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黄昏Delight  作者: 野兎症候群
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第五話 ロクム

 私は怒っていた。私の起源にはほとんどない怒りの感情が理不尽な暴力へと顕現しようとしていた。私は気が付いてしまったのだ。ロクムがこの世界に来てしまった理由に。たぶん、ロクムも気が付いている。旅は確実に終点に近づいている。終わりのきっかけと私たちは出会ってしまったのだった。

 同時に私は戸惑いを感じていた。同じような経緯は何度もなく観てきたはずなのに、自分が当事者に近い立場になったとたんに揺らいでしまったみたいだ。自分がすべきことは何なのか分からなくなっている。生まれて初めて決断すべき選択肢を得た私はしかし、正しい選択がどれなのか判断できずに振り上げたステッキをいたずらに停滞させることしか出来ないでいる。

 振り上げたステッキの先、ロクムが立ちふさがって守っている女がいる。私は動揺を隠すように冷たい目線で見降ろす。すべてはこの女が引き起こしたのだ。この女が。何処からか生まれた激情が私を駆り立てる。暗い感情がとぐろを巻いている。

 窓から差し込んできた黄昏がロクムを染める。私も同じ色に染まっている。夕日が部屋に暗さのグラデーションを作る。時間が静止してしまったように誰も動かず、誰も喋らなかった。じりじりと時間は経っていく。この重々しい時間が何事もないまま早く終わってほしいと思うけれど、それは不可能な話だった。何かを終わらせなければこの瞬間を終わらせることはできない。何事もないままやり過ごしてしまうにはこの女はロクムにとって猛毒すぎた。

「ロクムッ! その女から離れなさいッ!」慣れない激昂。

「待って! どうしてさ!?」

 ロクムは驚いたような、怯えたような表情になってロクムの戸惑った声を上げた。そんなことロクムには分かりきっているはずだ。至極簡単なことだから。しかし、私は答えるべき言葉は激情に紛れて見失ってしまった。私はただ女を睨みつけることしか出来ない。


* * * * *


「あっ、あれ……火事だ」

 背の高い木々に空が薄く覆われている暗い山道を赤いオープンカーで疾走していると、木々の向こうに細い煙が昇っていることに気が付いた。もくもくと昇る煙は灰色よりも少し黒い。風がないみたいで煙が少しずつ広がりながらまっすぐに昇っていく。ここからでは良く見えないけど、たぶん火事だ。僕の声に隣に座るターキッシュデライトは少し顔を上げて、そしてすぐに手元に目を戻した。

 きっとあの煙の根元には【夢羊】が居るのだろうと思う。最近は山道ばかりを走っていたせいかほとんど出会わなかったからずいぶん久しぶりだ。登るのが大変だからかは分からないが、【夢羊】は山にはほとんど居ない。夕焼けの世界に来てしばらくになるが、いまだに【夢羊】のことは分からないことが多い。

 山道はまだしばらく続いている。煙の発生源まで今から行ってみても到着する頃にはもう鎮火しているかもしれない。でも【夢羊】の移動はそんなに早くないし、少し急げば会うことが出来るだろうとアクセルを踏む。加速に伴う向かい風でシャツの襟が揺れた。

「行ってみるね」

「ん」ターキッシュデライトは短く返答する。

 エドと出会ってからターキッシュデライトは少し元気がなくなった。いや、元気がなくなった、と言うよりこれまでも静かに何かを考えている時間が多くなったのだ。僕が運転している最中は流れている景色をモノクルに反射させながら、もっぱら本を開いて別のことを考えているみたいだった。いつまでも同じページを開いているから、たぶんそうだと思う。

 たまにエドとの一件があった後、僕とターキッシュデライトはたまに手を繋ぐようになった。歩いているときに、運転中に、寝るときに。本で読んだ恋人同士みたいだけど、僕とターキッシュデライトのそれは少し違う行為のような気がする。彼女の冷たい体温は何も語らない。何を考えているのだろう? と僕はいつも疑問に思うけど、訊くのはなんだか無粋な気がしたから、いつも静かにしていた。

