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黄昏Delight  作者: 野兎症候群
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第二話 ハッピーワールド

 私の知っているこの世界のルールからすれば、ロクムがこの世界に居るのは明らかなイレギュラーだった。

 お気に入りの赤いオープンカーを制限速度を無視して飛ばしながら私は考えていた。隣で眠っているロクムの柔らかな黒髪は強い風を受けて右へ左へと踊っている。無邪気な寝顔は、ここに居ることがそぐわないはずの幼い少年のものだった。なぜ彼はここに来たのだろう? 残念ながら答えは持ち合わせていなかった。ロクム自身も知らないだろう。

 私は片手で運転しながらこの前拾った年代物の煙管を取り出して器用に火をつけた。一服してロクムに煙が行かないように横に煙を吹いた。百キロ近いスピードのおかげで煙は滞留することなく一瞬で消えていってくれる。私はロクムが起きているときには煙管を吸わないようにしていた。健康に悪いと思ったからだ。尤も、この夕焼けの世界でどのくらい意味のある配慮なのかは分らないが。

 それに私は別にニコチン中毒者というわけでもない。気分が乗ったら吸う、その程度のスモーカーなのである。とはいえ今吸っているのは気分がいいからというわけじゃない。この世界で目覚めてから久しく忘れていた謎に出会ったからである。

 話せる【夢羊】なのか、そもそも【夢羊】ではないのか? どちらかというと後者であるように思える。というより前者ならそもそも【夢羊】という定義から外れるから、前者も後者も同じものだ。選択肢からしてあべこべだった。そしてそれは私の頭の混沌状態と酷似している。

 とはいえ、【夢羊】じゃないとして、ではロクムは一体何なのかと自分に問うてみても答えは出ないのだけど。全く不思議だ。

 あえて考える必要もないのだけれど、それでも最後の可能性を潰すというのなら、ロクムが私と同じ起源を持つ存在というのもあり得ない。そんなことが起こりうるならば私が関知しないはずがないし、そもそも私と同じ役割の存在は二人もいらないからだ。夕焼けの世界は合理的である。すべての物事に意味があり、無意味なものは存在し得ない。

 だとすればロクムには私の考えつかない起源と理由があるのだろう。それが何なのか気にならないことはないけれど、焦って探し求めるほど急いでいるわけでもない。だから私はロクムと一緒に旅をすることにしたのだ。ゆっくり探していけばいい。ロクムの記憶も、その謎も。きっと行き着く先は同じ場所だから。私は急がないし、焦らない。これまで通り。平常運転だ。

 経験的に、この病んだ夕焼けの世界のシステム的に、あまりいい結末は待っていないように思えた。しかし、ロクムは見つけたいと言った。彼は子供だから、その言葉の先に待つ結末なんて考えも及ばなかったのだろうけれど、私は了承した。ロクムが幸せになる結末なんてないことを予感しておきながら、その結末に導こうとする。私はまるで詐欺師だ。でも私は了承した。私の起源に、従った。私は彼の結末を見届けることにしたのだ。長い長い時間の中で築かれたルーチンと同じように。

 視界の隅でもぞもぞと身じろぎする気配を感じて、私は煙管の火を落としてダッシュボードの適当なスペースに煙管を仕舞った。

「あれ、ターキッシュデライト、誰かとお話してた?」

 どうやら私は独り言を言っていたようだ。普段、人と喋ることはないから頭の中で考える癖がついていたが、どうやらぶつぶつと呟きが漏れてしまっているらしい。ロクムみたいな同伴者がいて初めて気付いた事実である。変な考えを口に出さないように注意しなければならない。自分を戒めて務めて平静を装う。

「いや? 風の音でも聞き違えたんじゃないかな」

「ふうん? まあいいや。何か見つけた?」

「うーん、まだ何も見えないかなー。さっきから三時間くらいかな、ずっと飛ばしてるけどここら辺は何にもないわね」

「そうなんだ……。つまんないねー」しょんぼりとしたような声が左耳から聞こえた。

「旅なんて九割くらいはそういうつまんない移動時間でできているようなものよ。それに、この前みたいな【夢羊】ばかりだから、例え何か見つけても悲しい思いをするだけかも知れないわよ?」

「分ってるけど……。でも、悲しい記憶の中に僕の忘れちゃった名前もあるかもしれないでしょ? それに……僕、あの【夢羊】――美春さん――の世界を観ているとき、昔のこと少しだけ思い出せた気がするんだ。もう忘れちゃったけど……。でも……だから、だから……、えーっと、僕は……旅を続けたいんだ」

