表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄昏Delight  作者: 野兎症候群
5/9

第三話 グリーン・グリーン

 旅を始めて二年近くの月日が過ぎたときのことだった。旅の道中、僕は初めて自分の記憶にある建物を発見したんだ。最初見つけたときには分からなかったけど、建物の中を探検しているうちに気が付いたんだ。

 そこはそんなに高くない丘を校舎の裏に持つ、朽ちた小学校だった。校庭の隅は雑草が伸び放題になっていたし、遠目から見たコンクリート造りの校舎にしても窓ガラスが曇っていたり割れていたりしていたから如何にも廃墟といった風格のある建物である。プールなんて淀んだ灰色をしていてとても最近誰かが使ったようには見えなかった。人が居なくなってからずいぶんと時間が経った学校のようだった。

 小学校はまっすぐに伸びている道路から右手に少し外れた場所、整備されていない赤茶けた地面と雑草の伸びた野道の先、山の手前にポツンと建っていた。田舎の学校という風でもない。木造ではなくコンクリートの建物が緑の多い風景の中にポツンとあるせいだろう。自然の中にある人工物は目立つから、視界に入って直ぐに気が付いた。

 ちらりとターキッシュデライトを見ると「行ってもいいよ」と言うように小さく頷くのが見えた。必要はないけど僕は右のウィンカーを出してからスピードを落とし、ハンドルを切って道路から降りて野道を進む。車が大きな石に乗り上げたりしないようになるべく平らな道を選んで段々と小学校の建物に近づいていくことにした。急ぐのは禁物だ。また車を何かにこすってしまったら、今度はターキッシュデライトになんて怒られるか分からない。僕は初めての運転以来、ずいぶんと慎重になった。少しして僕らは小学校の入り口に到着した。

 修理して今はもう綺麗になった赤いオープンカーから降りて、小学校の校門前で立ち止まった。学校の入り口には●▼●小学校という文字が浮き彫りにされた表札が掲げてあった。しかし、雨風で彫られた木が取れてしまったのかうっすらとぼやけた文字の跡があるだけで、肝心の小学校の名前を判別することはできなかった。

 こういうことはたまにある。なんでかはよくわからない。ターキッシュデライトにしてもその理由は知らないようだった。何かの法則に従っているんだろうけど、今の僕にはそれが何なのかは分からない。旅の間に見つけた色々な本を読んでも夕焼けの世界の法則は書いていなかった。本にあるのは一日が二十四時間で太陽がクルクルと縦に空を回る現実の世界の法則だけだ。だからこの世界の法則は僕が見つけないといけないんだ。

 本を読み始めて僕は少し賢くなったと思う。色々なことを考えられるようになった。アインシュタインやエジソンのように何でも頭の中から生み出せる天才科学者にはなれないけど、僕は僕なりに事実を組み合わせて考えることができるようになった。僕なりの進歩だ。

 僕は別に特別本を読むことが好きな子供じゃなかった(と思う)けど、ターキッシュデライトが運転している間に拾ってきた本を読むようになってから少しずつ好きになった。本には僕の知らない色々な言葉が流暢に書いてあった。手に取った本は科学の難しい本もあれば、ファンタジーの世界を描いたワクワクするような物語もあった。僕が運転している間は読んだ本の物語や学問の話をターキッシュデライトにするようになった。彼女が退屈しないようにするためだ。僕の説明はお世辞にもうまくはなかったけど、僕が説明に詰まるたびに彼女はフォローしてくれた。ターキッシュデライトは頭がいい。よく分からない話も彼女に話せば分かりやすく言い換えて教えてくれる。おかげで彼女と話していると読んだ本の隅々まで僕は理解することができた。

 そうしてある日、僕が夢中になって科学の話をしているとき、背の高い木々が左右に生い茂る林道を抜けたところで、僕らはこの小学校を見つけて今に至る。


* * * * *


 別に面白いものも無かったから僕らは少しして表札の隣、正門を潜って校庭を横切って校舎に足を踏み入れた。

 ターキッシュデライトと並んで歩く僕の身長は最初に出会ったときよりも十数センチほど伸びていて彼女の口元あたりに目線が届くようになっていた。もう彼女を見上げる必要はあまりない。ちょっとした段差に乗れば僕と彼女の視線は簡単に重ねることができるからだ。些細な変化だけど大人に近づいた気分になって少し嬉しかった。

 ここには【夢羊】の気配はないようだ。しばらく旅を続けてきて、僕は【夢羊】が近くにいるときにはそのことが分かるようになっていた。【夢羊】には不思議な空気があって近くにいると何となくその存在が分かるんだ。校舎の中は見れていないけど、たぶんここには建物しかないと思う。

 最初、ターキッシュデライトと出会った場所もそうだったけど、建物は【夢羊】とは関係なく存在しているようだった。旅の間、ずいぶんたくさんの【夢羊】たちを見かけた。ずいぶん昔に出会ったログハウスのおじいちゃんみたいに建物ごと夕焼けの世界に来ている【夢羊】もいたけど、それはあまり多くないみたいで、大体はそこら辺を当てもなく彷徨っているだけだった。でも、建物は【夢羊】が居なくとも色々なところにあった。病院や古びた映画館、どこかの国のショッピングモールに遊園地、そして今、僕の目の前にあるような学校。