 真っ直ぐな山道を走りながら、僕はちらちらと助手席を盗み見る。

 ターキッシュデライトは少し俯き加減で貸してあげた文庫本に目線を落としている。細い繊細な指が風で紙が勝手にめくれないように紙の端を押さえている。自動車の振動と向かい風で髪が不規則に揺れて、ある拍子に長い髪の房が顔の横に流れた。僕はドキリとする。少しの戸惑いを憶えながら目線を前に戻した。

 山道は下りに差し掛かっていた。少し角度の急な坂だ。僕はギアをセカンドに入れてエンジンブレーキを効かせた。赤いオープンカーはウィーン、という小さな音と振動を感じながら山を下って行く。


* * * * *


 山道を抜けると、眼前に草が点々と生えているだけの荒地が広がっていた。道路は荒地の淵をなぞるように伸びている。道路から外れた荒野の先、煙の柱の根元には大きなマンションが建っていた。遠目からだとよくわからないが、上の方の階から煙が上がっているようだった。火元はあそこだ。ギアを上げて加速して荒野を一気に駆けに抜ける。

 一、二、三……。マンションから少し離れた場所にオープンカーを止めて見上げて数えると六階立てだと分かった。夕日を反射する上品なブラウン色の壁面、立派な大理石作りの玄関、その奥に見える銀色の郵便受け。雰囲気からすると高級マンションなのかもしれない。とても洗練された趣がある。

 ……趣はあるのだが、閉じた玄関の自動ドアは僕らを中に入れてくれるのだろうか? 少し不安になるが些細な疑問の確認は後にするとして、目線を煙の発生源、五階の一番右端の部屋に向ける。火元はあそこにあるのだろう。煙の筋は山道で見たときよりもずいぶん細くなってきている。ちょっとした小火程度の火事だったようだ。今から行けば中を覗けるかもしれない。

 僕はハンドブレーキをかけ、オープンカーのエンジンを切って運転席から降りる。そのまま入り口まで行こうと足を進め、振り返る。助手席では相変わらず手元に目を落としたままのターキッシュデライト。目的地に着いたことに気が付いてないようだ。僕は助手席まで戻る。

「はい、ターキッシュデライト」僕は少し前に読んだ小説の青年男爵を真似して助手席から降りるターキッシュデライトに右手を差し伸べた。慇懃な感じに振舞おうと思ったけど地声がちょっと高いせいであんまりダンディな感じにはならなかった。

「ふふう、なにそれ? もう着いたのね」そう言いながら曖昧に笑って彼女は僕の手を取って車を降りた。僕らは手を繋いだままマンションまで歩いて行った。

 入り口の自動ドアは電気が消えていたが、自動ドアを手で横に引っ張ると少しの抵抗感と共に簡単に開いた。ロビーにはカギのかかった管理人室と郵便受け、海外土産みたいな奇妙な置物、それとエレベーター。僕は五階に住む人用の郵便受けを見た。高橋、佐々木、大野、中村……と名前が続いていき、一番右には嘉納という名前があった。火事があったのは嘉納、という人の部屋だろうとあたりをつけた。

「ちょっと高いけど電気は止まっているだろうし……階段で登るしかなさそうだね」

「そうね。あっちよ」ターキッシュデライトの指の先を見るとエレベーターの隣に非常階段と書かれた扉があった。

 非常階段を上って部屋のドアを開ける頃には不思議と先ほどまで外まで漏れ出していた煙は無くなっていた。部屋の中は内装の一部が焼け焦げた臭いと焼け残りの何かがパチパチと鳴る音と、……【夢羊】だけが残されていた。


* * * * *


 【夢羊】は家が火事になったという過程をよく分っていないみたいに焼けた部屋の中に不自然なほど日常的な様子でこちらに背を向けて立っていた。窓の外でも眺めているのだろうか。フローリングの床の上に立つ白い素足、紺のスカート、レースの付いた緑色の洋服、細い首筋、その上にある白髪交じりのショートヘア。大体四十歳くらいの年齢の女性だろう。僕は後姿を見てそう思った。入り口からはその表情は見えない。