 私が「じゃあ旅をやめて帰ろうか」とでも言うとでも思ったのか、ロクムは少し焦ったように、絞り出すようにそう言った。横目で見るロクムの顔は少し赤かった。たぶんどうしても記憶を見つけたいとか、そういう深い意図はないのだろうと思う。きっと家でじっとしているより外で何かをしていたいのだ。彼は子供っぽい。もちろん子供だから仕方ないのだけれど。

 目線を戻す。道は遠く先までまっすぐ続いている。夕焼け空も続いてる。変わらない風景に私は目を細めた。鳥や虫のいない夕焼けの下を私の赤いオープンカーが駆けていく。ブォーンというエンジン音と風が耳の横をすり抜けていく音。一日の終わりに刹那の美しさを見せてくれる夕陽は、しかしこの世界では永遠である。静止したような時間の中をエンジン音だけが切り裂いていった。

「ねえ、ターキッシュデライト。ターキッシュデライトはいつからここに住んでいるの?」無言に耐えかねたのか、ロクムはおもむろに訊いてきた。

「ふふう、そうねぇー。この世界が出来てからしばらくしてからだと思うわ」私はとぼけたように返答する。

「しばらくってどれくらい? 半年ぐらい?」かわいらしいことを訊いてくる。ロクムにとっての半年はとても長いのだろう。

「もっと、もーっと長い時間わよ。でも私も正確には分らないわ。だってほら、ここにはちゃんとした時計もないし、朝も夜も来ないんだもの。ずーっとね」

「ふうん? でもずっと夕焼けだと飽きちゃわない? 夕日もいいけど僕は青空の方が好きだなー。……あっ、ねえ、ターキッシュデライトは見たことあるの、青空? ずっとここにいるんでしょう?」ロクムはコロコロと興味の方向を変えていろいろなことを訊いてくる。私は苦笑しながら言った。

「見たことはないけど、写真とか【夢羊】の世界を覗いて知っているわ。日が昇っている世界の、青空。でも空って不思議よね? 日が昇ったら青くなって、沈みそうになったら夕焼け色になるなんて。ロクムはそう思わない?」

「あっ! ホントだね。 なんでだろう?」小動物のように首をひねってこちらを見てくる。

「さあ? ロクムが大きくなったら勉強して教えてちょうだい?」

「うーん、ちゃんと説明できるかわからないけど……、わかった! 頑張って勉強するよ!」彼の大きな目には私が映っていた。

 ふふう、と私は笑ってその素直な言葉と表情を受け止めた。この静止した世界でロクムは大人になることができるのか、私には分らなかった。でも彼はそれを知ってか知らずかその気のようだ。それなら私もそんな未来を楽しみに待ってみるのもいいかもしれない。ロクムに出会ってから私は少し楽観的になったような気がする。そういうのも悪くない。ターキッシュデライトという不幸な自我が笑っても誰も咎めることはないだろう。

 ロクムはまた手持ち無沙汰になってキョロキョロしている。落ち着かないのは子供だからだろう。私の口は自然とほころんだ。そのせいだろうか? 緩んだ口から特に訊く気のなかった言葉が漏れだした。

「ねぇ。ロクムはこの夕焼けはいつまで続いていくと思う?」私の声にロクムはあちこちに彷徨わせていた視線を戻した。

「いつまで? ずっとじゃないの? 今日だってずっと夕焼けだし……。あれっ、もしかしてもう少ししたら夜になっちゃうの?」

「そういう意味じゃないわ。それにいつ夜になるのか、朝になるのか……私にも分らない。でも今ロクムは一つ回答を言ったでしょう? たぶんそれが答え」

「えっ? えーっと、なんて言ったっけ……。あ! 【ずっと】ってこと?」

「そうね。ここは人類が存続する限り、いつまでも存在し続けるよ。ずっとね。でももし、人類みんなが幸せになったら、この世界はなくなっちゃうかもしれない……。でもたぶんそれはないの。刹那の美しさを見せて消えていくはずの夕焼けがいつまでも居残って、夜にも朝にもならないまま夕日が静止した、こんな歪な世界が存在しなきゃいけないくらいに、人間は軋みを上げながら生きているわ。全人類じゃないにしても。色々なものと関係しながら傷つきながら生きている。だから仕方ないんだわ。この世界は人間が上げる軋みを吸収する防音室みたいなものだから人間が生きていくためには必要なの。いつまでも、ずっと」

「いつまでも、ずっと……うーん? どういうこと? 難しくてよくわからないよ」

「ふふう、忘れちゃいなさい。そんな大切なことじゃないから。難しいことは大人になってから考えればいい。……いいえ、大人になってもつらくなったら考えるのを忘れて忘れちゃえばいいわ。難しいことを考えるのはその世界とは無縁な人たちが興味本位でやってくれるだろうから」

