表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄昏Delight  作者: 野兎症候群
6/9

第四話 柵

 ロクムと旅を始めてからもう三年経ったらしい。私はもう夕陽の回転した回数なんていちいち数えていないから、彼が言った三年という数字を信じるしかできないけれど、彼が言うにはそれだけの時間が経ったということだった。数字を聞いても実感はない。

 私は彼と相も変わらず旅を続けている。旅の終点はまだ見えない。と言っても、私が終点の形を知らないだけで、実はすぐ近くにあるのかもしれないけれど。なんにせよ、夕焼けの世界はお気に入りの赤いオープンカーのフロントの向こうにずっと続いている。

 三年という数字は私にとってあまり意味はなかったけれど、その間に気が付けばあんなに小さかったロクムの身長はもう私の背を少し超えるくらいまでになっていた。顔つきはまだ幼さを残しているけれど、もう子供という言葉はあまり似つかわしくない体つきだ。彼は日々成長して、変化していく。数字と違ってロクムの変化は私に時間の経過を実感させてくれる。それがいいことなのかどうかは私には判断つかなかった。

 そう、成長と言えばちょっと前に服を探し回ったことを思い出した。身体の太さはあまり変わらなかったけれど、身長がずいぶんと伸びたからロクムの体形に合った服を見つけなければならなかったのである。ロクムは気にしていないようだったけれど、いつまでも半袖短パンの子供服のままというのは良くない気がした。それでたまたま見つかったさびれた大型ショッピングモールで衣服を調達することにしたのである。

「どんな服がいいかしら?」広いフロアに立ち並ぶマネキン達を見渡しながら私が訊くと、

「ターキッシュデライトみたいな服はあるかな?」なんてロクムは言ったりしていたけれど柔らかく断った。バーテン姿が二人、オープンカーに乗って旅をしている姿を想像して何とも滑稽に思えたからだ。そもそもバーテンが自動車を運転していること自体ナンセンスだけれど、そこには目を瞑っておくことにした。

 結局、ファッションセンスなんて私には分からないから、ロクムの体形に似たマネキンの服装を参考にしてワイシャツと長ズボンを何種類か調達した。選んだ服の一着に着替えさせるとロクムは落ち着いた雰囲気の青年になった。服を変えるだけでずいぶん印象が変わるものだと人知れず感心した。

 ロクムは姿見に映る自分の姿が気に入ったのかニコニコと嬉しそうな顔をしている。服が変わってもロクムはいい子のままのようだ。私は少し安心した。

 衣服の調達も終わって、そろそろオープンカーに戻ろうかと思っているとロクムがクルリとこちらに向き直って訊いてきた。

「ねえ、ターキッシュデライト。ターキッシュデライトは何か服を持って行かなくてもいいの? 女性向けの服もいっぱいあるみたいだけど?」

「服、ねぇー……」

 藪から棒、と言うほど突拍子もない提案ではなかったけれど、私はちょっと困ってしまった。私一人で旅をしている時には服を変えることなんて考えてもみなかったからだ。私は変化しないからその必要がないのだ。夕焼けの世界と同じ恒常性が私の中にあるせいだろう。私にはロクムのような変化はなく、ただ記憶の堆積だけがある。

「ロクムと違って成長はしないから体形も変わらないし、それにこの世界では服は汚れないから……、私の分の替えの服を持っておく必要はないわ」と答えるとロクムは、

「ターキッシュデライトは現実的だなー……。別に必要なくても持っておけばそのうち着ることも出来るじゃないか。それに、美人なんだからちょっとくらいお洒落してみてもね、僕はいいと思うんだけどなー」と言って引き下がる気配がなかったから仕方なく私の服も探してみることになった。それにしてもロクムは美人がどういうものなのか理解しているのだろうか?

 婦人向けのコーナーに行くと、紳士向けの服に比べて何倍もの衣服が陳列されていた。バラエティも様々だ。色彩豊かな服は不思議と色褪せていない。慣れない華やかな雰囲気の空間に腰が引けてしまったけれどロクムは私の手を引いて試着室までグイグイと引っ張っていく。私は鮮やかな色彩の迷いの森を歩いているような錯覚を覚えた。一人だったら立ち入ることもなかったであろう場所の奥へと手を引かれていく。

 壁際に設置されている試着室の前に着いた。私が何をすればいいのか見当もつかないままどうしようかと途方に暮れて立っていると、ロクムは焦れてきたのか近くの棚から服を持ってきて私の前に出してきた。

「これとかどう? これもいいかな? ターキッシュデライトは髪が長いからワンピースとかも似合うかなー」

 ロクムは色とりどりの服を引っ張り出しては見せてくるけれど、ファッションのことなんてこれまで考えたこともなかったからどれが私に似合っているのかなんて判断がつかなかった。必要に迫られないと考えることもない。私のそういう性格は人間でいうところの【ものぐさ】という奴なのだろう。だから仕方なく、

「ロクムが私に似合うと思うものを選んでくれたらいいわ。お洒落のことはよくわからないから」とロクムに丸投げしてみたら、

「僕にもお洒落のことはよく分からないんだけど……、じゃあちょっと試着してみてよ! そうすれば似合うかどうかはっきり分かるから! そうしよう? まずはどの服から試してみよう……?」なんて言い始めた。

 ロクムは持ってきた色とりどりの服を並べて腕組みをしてうんうんと唸り始める。このまま待っていたらファッションショーが始まりそうだったから、私はロクムが手に持っていた白いワンピースを取って言った。

「これにするわ」

「えっ? ……着てみないの?」

「私はファッションショーは苦手なの。シンプルなデザインだし、持っていくのはこのワンピースだけで良いわ。たぶん着ることもないだろうけれど」

「……」

 ロクムは不満そうだったけれど、見た目の良し悪しを比べて服を選んでいく作業の意味を私は感じられなかった。切り上げ時というやつだ。私たちはショッピングモールを後にした。

 こうして私はいつ着るかもわからない服を一着だけ持つことになった。これはロクムと旅を始めて過ごしてきた三年の中で起こった私に関わる数少ない変化の一つだった。白いワンピースは今も車のトランクの隅で綺麗にたたまれて置いてある。