「持ち主不在の記憶の残骸よ」

 一年くらい前、色とりどりに色褪せた遊園地の観覧車を見上げていた時のことだったと思う。ターキッシュデライトは僕の疑問に先回りしてそう教えてくれた。赤、青、緑、黄。元は鮮やかだったと思われる観覧車のペンキの色も空気で酸化されて彩度を失っていた。僕ら以外に人の居ない遊園地の静けさと相まって、寂しさを含んだ廃れた空気が漂う場所だった。

「この遊園地の持ち主は【夢羊】なの?」

「それは私にも分からないわ。ここには色々なものが流れてついて、堆積していくから。海に投げたボトルレターが波に乗って何処か遠くの異国の海岸に流れ着くように、この世界にも何処からか流れてきた記憶が何時までも居残っているの。持ち主を見つけるのは、きっと難しいわ」

「でも、建物の記憶の持ち主はどこかに居るんでしょ? それだったらずっと旅をしていればいつかはこの遊園地を知っている誰かに会うことができるんじゃないかな?」

「知っている誰か……ね。或いは……、そうかもしれないわね。ひょっとしたら、ロクムの記憶から生まれた建物もあるかも」

「あ、そっか! じゃあ建物を見つけたらちゃんと調べてみたほうがいいよね。まずはジェットコースターからだ!」

「ふふう」ターキッシュデライトに笑われた。優しい笑いだった。

 過去の回想が終わる頃、僕らは学校の玄関に到着した。

 生徒用の下駄箱が二メートルおきくらいで向かい合って立ち並ぶ入り口はずいぶん狭そうに見えた。僕らは校舎に入っていく。近くで見てみると色の濃い赤茶色の木で枠だけ作られた下駄箱には一つも靴は入っていなかった。埃っぽい校舎の空気の中に、誰かの残り香を感じた。こういう残り香は建物ごとで全然違うから毎回新鮮な気分になるのだけど、今日は少し違った。何というか、言葉にするのは難しいんだけど……、臭いを吸い込んだ胸がチリチリするような、喉の奥に何かが詰まっているような、そんな感覚を憶えた。

 胸に何かが残ったままの僕を置いてターキッシュデライトは下駄箱の間をゆっくりと歩いていく。考えても仕方がないと見切りをつけて彼女の背を追った。痛み加減の簀の子を乗り越えるとき下駄箱があるのだから靴を脱がなければ、と思ったけど変えるスリッパもなかったから、結局土足で校舎に入ることにした。僕らはリノリウムの廊下を当てもなく歩きだしたのだ。

 校舎の構造は至極簡単なものだった。まっすぐの廊下があって校庭側には窓、反対には教室か教師用の事務室か物置みたいな部屋があるだけのコの字をした建物だ。僕らは通過する教室の中を一つ一つ確認しながら校舎の隅まで歩いて行く。

 廊下の終点には上の階への階段とスライド式のドアがあった。ドアを開けてみると先には隣の棟へと続く白いコンクリートで作られた渡り廊下があって、生徒が上履きで渡ることを考えてか校庭から土足で入れないように一メートルくらいの高さの柵で両側を囲われていた。よく見ると柵の上の部分に一部ペンキが剥がれたような場所がある。きっと生徒たちが乗り越えるときに踏み台にしていた部分なのだろう。そんな些細なところにも人間が居た気配が感じられた。

 渡り廊下の先には【理科室・音楽室・プール】と大きな表札が付いた別棟が夕日に染められながら佇んでいた。僕はどうしようかと悩んだけど、結局まずは今いる建物を全部見てしまうことにした。記憶力には自信があるけど、中途半端に方向転換をしてしまうと探索してない場所が出てきてしまうかもしれないからだ。一度この場所から離れたら目印の無いこの世界では同じ建物を探すのも一苦労だし、わざわざUターンしてもう一度探索するのも面倒だから、この一回の探索できちんと全てを調べていかなきゃいけない。

 階段には各階の案内が書いてあった。一階には職員室、二階には図工室、三階にはコンピューター室と多目的室、その他は学年とクラス分け番号しかこれと言った違いのない教室が並んでいる。案内によれば一階が一年生と二年生、二階が三年生と四年生、三階が五年生と六年生の教室になるようだ。僕らは階段を上がって順々に見て回ることにした。

「一つの学年に一、二、……四クラスもあるわ。結構大きな学校みたいね」

「そうだね。机がえっと……横に六個と縦に六個だから、一クラス三十六人くらいで……一学年が四クラスでー……。……八百六十人くらいかなー」

「どうしたの?」ぶつぶつと呟く僕をターキッシュデライトが不思議そうな表情で見て訊いてきた。

「うん? この建物に大体何人くらい居たのかなって思って、計算してみたんだ」

「あら、暗算でそんな大きい桁まで計算できるのね。ロクムってそんなに頭良かったかしら?」彼女は感心したようにそう言った。でも僕はそんなことに腹を立てたりはしないんだ。細かいことに目くじらを立てないことも大人になるためには必要なことなのだと本に書いてあった。