「うーん……。でもさ、ターキッシュデライトは必要だって言うけど……でも、いつまでも夕焼けの続く世界なんてやっぱりおかしいよ。なんで夕焼けなの? 青空の方が気持ちいいと思うんだけど……」

 あまり深く答えたくはなかった。何故なら私の答えは彼を変質させてしまうかもしれないからだ。私は答えを知っている。きっとちゃんと答えたとしてもロクムは理解できないだろうけど。

「ここはみんなの世界なの。この黄昏時で止まった世界はみんなの記憶なの。だから私たちは静かに見守ってあげるのよ。干渉しちゃだめ。はかない記憶は、透明なガラス細工のように簡単に壊れてしまうわ」

 私の口は曖昧で抽象的な言葉を奏でてロクムの問いを煙に巻いた。透明なガラス細工。それは果たして【夢羊】のことなのか、ロクムのことなのか、或いは私自身のことなのか。自分が発した皮肉的な響きの言葉がしばらく頭の中で木霊していた。

 ずっと走っていた海沿いの道路の先に急なカーブが見えた。私はギアを落としてエンジンブレーキで緩やかに減速してカーブを曲がった。ギアチェンジが珍しいのかロクムは私の手元のレバーを不思議そうに見ていた。

「……ん、あら。ロクム、向こうに家が見えてきたわよ」

「えっ! どこ?」

「あっち。道路から外れて、川が見えるでしょう? 川と山の間あたりの場所」指で指し示すとロクムは素直にその先に目線を送った。

 赤いオープンカーはカーブを曲がって道路は海から離れ、山の方向へ向かっていた。その先、河川敷なんだかわからない砂利だらけの場所にログハウスみたいな丸太づくりの家があった。ずいぶんと離れているけれど、木の年輪まではっきりと見えた。きっと近くまで行けばその大きさにロクムはびっくりするだろう。加えて太い丸太で組まれた屋根の上には、まるで童謡の世界から持ってきたかのような立派な煙突とそこからから立ち上る白い煙。何ともファンシーに見える建築物だった。

「どうする?」訊く必要もないことだったけれ、私は彼に対する社交辞令のように言った。

「行く!」

 打てば響く太鼓のようなロクムの声に従って、ギアをオーバートップに入れてアクセルを踏み込んだ。ブォォン、という加速音とともに私たちは道路を疾走した。


* * * * *


 川で道が遮られていたため、自動車を適当な場所に止めてから目的地まで結構な距離を歩く羽目になった。なんでこんな立地に家なんか建てたのか、家主には失礼だが少し文句を垂れたい。河川敷に敷き詰められた砂利をブーツのかかとでゴリゴリと地面に埋没させながらズカズカ進んで行く。途中途中で大きな石に足を取られながらついてくるロクムを待つ。傍から見ていると転ばないか心配になるような歩調である。

 大丈夫? と声をかけようかと思ったけれど思い止まった。最近ロクムは子ども扱いされることに少し抵抗を示すようになったからだ。最初の頃は遠慮していたようだったが、一週間前くらいからそういう態度を出すようになってきた。その姿が子供っぽくて笑ってしまいそうになるのだけれど、そんなことを言ったらきっと怒ってしまうだろうから言わないで、静かに待ってあげることにしている。

「そういえば、今思ったんだけど、【夢羊】ってなんで僕たちのことが見えないの?」

 待っているとロクムはそう訊いてきた。この前、海岸の【夢羊】とのことでも思い出していたのだろうか。

「んー、それはねえ、みんな自分のことで頭がいっぱいだからよ。自分の世界に閉じこもってしまっているから、私たちを見つけられないの」

「自分の世界……? 夢中ってこと?」

「ふふう、いい言葉ね。夢中……、まさにその通りだわ。自分の夢の中に浸っている。ロクムがこの前出会った海岸の【夢羊】もそうだったでしょう? 同じ場所にいても干渉できないの。私たちにできるのはただ彼らの夢を観て、そのことを憶えておいてあげるくらい」

