第一話 囚われ海岸
車に乗って移動している間、ターキッシュデライトと色々なお話をした。なにせただただ広い世界だったし、目的地もなかったから。僕らはただ何かを見つけるまで走り続けるしかなかった。
通り過ぎていく風景を見ていて気が付いたけど、この世界にも都会と田舎があるみたいだった。最初僕とターキッシュデライトが出会った場所は比較的建物とかが多い都会だったけど、車で移動を始めて十分も経たないうちに夕陽と茜空と海と道路と街路樹以外見えなくなった。たまに通り過ぎる建物もまるで廃墟みたいだった。
最初こそ物珍しくてキョロキョロと風景を楽しんでいた僕も、変わり映えのしない田舎の風景にすぐに飽きてしまった。空を見上げても鳥一匹飛んでいない。ただ黄昏色だけが広がっている、そういう世界なのだろう。夕方の五時を過ぎた後の公園のようだと思った。それまで熱に浮かされたように夢中で遊んでいた友達も五時を告げる鐘が鳴るとみんなせかせかと帰ってしまう。そんな公園。
ふと脳裏に懐かしい風景が蘇った。門限のない僕だけが一人、人がいなくなった公園に残っている。暇を持て余した僕は公園を歩き回って何か面白いものがないかを探しているけど、不思議と何もないんだ。さっきまであんなに楽しかった公園から急に大事なものが失われてしまったように感じた。しかし、そんな不思議な感じもすぐにまどろみの中で見る白昼夢のように霞んで消えた。
手持無沙汰な僕はターキッシュデライトに色々な質問をした。夜にならないけどいつ寝ればいいのかとか、人がいないけどスーパーはあるのかとか、そんな些細なことだ。ホントはもっと聞きたいこともあった気がするけど、話しているうちに忘れてしまった。僕は忘れやすい。
そうだ。僕の質問の合間にターキッシュデライトが【夢羊】について教えてくれたことを思い出した。海岸沿いの道路を走っていた時だ。その時、【夢羊】を見つけたんだ。僕は会話が途切れて眠くなってきた頭でそのことを考えた。
* * * * *
「ここには【夢羊】ばかりだよ。最近特に多いの」長いドライブの最中、目を細めてどこか遠くを見ていたターキッシュデライトがつぶやいた。口の端でたばこが揺れた。聞きなれない言葉だった。
「【夢羊】?」
「ん? ああ。ロクムはそういえば知らないわね」彼女は感情の読めない曖昧な笑みを浮かべて言った。
「うん?」
「そうねぇ……。ロクム結構遠いけど向こうの橋にいるの見える?」ターキッシュデライトは片手で器用に運転しながら先ほどまで見ていた方向を指さした。視線を向ける。
「うーん……、あ! おじいさんだ!」
遠くに大きさな赤い橋が見えた。鉄骨が巨大な幾何学模様を描いている。久しぶりに見る建造物だった。橋の入り口、赤いアーチの根元に背中が九の字に曲がったおじいさんが見えた。豆粒みたいな大きさだったけど、僕にはよく見えた。僕はこんなに目が良かったっけ?
「そうね。あれが【夢羊】よ」
「えっ! 羊じゃないよ?」
「まあー、そうねぇ……。私が勝手にそう呼んでいるだけだから、そう言われちゃったらどうしようもないのよね……」
「じゃあ、なんで羊なの?」ターキッシュデライトはばつが悪そうにポリポリと頬を掻いて、煙草を一口吸った。そして少し逡巡した後、こう答えた。
「ロクムは迷える子羊ってわかる?」
「牧師様が言うやつ?」
「そうね。神様が守ってあげてる自分のゆく道も分からない哀れな人たちのことね。あそこでいるおじいさんもね、そうなの」
「迷ってるの?」
「そう。夢の中をずっとね。だから【夢羊】って名付けたの。この世界にはああいう【夢羊】がいっぱいいるのよ」
「ふうん? 不思議!」
「そうかもね」
「もしかして、僕も【夢羊】?」人間が【夢羊】ならきっと僕も仲間だと思った。
「たぶん違うと思うわ。もちろん私もね」
「どうして?」
「【夢羊】は誰とも会話ができないからよ。彼らはぶつぶつと壁とか何もないところに何かを言うことしかできない。私とロクムはこうやっておしゃべりできるけど、【夢羊】は彷徨うことしかできないのよ」
「そうなんだ……。ずっと迷子なのはかわいそうだね……」
「迷子……ね。迷子は嫌い?」
「うん! だって不安だよ? 迷子になったらお母さんに会えなくなっちゃいそうで、僕は怖い」
「そうね。でもたぶん【夢羊】たちは大丈夫よ。わかっていないから」
「わかってない?」