「勉強しているからね。僕はどんどん賢くなっていくのさ!」僕が元気よく答えると、そう、とターキッシュデライトは目を細めて小さく笑った。

 特に話すこともなくなって僕らは黙々と探索を続けた。ターキッシュデライトと居るとこういう何も喋らない時間ができることがよくある。彼女は僕が何か訊くと教えてくれたり、話に乗ってくれたりするけど、会話が途切れることを気にして喋り続けるタイプの人間じゃない。それは僕も同じだった。喋りたかったり聞きたいことがあったりしたら話をするけど、何時までもじゃない。話し終わったら、ひとまず会話は終わりなのだ。こういうことを前に読んだ本ではビジネスライク、とまるで悪いことのように形容していた。でも僕はそうは思わない。だって、無理に会話を続ける方がよほどビジネスライクに思えるからだ。大人は仕事だと無理にでも嫌なことをしなければならないようで、これまで出会ってきた【夢羊】たちもとても苦しめられているようだった。無理することは仕事に似ていると思う。だから僕はターキッシュデライトとの会話で無理はしたくないんだ。僕がそんな哲学を持っていることを彼女は知らないだろうけど、なんにしても僕と彼女の何も喋らない時間はちっともビジネスライクじゃないし、居心地もいいものだから……言葉にすることは難しいけど、それはとても良いことなのだと思う。

 二階の探索が終わって三階へ。リノリウムの廊下を僕とターキッシュデライトの足音が進んで行く。

 横目に見える教室の広い窓からは見慣れた夕日が差し込んできていて、誰も居ない教室を赤く染めている。一階や二階の教室は背後にある丘の陰になっていて日が差していなかったから夕暮れ時の教室の姿を見るのは今が最初だった。生徒たちの机、日誌の置かれた教卓、日付の消えた汚い黒板。黄昏色に染まっている教室はどことなく胸にチクチク刺さるような不思議な雰囲気を放っていた。

 とはいえ、三階の教室も他の階と同じ間取りで特徴のない教室ばかりで見て回っている僕にとってはつまらない風景の繰り返しだ。教室によって違うのは机と椅子の高さと机の上の傷の位置くらいで、なんだか間違え探しをしている気分になってくる。人の居なくなった学校は面白みのない建物になってしまうのだと思った。前に見た遊園地もそうだ。人のために作られた場所に人がいなくなったら、建物の存在意義もなくなってしまうのかもしれない。僕らはのっぺらぼうな教室のドアを淡々と開けていく。

 三階の探索もほとんど終わって残すところは六年生の教室だけになった。D組、C組は他と同じで何も目新しいものはなかった。その調子で「もうここには何もないかな」と思いながらも六年B組の教室のドアを開けて中に入ってみると、チョークの粉っぽい匂いと夕日に焼かれてほのかに暖かくなった机から発せられる匂いを感じた。他の教室とあまり変わらないように見えたけど、その雰囲気はちょっと違っているような気がした。

「あれ……? なんだかここ、知っているような……?」

 すっかり色あせた掲示物やほこりをかぶった机や椅子は僕をとても懐かしいような、でも少し寂しいような複雑な気持ちにさせた。黄昏色に染まった教室の風景と匂いに、僕の胸はまたチリチリとした何かを感じていた。そのことをターキッシュデライトに言うと彼女は、

「それは追懐か感傷か、或いは哀愁というものよ、きっとね」とモノクルを夕陽に反射させてきらめかせながら難しい言葉を返してきた。どれもあまり聞きなれない言葉だったけど、何やら意味深な響きの言葉みたいに感じた。逆光になっていて、僕の位置からはその時の彼女の表情は見えなかった。

 僕らは三階を調べ終わってからまた一階の端っこ、渡り廊下の前に戻ってきた。この校舎には見た限りでは【夢羊】は居ないようだ。後残っているのは渡り廊下の先にある別棟だけだった。

 スライド式ドアを開けて砂でジャリジャリしている白いコンクリートに薄い足跡を付けて、僕らは別棟に入った。別棟はさっきまで見ていた校舎と違って横幅の広い建物で窓のない場所も多かったから薄暗くて、少し肌寒い感じがした。理科室なんて日の光が全く差し込まないせいで真っ暗で、薬品の匂いが鼻について、とにかく薄気味悪い場所だった。すぐに引き返したい気持ちを抑えて、ターキッシュデライトがたまたま持っていたライターの火を頼りに探索したけど何もなかった。こういうことを骨折り損って言うんだっけ? そういえば、彼女はあのライターをなんで持っていたんだろうと疑問に思ったけど、ターキッシュデライトが何となく訊いてほしくなさそうな表情をしていたような気がするから訊かないでおいた。

 気を取り直すために二階の屋外にあるプールを見に行ったけど、遠目から見たものと同じ淀んだ色の水が夕日を反射しているだけで他には何もなくて、残すは音楽室だけだ。

 音楽室の防音性の分厚いドアを押し開けた先にもやはり、【夢羊】は居なかった。そこにあるのは背もたれのない生徒用の椅子、埃をかぶった鉄琴や木琴、大きさの違うたくさんのドラム、……それと黒い大きなピアノだった。