* * * * *


 ここしばらく平和な日々が続いていた。ロクムの運転もだいぶうまくなってきていて、最近ではお喋りをしながらでも手元が安定するようになってきた。細い道も荒地もまず問題なく走ることができる。だから最近は彼に運転を任せることも多くなってきた。私が代わるのは旅の途中で新しい本を見つけてきたときくらいである。

 行き先の当ては相変わらず、ない。地図も無ければ脈絡も無いから仕方ないことである。私たちは何処までも伸びていく道路を、たまに舗装されていない野道を進んで行く。夕焼けの世界に【果て】があるのなら、いつかはそこに着くことができるんじゃないかと思う。ロクムは前に「夕陽が回っているならもしかすると世界は球形をしていて、……だからこのまま進んでもいつまでも【果て】にはつけないんじゃない?」なんて心配していた。或いはそうかもしれない。先のことは分からなかった。

 でも私は頭のどこかで【この旅の果て】の存在を感じている。どんな結末になるのかは分からないけれど、そう遠くない未来に【それ】は訪れるだろう。夕焼けの世界の呪縛は永遠ではないのだ。ただ永遠に見えるだけで実際には少しずつ欠けては継ぎ足されていく有限のハリボテに過ぎない。最近、そのことを少し寂しく思うようになった。

 そんなある日、私たちは【夢羊】じゃない男に出会った。名前はエドというらしい。歳はよく分からなかったけれど、たぶん二十歳前後だと思う。青い目、綺麗な金髪、手足が長くヒョロリとした体形の白人だ。堀の深い顔立ちは昔ショッピングモールで広告に載っていたハリウッドスターのように見えた。

 彼はどこの国の人だろうか? アメリカかイギリスか、或いはヨーロッパ圏の出身か……。白人に詳しくない私は考えて分かるものでもないだろう、と推測を止めた。ロクムの読んでいる本に書いてあるだろうか? 今度訊いてみよう。エドに直接訊くことも出来たけれど、どうにも面倒そうな性格の人物のような気がしたので止めておいた。

 道路の真ん中で出会った瞬間から彼はフランクな口調でしゃべりかけてきた。喋る存在にずいぶん久しぶりに出会ったからロクムはずいぶん驚いて、焦っている様子だった。焦っていたのはたぶん相手が白人だったから英語か何かで喋らないといけないとでも思ったのだろう。しかしそんなロクムの心配はすぐになくなったはずだ。聞こえてきたエドの言葉は確かに異国のものだったけれど、その意味は理解できるものだっただろうから。

 この世界では言語の違いは障壁にはならない。夕焼けの世界は人類の意識のつながりの中に成り立っているからだ。人間の意識は本来言語とは独立していて住む場所や言語が違っても人間の意識構造は劇的に変わることはないから、意識同士の対話に言語は関係なくなるのである。たぶん、ロクムはそのことを知らないだろうけれど。今度訊かれたら教えてあげようと思う。

 そういえばいつだったか、ロクムが話してくれた旧約聖書という本に書かれた話でバベルの塔というものがあった。天に近づきすぎた人間は神の怒りに触れ、統一言語を失い、塔は崩壊した、という話だ。こことは違う世界の話。夕焼けの世界では言語の違いはあっても意思は疎通する。そこまで考えると夕焼けの世界はバベルの塔崩壊以前の世界に似た作りになっているように思えてきた。

 その先に思考を進めようとするが、それは叶わなかった。エドはお喋りで、私とロクムにしきりに話しかけてきたからだ。エドは陽気な男で次から次へと色々なことを喋っていった。例えば、

「へえ、ロクムくんとターキッシュデライトさんはここをずっと旅してるんだ! その格好いいオープンカーで? 赤いねぇー、いいねぇー、クールだねぇー、憧れちゃうね! どこのメーカーのやつ? 見た目はベンツっぽいけど……高級車?」

「ターキッシュデライトさんは何歳なの? 落ち着いたお姉さんって印象だけど、実は結構若かったり? あんまり似ていないけどもしかしてお二人は姉弟?」

「この世界はさー、人間は住んでいないの? たまに来るけどこれまで君たち以外の人に会ったことないんだよねぇ」

「俺が来るときにはいつも夕陽だけど、夜とか朝とかは来ないの?」

「寂しい田舎風景だねぇ。二人はジャパニーズっぽいけど、これはジャパンの風景なのかい?」

エドの言葉は目まぐるしく方向を変えて次々と彼の口からこぼれ出てくる。この世界に来て初めて他人出会ったらそうなるのは仕方ないのかもしれない。しかし、彼のお喋りの中で話の運びが何となく彼自身の話題から離そうという意図を含んでいるような印象を受けていた。話を振ってものらりくらりと躱されて別の話題に飛ばされてしまう。まったくやりにくい相手である。でもロクムはお喋りなエドに興味津々らしくあたふたしながら楽しそうに応答していた。

 なんにせよ、この世界に似つかわしくない性格の奴だと思う。正体が分からない。あえて隠そうとしているように見える。私はエドという闖入者を信用できずにいた。ロクムは気にしていないようだったけれど、彼の言う【この世界に来る】という言葉も気になった。【来る】。

 不幸か幸いか、彼の素性はすぐに分かった。彼は殺人鬼だったのだ。


* * * * *


 私たちはエドと出会った道路のすぐ横、大きなテトラポットがすき間なく埋まっている海岸で雑談していた。立ち話もなんだから場所を変えよう、と言うエドに従って私たちは道路から移動してきたのだ。お気に入りの昼寝場所だというテトラポッドは他のものよりも水平に足が伸びていて安定している。私たちはそこに三角形を作るようにして腰かけていた。

 エドとの雑談はずっと続いている。話題は色々な場所に行っては戻ってきてを繰り返していて脈絡はないけれど、ロクムは楽しそうに話をしている。一時間くらい経った後、ちょうどいい頃合いだろうと私は少し鎌をかけるように言葉を選んでエドに質問を投げかけた。