僕はそう聞いた。さっきからオウム返しばかりだと思った。僕には分らないことがたくさんある。それでもターキッシュデライトは嫌がらずにきちんと答えてくれる。そのことを考えたとたん、チクリと頭が痛んだ。なんでだろう? 僕の記憶に関係があるのかもしれない。すっかり忘れてしまった記憶。
思い出せないことはつらい。魚の骨が喉に引っかかるみたいな、いやな感覚だ。だからこれから聞くことはキチンと覚えていかなきゃならない。忘れないように。僕は噛みしめるようにそう思った。
この夕焼けの世界に慣れてきたせいか僕はいろいろなことを考えられるようになっていた。色々なことが一通りわかってきて余裕が出てきたからだろう。心なしか昔よりも色々考えることができる気がする。
「そう。自分たちが迷っていることに気が付いてないの。だから不安に思わない。ロクムは虹と幸せのお話を知っている?」
「何それ?」
「日本の作家が書いたお話で、虹の中にいる人たちはそのことに気が付かなくて、その人たちを外から見ている人だけが知っているの、それがとてもすごいことだって」
「虹の中にいても分からないの? あんなにカラフルなのに」
「そうなの。【夢羊】も同じ。自分たちが虹の中で迷っていることに気が付いていない。私たちだけが知っているのよ」
「僕たちだけが知っている……。じゃあ、僕たちは特別?」
「ふふう。或いは、そうかもね」キラリとターキッシュデライトのモノクルが光った。
* * * * *
優しくゆすられて起こされると砂浜についていた。漂流物が点々と影を作る砂浜の先には穏やかな波が押し寄せていた。首を回して背後を見ると下ってきたと思われる整備された道路と大きな海の家が見えた。ここはどこかのリゾート地なのかもしれない。
僕とターキッシュデライトは車から降りて波打ち際まで歩いて行った。相変わらず空は夕焼けで、海に反射したオレンジ色の光の筋がずーっと遠くから、僕らの足元まで続いていた。
しばらく潮っぽくて生暖かい海風を堪能していた僕はふと流木の木陰に光るものを見つけた。ターキッシュデライトを急かして見に行くと古い白黒写真だった。
「ふうん、恋人同士の記念写真か何かかしら?」
ターキッシュデライトが写真を拾い上げて言った。僕が彼女の手元を背伸びしてのぞき込むと、そこには枯れ木通りを歩く男女の姿があった。二人とも後ろを向いているから誰か別の人に取ってもらった写真だろう。表情は見えないけど、幸せな雰囲気が伝わってくる写真だった。
「夫婦なのかな?」
「たぶんね」
「いい写真なのに、なんでこんなところに捨ててあるんだろう?」
ターキッシュデライトは、うーんと唸ると元あった場所に白黒写真を置くと背筋をピンと伸ばしてあたりを見渡した。半回転したあたりで停止。海の家を指さした。
「たぶん、あそこに行けばわかるかもしれないわよ」
「どういうこと?」
「考えてみて」
「うーん……。あ、これはもしかしてさっき言っていた【オブジェクト】ってやつなの?」
「そう。たぶんだけどね」
「【オブジェクト】は【夢羊】の人たちの持ち物なんだよね。この近くに【夢羊】がいるってことでしょ?」
「そうねー、でも持ち物じゃないわ。【夢羊】たちにとって大切な、思い出の詰まったものよ」
「そうだっけ? まあいいや! 行ってみようよ!」
僕の記憶のヒントがどこかに隠れているかもしれない。この写真は最初の手がかりだったんだと僕は短絡的に喜んでいた。昔やったRPGゲームみたいで面白かった。しかし見上げたターキッシュデライトの顔は僕のそんな気持ちとは裏腹にちょっと悲しそうな顔をしていた気がした。でも僕はそんなこと気にならなくて足早に海の家に向かっていった。
「まあいいけど、たぶん期待しているほど面白くはないと思うよ」
だから付け足すようにそう呟いた彼女の言葉はほとんど僕の頭には入っていなかった。
* * * * *
海の家は遠目で見た通り大きかった。外との仕切りのない店内に入ってみると六人掛けの四角い簡易プラスチックテーブルが均等に四×三の形に配置されていたが、使われているのはそのうち入り口に近い一つだけだ。女の人が一人椅子に座っていた。他にお客さんはいない。きっとあの人がさっきの写真の持ち主なんだろう。
僕は近くまで行って彼女の顔を覗き込んだ。【夢羊】を近くで見るのは初めてだったけど、見た目は普通のきれいな女の人に見えた。長い黒髪の下には大きな瞳とその隣に泣き黒子。美人だと思ったけど、俯いたままの暗い表情がちょっと怖かった。何歳なのかはよくわからなかった。大人はみんな大人だから、子供の僕には見分けがつかないのだ。そういえばターキッシュデライトは何歳なんだろう? 今度訊いてみよう。