 他の場所で感じていた胸の奥でチリチリするような感覚が再び僕を襲った。今度はターキッシュデライトが表現した難しい言葉なんて借りなくても分かる、もっと直接的なガリガリと引っかかれるような感覚だった。視界が明滅するような錯覚。僕の視界は次の瞬間、別の風景に切り替わっていた。


* * * * *


 僕は太陽の光が差し込む明るい部屋に居た。普通の教室とは明らかに違う特別な構造の部屋。音楽室だ。教室の端っこの方に座っている僕の周りには仲の良い同級生たちがずらりと並んで座っている。黒いピカピカのピアノの前には髪を頭の頂点で束ねた小顔の女の先生が座っている。怒ると細い目が吊り上がって、キツネみたいな顔できつく叱りつけてくるから僕はあの先生が苦手だったことを思い出した。とても懐かしい顔ぶれだった。背もたれのついていない音楽室の椅子は座り心地が悪くてあまり好きじゃなかったけど、今は座っている感覚はなかった。

 僕はすぐに記憶の中だと気が付いた。【夢羊】の夢を観ている時と同じ感覚だったからだ。見えるし、聞こえるし、感じられるけど、触れない世界。

 そして今観ている風景を僕は知っている。既視感の正体に気が付いた頃には先ほどまで感じていた胸の奥のチリチリした感覚はもう無くなっていた。記憶の泉の淵に引っかかっていたピースが浮かんできたのだ。ここは僕が通っていた小学校だ。 さっきまで探索していた夕陽に沈む廃校舎とは違って、記憶の中の音楽室には人に定期的に使われている躍動感というか、活気みたいなものがあった。

 そして僕は今よりも目線の高さが低い【昔の僕】となってそこに居た。同級生の子達の内緒話をする声と先生がそれを注意する声。季節はよく分からなかったけど、防音のために締め切られた室内はちょっと暑かった。僕はパンツが汗で濡れるのを感じていた。しかし、それは【昔の僕】の身体を通じて感じた間接的な情報に過ぎない。暑かったっていう記憶があるからって僕が直接汗をかくわけではないように、その記憶はリアルタイムの体験とは感じ方が違うのだ。

 【昔の僕】の目はキョロキョロと動いて映り込む風景を様々に変えている。先生の顔を見たと思えば次の瞬間にはその上の蛍光灯近くにへばりついている蛾をじっと見ていたり、隣の子に話しかけられて少し子供っぽいお喋りをした後に天井や壁に均等にあけられている細かな穴を眺めたりしていた。我ながら落ち着きのない子供だと思うと同時に疑問も芽生えた。何故僕はこんなに必死になって色々なものを見ようとしているんだろう? 些細なことだから意味はないのかもしれない。

 僕はピアノが気になっていた。黒光しているキレイなピアノは部屋の中央にあったから、どこを見ていても常に視界の隅に入っていた。そのはっきりした色はまるでブラックホールのように強い存在感があるように感じられた。

「それじゃ、今日はまず歌集の五十六ページ、グリーン・グリーンから歌ってみましょうね。三番まで! じゃあ、日直! 号令お願い」先生の明るい声が響いて僕の注意がそちらに移る。

「はい! 全員きりーつ!」僕の思考を遮るように声の大きな日直の男の子が号令をかける。

 生徒たちは驚くほどピタリとお喋りをやめて椅子の下から歌集を取り出して素早く立ち上がる。無邪気な子供たちの一糸乱れぬその動きはまるで良く訓練された軍隊みたいで、少し面白かった。【昔の僕】も同じように歌う準備をして、間もなく僕の視界に動物か何かの落書きが描かれた歌集が映し出される。思わず名前の欄に注目したけど、そこは空白のままになっていた。【昔の僕】はヨレヨレになった歌集を慣れた手つきでパラパラとめくっていき、あるページでピタリと止まった。五十六ページ、グリーン・グリーン。そのページはよく開かれているのか他のページよりも少し紙が汚れていた。

 【昔の僕】はワクワクしていた。彼の心境が見えない何かを通じて僕の意識に流れ込んでくる。これまで観てきた【夢羊】の記憶と同じく五感の一部みたいに彼の感情を感じ取れた。どうやら当時の僕はその歌を歌うのが好きだったみたいだと、他人事のように思う。実際今の僕よりもずっと幼く小さい彼は別人のような感じだ。今観ている記憶も、僕のじゃなく【昔の僕】の見ていた風景であって、僕自身のものじゃない……言葉にしてみるとどうにも矛盾しているようだけど、それ以外にうまい言葉が思いつかなかい。不思議な感覚だ。事実何年かの時間の間で僕は【昔の僕】よりも身長も知識もずいぶん成長したから、そのせいかもしれないと思った。

