病院の入口に差しかかっていた。老人はクローズの背に手を当てていたが、その手は離されていた。代わりに老人の目がクローズを睨む。その場に固まらせるほどの眼力が、クローズを硬直させた。巨大な山が眼前にそびえ立つイメージが、脳内に恐怖となって駆け巡る。大きな存在感の支配は、クローズの手足だけでなく呼吸さえ命令なしでは行わせない威圧を絡めていた。

 汗が頬を駆けた。



「誰に聞いたのかは知らないが、その名を二度と口にするな。そしてここに戻ってくるな。命だけの問題ではない。二度と関わるな」

「何かあるとご自分で仰っているようですね。マリー・エンバンスがこの地で出現したのは明白。先代の記者が記事をまとめていたのです。あなたはさっき、『この方も』と言った。()()()()と。以前に余所者が来た事実がなければ出ない発言だ。それはオルガンという名の記者ではありませんでしたか? 僕はその記者の書いた記事でマリー・エンバンスを知った。オルガンがここに来た記述もあった」



 老人はクローズを睨んだまま、小さく呟いた。傍にいたクローズでなければ聞こえない、ほんの吐息のそれに似た呟きだった。

 周囲では何人かの人間が行き来していたが、誰もが刺すような視線を2人に投げかけていた。それにたまらず、老人は周りを気にして足早に去っていった。クローズは俯いていたが、口角が最高潮に上がる事を止められなかった。



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