「ところでさっき、この世界に来るとか言っていたと思うのだけど、元の世界にどれくらいで帰っているの?」

 エドは「なんでそんなこと訊くの?」という風な表情を浮かべていたけれど、深く考えることなく答えた。私が間接的に観てきた現実世界の人間と同じだ。口達者でよどみなく会話を続けられる人間は流れを大切にする傾向にある。大きな障害なしに止まることを良しとしない。会話がよどみなく続く雄弁さに酔っているからだろうか? 人の心なんて分からないけれど、分からなくても傾向を利用することはできる。今日の私は、少し狡い。

「ん? 大体二、三日くらいごとかなぁー。最初は気が付いた場所からふらふらーっと歩いて探検していたんだけど、歩く範囲では何もないし、夢の中なのに疲れるし、マジックもサイキックも使えないし! つまんなくなってそこらへんでゴロゴロして、そんで気が付いたら現実世界の病院のベッドで目が覚めているんだよね。そのことを病院の先生に言っても誰も信じてくれないんだけどさ。まあ、そんで一週間くらい寝ていたらまたここに来るんだよ。パートタイマーみたいな? 働いてないけど」そしてまんまと鎌にかかったエドは隠していた情報を広げた。

「えっ!? エドは現実に帰れるの!?」一拍置いて驚いた顔をしたロクムが声を上げた。

エドは少し目を見開いてロクムを見て、そしてギョロリと眼球を動かして私を見た。青い瞳には猜疑心。見開いた目の動きはまるでカメレオンのようで、人間とは違う不気味な生き物が人間の皮を被っているようだ。私の中にある彼に対する不信感に嫌悪感が加わった。ともあれ、私の質問の意図を察したようだ。きっとエドはこれから私の発言に注意するようになるだろうけど、私とロクムの旅の安全を考えるなら致し方ないことだ。遅かれ早かれ訪れる未来、それが今だっただけのことである。

 未来。その言葉を思い浮かべて私は内心苦笑いした。停滞した過去の風景に囚われた【夢羊】たちばかりの夕焼けの世界に未来なんて言葉があるということがなんとも不釣り合いだし、矛盾をはらんでいるに思えたからだ。

「あー……、ああ! そうなんだよロクム。俺ってすごい奴だから、さっ! いやあ、照れちゃうなぁ、ホント。隠しておくつもりだったのになぁ!」今更否定することはできない、とあきらめたように、開き直るように彼は力強く言葉を続けた。これで話の舵は彼に向かって切られた。

「へぇ、すごいわね。二つの世界を移動できるなんて。どうしたらそんなことできるのかしら?」わざとらしい褒め言葉が口から出た。ロクムのためにもなるし、引き出せる情報は集めておくに越したことはないだろう。

「僕も知りたい! 僕なんてここで三年も旅をしながら元の世界に帰る手がかりを探してるんだけど、帰り方がさっぱり分からないんだ……」

「良いクエッションだ! でも、どうやってって言われてもなー……。あんま心当たり無いんだよねぇ……。うーん、難しい! 難しいからQ&A形式で答えていこうか! 俺って考えて喋るよりは会話の中で光を見つけちゃうタイプだからさ。なんでも聞いてみてよ」さあ! とでも言うようにエドは不必要に手を広げた。

「そうだなぁ……、そうだ! この世界で経った時間は現実に帰ったらどうなっているの?」

「時間かー。どうだろうな? いかんせんここには時計はないからちゃんとしたことは分からないんだよねー。まあでも、んー……大体この世界で過ごした時間と同じくらいの時間が起きた時には経っていたんじゃないかな。さっき、こっちで二、三日ゴロゴロして向こうに戻るって言ったけどさ、毎回大体この世界で過ごした時間と同じくらいの時間が起きた後に経過していた気がする。つまり、知らぬ間に一気に時間が過ぎたわけじゃなくて、こっちで過ごした時間と連続的に起きた後の時間が続いているっていうか? 難しいことは分からないが、まあそんな感じ」

「そっかー。じゃあ、もし僕が元の世界に帰れても何年分も年を取ってから起きることになりそうだね……。浦島太郎みたいにならなきゃいいけど……」

「ウラシマタロウ?」ロクムの例えにエドは首をかしげた。言葉の意味は理解できてもその言葉が内包するストーリーはさすがに伝わらなかったようだ。これはこれで面白い発見である。

「日本の古い童話よ。海の底にある竜宮城って場所に遊びに行った浦島太郎って子が陸に戻ると、何十年も時間が経っているっていう物語。ロクムの場合、別に何十年も経っているわけではないから大丈夫だと思うけれど」

「うーん、それならいいんだけど……」

 ロクムはまだ少し不安そうな表情で頷いた。その理由は分からなかったけれど、もしかしたら少し前にロクムだけが見た小学校の記憶が関係しているのかもしれない。あの時、ロクムは少し無口になって何かに悩んでいる様子だった。私は結局余計な詮索はしなかったけれど、グリーン・グリーンを歌ったあの日、ロクムは一体何を見て何を感じていたのだろう? 私は少し気にかかったけれど、気を取り直してエドに質問を続けることにした。

「次は私から質問だけど、エドがこっちに来る原因として……そうねぇ、例えば何かから逃げようとしていたりとかはない? 強い現実逃避とか、生命の危機に瀕しているとか。さすがに一週間おきにピンチを迎えているなんてことはないと思うけど」

「逃避……ねぇ、それはなんともびっくりするほど良い切り口だな! さすが、ターキッシュデライト。とてもブライトな提案だよ! なるほどぉ、……確かにあんたが言うように俺は逃げているよ。それも結構しつこい奴らからね。逃げても逃げても追ってくる。たくさんの人数でね。多勢に無勢、俺は逃げるしかできなくて……もしかしたらそれで逃げ込んだ先がこの世界なのかもしれないな。何とも的を射ているような気がするよ」

