幕間 赤いオープンカー
「あーーーー」
僕はボンネットに仰向けになって意味のない声を上げながら見飽きてしまった夕焼け空を見上げていた。何か歌でも歌おうかと思ったけど、結局思いつくのは小学校で習った面白みのない歌ばかりだったからやめた。数は少ないけど好きだった歌もあったはずなんだけど、名前は忘れてしまった。うっすらと覚えているのはメロディくらいだった。軽やかで明るい調子のメロディ。歌詞は確か六番か七番かまであって結局覚えられなかったけど、僕は暇を見つけては歌集を見ながら歌っていた気がする。子供じみた歌ばかりの教科書の中でその歌だけはちょっと大人な感じで気に入っていたんだ。
歌のことを思い出すついでに学校の先生とか同級生の名前を思い出そうとしてみたけど駄目だった。喉の近くまで来ている感覚はあるんだけど、どうしても思い出せなくて力尽きた。僕の名前が分かる日はまだずっと先かもしれない。僕がここにきてからずっと思い出せないままの記憶は何時になったら見つけることができるのか、僕には分らない。でもそのことはあまり気にしていない。だって、ターキッシュデライトとの旅は静かだけど面白くて、僕は退屈しないからだ。悲しいこともあるけど、それを体験するたびに僕は大人になっているように思えて、心の底では楽しんでいる。
色々な【夢羊】に出会ってきたおかげで、最近は少し難しいことも分かるようになってきた。例えば、愛。僕にはまだ経験はないけど、これまで見た【夢羊】たちのほとんどが愛によって悩んだり苦しんだりしていることに気が付いた。僕がターキッシュデライトを好きだと思う感覚とは違うようで、それはとても重たい感情のようだ。幸せにも不幸にも成っちゃうのは不思議だった。以前、そのことをターキッシュデライトに訊いたら、
「ふふう、そうねぇ……。言葉にするのは難しいわー。まあ、……いつかロクムに愛する人が出来たら分かるわよ。その時までいい子に忘れていなさい」なんて言われてはぐらかされてしまった。ターキッシュデライトは雄弁に色々教えてくれることもあれば、曖昧にはぐらかすときもある。親切なようで、少し意地悪だ。大人は狡い。
今、ターキッシュデライトはここにはいない。僕一人と、赤いオープンカーがあるだけだ。
僕が寝ているうちにターキッシュデライトは一人で【夢羊】を観に行ってしまったんだ。車のフロントガラスにそういうことが書かれた書置きが置いてあった。こういうことはこれまでも何度かあった。だから僕は一人、定位置であるオープンカーの助手席で座ってお留守番をしていた。しかし、それもすぐに飽きてしまうわけで、起きてから間もなく、僕は赤いオープンカーのボンネットで大の字に寝っ転がった。椅子で寝ているよりもこっちの方が気持ちよかった。
僕はボンネットの上で瞼の裏に光を感じながら僕は瞑想する。ターキッシュデライトと旅を始めて大体半年ぐらい経った。日にちを数え始めてから大体二百日、僕たちはずっと赤いオープンカーに乗って山と海岸の間のまっすぐな道を走っている。たまに山道に入るけど、大体は道路は山の周りを沿うように走っていたから僕は毎日、海を横目に旅をしていた。そして一週間に一回、二回くらい【夢羊】を見つけては記憶を観て、また次の場所に向かう。そんな毎日の繰り返しだ。
そうだ、日にちで思い出したけど、僕はこの世界で時間を図る手段を見つけたんだ。きっかけは些細な事だった。
「ねえ、ターキッシュデライト? 夕陽はいつも同じ高さにあるけどさ、ちょっとさっきと位置が変わっていない?」
助手席でいつものように暇をしていた僕は、いつの間にか陽ざしが正面から斜め前くらいの位置になっていることに気が付いた。道が曲がってそう見えただけかもしれないと思ったけど、僕は確認するようにターキッシュデライトに訊いてみた。
「そうだねぇ。この世界でもちゃんと太陽は回っているよ」ターキッシュデライトはなんてことの無いように答える。
「知ってたの!? ……あっ、そうだ! えっと……たしか元の世界だと太陽が地球の周りを一周したら一日経ったってことになるんだけど、もしかして太陽が回が一回転して元に戻れば一日経ったことになるんじゃない?」
「うん? ……ああ、確かにそうねぇ。ロクムはよく気が付いたわね!」
褒められた。僕は嬉しかったけど、飛び上がって喜ぶことはしなかった。僕は紳士だからだ!