穏やかな海風が入り口を抜け、彼女の前髪を吹き上げた。そして近くでまじまじと見ていた僕は突然顔を上げた彼女に驚いて尻餅をついてしまった。背後でターキッシュデライトがコロコロと笑っている。僕は恥ずかしくてすぐに飛び起きた。【夢羊】は僕らのことを見れないからそんなにびっくりすることはないのは分っていたんだけど、やっぱり突然顔を向けられるのは怖い。
「もう! 笑わないでよ」そう言うと、ごめん、とでも言うように彼女は大げさに肩をすくめた。僕が怒ろうとする前にターキッシュデライトは女の人の方を指さして言った。
「まあ、ロクム、見てみて。たぶんついていけば面白いものが見られるわよ」
ターキッシュデライトの指先を辿ると女の人が店を出るところだった。音もなく彼女は立ち去ろうとしていた。目で追う彼女の動きはそんなに早そうには見えなかったけど、店を出たその背中は急速に小さくなっていった。
「待って!」
女の人を追いかけて僕は店を飛び出した。
彼女は波打ち際に向かって歩いていく。さっきの暗い表情を思い出して、昔の人みたいに入水自殺でもするんじゃないかと思った。チクリと胸が苦しくなった。先生に怒られた後みたいに、胸が重たい感覚。でも僕はかまわず女の人を追いかけた。彼女はもう水際まで到着しそうだった。
間に合わない、と思ったけど走り出した僕の体は信じられないくらい素早くて……。そして、いつの間にか立ち止まっていた女の人の背中にぶつかった。彼女に触れた瞬間、視界が弾けた。
* * * * *
気が付くと僕は枯れ木通りに立っていた。左右を背の高い白い幹の樹木が行儀よく並んでいる。そして遠巻きに色々な形をした高層ビルがぐるりと僕を取り囲んでいた。都会の風景だった。
僕の着ていた厚手の白いコートが冷たい冬の木枯らしに揺れた。風になびいた髪の毛が顔にかかって痒くて、でもほんのりいい香りがした。そこは寒かったけど、僕の胸は不思議と幸せいっぱいで暖かかった。
ふいに優しい目をした男の人が、聞きなれない優しい声で僕に話しかけてきた。大人の男の人がこんな声で僕に話しかけてきたことはこれまで一度もなかったから、ちょっと不思議な気分になった。
「美春。寒くない?」
「大丈夫よ。……でもちょっと寒いかしら。健三さん、何かない?」僕の口から出た声は女の人の声だった。それに僕の言葉じゃなかった。子供とは違う大人の女の人の高い声。
「困ったな。かけてあげられるマフラーとかもないし……」
「じゃあこうすればいいのよ!」僕は男の人に柔らかく抱き着いた。寄せ合った身体に間に熱が生まれた気がした。
「美春……」
「暖かいでしょ? このまま、行きましょ……ずっと」
「ああ」
* * * * *
瞬きをすると僕は見覚えのない部屋に居た。僕は椅子に座っていて、目の前には夕日に照らされた薬瓶。僕はクタクタに疲れた時のように動く気を失っていた。でも疲れた時とは違う気分だった。胸が重い。きっと嫌なことがあったのだろうと思う。でも僕はそれが何かを思い出せない。なんだか夕焼けの世界に来てから僕には思い出せないことが多い。この思考も何度目かだ。
窓の外からは救急車のサイレンがわーんわーん、と響いていた。
目線の先、テーブルの上に白い錠剤の詰まった薬瓶が置いてあることに気が付いた。お薬だろうか? 僕は萎えたように動きの鈍くなった細い手を伸ばして薬瓶のふたを開けた。また僕の意思とは関係なく体が動いていく。ふと、これは誰か別の人の身体なんだと気が付いた。きっと誰かの夢を見ているんだ。
誰かの身体は薬瓶のふたいっぱいに白い錠剤を満たしていった。こんなに一杯お薬を飲まなきゃいけないのは、もしかしたら大変な病気だからなのかもしれないと思った。苦そうなそれを誰かの手は口元に運んでいく。僕は次の瞬間口の中に広がるだろう苦みに耐えるために目を閉じようとして、思いが重なるように誰かの瞼も落ちた。
固唾を飲んで待った。しかし、いつまでたっても苦みは来なかった。誰かの手はテーブルにお薬の入ったふたを戻してしまっていた。飲みたくなくなったのかもしれない。僕はホッ、とした。でも胸の重みはなくならない。
誰かの瞳を通して、僕は薬瓶をじっと見つめていた。日が水平線に沈んで部屋はどんどん暗くなっていく。夜になって、窓から見える街明かりだけが部屋をぼんやり照らす頃になっても、僕はピクリとも動かないまま薬瓶を見ていた。まるで石像だと思った。でもそうさせているのは、一体何なのだろう?