 彼女にはエドみたいな雰囲気はないからたぶん普通の【夢羊】で、ここは彼女の家で、そして彼女が火事の原因なのだろう。【夢羊】に関わる建物は大体直接的に彼女たち自身に関係するものだったし、なんとなく彼女が他人の家に放火する人間に見えなかったから僕はそう推測した。

 女の【夢羊】の周囲には焼けこげてはいるが色々なものがあった。折り畳みできる小さな車椅子や家事の前には純白だったと思われるカーテン、重そうなガラスの灰皿、床に落ちた手足の無い古い人形。人形と火事の後を除けばなんの変哲のない家庭の風景だったが、何故か背筋が冷たくなるのを感じた。

 ちらりと隣を見るとターキッシュデライトがいつもと違う険しい表情をしていた。そのことが僕をより不安にさせる。彼女は何かに気が付いているようだけど、説明することないまま僕の手を出口に向かって引く。部屋から出ようしているようだ。何処かを調べに行くのだろうか? 別に後で来ることも出来る、と心の中で言い訳して、不気味な気配のするこの部屋から出るために僕はターキッシュデライトについていく。

 部屋を出て振り返る。【夢羊】は相変わらず窓の外を見つめている。そのまま廊下を歩きだそうとして、僕はあの小学校の校舎で感じた胸の奥がチリチリと焼けるような感覚を憶えて、立ち止まる。音楽室で見た古い僕の記憶。あの時掴みかけた真実の切れ端がこの部屋に漂っている気がした。あの朽ちて無人になった後の校舎とは違って、ここには【夢羊】が居る。僕が思い出せない記憶を、目の前の【夢羊】はもしかしたら持っているかもしれない。

 僕は立ち止まって、ターキッシュデライトの手を放した。彼女の驚く顔を見るのが怖くて僕は目線を室内の【夢羊】に戻す。

「ロクム」ターキッシュデライトが少し咎めるような声色で僕の名前を呼ぶ。でも僕は彼女の手からするりと抜けて【夢羊】に近づいた。そうしなければならないような気がしたからだ。

「観ていかないの?」僕は逆に訊いた。

「……」ターキッシュデライトは口を結んで難しい顔をしている。

「ここは……前に見た音楽室と同じ感じがするんだ。なんていえばいいのかよくわからないけど、……何かある。たぶんあの【夢羊】が……」

「……知って、辛くなることもあるかもしれないわよ? それでも観てみるの?」ターキッシュデライトは確認するように言う。

「うん……。ターキッシュデライトはここのこと、何か知っているの?」

「いいえ。……でも、あまりいい予感はしないわ、あの【夢羊】」ターキッシュデライトは目を細めて【夢羊】を睨んだ。

 出会った【夢羊】を観ないまま去ることはこれまでなかったけど、今回に限ってターキッシュデライトは目の前の【夢羊】を避けようとしている。もしかして、本当はこの【夢羊】が誰なのか知っている? 僕は彼女が何かを隠しているのではないかという猜疑心が沸き上がってきた。

 胸にある違和感は無くならない。彼女の態度とチリチリした感覚が真実を確かめなければならない、というような使命感のような衝動に火をつけて燃え上っていく。

 部屋に戻って、近づいていくと【夢羊】が振り返った。ただの偶然で別に僕らに気が付いたからそうしたわけではないだろうけど、僕は少し驚いて足を止めて、そして焼けこげた部屋を背景に【夢羊】の顔を見て「あれ?」と思った。

 思った通り、彼女は壮年の女性だった。夕日に照らされた顔には生気がなく、どこかに大切なものを置いてきてしまったような無表情がむくんだ顔に張り付いている。彼女の背後には夕日が差し込む窓、少し焦げてしまった白いカーテン、木目模様のフローリング。