「しつこい奴ら? 悪い人達なら警察に言えば捕まえてもらえるんじゃないの?」

「そう! そう思うだろう? でも違うんだ。俺を追いかけているのはほかならぬ警察なんだよ」

「……まあ、そうだろうと思っていたわ」私は面倒な奴と出会ってしまったとため息をついた。

「えっ、どうして? どういうこと?」ロクムは首をかしげて私を見た。私は、エドに直接訊いてみたら? と答えた。

 ロクムが視線を向けると、やれやれ仕方ない、と肩をすくめながらエドは答えた。

「簡単なことだ。俺は人を殺しちまったんだ」

 そう言ってエドは立ち上がる。私は横目でその気配を感じていたが特に気には留めなかった。私は油断していたのだ。


* * * * *


 視界の隅でエドの右腕が素早く動くのが見えた。異変を感じてとっさに腰を浮かせる暇もなく、次の瞬間にはドンッ、と右首筋に衝撃が走って……。


* * * *


 私の喉には鋭いサバイバルナイフが私の喉元に押し当てられていた。一瞬刺されたかとも思ったけれど、首の衝撃はナイフを持ったエドの手首がぶつかった時もののようだった。右前に座っていたロクムは突然の出来事に目を丸くしている。

 考えてみれば首筋にナイフを寸止めで持ってくるよりも、首をストッパー代わりにすることの方が素早く人質を拘束できる。まったく、飽きれるほどに洗練された生産性のない技術である。殺人鬼は何処の世界でも殺人鬼に成ろうとするらしい。人間は簡単には変われないようだ。異常者でも、人間である限りそれは同じことなのかもしれないと思った。

「なあ、ターキッシュデライト。冷静に座ってないでさぁー、まず立ち上がって両手をあげてくれよ。……本当だったらあんたみたいな良いレディーは両手で抱きしめて拘束しておきたいところだが、あいにく左手はナイフでふさがってるからな。仕方なくそう命令しているんだ、仕方なくね。だからその仕方なさを、俺が譲歩した分を鑑みててきぱきと動いてほしいわけなんだけど?」

「ふうん……、まるで出鱈目な理屈ね。まあいいけど」

 私は昔誰かの記憶の中で観た警察官に囲まれた犯罪者のように両手を顔の隣にまで上げた。記憶の中の情景は警察と犯罪者だったけれど、今は犯罪者と被害者という構図だ。エドの要求は理不尽だったし、この状況はそもそもにしてアベコベで夕焼けの世界に似つかわしくない。そしてその状況は本来ここでは起こり得ない他者への干渉によって引き起こされている。

 夕焼けの世界に生まれた私はその起源からして死ぬことはないから、本来なら別にエドの脅しに従う必要はないのだけれど、今はロクムがいる。ロクムは私とは違うから、刺されたら……、或いは死んでしまうかもしれない。ロクムは永遠の世界の例外だから。

 夕焼けの世界でも成長するロクム。それは裏返してしまえば恒常性が働かない存在ということだ。成長とは死の可能性を内包している。だから以前、ロクムが勝手にオープンカーを運転して崖にぶつけたときにはずいぶんと心配したものだ。あの時は幸い大事には至らなかったけれど、例えば崖から転落したりしてしまったとしたなら、恐らくその結果はロクムの死に繋がる。あの一件以来、私はロクムが知識もないままに危ないことをしないようにきちんと自動車の運転方法や廃墟の安全な歩き方を教えた。私の手の届かない場所でコロリと死んでしまわないように。

 しかし、私のそんな配慮も殺人鬼の登場によって無に帰されようとしている。いくらロクムが気を付けていても、私の手が届かない場所では、他人の悪意を防ぐことはできない。彼は他人の悪意を退けるにはまだ幼すぎるのだ。

 ロクムが死んだらこの旅は終わりになる。道端で出会った殺人鬼に刺されて終わり。私が感じていたのはそんなつまらない、脈絡も無くあっけない結末だったのか? そう考えると不条理への怒りに似た感情が湧いてきた。以前観た交通事故で配偶者を無くした父親の感情はこんな風だったか。冷静な私がそう思考した。

 仮に私が刺されて一時的とはいえ再起不能になったら、次に刺されるのはきっとロクムになる。それは望まれる結末じゃない。ロクムの旅を終わらせないために私は大人しく人質を演じることにしたのだった。

 ふと、自分の思考の中に不思議な違和感を覚えた。望まれる結末……それは誰の望みだろうか? 思考の続きを追おうとしたが、エドによって遮られた。

「どうしてターキッシュデライトは俺が殺人鬼だとわかったんだ?」私の背後に移動したエドの吐息が耳に触る。

「……別に殺人鬼かどうかは分からなかったわ。ただ犯罪者だろうな、だとは何となく予想できただけよ」

「ふうん? それはなんで?」何かを聞き出そうという焦りも無ければ話の内容に興味も無いようなそんな平坦な声が問う。

「あなたが頑なに自分を主語にした話題を避けたからよ。口下手な人ならまだしも、あなたほど口達者な人としばらく話していてあなた自身の情報をほとんど共有できないなんて、自然じゃないわ。だから何かを隠していると思ったの。そして、自分自身のことについて用心深く他人に隠すのは、犯罪者くらいじゃないかって。それに今あなたが言って分かったけど、ただの人殺しじゃなくて殺人鬼なのね」

「あー、なるほどな。まったく、余計なことは言うもんじゃないな。やり辛い奴だよ……、あんたは。うーん、まあ、俺はそういうのが苦手だから追われたし、捕まっちまったわけなんだがな。自業自得の自縄自縛といえばその通り、そしてターキッシュデライトみたいな頭を働かせて追い詰めてくる奴らは俺の天敵さ」

「私は別にあなたを追い詰めてはいないわ。正体がバレて、危険もないのにあなたが勝手に行動してしまっただけ。だって、この世界には警察なんて居ないもの。私たちにバレたって、私たちがあなたをどうこうすることはないというのに」