* * * * *
次に瞬きをすると、そこは病院だった。僕は泣いていた。視界は涙で埋まっていて何も見えない。息ができないほど声を上げて、泣いていた。短くしゃくりあげるときにしか呼吸ができなくて苦しかった。その誰かの苦しみを僕は共有していた。
仲良しだった友達が転校しちゃったときよりも悲しくて、胸がカラカラに乾いたように、痛い。さっきまで感じていた胸の重みとは違う、痛み。怪我をしたわけでも、腹を打ったわけでもないのにひどく実際的な痛みがあった。身体を中から焼かれるような、痛み。
何がそんなに悲しいのか、痛いのかわからないまま時間が過ぎていく。涙を何度もぬぐった目元が痛くなってきて喉も乾ききって声も出せなくなった頃、誰かの目は白いシーツに顔を覆われた男の人を捉えた。囚われた。
「健三さん……、どうして……? どうして……なのよ! どうしてこんな時に……。これから、もっと……もっと一緒に暮らせるっていうのに……」
「落ち着いて美春さん。事故だったのよ。健三さんは悪くないわ。全部あっちが交通違反して突っ込んできたから……。保険だって……」老いた女の人の声が背後から聞こえた。
「そんなこと……! どう……っでも、いいの……よ! そんなこと言っても、……健三さんは帰ってこないじゃない!」激昂して、誰か――たぶん、美春さん――は陰鬱な部屋を飛び出した。
走って、走って、走って、呼吸ができないほど息が切れた頃、行きついた先は海岸だった。あの見知らぬ部屋で感じていた脱力感が身体を包んできて、僕は砂の上に膝から崩れ落ちた。必死になって走っている間は忘れられていた胸の重みと痛みが一気に沸き上がってきて、崩れた。
「……どうしてなの……? どうして私ばっかり……。幸せに……なりたいだけなのに……。どうしてよ……」かすれた呟きはどこにも届かないまま海風に流れて消えた。
* * * * *
ぽんっ、と頭に置かれた手の柔らかな衝撃で僕は夢から覚めた。僕は砂浜のど真ん中で立っていて、女の人はいつの間にか写真の落ちていたあの流木のそばに佇んでいた。
「起きた?」腰を折ってターキッシュデライトが訊いてきたのでうん、と頷いた。
「今のは? なんか僕、美春さんになっていたみたいな……」
「【観て】来たのね、【夢羊】の彷徨う夢の中を」
「【観る】?」
「そう。ロクムはさっきあの人――君が言うに美春さん――に触れたでしょう? それがきっかけ。【夢羊】に触るとその記憶――いや世界といった方が適切かも――を覗けるのよ」
「記憶? 世界?」
ターキッシュデライトの答えを反芻することしかできない僕にはさっぱり何もわからない。なんで触ると【観える】の? その見える世界って一体なんだろう? 次の疑問を口にしようとしたとき、ターキッシュデライトは夕陽のを指をさした。
「ほら。あれが多分、ロクムの【観た】世界の終点」
彼女の指の先、夕陽の下には美春がいた。流木のそばにかがみこんでいた彼女は何かを片手に立ち上がった。四角いそれは……、あの白黒写真だ! 彼女は俯き加減にそれを見つめているようだった。
そして、おもむろに顔を上げて夕陽を見た。なんだか嫌な予感がして僕が走ろうとすると、グイッ、と右手を引っ張られた。見るとターキッシュデライトが首を振っていた。どういう意味か分からないまま僕が前を向くと、美春は写真を海に向かって投げるところだった。
「あっ」
掌に乗るくらいの小さな写真は回転しながら、表面で夕陽を反射しながら遠くまで飛んだ。突然背中から吹いてきた追い風が写真を攫って遠く、遠くに運んでいった。美春の背に隠れて写真がどこに落ちたのか、僕は分らなかった。