でもそこからが少し大変だった。ちゃんとそれが正しいかどうか、一日の長さが同じかどうかを調べなきゃなからなかったからだ。科学は再現できてこそ科学なのだ、とターキッシュデライトは言う。それは分かったのだけど、その測定は結局、僕が一人でやる羽目になった。ターキッシュデライトにそう仕向けられたんだ! やっぱり大人は狡い。
ターキッシュデライトは面倒くさがりだ。ああすればいい、こうすればいい、危ないからこういうところに気を付けて、などと親切に色々教えてくれるけど、結局やるのは僕だった。ターキッシュデライトは遠くからニコニコしながら僕を見ているだけで何もしないんだ。不公平だと言っても、いつもなんだかそれらしいことを言われてのらりくらりと躱されてしまう。そんなだったから一日の時間を計るのにだいぶ時間がかかってしまった。僕はそんなに長い時間起きていられないからだ。位置を記録しながら一週間くらいかけて測定した。
分度器を使いながら手作りの日時計を使って調べたからちょっと精確じゃないと思うけど、この世界の一日は二十五時間あることが分かった。地球よりも少し長い一日だ。紙に円を書いてそれを分度器を使って大体二十五等分した。北の方角はよく分らなかったけど、ターキッシュデライトに訊いたら教えてくれた。これで僕たちは時間を計ることができるようになったんだ。
* * * * *
でも僕はターキッシュデライトのことが好きだった。テレビドラマみたいな恋愛感情は僕には今一つ分らないけど、僕がターキッシュデライトを好きなのはそういう感覚とは違うと思う。どちらかっていうと年の離れたお姉さんみたいな、そんな感じだった。面倒くさがりだけど、いつでも優しい。だから僕は何の心配もなく色々なことをすることができる。実験もできるし、遊びまわることだってできる。
だから、暇を持て余した僕がいつもターキッシュデライトが座っているオープンカーの運転席に目が留まって、気になりだして、そしてニヤッと笑って乗り込んだのもごく自然なことだった。初めて座る運転席の座り心地は助手席と大差なかったけど、ハンドルに三つのメーター、ブレーキにアクセル、クラッチペダル、それとシフトレバーとかウィンカーとか。助手席にないものが全て集まっていて、なんだか飛行機のコクピットみたいで格好良かった。そしてもちろんいつも見ている優秀な僕はそれぞれの使い方をちゃんと知っている。だから、キーが刺しっぱなしになっているのを発見して、「ちょっとくらい運転してみても大丈夫……だよね?」と思うことも勿論自然なことだと思う。後で見つかって怒られないか少し心配になったけど、元の位置に戻しておけば大丈夫だろうと好奇心に従ってキーをひねった。
ブォン、と小さな排気音とともにエンジンが入った。赤いオープンカーが小さく振動を始めた。まるで心臓が動き始めたみたいだった。少し呆然としてから僕はエンジンをかけたという事実に感動して、そしてワクワクした。
感動が覚めないうちにまずはターキッシュデライトがやっていたみたいにギアチェンジを試してみようと思った。やり方は毎日見ているから大体憶えていた。クラッチペダルを踏みながらローにシフトレバーを入れ、徐々にクラッチを上げながらアクセルペダルを踏んだ。ターキッシュデライトはいつも素早くこの操作をやっているけど、全然慣れていない僕はゆっくり一つ一つの動作を確認しながらしかできない。そして、軽い加速を背中に感じると同時に、赤いオープンカーは僕の運転に従って発進した。
速度が上がってきたらセカンド、サード、トップとギアを順々に入れ替える。道路はまっすぐな一本道でハンドル操作はほとんど必要なかったけど、速度メーターが五十くらいを指した時には道路の凹凸で車体がガタガタ震え始めて怖くなったから、減速してサードギアで三十くらいの速度でのんびり走ることにした。ターキッシュデライトはいつももっとずっと速い速度で運転していたけど、車ってこんなに揺れていたっけ?
自分で実際運転してみると色々気が付くことがあった。例えばよそ見だ。風景は歩いているときよりも素早く移り変わっていて面白かったけど、左右に広がる風景ばかりに気を取られてよそ見していると何時の間にか道路の片側に寄り始めてしまうから注意しなくちゃいけないんだ。間違って道路から転落なんてしたらいけない。ターキッシュデライトはよく僕と喋りながら運転しているけど、どうやったらああいう風に運転できるようになるんだろう? 今度訊いてみよう。
段々運転に余裕が出てきて、速度に慣れてきた僕はギアを一つ上げて夕焼け道を飛ばしていった。風が僕の髪の毛をワシャワシャと右から左から吹き付けて遊んでいる。気持ちも良かったし、気分も最高だった! ターキッシュデライトはいつもこんなに楽しいことをしていたなんて! 今度から僕も運転させてもらおうと思った。
* * * * *
「……どうしよう……!」
夕陽を背に、赤いオープンカーから降りた僕は途方に暮れている。
夕陽は僕が出発した時よりも二十度ほど位置がずれていた。だから時間は大体一時間と少し過ぎたくらいのはずだった。今より少し前に僕はそのことに気が付いた。
「あーーー! もう帰らなきゃ!」
僕は調子に乗って結構遠くまで来てしまったことを後悔した。帰る頃にはターキッシュデライトがもう戻ってきているかもしれない。僕が勝手に運転して居なくなったことに気が付いて怒っているかも!