「憶えていてあげる?」

「そう。ロクムが来る前から私はずーっとそうやって【夢羊】たちの夢――世界を観て、旅をしているのよ。言ってみれば、私は彼らの夢の守り人になるわけね」

「そうだったんだ……! でも……、悲しい夢ばかりだけど、ターキッシュデライトは助けてあげないの?」

「助けては、あげられないわ。いくら可哀想でもね。なんでだと思う?」

「えっ? ガラス細工だから……?」

 突然質問が来てロクムは戸惑ったような声を上げた。さっきのたとえ話を思い出したのだろう。少し難しいことを訊いてしまったと反省しつつ、ヒントを出すことにする。

「例えば、この前見た海岸の【夢羊】を覚えているでしょう? 彼女の夢はどうだった? 全部が全部不幸で悲しい夢だった?」

「ううん、違った。幸せそうな夢もあった。……あっ、そうか!」

「気が付いたみたいね。そう、【夢羊】たちが夢中になって観ているのは過去の彼ら。幸せな記憶もそうじゃない記憶もごっちゃになった記憶のサラダボウル。不幸せな記憶だけ取り除くことはできないの、だってそれが今の彼らを創り出しているんだから」

「だから、観るだけなんだね」

「そう。そして憶えておいてあげる。ロクムはまだ見たことはないだろうけど、【夢羊】は時期が来れば消えてしまうの。どこに行くのかは、私には分らないけれど……」

「……」

 本当は分っている。だけど、そのことをロクムに告げていたずらに悲しませるのは本意じゃない。知らずに済むのならそれでいい。そして、ここがそういうやさしさがある世界であってもいいだろうと、私は思う。

 会話が途切れて少しして、私とロクムはログハウスの入り口に到着した。煙突からの煙で分かるが、ここには【夢羊】がいるだろう。前回の海岸から大体二週間ぶりくらいの遭遇である。前回はロクムに観てもらったけど、今日の様子からすると彼に【夢羊】の夢を観せるのは控えたほうがいいかもしれないと思った。悲しい記憶にばかり触れることで彼の精神に悪影響が出るかもしれない。保護者なんて責任ある立場ではないけれど、彼のことが心配だった。この情動も私の起源によるものなのだろうか? 

「こんにちわー。誰かいますかー?」そんなことを思いながら、私は無意味と知りながらドアを軽くノックして声を上げた。

「開いとるよ」

 案の定音沙汰も無く……と予想していたが、予想に反して声が返ってきて驚いた。隣でロクムも驚いた顔をしていた。先ほどロクムに説明したことが裏切られてしまって何ともばつの悪い気分になった。さてこの先どうしようか、そもそもどうして返事が返ってくるのかと思案している私の横をすり抜けて、ロクムはドアを開けていた。大人の躊躇を子供は待ってくれない。


* * * * *


 部屋の中に入ると暖炉の前には大きな揺り椅子があり、白い長いひげの大柄な老人が静かに座って、老眼鏡の上から覗き込むようにこちらを見ていた。赤い帽子を被っていたらロクムはきっと「サンタクロース!」と叫んでいたことだろう。そんな穏やかな雰囲気の老人だった。手には読み古したように黄ばんだ本が開かれていたから、もしかしたら読書の邪魔をしてしまったかもしれない、と私は思った。【夢羊】の行動を邪魔した、というのは何ともおかしな表現のように思えたが、ことこの老人に限って言えば間違っていないだろう。この老人は私たちを認識している。

 老人の前、子供が入り込めそうなほど大きな暖炉ではパチパチと薪が音を立てて燃えており、竹串に刺したリンゴが暖炉の前で炙られていた。私たちのいるところにまで仄かな甘い香りが漂ってくる。暖かな生活感のある家である。

 憂鬱な雰囲気のない老人の【夢羊】はにこにこと笑顔で手招きをしてくる。見知らぬ家の雰囲気に少し緊張しながらもロクムはトコトコと暖炉の前まで歩いて行く。ずっと入り口で突っ立っているわけにもいかず、ドアを閉めて私もロクムに続いた。

「おお、シオン! ずいぶん大きくなったなぁ。それにお前は……テミスか! お前は歳をとっても若い姿のままだ。婆さんもお前みたいに綺麗なままだったらなぁ……。……ああ、立たせたままですまんなぁ……。ほれ、そこらへんに椅子があるだろう。それをこっちに持ってきて座りゃいい。俺はじじいだから、自分でやってくれや。……そうだ、もうすぐリンゴも焼けるから、シオン食べていいぞ」

「ありがとう! えっと……、おじいちゃん!」

 老人の【夢羊】は私をテミス、ロクムをシオンと呼んだ。雰囲気から察するに私を娘、ロクムを孫とでも思っているのだろう。老人の好意(或いは勘違い)に甘えて私とロクムは表面が光沢を放つほど綺麗に磨かれたマホガニー色の長椅子を暖炉の近くに持ってきて腰かけた。シャリ、シャリという音に気が付いて隣を見るとロクムはいつの間に取ってきたのか焼きリンゴを頬張っていた。火傷しないかと少し心配になったけれど、まあ彼の様子からするに大丈夫なのだろう。頬袋を作って食べる顔はなかなか滑稽だったが笑わないでおいた。