美春は少しそのまま立ちすくんだ後、踵を返してこちらに来た。そして固まっている僕の横をすり抜けてまた海の家に帰ってしまった。それから少しして我に返って振り返ったときには美春の姿は消えていた。
「ねえ、ターキッシュデライト。あの写真……」
「投げちゃったわね」
「いいの? 大切なものだったのに……」
「それを決めるのは私じゃないし、ロクムでもないわ。彼女が決めたことなのよ。あの結末を迎えるまでの世界をロクムは【観て】きたんでしょう?」
「うん。美春さんと男の人の夢を見た」
「二人は幸せそうだった? かけがえのない思い出のようだった?」曖昧な笑みを浮かべて彼女は僕に訊いた。
「うん……。二人でいるときはとても幸せそうだった。一人でいるときはよくわからなかったけど、でも男の人が死んじゃって……。ねえ、美春さんはどうなっちゃうの?」
「わからないわ。だって私は彼女じゃないから。でも、そんな強い記憶を秘めているなら、たぶん変わらないわ。写真を捨てても、たぶん【戻ってくる】」
「戻ってくる?」
「行ってみましょう」
波打ち際に向かって歩みだしたターキッシュデライトの背を追って僕も歩き出した。
* * * * *
流木までたどり着いてあたりを見渡してもあの白黒写真はなかった。よく飛んでいたから、もうここらへんにはないのだろうと思った。
「ねえ、」
僕がターキッシュデライトに向かって声を上げようとして、気が付いた。波が来ていたのだ。
先ほどまで小さなさざ波くらいしかなかった海に膝の高さくらいまでの大きな波がきて、僕とターキッシュデライトは腰まで濡れてしまった。波に流されそうになったけど、ターキッシュデライトの腰にしがみついて何とか耐えた。靴が重たくなって少しいやな気分になったけど、ターキッシュデライトは平気そうだった。
「後で乾かせばいいのよ。……それより、あれ」涼しい声が頭の上から聞こえた。
「……あっ! 写真が!」
ターキッシュデライトの指の先、先ほどの波に運ばれたのか、流木の陰にあの白黒写真が戻ってきていた。さっきと全く同じ場所に写真はあった。偶然にしてはできすぎている。あの波が去った後の海は先ほどの平穏さに戻ってしまった。
「この世界は変わらないのよ。変わったように見えても、ただ循環しているだけ。夕焼けが終わらない限り、たぶん何も変わらないし、何も変えられないわ」
「……」
そう言ったターキッシュデライトの声はいつも通りの調子だったけど、少し寂しそうに聞こえた。変わらない、世界。
そういえば彼女はさっき、美春さんの記憶を【世界】と言い換えていた。その世界は夕焼けじゃない世界のことだろう。そして今言った世界はこの夕焼けの世界のことだろう。世界はいっぱいあるのだろうか? 美春さんの世界は幸せそうで、寂しそうで、悲しかった。じゃあ夕焼けの世界は? ここには何があるのだろう?
ふと、僕は黄昏色の空を見上げた。視界の限りずっと続く夕焼け。夜の訪れを予感させる黄昏色は何時まで経っても変化しないままだ。
僕は或いは迷子じゃないのかもしれない、漠然とそう考えた。ターキッシュデライトと一緒に、僕はこの世界の中を好きなように巡ることができる。だから迷子というには少し自由すぎる気がしたからだ。
どちらかというと刑務所の中の、囚人。今の僕の状況を言い表すにはそういう表現が正しいと思った。限られた場所でのみ自由に動くことのできる囚人。夕焼けの世界に囚われた囚人。僕はこの夕焼けの向こうに行けるのだろうか? それとも、別の道があるのだろうか? そもそも、どうしてこの世界に囚われたのだろうか? 分らない。
ザッ、ザッ、ザッと湿った砂を鳴らしながらターキッシュデライトの車まで歩いていく。二人の足音はまるで足に繋がる鎖の音のように僕の耳の中に残った。