 生徒たちの様子を見渡していた先生は全員の準備が完了したのを確認すると大きく頷いて黒いピアノの前に座った。

「じゃあ、始めるわよ! いち、にっ、さん、はい!」

ピアノを弾き始める。明るい調子の短い前奏の後、僕以外の全員が息を短く吸って歌い始める瞬間――目が覚めた。


* * * * *


 「……お帰りなさい。この部屋の記憶を観ていたのね」

 顔の真正面から聴こえた声に僕はびっくりして目を覚ました。目の前には息が届きそうなほど近くにターキッシュデライトの顔があって、ブラウン色の綺麗な瞳が僕を見つめている。すぐそばに居る彼女から仄かに香る甘い匂いが、驚きとは別に僕の胸をドキドキさせる。ちょっと前までは彼女の落ち着いた雰囲気がお母さんみたいだと思っていたけど、最近になって僕の身長が彼女に近づくにつれてどちらかと言うとお姉さんみたいだと思うようになってきている。こんなことはターキッシュデライトには言えないけど、僕は彼女との距離感がちょっと分からなくなってきていた。普段そのことを特段意識することはないけど、こういう不意なタイミングでそのことを強く感じる。

 僕は焦りを誤魔化すように顔を大きく左右に振ってあたりを見渡す。音楽室の入り口から少し入ったところに僕は立っていた。辺りには先ほどまで観ていた生徒たちで溢れかえっていた明るい音楽室と違って、椅子の上や楽器の上に降り積もった埃ばかりが目立つ無人の風景が広がっている。教室の端っこの方の席に座っていた【昔の僕】の名残は見つからなかった。

「……うん、そうなんだ。えーっと、それにすごいんだよ! 記憶の中に僕が居たんだ! こんなこと初めてだっ」僕は思いついた言葉を矢継ぎ早に言った。黙ってしまうと照れてしまっているようで格好悪く思えた。

「ふうん。……そう、記憶の中に……」そう答えるターキッシュデライトの表情は少し複雑そうだ。喜んでいるような、悲しんでいるようなそんな感じ。目は笑うように細められているけど、口は平たく結ばれていた。

「ここには何かるのかな? ターキッシュデライトも観たでしょ?」

「いいえ、……残念だけど、私は観ていないわ」一拍おいて彼女は答えた。

「えっ?」

「この場所の記憶を観ていたのはロクムだけみたいだわ。【夢羊】が居ないのにロクムにだけ記憶が観えた……。確認するけど、それに記憶の中にはロクムが居たのよね?」

「う、うん。そうだと……思う。知っている顔の同級生も居たし、怒ると怖い音楽の先生も居たから……たぶん、あそこにいたのは僕だったよ」

「そう……」そう呟いてターキッシュデライトは僕から顔を逸らす。

 そして彼女は思案するように目を瞑って沈黙した。窓から差し込む夕日が彼女の右目のモノクルに反射して僕の顔を部分的に照らした。彼女のモノクルはいつも夕陽を鏡のように反射しているなぁ、と目を細めながら思った。そういえば僕って彼女の右目を直接見たことがあったっけ? どうでもいいような思考が働き始めたところでターキッシュデライトは口を開いた。

「ずいぶん長く探し歩いてきたけれど、ようやくロクムの記憶の手がかりが見つかりそうな場所に出会えたみたいね。この部屋の記憶はきっとロクムの頭の中にあるから、私には観えなかったんだわ。……こんなこと初めてだからどういう原理かはよくわからないけれど、ここをもっとちゃんと調べてみればロクムの名前も分かるかもしれないわね」ターキッシュデライトはいつもよりもゆっくりとした調子でそう言った。

「そうみたいだね! 何か手がかりになるものを探してみなきゃ!」そう答えて勢いよく足を踏み出した僕が「あっ」と声を上げた時にはスベスベの木製の床の上に柔らかく積もっていた埃で滑ってバランスを崩していて――そのままバタンっ、と転んで頭を打ってしまった。そのうえ、床に頭を打ち付けた拍子に吸い込んだ埃でゲホゲホと咳き込んだから二重に辛かった。とてもじゃないけど恥ずかしくて顔を上げられなかった。

「まったく……探索するよりも先に、まずはお掃除をしましょうか?」ターキッシュデライトの飽きれ顔が瞼の裏に浮かんだ。


* * * * *


 音楽室の隅、錆が浮いていたロッカーで見つけたモップを使って床を一通りキレイにしてから、僕は黒いピアノの前に立った。他にも色々楽器はあったけど、【昔の僕】の記憶の中で鮮明に観えた黒いピアノがどうしても気になったからだ。ピアノに触れたら何かが起こるような気がして恐る恐る手を伸ばして触れてみたけど、指先に埃がチョコンと付いただけで拍子抜けだった。よく見てみると黒いピアノは開けっ放しにされた鍵盤の上まで埃だらけだ。

「このピアノ……、このままじゃ使えないのかもしれないね」僕がそう言うとターキッシュデライトは、

「ふうん、そうみたいねぇ。楽器はとてもデリケートなものだから、少しでも汚れているとうまく音を出せないわ。時間が経っていると、特にね。昔のように息を吹き返してもらうにはキレイにするしかないわね」と言っておもむろに黒いピアノの屋根の部分を持ち上げて中を覗き込んだ。僕も隣に立ってつま先立ちをして覗いてみる。

「中はキレイみたいだね」

「ちゃんと屋根が閉まっていたおかげかしらね。それに、弦も錆びていないみたいだし、全体的にちょっと拭いてあげれば弾けそうだわ」

「やった! でも、人が居なくなってから結構時間が経っているみたいなのに、なんでこのピアノは錆びたり壊れたりしていないんだろう? 湿気があったらだんだん錆びていくと思うんだけど……」前に読んだ化学の本に書いてあったことだ。水分があると大体のものはちょっとずつ錆びていくはずなのだ。