「……そ、そうだよ! 別に何もしないからターキッシュデライトを放してよ」ロクムがそう言って近づこうとするのをエドは手で制した。

「確かにその通りかもな。でも、そうじゃないかもしれない。俺は他人を信じられないんだ」先ほどのギョロリとした目線をロクムに向ける。

「ううん……」ロクムは言うべき言葉見つけられずに口ごもっている。

「それで何が望みなの? 私たちはあなたにとって価値のあるものなんてあのオープンカーくらいしか持っていないけど?」

「俺がほしいのはそんなみみっちいもんじゃない。自由さ。ここに広がる自由を独り占めしたいんだ。分かるか?」

「……」

「どういうこと? 別にこんなことしなくたって……」そう言いかけるロクムを遮るようにエドは言葉を紡ぐ。

「違うんだ、違うんだよ、ロクム。世界にみんな平等な自由があるわけじゃないんだ。誰かが自由を謳歌しようとすると少なからず誰かの自由を侵害してしまう。自由っていうのは他人と重なる部分があるんだ。みんなが平等な自由を持っているわけじゃない、ということだな。……現実はだめだ。人が多すぎてほとんど自由がない。自由の総量が決まっているなら、現実はもう飽和状態だよ。ひとたび他人の自由を奪えば簡単に捕まって、奪った分よりもより多い自由を奪われる。何もできないどん詰まりの世界さ、まったく」

「……」

「……でも、ここには何もないがそのおかげで自由がたくさんある! なんたって自由を持っている奴がほとんどいないんだからな。そして俺を縛る法律もここにはないっ! そして孤独でもない。なんたって君たちが居るからね。旅の仲間ってやつさ。勿論リーダーは俺だけどな」

「旅のリーダーになりたいだけなら、別にそういえばいいじゃないか! こんな風に脅さなくたって……」そう言うロクムにチッチッチッと指を振るエド。

「ロクム、君はなにも分かってない。……俺はね、支配したいんだ。他者よりも上にいたいんだ。みんな仲良しの仲間を作って埋もれたくはないんだよ。分かる? 【特別】になりたいんだ」

「【特別】……」ロクムの唾を呑む音が聞こえた。

「支配して他者の自由を奪えば、あなたは自分の自由を謳歌できる、と言うわけね」私がそういうとエドは空いている左手で私のベストのボタンを器用に外し始めた。十個ある黒いボタンがゆっくりと外されていく。

「そう、楽しくね。……成人するまではさ、俺もまっとうだったさ。アメリカンコミックに出てくるグレートなヒーローに憧れていたし、難題を余裕しゃくしゃくで説いていく天才にも憧れた。あいつらみたいな【特別】に憧れたんだ。良くある話だよな。でもな、下らねえキャンパスライフの途中である日突然気が付いたんだ。普通に生きていても【特別】に手が届かないってことにね。まあ考えてみれば当たり前のことで、平々凡々な能力しかない大多数の人間の一人である俺には役者不足だってことなんだよ。当たり前だよな。手が届かないからこそ【特別】なのに、【特別】じゃないからこそ平凡なのに、それでも【特別】に憧れ続けているなんて……堂々巡りのパラドックスだ。救いがない」

「何を【特別】とするかによってそのハードルの高さは変わってくると思うけれど、あなたのハードルはずいぶん高いようね」

「ああそうさ。埋もれたくないんだ、人間に。だってつまらないだろう? そこら中に溢れているOne of themの一人になり下がったなら……俺の名前は、存在は、生きてきた軌跡は埋もれてしまうんだ。結婚して家族を作ってもそんなに変わらない。結局百年も経てば俺が居たという過去はもう埋もれてしまう。ハリウッドスターとかビッグな歌手とか狂った芸術家とか天才科学者とか、俺の名前が歴史に刻まれるような存在に成れればなんでもいい。そう思っていた。勿論、今も思っている」

「子供っぽい自己顕示欲の塊みたいな生き方ね」呟くように言うとエドはナイフを除けて代わりに首を絞めてきた。表情は変わらない。大きく見開いたカメレオンのような目が小刻みに動きながら私を見上げている。ギリギリと力が込められるが別に痛くもないからそのままエドを見据えていると少ししてエドは手を放した。握力の限界だったのか、諦めたのかは定かではないけれど、代わりに喉には再びナイフが当てられた。

「はぁ……まったく、ターキッシュデライトは口が悪いね。しかし……まあ、自己顕示欲ねぇ……、でも別におかしいことじゃないだろ? 誰もが少なからず持っているはずさ」

「誰もが、……ね。でもあなたは違ったんでしょう?」

「そうさ! それが大切なんだ。俺が俺として生きている証としてこれ以上ないほどに、な。俺はOne of themから抜け出したんだ。人を殺したその瞬間から。……そして俺は【特別】になった」

「確かにそうみたいね。……結局君は袋小路に迷い込んでしまったようだけれど」皮肉な響きが喉から漏れた。また荒れるかな、と思ったけれど、エドは落ち着いた様子で答えた。

「まあな。悔しいが、それはその通りだから言い返しようがないな。ようやく手に入れた【特別】に酔いしれて、謳歌して、俺の求めていた普遍的価値を見つけたのに、俺は【柵】に捕まっちまったんだよ。ざまあない。ようやくOne of themから抜け出したのに、行く先に待っていたのは奴らが作った【柵】だった」

「【柵】?」ロクムが訊く。

「ああ、そうさ 。【柵】。別に珍しいものじゃない。ロクムだって見たことあるものさ。首をひねっているロクムのために例え話をしてやるよ。よく川の流れを穏やかにしたり、石が転がるのを防ぐために金属でできた【柵】が張られている場所があるだろう? 小さな危険を防いで、大きな問題が起こらないようにするための昔ながらの工夫だな。最近だと網になったりもしているけど、まあ機能は同じだ」

 ロクムは頷いてはいるもののエドの例え話の意図するところを捉えられずにいるようだった。

「そして、そういう工夫は社会にもある。道徳とか、或いは常識とか言われる【柵】だ。義務教育で徹底的に教えこまれて大抵の人間はこの【柵】が心の中に出来て、外れたことが出来ない大人になっていく。でも俺みたいなハグレモノは違う。俺の中にある【柵】はヘナヘナでまるで役に立たないんだ。ちょっとしたきっかけさえあればすぐに色んな物を通しちまうし、やらかしちまう。それが俺と他のやつとの違いだな。ある日、絡んできた酔っ払いのおっさんを殴り殺して、俺はそのことに気付いたんだ。そのことは【特別】になりたかった凡才の俺に希望をくれた」