 ロクムから視線を逸らすついでに首を動かしてログハウスの中をぐるりと見渡した。外から見た外観は機能性度外視のファンタジックな丸太づくりに見えたが、内装は平たく加工された木がすき間なくしっかり組み合わされた実用的な構造になっていて隙間風は入ってきそうにない。案外住みやすそうな家である。そのまま視線を下げた先、様々な木の模様が浮かぶ床板はささくれ一つ無く、ワックスでもかけてあるのか控えめな光沢があった。床の上には木彫りの動物の置物や大きなゼンマイ時計、色ガラスを使ったランタン、使い古されて色が黒ずんでいる薬缶。色々なものがあった。

 視線をさらに動かしていき、ふと壁に飾られていたLabor Award(勤労賞)と書かれた賞状に目が留まった。賞状の隣には、スーツ姿の会社の同僚たちに囲まれて泣き笑いのような表情で賞状を持って写真に写る、今よりも若い老人の顔が並んでいた。写真の雰囲気からして退職記念か何かなのだろう。別にそれが特別珍しいものであるわけではなかったが、ひっそりと埃と時間を堆積させている他の置物と違って浮かび上がっているように感じた。

「おじいちゃんはずっとここに住んでいるの?」

 声が聞こえて、目線を戻すとリンゴを食べつくしたロクムが老人に声をかけていた。口の端についた食べ滓に気が付いて指先で取ってあげるとくすぐったそうに顔をそらした。かわいい。

「ずっとじゃねえよ。何時だったかなぁ……? あー、わからんなぁ。俺は今さっき目が覚めるまでしみったれた病院みたいな場所にいたと思っていたんが、お前らが外でなんか喋っていることに気が付いて起きたらここで暖炉にあたっていたんだ。あのつまらねぇ場所にはずっと居たような気分だったが、春の夜の夢の如し、って言うんかなぁ。目覚めてみりゃちょっとした夢だったって思っちまうくれぇ……、あんまり面白くねえ夢だったなぁ」老人は呆けているのか話の脈略が少し欠いていた。

「ふうん? どんな夢だったの?」

「きっとシオンが聞いてもつまらん夢だ。……何年も何年も白っぽい部屋でベッドで寝て、よくわからんテレビを見て、俺の嫌いな古い民謡ばかりを毎日聴かされた。看護婦みたいな姿の世話係に俺が何を言っても変わらねえんだ。毎日がまるで覚めない悪夢みたいだったなあ……」

「病院みたいなところ? ……お薬も飲む?」

「もちろんだ、シオン。一日に何個も飲む。苦いやつもあったぞ。シオンは飲めるか?」

「無理無理!」ロクムはぶんぶんと首を大きく振って嫌そうな顔をした。

「ははは、シオンは正直で良い。俺も面倒で嫌だったが、まあ仕方なしに飲んでやっていた。大人の義務だからな。……、ああ、そうだ。シオン、でもその病院みたいなところに行く前はそんな悪くない夢だったんだぞ」

「病院に行く前? 病院に行く前の夢もあったの?」

「ああ。働いていた頃の夢もあったし、婆さんと結婚した時の夢もあった。……ずいぶん長い夢でなぁ、俺の人生を一巡するくれえ長かった。病院に行く前は俺は四十年くれえ、冴えないサラリーマンをやっていたんだ……」


* * * * *


 俺は、こう言っちゃあなんだが本当にダメな奴でな、はっきり言って仕事はそんなに出来なかった。物覚えが悪いのもそうなんだが、とにかく要領が悪かった。何度やってもしばらく経ったらすっかり忘れちまうし、他の奴らよりもずーっと時間がかかっちまってとんと上達しねえ。だから毎日ヨレヨレのスーツ着て頑張っても全然昇進出来なかった。一回りも二回りも若けえやつらがあっという間に俺よりも給料をもらうようになっちまうんだ。俺からしてみればうらやましかったが、天賦の才のねえ俺には仕方ないことだと思って嫉妬はしなかった。

 唯一俺が誇れるのは健康くらいだった。俺は働いてる間、四十年間一回も病気にならなかったし、一回も会社を休まなかったんだ。すごいだろう? ……あー、……いや、確かテミスが生まれるときに一回だけ休みをもらったな。シオンが生まれた時はちょうど祝日で休みだった。成長したお前らを見ると、そんなことはもうずいぶんと昔のことのような気がしてくるなぁ。