 ふいに耳の奥でカナカナカナ……、と蝉の鳴く声が聴こえた。それと同時に僕の頭には別の情景が映っていた。

「知っている……」僕は無意識に呟く。

「どうしたの?」

「僕、知っているんだ。この風景……。お母さんが……お仕事から帰ってきて、僕は歌を歌っていて、蝉がうるさくて、それで僕は窓を閉めて……」頭に浮かんだ情景は今よりもずいぶんと低い位置に目線があった。

「ロクム……?」ターキッシュデライトの不審げな声が聞こえるが、僕の目は別の風景を観ていてその表情を見ることはできない。

 僕は帰ってきたお母さんに気が付いてウキウキした気分で歩いて行こうとする。目線の先、玄関に立つお母さんの顔は目の前に居る【夢羊】のそれよりも一回り若いように見えた。

 別の光景を観ながら僕は知らず知らずのうちに足を踏み出していた。そして、何かに手が触れる感覚。誰に触れたのか認識する間もなく、次の瞬間には【夢羊】の記憶の風景、夕暮れに染まる部屋に僕は立っていた。僕の見ている風景と【夢羊】の記憶の風景が融合する。


* * * * *


 スイミングスクールから帰ってくると部屋は夏の日差しに熱されて蒸し風呂のようになっていた。立っているだけで額に汗の粒が出来るほどだ。お母さんと僕のスリッパだけしか入っていないわりにずいぶん大きな赤いカラーボックスから自分の分を取って玄関を抜けて行く。

 リビングの真ん中には木製の四角いテーブルと椅子が三つ。テーブルは不必要に大きく、リビングを窮屈な印象にしていた。リビングの左にはキッチン、右には小さなブラウン管のテレビがあって、正面から鋭い夕日が差し込む窓。

 僕は空気を入れ替えようとリビングの窓を開けたが、カナカナカナ、と鳴く蝉の声が五月蝿かったからすぐに閉めてクーラーをつけた。電気を付けようかとも思ったけど夕日が明るかったからやめておいた。無駄な電気を使うと良くないとテレビのお姉さんが言っていたからだ。でもこんなに暑いんだからクーラーは大目に見てくれるだろう。

 日の明かりで照らされているせいで部屋には不均一な暗さのグラデーションが生まれていた。僕は昔、それが嫌いだったことを思い出す。部屋には誰も居ない。お母さんはまだパート仕事から帰ってきていないようだ。

 窓には夕陽に反射する僕の姿が映っている。今の僕よりも二回りも小さな少年の姿だ。幼い少年のあどけない顔。夏休みにプールに行き過ぎたせいで痛んで栗色っぽくなってしまった髪の毛。細い首。白い半袖のTシャツ。茶色でポケットがたくさんついているショートパンツ。

 僕だ。顔は幼かったが、それは夕焼けの世界に来たときよりも、もう少し幼い僕自身の姿であることはすぐに分かった。同時に僕は【夢羊】の記憶を観ていることを悟った。あまりにも自分の見ている風景が自然で、たった今になるまでそのこと分からなかったのだ。

 他人の記憶の中に自分の姿を見つけたことに僕は落ち着かない気分になる。タイムトラベラーは過去を変えたらタイムパラドックスの問題に直面するらしい。どこまでもリアルで客観的にも主観的にも再現された過去にいる僕はどうなのだろう? 

 幼い僕の居るこの記憶の持ち主、それは間違いなく僕のお母さんだ。ここに来る前にちらりと見えたお母さんの幻影がその確信を深める。特に感動はない。どちらかと言うと忘れていたことを思いだしたような、腑に落ちたような気分だった。

 これからここで何かがあって、そして僕は夕焼けの世界に行くことになったんだ。そんな予感がする。だからきっと、この記憶の結末は僕とターキッシュデライトの旅の始まりに繋がっている。それと同時に旅の終わりにも。僕はこの部屋で次に起こる出来事に身構えてじっと待つ。

