幕間 ターキッシュデライトの夢
ターキッシュデライトの夢を観た。
僕はそれが夢だということにすぐに気が付いた。ターキッシュデライトが泣いていたからだ。声はないけど、無表情な左目からは涙がとめどなく流れている。彼女は大人で、大人は強くて泣かない。だから彼女が泣いているこの風景は夢だと僕は考えた。
彼女の右目はよく分からなかった。モノクルが夕日を反射していたからだ。夢の中でも世界は相変わらずの黄昏色である。未だに僕はこの世界に囚われている。
夕日がゆっくりと動いて影の位置を変えている。ここは時間の進みが速いみたいだ。ターキッシュデライトの顔にできた陰影はまるで仮面のように彼女の表情を覆い隠している。
ターキッシュデライトは最初に出会ったバス停のベンチに座って無表情に泣いている。あの時、僕は途方に暮れてそこに座っていたけれど、今は彼女が悲しげに座っている。僕はそれをどこか遠くから見つめていた。一体何を悲しんでいるのか、見当もつかないから、あの時彼女が僕を助けてくれたように僕が彼女を助けてあげることはできないでいた。人を助けるのは難しいということを僕は初めて知った。
ふと気が付くと、ターキッシュデライトの隣に実寸大ほどのペンギンのぬいぐるみが居た。大きなペンギンだ。白と黒と黄色の模様が体の真ん中から左右対称に広がっている。本に載っていたキングペンギンという種類のペンギンに似ている気がする。ぬいぐるみは足元が不安定なようでうまく自立できておらず、ターキッシュデライトに寄りかかるようにして何とか立っていられているようだった。こんな大きなぬいぐるみが居たのに、なんで今まで気づかなかったんだろう? 僕はやはり夢だと確信する。夢は脈絡を超越するのだ。
ペンギンは愛らしい姿とは裏腹に真っ黒な丸い目は寂しそうな色に見えた。自立できないペンギンのぬいぐるみにも人知れない悩みがあるのかもしれない。ターキッシュデライトとペンギンのぬいぐるみはまるで悲しみに耐えるようにお互いに寄り添っているみたいだ。
この世界に来てからずっと一緒に旅をしてきたけど、ターキッシュデライトの夢を観るなんて初めてのことだった。そもそも夢自体、僕はほとんど見なかった。夢の起点となる過去の記憶がほとんどなかったからかもしれない。人間は寝ている間に記憶を整理している、と昔読んだ本に書いてあった。僕の場合、整理するべき記憶がほとんどないから夢を見る必要がないのだろう。
いや、それはそれで不思議なことのようにも思える。だって、昔の記憶はないとしてもこの世界で観てきた記憶は蓄積されているはずなのだから。夢をほとんど見ないのはまた別の理由があるのかもしれない。僕は頭を働かせて考えようとするけど、頭に靄がかかったように思考は先に進めず、昔見た数少ない夢の記憶が勝手に頭に浮かんできてしまった。僕は思考の流れに抗えない。思考は支流へ流れる。
たまに見る夢は大抵【夢羊】たちの夢だった。夢の中の【夢羊】たちはみんな嬉しそうな、幸せそうな表情を浮かべていた。僕がこれまで観てきた彼らは悲しい記憶と明るい記憶の狭間に囚われていたけど、記憶に残っているのは明るい表情ばかりだった。僕の記憶はとても自分勝手だ。
自立できないペンギンのぬいぐるみはターキッシュデライトが身じろぎして重心がずれたのか、ふいに半回転して僕に向き直った。悲しい色を宿した黒い目が僕を捉える。意思なんてない無機物のはずなのに落ち着かない気分になる。
ドンッ、と遠く後ろの方で重いものが床に落ちる音がした。でも僕は振り返れない。自立できないペンギンのぬいぐるみの目が僕を捉えているからだ。夢と分かっていても僕は動けない。黒い目。
ターキッシュデライトは相変わらず泣いている。僕の位置からはよく見ることはできないけど、たぶんそんな気がした。この夢は悲しい空気に満ちている。まるで【夢羊】の記憶の中にいるみたいだと、僕は思った。
参ったなー、と頭を掻いたときに目線は変えられないけど、身体は自由に動かせることに気が付いた。特に何をすればいいか分からなかったけど、僕は転ばないようにゆっくりとターキッシュデライトに近づいた。シンプルな夢の中でできることなんてそれくらいしか思いつかなかったからだ。
ターキッシュデライトの前に立つ。手を伸ばして彼女の顔に触れた。かすかな湿り気を感じて僕はドキリとした。彼女は僕が触れていても気にならないようで表情を変えない。僕は彼女に干渉できないのだろうか? 僕は寂しくなって、ターキッシュデライトを抱きしめる。
手にかすかなぬくもりを感じて、そして目が覚めた。