序章
淡い翡翠の色、と比喩されるその瞳は、本当に輝かしく美しかった。洗練されたその容姿の、最も大きな特徴といえば、誰しもその瞳を挙げる。
マリー・エンバンスは僅か10歳の少女だった。
彼女が州立の病院に入院したのは、まだ学業を営む時期にかからない、小さな存在の時だった。金色に流れる髪や血管が浮き出るほどの白い肌を携える少女に、看護師達は息を呑んだという。年配の看護師は彼女の姿に天使を垣間見た。それほど彼女は浮き世離れした美しさを持っていた。
笑顔を見せたなら本当に煌びやかな存在であったろう、そう誰もが口にした。
彼女は笑わなかった。口角を上げる仕草を母親の胎内に忘れてきたかのように、彼女は笑みという誰でも当たり前に行う行為を見せる事はなかった。ただ真っ直ぐ前を見つめ、まばたきを忘れた目からは、時折涙が零れた。彼女はそこに人形のように佇むだけの存在でしかなかった。
彼女の病名は明かされなかったが、脳に障害を持っていると噂された。病名を知る者は医院長とごく僅かな医師のみで伏せられていた。理由は分からない。
アーテイト州にある小さな町、コースタリアという場所が、彼女の存在していた町だとカルテに記述された。彼女を病院に運んできた白髪の老人がそう語ったからだ。
老人は黒の小綺麗なスーツにハットという姿で、人形のように笑わぬ少女を医院長に会わせた。ある日の出来事だ。
ふいに訪れたその2人と面会した医院長は、約2時間の面談の後、数名の主要の医師を集め、会議室に籠もった。会議は40分ほどで終わったが、会議室から出てきた彼らを見た看護師長は、物言わぬただならない雰囲気に、何やら嫌な胸騒ぎを覚えたという。
入院手続きをあっさりと終え、マリーは特別個室をあてがわれて、これから入院生活を開始した。老人は彼女を入院させ多額の金を置いていくと、それ以来姿を見せなかった。老人の名も、どこの誰だかも、少女とどういう関係だったのかも、誰も知らなかった。
マリーには専属で2人の看護師があてがわれた。彼女達は甲斐甲斐しくマリーの世話をしていたが、そのうち2人の看護師は周囲と接する事を徐々に少なくしていった。やがて2人の内の1人が病院を辞めると、もう1人は自宅で首を吊り、帰らぬ人となった。
代わりの専属看護師をあてがわなければならない。しかし誰もそれを嫌がった。美しいがただならぬ雰囲気のその少女に、誰も良い印象を得なかった。だから専属という形ではなく、皆で持ち回りとなり、それに看護師長も加わった。
それから月日が流れたが、看護師達は半数が新しい人間になっていた。皆、辞めるか姿を消すかしていたからだ。看護師長もとうにいない。
新たに看護士長として採用されたルーン・フレシアは、女性でありながら豪傑と比喩されるほど豪快で貫禄がある人だった。皆が良からぬ噂をする少女の世話を一手に引き受けた。
少女は相変わらず何も喋らず、笑みも皆無だった。食事はするが、人形が物を食べているような様に、食事時は誰も病室を訪れなかった。
ルーンは世話を引き受けたものの、少女に何かしらの特別なものがあるのを早くから感じ取っていて、それを気にしないようにはしていたが、ある日たまらずに少女に直接問いかけた。
「あなたはどこから来たんだい?」
「あたしの声が聞こえてるかい?」
「名前は? 名前くらい言えるだろ」
ルーン看護士長の問いに、少女が答える事はなかった。不思議なその存在は、ルーンに更なる好奇心を植え付けた。
ルーンは隣町から職場に通っていたが、何と少女と一緒にこの病室に泊まり込むと医院長に直談判した。
医院長は決して首を縦に振らなかった。しかしルーンは諦めず、少女の病状が回復する術は、誰かが傍にいる事だと訴えた。
あまりの懇願に、医院長はとうとうイエスと答えた。その日からルーンは少女の隣に簡易ベッドを置き、泊まり込んだ。
ルーン看護師長の姿が消えたのは、それから3日後だった。