 記憶の主はまだ帰ってきていない。じりじりとした時間が経つ。クーラーの効きが悪くて部屋は全然涼しくならなかった。

 部屋にはチクタクチクタクと時間を刻む時計の音とカナカナカナと鳴く蝉の声が響いている。

 僕のじれったい気持ちとは無関係に幼い少年は子供部屋のカバンから歌集を取り出してリビングの椅子の一つに座った。テーブルに置いた歌集の表紙には見覚えのある落書き。少年の小さな手がパラパラとページをめくっていく。夕日が右から僕の目を焼いた。

 少年の手は他よりも少し汚れたページで止まった。五十六ページ。グリーン・グリーン。軽やかで明るい調子のメロディの残響が耳の奥で響いた。

 少年は小さな声で歌詞を口ずさむ。伴奏がなくてもきちんとリズムをつかんで歌えている。随分と練習しているみたいで歌詞はほとんど見ずに歌っていた。僕は以前見た音楽室の記憶よりも歌集が汚れていることに気が付く。

 ガチャ。歌うことに夢中になっていた少年の背後で玄関ドアが開く音がした。幼い僕は振り返る。そこにはやはり幻影に見たお母さん。

「未夢? もう帰ってきているの?」玄関から声が聞こえる。

 未夢。きっとそれが僕の失われていた本当の名前なのだろう。でも何となく実感は湧かない。ここにきてずいぶん経ったせいかもしれない。まるで他人の名前みたいな響きに聞こえた。

「お母さん!? ちょっと待ってね!」未夢と呼ばれた少年は机の上に広げていた歌集を取って大慌てで子供部屋に仕舞ってリビングに戻ってくる。

「そんなにバタバタして、どうしたの? 何か悪いことでもしてた?」疲れて掠れた声が近づいてくる。

「ううん、何でもない! 今帰ってきたばかりだから、いろいろやっていただけ!」

「そう……」

 短い廊下を通ってお母さんが顔を出した。少年はそれを見上げている。大人と子供の体格差は歴然としていて、どれくらい成長すれば大人と同じ大きさになるのか、今の僕にも想像できなかった。

 お母さんの顔は声よりも更に疲れ切っていて、生気に欠けていた。額には汗で髪が張り付き、眉間には深いしわが寄っていて、疲労と相まって彼女の姿をずっと老けた印象にしていた。お母さんは力なくリビングの机に荷物を置いた。

 これまで幾度となく観てきた【夢羊】の記憶がこの先の悲劇を予測して警鐘を鳴らす。待って! と僕は声を上げようとするがその言葉が夕日に照らされた部屋に響くことはなかった。少年――未夢が口を開いた。

「お母さん、僕、新しい歌を上手に歌えるようになったんだよ」

 未夢の弾んだ声に、しかしお母さんの反応は薄い。仕事先で何か嫌なことでもあったのかもしれない、と僕は思った。未夢は「そうなの? 歌ってみて?」と言われるのを待っているみたいにモジモジとしていたがお母さんは重い溜息をついて机に寄りかかっていて未夢の方を見ようとはしなかった。

 未夢は意気揚々と歌おうとしている。最近のお母さんは元気がなかったからだ。何年か前、お母さんは未夢が学校で憶えてきた歌を歌うと喜んだことを未夢は憶えていた。だから人一倍頑張って練習してきた歌を歌おう、そんな思考が未夢から流れ込んでくる。しびれを切らした未夢が勝手に歌いだすのに時間はかからなかった。未夢は歌詞をすっかり覚えるほど練習した歌を口ずさみ始めた。

 グリーン・グリーン。

 歌詞は一家の分裂を題材にしていたが、歌は明るく前向きな内容だ。僕は歌を聴きながらこの先にあるはずの悲劇に繋がるきっかけを探ったが、……何も見つからない。しかし、歌が五番目に入ったとき、僕はうっすらと予感を感じて背筋が冷たくなった。