早く帰らなきゃと僕はブレーキを踏んで、車が完全に停止してから後ろを振り返って、そして重大なことに気が付いた。背中から冷や汗が噴き出た。
「どうやって後ろに進むんだっけ……?」
帰り道。まっすぐ進む方法と止まる方法は分っていたけど、方向転換して元来た道を戻る方法を僕は知らなかった。僕は焦る頭で必死に方法を思い出しながらあたりを見渡した。ふとシフトレバーに印字されているBのアルファベットに目が留まった。頭の中で記憶が閃いてターキッシュデライトがそのギアを使った時のことを思い出した。
「そうだ! バックすればいいんだ!」
解決策が見つかった安心感に浮き立つ心を抑えてクラッチペダルを踏み込んでギアをバックに入れた。急がなきゃ! クラッチを上げながらアクセルを軽く踏み込むと車体は後ろ――元来た道へとゆっくりと進み始めた。やった!
僕は後ろを振り返りながらアクセルを深めに踏んで車体を加速させようとする。しかし直ぐに全然速度が出ないことに気が付いた。足の遅い僕が走るよりも遅いくらいの速さだ。それに運転もとてもしにくい。これじゃあ元の場所に着くまでにすごい時間がかかってしまう。どうしよう……。また背中に冷や汗が流れた。
僕は車を止めて道路に降りて、途方に暮れた。後ろを振り返っても、さっきまで留守番していた場所は米粒みたいに小さくなってしまっていて見えなくなってしまった。歩いて帰るには厳しい距離だと思う。ああ……、きっとターキッシュデライトは困っているし、怒っているに違いない。僕はうんうんと唸りながらあたりを見渡した。
すると遠く、道路の先に道幅がよく見ると、右手にずっと続いていた切り立った崖のような山の斜面が削られて、ちょうど車一台分ほど道幅が広くなっている場所があることに気が付いた。
「あ、【休憩所】だ」僕はポツリと呟いた。
これまでにも道中に何ヵ所かああいう場所があって、何時間かに一回の間隔でターキッシュデライトはそこに車を止めて休憩するようにしていた。その時には僕も車から降りてあたりをぶらぶらしたりするのだ。だから僕はああいう場所を【休憩所】と呼んでいた。本当の名前は知らない。
「本当はね、こういうスペースは休憩したり、自動車が故障した時のためにあるの。だって道の真ん中で停まっちゃったら他の自動車は通れないでしょう? ……まあ、ここは別に他の自動車が来るわけでもないからこうやって道から外れて休む必要もないのだけど……、まあマナーみたいなものよ。それにもし道を間違えることがあってもこういう場所があれば方向転換もしやすいでしょう?」僕の頭の中にある時ターキッシュデライトが言っていた言葉が木霊した。目の奥に何か痒いような感覚があった。何かが閃きそうだ。
「……方向転換もしやすい?」間違いじゃなければ、ターキッシュデライトはそう言っていた。あそこは方向転換するためにも使える場所なのかもしれない。
今度こそ、とギアを変えて赤いオープンカーのアクセルを踏んだ。
とりあえず見つけた目的地に向かいながら、頭の中ではこの半年余りの間にターキッシュデライトが車の向きを変えた時の様子を必死で探していた。しかし、記憶の中に残っているのは海岸の形とか建物の装飾ばかりで肝心の移動の時のことはほとんど忘れてしまっていた。僕は必死に記憶の糸を辿る。方向転換をしないと道路に戻れない場所に行った時のことを思い出せば、きっとターキッシュデライトがどうやって方向転換したのか分かるはずだ!