 まあ、そんな俺でも人付き合いは良かったから他の奴らに支えてもらって何とか定年まで仕事していくことができた。ほれ、あそこに賞状と写真があるだろう? シオン持ってきてくれ。そう、それだ。

 これは俺の退職祝いの時の写真なんだ。聞いて驚け? 周りにいる若けえやつらは、全員俺の上司なんだよ。みんな俺の部下から始まってどんどん追い抜いて行ったんだけどな、俺の退職の時には何処から聞きつけたのかみーんな集まってきやがってよ。……まあ、なんだ? 嬉しくて泣いちまってそのまま写真撮られちゃったってわけよ。恥ずかしいから捨てようかとも思ったんだがよ、写真の裏にびっしりと寄せ書きなんて書いて渡してくるもんだから……、まあ仕方なく飾ってんだ。

賞状はそんときの社長が勤労賞だってくれたやつでな、これまで人から賞をもらったことなんて一度もなかったから嬉しくてよ、こいつも一緒に並べて飾ってんだ。

定年退職したらやることがなくなっちまってな。そしたら急に白髪が増えてくるわ、物忘れが激しくなるわで婆さんにはずいぶん迷惑をかけちまった。テミスは家庭を持ってどっか行っちまったし、シオンは……あー学校の何かで寮に入ったかで出て言っちまったから知らないだろうけどな。まあ、爺、婆だけだと何かと大変だった。

 それから……うーむ、何があったんだったか……。忘れたな。ははは、喋っていたらどこまでが夢で、何処までが俺の人生かわかんなくなっちまったよ。まあ呆け老人の戯言だと思って許してくれ。


* * * * *


 話を聞いて私は「ああそうか」と納得した。ずいぶんなレアケースに遭遇したものである。

【夢羊】は時期が来れば消えてしまう。その時期は、目の前に老人にとっては今なのだ。そう、この老人はもうすぐ失われてしまうのである。夕焼けを繰り返し続ける永遠の世界に唯一許された喪失。その儚い瞬間のすぐそばに私たちはいるようである。

 さっきロクムに説明した言葉は間違ってはいないが真実でもない。体の良い表現で取り繕った中身の無い叙述に過ぎない。【夢羊】は基本的に現実に肉体を置いて精神の一部だけがこの世界に来ている人間だ。夕暮れの海岸に囚われていたあの【夢羊】もこの老人も――そして恐らくロクムも――身体は現実にある。ここにあるのは……ただ思いの抜け殻だけだ。だから私と【夢羊】とでは対話できないのだ。基本的に。

 勿論、基本があるなら応用があるように、不変の世界にも数少ないとはいえ例外はある。【夢羊】と私が、対話できるケースがある。或いはもはや眼前に腰かける老人は【夢羊】ではないのかもしれない。夢中ではなく、迷ってもなく、この世界に明確な意識を持ってきているのだから。……現実を置いてきた人間なのだから。

 老人はもう元の世界から意識を引き上げてしまったのだろう。有り体に言ってしまえば、死んでしまう最中なのだろう。走馬燈を見るのに丁度いい時間だ。だからこそ、夢中ではなく現実の意識を持ってここに存在できる。

 それはとても珍しいことだった。人の一生が終わるほんのわずか前に出会わなければ、気が付かぬ間に【夢羊】たちは消えていく。大多数の【夢羊】たちは最期を誰にも看取られずに消えて行ってしまう。私にしてもこれまで数えるほどしか出会っていない。そんなレアケースだった。

 ロクムは運がいい。人間味のある人間にわずかな時間とはいえ出会えるなんてこの世界ではとても貴重なことなのだから。それに相手は穏やかな人物だ。たまにはロクムにも温かな人間味のある人間との対話が必要だと思った。その相手は私では駄目なのだ。私の起源はそもそもが子供に良いものじゃない。正直に言って、私はロクムと一緒に居るべきではないのである。

 私はロクムを気に入っていて、たぶん彼も私のことを好いているとは思う。少なくとも、今はまだ。しかし、私は節度を持ってロクムと接しなければならない。あまり彼に近づきすぎてしまったら、彼はもう帰る道を見失ってしまうかもしれないから。

 ターキッシュデライト。その名に宿る魔性を、私は恐れている。恐れが私を紳士的にし、ロクムと深く信頼関係を作ることを遠ざけている。あくまで大人と子供という関係を貫こうとしている。ピシッと決まったバーテンダーの白いワイシャツも黒いベストも、夕焼けを反射してオレンジ色に輝くモノクルも、全てが私を守る空虚な鎧なのだ。私の魔性がロクムに直接触れないための、鎧。