「それがあなたの起源なのね」

「俺の起源、か……いいなぁ、それ! そうなんだよ、まさにそれが! 俺が生まれた瞬間だった。間違いなく人生で最も輝いて希望にあふれた瞬間だった。嗚呼……、今思い出しても信じられないくらい甘美な瞬間だったなぁ……」

「でも人殺しをしたらすぐ捕まっちゃうんじゃないの? 刑務所にさ」

「そう、その通り。一つ【柵】を抜けたら次の【柵】が出てきた。ロクムの言っていた警察というやつだ。自己実現を果たしたと思ったら、今度は世界が俺を捕らえようとしてきた。【第二の柵】とでもしておこうか。これはうかうかしてたら全人類共通で引っかかる。なんたって少しでも他人を傷つけたり、社会のルールを破ればあっちこっちから仲間を引き連れて追ってくるんだからな。俺も馬鹿やって引っかかった。まったく、この世界はどこに行っても【柵】ばかりで嫌になってくるよなぁ、まったくさぁ」

「でも君は刑務所には居ない。たしか、病院で寝ているって言っていたわね」

「ああ。俺は演技派だからね。どうしようもなく追い詰められて捕まってしまう瞬間、病人になることにしたんだ」

「病人……」

「ああ。別に急にガン患者になったわけじゃない。心の病ってやつだ。心神喪失の可哀想な奴を、司法は裁くことが出来ない。俺は【第二の柵】に引っかかって白日の下に晒される直前から、病人を演じ続けている。病院のベッドの上でずっと監視されながらな。もう数年になるかな」

「ずいぶん長いのね。でも狸寝入りをしているだけで刑務所に行かなくてもいいなんて、簡単にできることなの?」

「心神喪失で実刑を免れるっていう例は別に珍しくない。最近ジャパンで捕まった二百人殺しの最高に狂ったシリアルキラーの弁護士も精神障害による心神喪失で殺人鬼を精神病院に入れようとしているしな。まあ、その殺人鬼自身は精神障害と言う割には裁判や警察の聴取の証言もしっかりしていたって聞くし、何より被害者が多すぎるからなー、さすがに無罪放免で精神病院に行けるとは思えないが……まあ、俺みたいな大したことのない殺人鬼なら問題ないのさ。俺は演技もうまいからな」

「そう。それで……」

「ああ、それでいつの間にかここに来るようになった。ベッドの上から一時的に解放されるようになったんだ! この世界であんたたちを見つけた時の俺のエキサイトした気持ちが分かるか? 俺は【第二の柵】から抜け出して新しい自由を見つけたんだ!」

「……」

 ロクムはエドの語る異質な人生観に飲み込まれているようだった。そしてどうすればいいのか分からない様子で視線を右へ左へと彷徨わせていた。安全な場所で立ち止まってくれている。それでいい、と私はエドに見えないように小さく笑った。ロクムはそんな私の表情に気付いたのか視線を私に固定した。長く一緒に居ても以心伝心とまではいかないけれど、私の背後に居るエドはロクムの視線の変化に気が付いていないようだ。

 エドはまだまだ喋り足りないというように言葉を紡ぎ続ける。脈絡もない、面白くもない長い長い自慢話を始めた。エドは自分の話に夢中になっているようだった。数年ぶりに手に入れた自由に酔いしれているのかもしれない。無理もないだろう。ともあれ、部外者である私にも容易に想像できるその気持ちを、私は利用することにした。

 話すことに夢中なエドの右手にはほとんど力が入っていないようで刃がフラフラと揺れていたし、エド自身そのことには気づいていない様子だった。だから、そっと挙げていた右手を下してエドの右ひじを押すとナイフは簡単に首筋から離れた。

 エドは始終微動だにしなかった私の突然の行動に驚いた表情を浮かべるが、お喋りな口が紡ぐ言葉を止められず反応が遅れる。

 そのわずかな隙をついて、私は首を後ろに逸らせた。首の後ろで結んでいた髪の束が背後に落ちて首に柔らかな負荷がかかる。髪が空気抵抗でわずかに広がる感覚。

 そして、右目のモノクルに黄昏色が鋭く反射した。


* * * * *


「オゥっ……! この、クソがっ!」

 エドは空いている左手を掲げて光を遮った。その隙に私はエドの右手を払って距離を取る。強めに叩いたつもりだったけれど、ナイフを弾き飛ばすことは出来なかった。エドが目くらましから立ち直る前にロクムのそばまで後退した。

「元々あなたはここに来るべき人間じゃないようだったけれど、現実に追われてきたのなら私は追い返すことはできないわ。だから……、私たちはここを去る。あなたは私たちにとって害だから。でも私たちに干渉しない限り、あなたはあなたで自由を謳歌するための旅を続けるといいわ。【夢羊】たちと同じようにあなたにも権利がある。でも……」私は一旦言葉を区切る。

「……」エドは相変わらずギョロリとした鋭い目でこちらを睨んでくるが、言葉を遮る気はないようだった。

「……ふふぅ、何でもないわ。それじゃあ、さよなら」

 行こう、とどうすればよいか分からずにあたふたしているロクムの背を押して私は身を翻す。テトラポットの隅から車道に登ろうとすると背後から【何か】を感じた。振り返るとエドがナイフを手にこちらに歩いてきていた。目には先ほどまでとは少し違う昏い輝き。

「……仕方ないなぁー。いいさ。あんたはいいよ、ターキッシュデライト。あんたは人間じゃあなさそうだ。でもロクムは置いていきなよ? ロクムはあんたと一緒に居る方が害なんじゃないかなぁ? 人間は人間同士で仲良くやるから……、あんたはッ! 消えてくれよなァ! ……でないと、殺すぞ?」