「その朝、パパは出かけた、遠い旅路へ、二度と帰ってこないと、ラララ、ぼくにもわかった」

 歌詞に乗ってくるメッセージ。居なくなったお父さん、残されたお母さん、それと少年。

 僕は急いで未夢の視界に映る部屋をよく観察した。お父さんの所在を探すために。しかし、ネクタイも背広もスーツケースも見当たらない。どこか別の部屋にあるのだろうか? ここからでは確認できない。そういえばさっき見た玄関に未夢とお母さん以外のスリッパはなかった気がする。推測がどんどん嫌な方向に進んで行くが、否定する根拠は一向に見つからなかった。予感が確信に変わっていく。

 未夢の視界の中でお母さんはゆっくりと振り返った。目には暗い感情。未夢はお母さんの様子の変化に気が付いていない。歌うことに集中していて不穏な空気の流れに気が付いていない。そもそも未夢はその歌の意味を理解していないのだ。ただただ喉を震わせて流れるメロディが面白くてのんきに歌っている。

恐らくその歌詞は未夢――つまり僕とお母さんの現状を揶揄しているのだ。お父さんの気配のない部屋、仕事に疲れて帰ってくる暗い目をしたお母さん、何も知らないでのんきな少年。

 お父さんとお母さんがどうなってしまって今に至っているのかは分からない。しかし、お母さんはきっと、今つらくて、危うい状況だ。とてもまずい。色々なものを失って、労働に忙殺されて……余裕がない。多くの【夢羊】がそうであったように、きっとお母さんも……。

 未夢の歌は別に直接的な原因じゃなかったはずだ。とても些細な原因だ。でも、ぎりぎりまで追い詰められているお母さんに最後の一押しをしてしまうことはできてしまった。未夢を見下ろす暗い目が僕の推測を肯定している。――危ない!

 バシンッ、という音と共に未夢は叩かれる。加減のない強い力で叩かれたせいで未夢は床に転んでしまう。七番に差し掛かっていた歌は途切れて、重たい沈黙がクーラーのかかりきらない暑い部屋に落ちた。

「お母さん……? どうして……?」倒れたまま未夢は泣き出しそうな声でお母さんを見上げて呟いた。

「未夢……あなた、本当は分かっていて……! どうして、あなたは私をいつもいつも……、私をッ……私を怒らせたいのねッ!」

 お母さんは未夢に馬乗りになって手を振り上げた。未夢は何かを叫んでいたが僕は聞こうとしなかった。聞かなくても未夢の気持ちは分かったからだ。聞きたくも、なかった。

 振り下ろされる拳が未夢の顔を打ち、その反動でゴッ、ゴッとフローリングに頭をぶつけた。未夢は大人の力に何も為す術がない。

 その姿を未夢の目から見ていた僕は悲しい気分になる。別に誰も悪くはない、お母さんも悪くはない。ただ間の悪い偶然が続いただけなのだ。ただそれが、僕の旅の始まりに繋がって、ここに繋がる。続いて行った偶然の連鎖が今、輪になったような気がした。

 気が付くと何処から持ってきたのか、小さなお母さんの手には不釣り合いに大きなガラスの灰皿。

 僕は次の瞬間訪れる衝撃に身構えて――。


* * * * *


「もういいわ……!」

 硬い声が響いた。驚いて意識を後ろに向けると黒く揺らめくステッキを床に突き刺したターキッシュデライト。ステッキの先を起点に世界に亀裂が走るのが見えた。世界がまるで硝子細工のように割れてしまったみたいな色彩の錯覚。

 気が付けば僕らは焼けこげたマンションの一室に戻っていた。【夢羊】の記憶から抜け出してきたのだ。目の前には相変わらず窓の外を見ているお母さん。

 いつの間にか傍らに立っていたターキッシュデライトを見ると左目には暗い感情。僕はここにも間の悪い偶然が続いているような気がした。

 いつの間にかお母さんの【夢羊】は歌を歌い始めていた。口がほとんど開いてないせいでよく聞かないと鼻歌のようなメロディしか分からないけど、確かに歌を歌っていた。グリーン・グリーン。僕にはお母さんが忌むべきその歌を歌う理由が分からない。色々な情報が交錯していて頭が混乱しそうになる。