 いけない。感傷的な気分になってしまった。身体のほとんどを占める起源が私をそうさせる。私は無理して抗う。曖昧な笑みを浮かべ、モノクルに窓から差し込んできた夕陽を反射させながら、私は抗う。今、ターキッシュデライトはロクムの付き人なのだ。付き人は付き人らしく振舞わなければならない。紳士的に、紳士的に。

 おしゃべりな老人とロクムが話している姿を私は静かに見守る。そうするのが自然だとでも言うように静かに見守る。私はロクムと旅を始めて色々なことに悩むようになったと思う。強がりになったとも思う。本当の私はこんなにも脆弱なのに、ロクムの前ではロクムにしか通じない空虚な鎧をまとって紳士ぶっている。

 私は一体何なのだろう? まるで【夢羊】と同じだ。客観的に見てよく分らないことに悩んで、自己嫌悪に忙しい。全くナンセンスである。幸せと悲しみばかりが滞留するこの世界を観ているうちに私は【夢羊】たちに似てきてしまったのかもしれない。眼前の幸せな風景だけを見ることが出来ず、心の奥底で渦巻く悲しみの記憶ばかりに気を取られている【夢羊】のように、私の中には恐ればかりがある。ロクムと過ごす時間は楽しいのに、それよりもその時間が終わる瞬間を恐れている。楽観的にいられない。そんな思考が幸せなはずがないのに。

「あなたは幸せですか?」

 私の口は自然にそう聞いていた。口が動いた感覚はなかった。耳も私の声を聴いたかどうかよく覚えていない。錯覚かもしれない。思考していただけで実際には口には出てないのかも、と。しかし老人もロクムもこちらに視線を向けていた。どうやら錯覚ではなかったらしい。この世界ではこういうことがたまにある。思ったことが勝手に行動に移っていたりする。思考が物理を超越するのだ。

「あ? なんだよ、改まって。……まあ、幸せだよ。思い返してもよぉ、人生を通じてこれといっていいこともなかったし、仕事もそんな出来なかったがよ、俺は楽しかったし、幸せだったよ。そりゃあ歳取ってから病院に行くことが増えて面倒でいやだったが、それでも、な。俺の周りにゃあろくでもない連中がいっぱいいたし、つまんねえ理由で死んで行った奴もいっぱいいた。そういう奴らに比べて俺はずいぶんと幸せだった。健康だったし気も確かにここまで生きてこれたからな。俺は誰にも振り回されなかった。幸せ者だよ、ホントによ」

「お婆さんは? ここにはいないけど?」ロクムが訊いた。

「あ? そうか、シオンは知らなかったな。婆さんは最近逝っちまったのさ。おっちんじまったんだ」

「おっちんだ? えーっと……?」

「ははは、婆さんは天国に逝っちまったんだよ。つい最近な。あいつが逝っちまって寂しくなっちまったが、俺もそんな長くねえから別れを惜しむこともねえ。近いうちに会えるさ。そしたらまた連れ立って散歩にでも出かけりゃいい。ちょっとぐれえ遅刻しても、あいつは良い女だから許してくれるだろうしなぁ」

「おじいちゃんは……悲しくないの? 一人になっちゃって……」

「まあ、……なんだ? シオン、人間ってのは大体独りぼっちなもんさ。おめぇはまだ小せえから一人でいるのは寂しいかもしれんが……、まあ大人になればわかる。……俺が婆さんと過ごした時間は長い人生のほんの一瞬だ。仕事も長いことやっていた気もするが、終わってみればこれも一瞬だった。一番長く感じたのは病院みてえな場所での生活だったし面白いこともなかったが、まあきついことは何にもなかった。そんで、大体一人だった。シオン、人生なんて大体一人なんだ。だから一人でいるときを心配するより、誰かと一緒に居る時間を幸せに楽しめばいいんだよ」

「……」ロクムは話の筋が分らないような神妙な顔で話を聞いている。

「シオン、それにテミス。幸せなんてそんなたいそうなもんじゃねえ。俺の人生は不幸じゃなかった。だから過去を思い返してみてそこに幸せを見つけることができた。なんてことのねえ日常ばっかでもな。……俺はなぁ、幸せは手に入れるもんじゃなくて、勝手に手に入っているもんだと思う。そりゃあ、俺の手が幸せをうまくつかめないからかもしれんが、そんな奴でも幸せは手に入る。要は、空気みたいなもんなんだよ、幸せっていうのはよ」

「……空気」

「ああ、つかみどころがねえ。……テミス、お前はどうだ? お前は、幸せか?」

「私は……」

 にやっと愛嬌のある笑みを浮かべた老人の問いに私は沈黙する。目線は定まらず部屋の中を彷徨って、最終的に老人の膝の上の写真に戻った。泣き笑いを浮かべる若かりし日の老人の顔。私は幸せなのか? 写真は答えを語らない。