 エドは出鱈目な抑揚をつけて喋りながら三メートルほどの距離をゆっくりと歩いてくる。避けるにはテトラポットの隅は狭すぎる。私は振り向きざまにロクムを背後に隠すようにエドの前に立った。

 仕方ない、と私は内心ため息をついた。私はエドの行おうとしているロクムの自由への侵害を理由に彼を【制裁】することを決める。我ながら言い訳がましい理由だ。しかし、私にはその権利と義務がある。【制裁】を見たロクムは私をこれまでと同じようには見てくれないかもしれない。不安を抱えながら歩いてくるエドを見据える。

「ロクムに近づかないで。彼はあなたとは違うのよ、エド」

 絶対零度の冷たい響きが口から洩れた。エドはそれでも足を止めない。青い瞳には感情の読めない狂気。忠告しても止まりそうもない。狂気にはどんな言葉も無意味なのだろう。

 私はベルトに固定していた手のひらサイズの黒いスティックを握って、勢いよく振りぬく。黒いスティックはするすると伸びていき、一メートルほどの長いステッキになった。簡易式の警棒に似ている。エドは肉弾戦の気配を感じたのかヒュッゥ、と口笛を吹いて止まった。お互いの距離はもう一メートルほどしかなく、手を伸ばせば届く距離だった。

「それで戦おうってわけ? いいねぇ、女とバトルなんて……、エキサイティングしてきちゃうじゃないか!」

「バトル? ……違うわ。【制裁】よ、これは」

「ぉ? 何言ってんだ?」

「ごめんなさいね、エド。あなたを絡めとる柵はここにもあるの」

エドの挑発するような言葉に答えるように私はステッキの真ん中を握る。直後、指先の込められた思念がグニャリ、とステッキの物質概念を歪め始めた。

「えっ!?」直後、背後でロクムが驚いた声をあがる。

「おいおいおいおい……なんだよ、【それ】? ウェイ、ウェイッ! クソッ、マジで人間じゃないんだな……あんた!」エドもそう言って後ずさった。

 その問いかけに答えず、私は先ほどまでステッキの形をしていた【それ】を持ち上げた。

そこにあったはずのステッキの輪郭はぼやけ、まるでそこだけピントが的外れなほどずれてしまった写真のように、曖昧な形に変貌していた。【それ】は純粋な【無】という概念の塊。【夢羊】たちが消える際にごく短時間しか現れない永遠の世界の特異点。純粋な概念だから知覚することはできず、形は【それ】を持っている私にしてもよくわからない。ただ、周りの空間との違いからそこにあることだけを認識できる。その概念を私は拝借した。

「ブラックホール?」

「似ているけれど、違うわ。これは【結末】なのよ。エドはこの世界にふさわしくなかったから、エドの旅はこれでおしまいなの」

「……」

 エドは少しの間大きな目を見開いて放心しているような表情を浮かべていたけれど、ふいに表情筋が引き締まった。目はギョロリと手元のナイフに落ちて、そして私を見た。どうやら最後の足掻きに出ようと決心を固めたようだ。普通の人間は死を目の前にするとパニックになって何もできなくなるものだけれど、エドは死ぬまでOne of themになるつもりはないらしい。

 必要もない瞬きをして目を開けるとエドは第一歩を踏み出していた。

「さよなら」


* * * * *


 【それ】を槍のように突き出した次の瞬間には全てが終わっていて、邪魔なものは【消えて】いた。目の前には大穴の空いたテトラポッドの足と、くりぬかれたようにえぐれている足場だけが残っている。消滅した空間を埋めるように風が先ほどまでエドが居た場所へと吹いていった。少しの静寂。

 エドは【消える】直前に何かを言おうと口を動かしているように見えた。その言葉が大気を伝播する前に空気ごとそこにあった全ては失われてしまったから、その何かを知る機会は永遠に失われてしまったけれど、まあ大したことではない。【制裁】とはそういうものだから。

「……居なくなっちゃったね」ポツリとロクムは呟いた。

「そうね……」

「……ねえ、犯罪者が居たらターキッシュデライトはそのステッキを使うの? 確かにエドは殺人鬼でいけないことをしてきたみたいだったけどさ……」

「エドはこの世界にふさわしくなかったのよ。【夢羊】たちのための世界にとって彼は害悪でしかないから、だからステッキを使ったの。でもロクムはいい子だから大丈夫よ? 安心して」

「べ、別に怖がっているわけじゃないけど……ただ、無くしてしまうのは悲しいと思ったんだ」

「ふうん……、大丈夫よ。滅多に使わないわ。使うのは本当に必要なときだけ」

「必要なときって?」

 ロクムは鋭く私の言葉に隠れた事実の存在を捉える。私が漏らした迂闊な言葉は流れることなく拾い上げられてしまった。私は少し逡巡した。誤魔化すことも出来る。でもロクムは聡いからいつかきっとばれてしまうだろう。それに、ロクムはすぐに自分がエドと同様に消されてしまうかもしれない、という可能性に気が付くだろう。私の本意ではないけれどその可能性は、ある。ロクムがこの世界を脅かすなんて想像もできないけれど、【夢羊】ではない以上、その可能性は無くならないのだ。いつか訪れてしまう避けられないことなら、いっそのこと今ロクムに事実を告げてもいいだろう。

 私は慣れない戸惑いを胸に抱きながら口を開いた。


* * * * *


 ロクムにはこれまで特に話すことはなかったけれど、まあいいわ。教えてあげる。

 ロクムと居るときに出会ったのはこれが初めてだったけれど、エドみたいに【夢羊】に紛れてここに来る存在はこれまでも少なからず居たわ。この世界を旅していた私は彼らを見つけるたびに監視を兼ねて行動を共にしてきたけれど、彼らは多かれ少なかれ他者を支配して干渉することを好んだ。【夢羊】たちに石をぶつけようとしたり、私に暴力を振るおうとしたり。

 私はその度にエドにやったように【制裁】をしていったわ。何故なら干渉はこの世界にとって害だから。それは私の役目だった。

 うん? 役目? ああ、そうね。ロクムにはこれまで言ったことはなかったから分からないわね。ごめんなさい。別に隠していたわけじゃないのだけど、まあ話す機会もなかったから。そうねぇ……私には二つの役割があるの。一つずつ話すわ。