「うーん、そうねぇ……。それは何とも言えないわ。どれくらい昔に人が居なくなった建物なのかもわからないし、大体この世界で、実際に物質が錆びたりするのか、私でも知らないもの。……ロクムはこのピアノを弾きたいの?」

ピアノに手を置いて思案している僕にターキッシュデライトがそう訊ねてきた。少し迷ってから僕は呟くように答えた。

「えっと……そうじゃないんだ。さっき弾こうと思って指を置いてみたけど何も思い出すことも、【昔の僕】を観ることもなかったから、たぶん僕は引けないと思う。でもちょっと気になるんだ。記憶の中で観えたこの黒いピアノが」

「ふうん、そう。だったら弾けるかどうかは別として、とりあえず掃除をしてみましょうか? 昔のキレイなピアノに戻してあげれば、何か思い出すこともあるかもしれないから」

 錆びないのに埃だけが積もっていた理由は結局分からなかったけど、他にやるべきこともないからターキッシュデライトの提案に従うことにする。僕は音楽室の隅のロッカーの中で見つけた雑巾を取ってきてピアノの埃をキレイに取り払っていく。ターキッシュデライトはいつものように「埃が舞ってしまわないように雑巾で包み込むようにして埃を集めていくのよ」なんてお節介なことを言うだけ言って一人で音楽室の中を見て回っている。僕は途中で掃除を放り出すわけにもいかず、キレイにしたばかりの床に埃を落とさないようにしぶしぶピアノをキレイにしていった。

 記憶にある音楽室の風景を再現するために僕はキュッ、キュッという音を立てながらピアノの表面の埃を落としていく。ピアノをキレイにした後、一体何をすればいいのか? そのことはよく分かっていないけど、でも一拭きする度にキレイな黒色を取り戻していくピアノの様子が面白くなってきて、僕は掃除を続けていった。きっと大丈夫だ。掃除が終わればターキッシュデライトが何か画期的な提案をして次やることを示してくれるに違いない、なんて気楽なことを考えている。まあどうにかなるさ。

 ピアノ表面の埃を一通りふき取り終わった後、閉めていた屋根を持ち上げて中に収納されていた突き上げ棒で固定した。随分キレイにしたから埃が中に入ってしまうことはない。僕は回りこんでピアノの正面に立った。新品みたいにピカピカになったピアノの鍵盤を軽く叩いてみると、ポーンと澄んだファの音が響いてちょっと驚いた。さっきまで埃をかぶっていたけれどちゃんと使えるみたいだ。隣のソの音も押してみる。ファの音とはちょっと違うポーンという音。いくつかのキーを押してみたけど、この音を組み合わせて演奏する感覚は思い出せなかった。

「どうだった?」少しして背後から声がかかった。どうやら鳴り出したピアノの音に気が付いて戻ってきたようだ。

「キレイにしてみたけど……、結局ピアノの引き方は結局よく分からなかったよ」

そうは言ったものの、さっき響いた音の余韻が気になって仕方がなかった。だから僕はピアノの鍵盤に指を置いて適当に押し続けた。ドレミファソラシドレミファ……。少しずつ高さの違う音が連なりあってピアノの屋根の下から響いてくる。僕は立ち位置を変えながら八十八個のキーを左から右へと、たまに白と黒のキーを行き来しながら押していく。この色々な音を組み合わせていけば気の利いた音楽でも奏でられるのだろうけど、今の僕には果たしてどんな風に指を動かせば滑らかな音色になるのか見当もつかない。やっぱり記憶を無くす前の僕もピアノを引けなかったのだろう。少し残念で、悲しい気持ちになった。

 鍵盤の終点まで音を聴いた後、僕は背後を振り返った。そこにはさっきと同じ、喜んでいるような、悲しんでいるような顔をしたターキッシュデライトが佇んでいる。モノクルは相変わらず夕陽を反射している。

 僕が「どうしよっか」と訊く前に、ターキッシュデライトは「せっかくロクムがキレイにしてくれたことだし、何か弾いてあげるわ。これまでカーステレオもなかったから、たまには音楽を聴いてみるのも悪くないでしょう?」と言った。

「ターキッシュデライトはピアノ弾けるの?」

「ええ、勿論」

「どこで習ったの? ここにはピアノを教えてくれる人なんていないでしょ?」訊くとターキッシュデライトは左目を細めて笑った。

「ふふう。私はロクムと違って色々な【記憶】を持っているからね。ちゃんと弾いたことはないけれど、ピアノの弾き方も知っているわ。名前も知れない【夢羊】が時間をかけて練習した【記憶】をね。ロクムはまだピアノを弾く【夢羊】を観たことないだろうけれど、出会えばきっとピアノの弾き方も分かるようになるわ」

「ふぅん、そうなんだー! あ、でもちゃんと弾いたことないって……、本当に弾けるの?」僕が疑わし気にそう訊くと、ターキッシュデライトは僕を軽く押しのけてピアノの前の黒い椅子に座った。そして慣れ親しんだかのような優雅さで両手を鍵盤の上に乗せて、一瞬静止した後に十本の細い指が躍り始めた。