「……あっ!」

 私の沈黙に飽きたのかロクムが声を上げた。私は飽きもせず写真をモノクルを通して眺めている。老人の言う幸せは人間にとっての、一つの答えだろうと思う。では人間とは違う私の幸せは一体何なのだろう? 人間から生まれたけれど、人間とは違う私の、ターキッシュデライトの幸せの形は? 分らない。

 ふいに、写真に影が落ちて、それから音がした。老人が椅子から崩れ落ちていた。


* * * * *


「ねえ! ターキッシュデライト! 助けてよっ! おじいちゃん、息していないんだ!」

 老人に駆け寄ったロクムが叫ぶ。椅子ごと横倒しになった老人の肩を何度もゆするが、老人の身体はされるがまま無力に揺れるだけである。なんてことはない。今が老人の寿命なのだ。焦ったロクムの声が無慈悲に暖かい部屋の空気を振動させている。

 私への問いかけを残して老人は眠るように死んでいった。前触れもなく、突然に。老人は先に死んだお婆さんのところに行けるだろうか? 先の問いかけから逃げるように私はそう思った。死後の世界はどんなところだろうか? そこは幸せに満ちているだろうか? 分らない。自分が幸せかどうかも分らない私にそんなことわかるはずがなかった。

 気が付くとロクムは声を上げて泣きだしていた。出会って間もなくとも人が死ねば悲しむ。当然の反応である。私は慣れてしまったから、出会って間もなくこういう結末になるだろうと予測できてしまったから、悲しまない。私は狡賢い大人である。突然の悲しみに耐えることは難しいから、予測した結末に備えて悲しみに心を順応させていく。長い長い時間の中で私は悲しむことを飼い慣らして、耐えることに慣れてしまったようだ。

 私はロクムのことが気がかりだった。まだ子供の彼にまた悲しい想いをさせてしまった。彼は私とは違うのに。まったく、物事は私の思い通りに進まないものだと思う。私にできることはあまりないけれど、ロクムの悲しみを昇華させるために口を開いた。

「ロクム、手を合わせてあげましょう。私たちにも、それくらいはできるでしょう?」私は床に座り込んでいるロクムの肩にそっと手を置いて言った。

「いやだよ! ねえ、どうにかならないの? おじいちゃん、あんなに幸せそうだったのに……。そうだ! あの写真みたいに元に戻るよ、きっと! ねえ、そうでしょう? ターキッシュデライト!」

「元には戻らないは戻らないわ。お話できる【夢羊】は遅かれ早かれ、消えてしまう運命なの」

「そんなことって……」ロクムはいやいやをするように下を向いたまま力なく首を振った。さらさらとした少し長い黒髪が宙を流れた。

「ロクムが嫌でも、私たちはそうすべきだわ。悲しむだけなら、【夢羊】にでもできる。私たちはその死を祈ることができる。せめてこの老人が天国でお婆さんと幸せに過ごせることを祈りましょう」

「…………うん」立ち上がったロクムが手を合わせて目を閉じたのを見て、私も黙想する。

 幸せ。私の幸せが何なのか、まるで見当がつかないけれど、ロクムの幸せはどうだろう。ロクムにとってはこんな不毛な世界よりも現実の日常の方が幸せに満ちているんじゃないだろうか。例えば、学校の友達と遊んだり、家族で旅行に行ったり。楽しいことが溢れていてもおかしくない年頃だと思う。そこら中に幸せがあってもおかしくはないはずなのに、彼はこの夕焼けの世界に招待されてしまった。彼の幸せは一体どこにあるのだろう?

 私が自分への問いかけから避けているうちにロクムは目を開けた。ずいぶん長くお祈りをしていたように思える。ロクムの顔は少し赤くなっていたけれど、もう涙は止まっていた。

「行こう?」

「……うん」

 私はロクムの手を取ってログハウスを出た。途中ロクムが後ろを振り返る気配を感じたが、私は何も言わずに足を進めた。

 ログハウスの外は相変わらずの夕焼け空だった。一人の人間が死んでもこの世界は変わらず永久の夕焼けに照らされ続けている。

 私たちが家を出て、振り返ったときにはそのログハウスは消え去っていた。後には名残すらもなく、先ほどまでは存在していなかった砂利石がひしめいているだけだ。この世界は観測者の一瞬の不在をいいことに物理法則を無視して矛盾を消し去ってしまう。この世界は全く不自然だ。

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