 前に話したかもしれないけど、私はこの世界をずっと旅して回っているの。ロクムと出会うずいぶん前から。いつからそんなことを始めたのかもう覚えていないけれど、私の旅はずーっと昔に始まって今も続いているわ。【夢羊】たちの思い出を記憶しながらね。

 ロクムも知っているように【夢羊】はいつまでも変わらずここで居るようでいるけれど、時間が経つといつの間にか消えてしまうわ。消えてしまう原因は色々ある。前に出会ったおじいさんみたいに死んでしまった人、或いはこの世界を必要としなくなった人、また或いは自我を失ってしまった人……色々よ。

 私の役目の一つはそんな【夢羊】たちの思い出を観て、憶えておくこと。これは前に話したわね。それは永遠に生きる私の義務みたいなものなの。この世界に私以外にそういう存在は居ないから。うん? 寂しくは……ないわ。今はロクムも一緒に居るしね。ロクムと出会う前は……ふふう、よく覚えていないわ。楽しくはなかったけれど、寂しくはなかったと思う。

 ごめんなさい。話が脱線してしまったわね。私のもう一つの役割は、今見たみたいにこの世界で他者に強く干渉しようとする存在を除害することなの。ここは【夢羊】たちにとって安息地でなければならないわ。いつまでも黄昏時が続くように、いつまでも変わらないことが大切なの。だから、私が見て回っているんだわ。

 心配に思っているかもしれないけれど、ロクムは大丈夫よ。あなたは彼らとは違ってこの世界に干渉しようとしなかったから。大体どうしてロクムみたいな子供がここに来たのかも私には分からないけれど、あなたがここにいる理由はエドみたいな人たちとは根本的に違うような気がするの。

 最初は監視するために一緒に旅をしてきたけれど、今は違うわ。ロクムがここに来た理由を探す旅の結末を知るために、ことの顛末を知るために一緒に旅を続けている。永遠の世界に結末があるなんておかしいような気もするけれど、こんなこと初めてだから……気になるのよ。

 だから私はロクムと旅をするの。ロクムの旅の終わりを見るためにね。


* * * * *


 ブォォォン。エンジン音を響かせて赤いオープンカーで無人の道路を駆けていく。空は相変わらずの黄昏色だったけれど、私とロクムの間に流れる空気はいつもとは違うように感じた。私の錯覚かもしれないし、そうでないのかもしれない。ただ一つ言えるのは、今それを声に出して確認することが憚られるような感覚が私の中にあることくらいである。私はアクセルをいつもよりも深く踏み込んでその空気をエンジン音で誤魔化そうとしたけれど、大した効果はなかった。

 先ほどの出来事からもう一時間ほど経っていた。あれから、ロクムは口を噤んだまま左手を流れる風景をじっと見ている。私の役目についてロクムが納得したかどうかは分からない。たとえ納得していたとしても、いつ【制裁】されてしまうか分からないという恐怖心は彼の中に残り続けてしまうかもしれない。これからロクムは私から離れてひとりで旅を続けようとするだろうか? そういう未来もあるかもしれないし、ないかもしれない。

 まさかエドと出会ったことによってこんな風に私とロクムの旅の行く末が揺れ動くとは思ってもみなかった。エドは消えたけれど、彼が存在したことで私たちは少なからぬ干渉を受けてしまったようだ。

 干渉。変わってほしくないのに。私は彼らに苛立ちを覚えた。

 そんな時、ふいに助手席から小さく声が聞こえた。

「ねえ……ターキッシュデライト、僕思ったんだけどさ、ここって……」

「うん?」アクセルを緩めてエンジン音を下げる。声の調子は普段と同じ調子だったから少し安心しながら聞き返した。ロクムは相変わらず左を向いていて表情は見えなかった。

「あ、いや、大したことじゃないんだけど。……ここって案外変化するんだなって思って」

「案外……変化する? それはどういうこと?」

「さっき、ターキッシュデライトのもうひとつの役目を教えてもらったけどさ、でも逆に言えばターキッシュデライトが居ないとこの世界のものは簡単に色々な事に影響されちゃうみたいじゃないか。普段は干渉がほとんどないから永遠に見えるだけで、さ」

 宇宙空間ではものを投げたら、何かにぶつかったりしない限りそのまま等速直線運動を続けるらしいよ、とロクムは付け加えた。

 ああ、そうか、と私は納得した。ロクムの言ったことに、ではない。私自身のことだ。

 納得すると同時に、私は自分の所在が失われたような孤独を感じた。昔観た迷子の子供の寂しさに似た感情。

 ロクムの言うように夕焼けの世界はただ永遠に見えるだけで、実際には少しずつ欠けては継ぎ足されていく有限のハリボテに過ぎない。しかし、その中にあっても私は変わらないのだ。【夢羊】たちの記憶が、私の起源が、私の変化を良しとしないから。自分は変わるのに私が変わることを認めないなんてなんて世界だ、と思う。

 或いは、いいやそんな言い訳がましい前置きを置かなくても、私は夕焼けの世界から除け者にされていたことはずっと前から気付いていた。ただ私一人が変わらないということを認めたくなくて気づかないふりをしていただけだ。みんな変わらないなら良い。でも私だけ変わらないというのはどうしようもなく孤独だ。

「……ロクム」

 私は何となく空いている左手でロクムの右手を取っていた。彼は振り向いて驚いたような、照れたような顔をした。私が理由もなくそうしたことがなかったからだろう。指先から暖かい体温を感じる。これもいつか失われるものだと思うと、なんとも愛おしいような寂しいような気分になった。

「ねえ、どうしたの?」ロクムのドギマギした声。

「……分からないわ。でも少し……、こうしていて」ロクムの問いの答えを持っていなかったから、私はそう言って誤魔化した。

「うん……」

 私は孤独だ。この世界のために役目を負っているのに、世界は私に報いてはくれない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