 ターキッシュデライトが砕いた【夢羊】の記憶の先に何があってここに繋がったのか、詳しいところは分からないが何となく想像がついた。きっと僕は眠ってしまったんだ。そして間もなくお母さんは病んだ。眠った僕が【夢羊】になるわけでもなく夕焼けの世界に来た理由は分からないけど、たぶん始まりは、そんな悲劇からだったのだ。

 僕がターキッシュデライトに連れられて旅をしている間、お母さんに何があったのか僕には想像することしか出来ない。

 部屋にあった折り畳み式の車椅子はきっと眠ってしまった僕のためのもので、……手足のとれた古い人形はなんだろう? 

 思考が浮かんでは沈んでいる僕を置いて、ゆらり、と視界の隅でターキッシュデライトが動くのが見えた。視線を向けるとターキッシュデライトは振り上げたステッキをぼんやりと歌っているお母さんに――。


* * * * *


「ロクム! その女から離れなさい!」

 僕はとっさに二人の間に身体を滑り込ませていた。目の前にはブラックホールのような漆黒の揺らめき。ターキッシュデライトがとっさにステッキを止めてくれたから助かったけど、逃げ場のない凶器への恐怖で僕は立ったまま重力の鎖に縛られたように動けなくなる。身体はどうしてかブルブル震えてしまってじっとしていることが難しかったけど、動けない。これまで聞いたことがないほど鋭いターキッシュデライトの声が僕を咎める。

「待って! どうしてさ!?」

 僕は訊いた。でもターキッシュデライトが怒っている理由は彼女に訊かなくても分かっていた。未夢、小さな僕をそう呼んだお母さんの【夢羊】は僕を灰皿で殴って……。ターキッシュデライトも僕が夕焼けの世界に来た理由を悟って、そして怒ってくれているのだ。僕のために。僕自身は彼女のそんな激しい感情に戸惑ってしまっていて、自分の境遇が悲しいだとか、悔しいだとかいう気持ちは浮かんでこなかった。

 背後ではお母さんの【夢羊】がのんきな調子で歌っている。目の前ではターキッシュデライトの腕の動きに合わせてステッキの黒いシルエットが揺れている。板挟みだ。

 僕も、たぶんターキッシュデライトもどうすればいいのか分かっていない。そもそも、この先の出来事にはただ一つの正解なんてなくて、決断があるだけなのだろうけど、僕らは「どうすればいいのか」と正解のない問いの前に足踏みをすることしか出来ない。僕も彼女も決断することには慣れていない、当事者であることに慣れていないからだ。

 ターキッシュデライトのステッキの先端が宙の一点でピタリと止まる。彼女は初めて聞く早口で僕をまくし立てる。

「ロクム、あなたはその女のせいで何もわからずにこの夕焼けの世界に囚われてしまったのよ。ロクムはやっぱり他の【夢羊】たちとは違かった。ここにいることはあなたの選んだ運命じゃない! この女の運命に引きずられてしまっただけだから、」

「待ってよ! そうかもしれない。そうかもしれないけど、お母さんは、」

「その【夢羊】があなたの母親でも……いいえ、母親だからこそ許すべきじゃないわ。大人には大人が果たすべき責任がある。母親にも母親だからこそ果たさなければならない責任があるし、やってはいけないことがある。これまで、やってはいけないはずのことをやって人を傷つけて、自分を傷つけてここに来た無責任な【夢羊】たちを何人も観てきたわ。今までは他人事だったし、何しても報われることなんてなかったから、何もしなかった。でも……この【夢羊】は、許さないわ」

「で、でも!」

「いいの。そこを退きなさい、ロクム。私が終わらせてあげるから」冷静に響く声はしかし確たる激情を含んでいる。足が震えた。

 感情的な言葉は何処にも受け取られないまま勝手気ままに部屋に拡散して消えていく。収拾は付きそうにない。そのことが余計僕を惑わそうとしてくる。震えているせいでうまく反論の言葉が出てこない。顔を振って雑念を振り払う。ターキッシュデライトの怒気に押されながら、ふいに僕は胸に膨らむ違和感に気が付いた。