 それはターキッシュデライトにあまり似合わないポップで明るい音楽だった。楽しくおしゃべりしながらピクニックをしているような、或いは何かごっこ遊びをしているような明るさを感じた。言葉はないけど、ピアノの音色が運んでくるイメージは鮮明で雄弁だった。彼女の指は淀みなく、迷いなく、抑揚をつけながら鍵盤の上を踊っていく。十本の指にはすべてに役割がキチンとあって、メロディを途切れることなく運んでいる。途切れることなく屋根の下から溢れてくる音楽を聴きながらターキッシュデライトの手元を見ていると、たとえその手が止まったとしても音楽だけは流れ続けていくような気がした。実際にはそんなことないのは分かっているけど、それくらいピアノから音楽が流れ続けることが自然なように思えたのだ。

 夢中になって聴いているうちに、演奏は終わっていた。「どうだった?」と得意げに問いかけてくるターキッシュデライトの声を聞いて我に返った。

「すごく良かった! 【夢羊】の記憶を観ただけであんなにうまく弾けるようになるんだね! ところで今弾いたのはなんて曲なの?」

「ふふう、それは秘密にしておくわ。たぶん教えたら、ロクムは怒っちゃうかもしれないから」

「えーっ! どういうこと?」

「さあ? でも有名な曲だったと思うわ。ドビュッシーっていう外国の人が作った曲。いい曲だったでしょう?」

「うん、そうだけど……」とぼけたようにそう言う彼女から真意を聞き出すことは無理だろうと僕は早々にあきらめた。

「さーて、疑い深いロクムくんも私の腕前は分かったみたいだし、次はどうしようか?」

「別に疑ってたわけじゃないよ! ……あ、そうだ! 弾いてほしい歌があるんだ。ねえターキッシュデライト、この音楽室のどこかに歌集とか置いてなかった?」

「歌集……ねぇ。ちゃんと見てないから分からないけど、向こうにあった小部屋の向こうに本がいっぱい入った棚があったわよ」と彼女は部屋の隅にある白いドアを指さした。僕は「ちょっと待ってて」と言ってドアの近くまで走っていく。ドアには僕の目線よりも少し高い位置に【音楽準備室】という金色の小さなプレートがあった。ドアを開けるとそこは掃除が行き届いていなくて埃だらけだったけど、また掃除をする気も起きず、ターキッシュデライトが行っていた本棚を探した。

 本棚は部屋の一番奥に高く積まれた楽器に埋まるようにして置いてあった。色とりどりの背表紙の本が並んでいる。僕はその中から一つを取り出してパラパラと中身をめくってみた。色々な形をした音符が上に下に並んでいる。歌詞のない、ピアノ用の譜面だった。僕がほしいのは歌集だったから、その本を手ごろな場所にあるドラムの上に置いて別の本を探していく。四、五冊ほど見たところでようやく歌集を見つけた。パラパラとめくっていくと折り目が付いていたみたいで、あるページでピタリと止まった。五十六ページ、グリーン・グリーン。

 僕は思わず、歌集の表紙を見た。しかし、そこには先ほど観た落書きはなかった。名前の欄は空欄になっている。これは偶然なのだろうか?

僕はその歌集を手にピアノに戻ってターキッシュデライトに「これがいい」と言った。

「グリーン・グリーンね」

 【昔の僕】の記憶の中で歌いだす瞬間まで感じていたワクワクするような感覚と、僕の頭に残っていた名前も知らない歌のメロディが繋がっているように思えたのだ。ずいぶんと前からそのメロディは僕の頭の中にあった。暇なときに僕の頭の中で流れていたメロディ。昔のことをすっかり忘れてしまった僕の記憶の中に珍しく残っていた記憶の残り香。歌集に大きなゴシック体で印刷されたグリーン・グリーンという文字。きっと僕の頭の中に残っていたメロディの名前はそれだと思った。根拠はないけど、僕はそう確信していた。

「何番まで歌う?」楽譜を見たターキッシュデライトが訊く。

「もちろん最後まで!」僕は元気よく答えた。

「ふふう、じゃあ七番までね。いいわ。始めるわよ。あら、歌詞がないと歌えないんじゃない? この歌集はロクムが見ておいたら?」

「たぶん大丈夫。憶えている気がするから」

「……そう」小さく呟くように彼女は言った。そして少しの沈黙を置いて、音楽が流れ出した。


* * * * *


「ある日パパと二人で、語り合ったさ。この世に生きる喜び、そして悲しみのことを」

 記憶の中にあった明るい調子のメロディに合わせて歌詞は自然に口から出てきた。久しぶりに歌ったはずだけど、音程はバッチリだ。

 グリーン・グリーンの歌詞は少年とその家族の話だ。しかし、僕は自分のお父さんのことはよく憶えていなかった。でも歌詞の中で謳われるお父さんの立派な幻影は僕のお父さんとは違う気がした。そういえば、お母さんはどうだっただろうか? 歌を通じて僕は僕自身の記憶を辿っていく。