長い旅の回想の末、僕はついにスロープを通って海岸に降りて、そこから道路に戻るときにターキッシュデライトが車のハンドルを大きく右に切って円を描くように戻っていったことを思い出した。車の方向を変えるには回らなければいけないんだ! 今度こそ帰れる、と僕は確信してほっと胸を撫で下ろした。同時に今度ちゃんと運転の仕方をターキッシュデライトに習おうと心に決めた。
十分も経たないうちにさっき見つけた【休憩所】に着いた。車は早い。歩いたら一時間以上かかりそうな距離を一瞬で移動できるのだ。発明した人はすごいと思う。でも方向転換は何処でもできるようにしてほしいと思った。
【休憩所】の横幅は最初の見立て通り大体一車線分くらいだった。奥行は大体十メートルくらいだ。これだけあればぎりぎり回りきれるだろうか? 僕はちらりと右手にほぼ垂直にそびえる岩壁を見上げた。山を削って作ったスペースのようで山の斜面を灰色のコンクリートで覆って崩れてこないようにしているようだった。ぶつかったら崩れてきてしまうんじゃないかと不安になったけど、僕は時間がないことを思い出して早速方向転換をしてみることにした。
僕は道路の左端のぎりぎりのところまで車を寄せてからハンドルを目一杯右に切って、ローギアでゆっくりと発進する。僕から見る景色はこれまでと違って右から左に流れていく。車は大きな弧を描いて前進しながら進路を横へ横へと変えて行く。だんだんとコンクリートの壁が近づいてきたけど、このままいけばどうにかぎりぎりぶつからずに行けそうだ。赤いオープンカーの車体が壁に垂直になったときには壁と車の先端までの距離は二、三メートルほどにまで近づいていた。少し進むと僕が元来た道の方向に車体の向きが変わっていった。初めての方向転換はうまくいきそうだった。
そんな風にようやく帰れる目途が立って、その時、僕の気はちょっと緩んでいた。だからちらりとコンクリートの壁に視線を向けた拍子にハンドルに込めていた力を緩めてしまってことに気が付くのが遅れてしまった。ハンドルがばねで元の状態に戻ろうと押さえていた手をすり抜け回転した。気が付いて握り直すまでに半回転ほど戻ってしまっていた。
そして、
ガッ、ガーーーーーガリガリガリッ!
やすりで金物を削り降ろしたような音とコンクリートの壁にぶつかった反動で車が不規則に激しく揺れた。運転席からはぶつかった場所の状態は分らなかったけど、きっとひどいことになっていることは音と衝撃で分かっていた。冷や汗が全身から噴き出て顔は火が出そうなほど熱く感じた。ハンドルを握っている手もブルブルと震えてしまっていてまともに言うことを聞いてくれない。なんにしてもすぐに車を止めなきゃいけない! 僕はアクセルに添えていた右足でブレーキを蹴るように踏んだ。
しかし、僕の希望に反してブレーキを踏み込んだはずの車は全然止まってくれなかった。岸壁に車の全面と左面を削られながらゆっくりと前進してしまう。ガッ、ガッ、ガッ、ガリガリッ。耳をふさぎたくなるようなひどい音が車の左側面から響いてくる。
「止まって! 止まってよ! もう!」
僕はパニックに陥りそうになりながら足元を確認した。見ると間違って右足でクラッチペダルを踏んでいたことに気が付いた。慌ててブレーキペダルを踏み直すと車は止まった。車の左側面とコンクリートの壁が奏でていた不協和音も止んで、後にはブルルルと低い音を立てるエンジン音だけが虚しく木霊していた。
一息ついて手の震えが収まってから、僕はエンジンを切って車を降りた。左側面に回り込んで恐る恐る惨状を確認する。
「……あー、……どうしよう……」乾いた声が出た。
辛い現実を目の当たりにして僕は茫然と立ち尽くすしか出来なかった。さっきまで赤く美しい光沢を放っていたオープンカーの左側のボンネットの先端は大きく凹んでしまっていて、それに続く左側面は引っ掻き傷だらけになってしまっていた。赤い塗料が剥がれて地の鼠色をした金属が顔を覗かせている。弁解の余地はもうなかった。
* * * * *
何とか元の場所まで戻った頃には夕陽は九十度もずれていた。大遅刻だ。勿論僕がやっとのことで戻ってきたときにはターキッシュデライトは既に元の場所で待っていた。道路の真ん中で腕を組んで、無表情で。遠目からでも鋭い視線が僕を射抜いているのが分かった。僕は逃げ出したいのを堪えてターキッシュデライトの元まで車を進ませていくしかなかった。
車を止めた僕はターキッシュデライトの顔を見るのが怖くて、車を降りてすぐに勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「……」ターキッシュデライトは何も言わない。余計に怖かった。
何時間にも感じるような長い沈黙に根負けして恐る恐る顔を上げると、ターキッシュデライトは赤いオープンカーの側面を見つめていた。角度的にターキッシュデライトの位置からは車の傷が見えないように少し車の位置を山側に寄せて駐車したけど、駄目だったみたいだ。目を細めて車を見る表情には怒りの他にだんだん険しさが足されていっているような気がした。傷のことはできれば隠していたかったけどきっとばれている。どうしよう……! 僕がなんて言い訳をしようかと思っていると視線を戻したターキッシュデライトと目が合った。鋭い眼光が閃いた気がした。そして、
「もう!」
僕はターキッシュデライトに怒られた。