「違うんだ……そうじゃない。僕らは……何か大切なことを忘れている」僕の震える声が少し、場に満ちた感情を止めた。

 僕は息を大きく吸い込んで、苦しくなるほど息を吐いた。心を落ち着ける。思考が頭を巡りだす。これじゃあいけない。何が? 自分の都合がいいように話を脱線させていたことが、……だと思う。だってこの偶然の連鎖の当事者は僕であってターキッシュデライトではないんだから、決断する役割は彼女じゃなくて、僕だ。僕らじゃなくて、僕なんだ。

「……」

 ターキッシュデライトは僕の次の言葉を待っている。きっと彼女もどうすればいいのか分かっていないからだ。ただ、これではいけないという使命感と激情が彼女を動かしていただけなのだ。僕は思考のまとまりを待たないまま言葉を紡ぐ。

「最初から……この旅の始まりは、僕の問題だった。自分で解決しなきゃいけない問題だったんだけど、これまでずーっとターキッシュデライトに頼っていた。情けないけど、僕は子供だったから」

「……そうね。最初は右も左も分かっていなかったし、エドみたいな侵入者かもしれなかったから、一緒に旅を始めたわ」

 旅の始まりを思い出す。変わらない夕焼けの風景。バス停のベンチ。

 夢の中でターキッシュデライトはあのベンチに座って泣いていた。自立できないペンギンのぬいぐるみもそこにいた。

 今までの僕はあの夢の中で居た。ずっとずっとターキッシュデライトに寄りかかって自分から歩き出さないままずっと居た。僕は今まで夕焼けの世界に囚われてしまったんだと思っていた。だけど、あるかもしれない出口を探すために動き出すこともしなかったのは、自分自身だと気が付いた。

「うん。それで何とかここまでたどり着くことが出来た。その間に随分と時間が経って、僕も少しくらいは成長して大人に近くなったと思う。だから、」

 言葉を区切って、意思を固める。

「だから、そろそろ僕は自分の足で動き出さなきゃならないと思うんだ。今までの僕は臆病でターキッシュデライトと出会ったバス停のベンチから離れることが出来なかったけど、もうあんなに嫌だった何もできない子供の時代はもうそろそろ終わりにするべきなんだ」

 僕の口から出た声には強い意志がこもっていた。身体の震えもいつの間にか止まっている。大人になると苦しくても嫌でも、自分で解決しなければならないことがある。今がそれなのだ。それが大人になるということによって得られる権利だし、義務なのだ。或いは、夕焼けの世界が僕にくれたチャンスなのかもしれない。そんなのは結局自己満足の理由付けにすぎないだろうけど、そうやって狡く都合良く考えれば前に歩き出せることもある。僕は【夢羊】じゃないから、いつまでも停滞する必要はないんだ。

 僕はターキッシュデライトと向き合う。彼女は相変わらずすべてを消し去るステッキを掲げている。光の加減か、モノクルを通して彼女の右目が見えた。その顔には先ほどまでの激情どこかに行ってしまったようだった。困ったような表情で僕の目を見ている。

 ターキッシュデライトは僕を救おうとしている。彼女がこれまでの旅の中で幾度となくそうしてきてくれたように。僕は愛おしさを憶えて、踏み出した勢いでターキッシュデライトを柔らかく抱きしめる。彼女は驚いたように身体を強張らせた。少しの間そうして、僕は彼女の右手からステッキを奪う。

「あっ」驚きの声。

 僕は手には何かを握っている感覚はないが、僕の手の動きに合わせて黒い概念を揺らすことが出来たから、たぶんちゃんとつかめている。

「……ごめんなさい、ターキッシュデライト。でも、」

「ロクム」名前を呼ぶ声。

 ターキッシュデライトから二歩離れて、そして背後のお母さんを振り返った。区切った言葉の続きを紡ぐ。

「これは僕が選ばなきゃいけないんだ」

 ステッキが揺れた。


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