「その時、パパが言ったさ。僕を胸に抱き、つらく悲しいときにも、ラララ、泣くんじゃないと」

 僕は僕よりもずっと小さな子供が膝をついたお父さんに抱きしめられている姿を想像した。泣くんじゃない、そう言ったお父さんは泣いていたのだろうか? 歌詞からは少年がこれから悲しいことに出会ってしまう予感が立ち込めていた。幼い少年はきっと気が付いていない。僕は少年のお父さんになったみたいに悲しさを感じた。

 グリーン・グリーンは七番まである歌だけど、一つ一つの歌詞は短い。情景豊かな描写がほとんどで少年の物語は最初のほんの少ししかない。歌いながら物語の情景に思いを馳せていると、僕はいつの間にか記憶の景色の中に居た。

 震える誰かに強く抱きしめられた感覚。柔らかい服の感触。フローリングの床で冷やされる足の裏の感覚。首筋を汗が流れ落ちる感覚。耳元で何かを囁く怖い声。蝉の鳴き声。ブォーと低い音を立てている大きな白い冷蔵庫。化粧の匂い。チカチカと点滅する蛍光灯。窓から差し込む夕日の赤。口の中に残るレモンのアイスキャンディーの味。

 気が付けば歌詞は五番目まで来ていた。

「その朝パパは出かけた、長い旅路へ」

 僕は前よりも少し大人になったから、昔と違ってこの歌の悲しさが分かるようになった。歌の少年のお父さんは居なくなってしまったのだ。なんで居なくなってしまったのだろう? この歌の少年はたぶん居なくなった理由はよく分っていなかったみたいだけど、直感的にそれが一生の別れであることを悟っていたようだった。少年のお父さんは仕事で遠くに行くことになったのだろうか? それとも、お母さんと上手くいかなかったのだろうか? そう考えて僕は息苦しくなったような気がして胸を抑えた。心臓がドキドキしていた。お父さんのことを思い出そうとしても意識はどうしてもお母さんの方に向いてしまう。ターキッシュデライトが目線でどうしたのかと訊いてきたけど、僕は気づかないふりをして声を張って歌い続けた。

 僕の男にしては高めの声が夕焼けに染まる音楽室に響く。声変りはまだ先のようで、幼いころからの女の子のような声質は今も変わらない。何時のことだったかドライブしていた時、ターキッシュデライトに「ボーイソプラノくらいの声域かしら」なんて言われたことを思い出す。馬鹿にされているわけではないのだろうけど、僕は早く声変りをして大人になりたかった。ターキッシュデライトは僕を子供扱いすることはあまりないけど、僕を大人として扱ってはくれない。それが僕にはもどかしかった。色々な言葉を知ってもまだ僕は【子供のロクム】のままなのだ。子供には出来ないことが多いから。

「僕は知るだろう、パパの言っていた言葉の、ラララ、ほんとの意味を」

 歌の中の少年は成長した後に真実を知ることになった。しかし、その言葉の記憶自体を失ってしまった僕は何時になればその本当の意味を知ることができるのだろうか? 僕は大切なものを失ってしまったかもしれないという胸の奥が焦げるような焦燥感を感じた。忘れてしまうことがこんなに僕を苦しめるなんて、僕は思ってもみなかった。いくら必死になって思い出してみようと頑張っても、歌みたいな些細な事を除いてこの世界に来る以前の大事な記憶はほとんど失われてしまっている。大切なものを無くしてしまったんだと、僕は初めて実感した。結局、歌が終わってもお母さんのこともお父さんのことも胸に引っかかるような感覚を除いて何も思い出せなかった。

 ターキッシュデライトの演奏も止む。鍵盤の上を踊っていた指は彼女の膝の上で休んでいる。部屋にはわずかな残響が残った。

 耳の奥で段々と残響が収まっていく。僕はさっき観えた情景が気になっていた。情景の中で、誰かに抱かれていたのは僕だった。今よりも小さな僕。化粧の匂い。たぶん僕を抱いていたのはお母さんだ。情景の中で僕は混乱していた。何がどうしたのかよく分かっていなかった。その時の戸惑いが僕の胸に残っている。けれどどうしてそうなったのか、大切な記憶は観えた情景の中には落ちていなかった。

 最近になって考え始めたことだけど、もしかしたら僕は一度死んでしまったのかもしれないと思う。つまり、ここに居るのは生まれ変わりの僕だ。だからこの世界に来る以前の記憶は曖昧なんじゃないか、僕はそう考えたんだ。思い出す記憶にしても悲しいことばかりだったから、僕は自分が悲しみの中で死んでしまったんだと。

 この世界に来てから僕は自分に対する悲しみは二度しか感じていない。少しお話をしたログハウスのおじいちゃんと、今感じている記憶を失った悲しみだけ。他に悲しい【夢羊】たちはいっぱいいるけど喋れない彼らの悲しみは僕にとって少し遠い出来事だった。それに、僕はターキッシュデライトとの旅を楽しんでいたし、新しく知ることの喜びを感じていた。きっと記憶がなくなる以前と今とでは、僕は全然違う人間になってしまっているだろう。ここには僕を悲しみで縛るものは何もない。

「どうだった? 何か思い出したかしら?」

「ううん、なんにも。残念だけど……探していた記憶はここじゃないみたいだ」

 その考えはなんだか怒られてしまうような気がして、ターキッシュデライトには黙っておくことにした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