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黄昏Delight  作者: 野兎症候群
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プロローグ

「おや、珍しいね。こんな世界にまともな人が来るなんて」

 すぐ近くで発せられた静かな声で僕は目が覚めた。

「……えっ? ここは? ……!」

 びくっ、と僕は跳ね起きた。寝起きのようにぼーっとしている頭をどうにか振り回して、僕はあたりを見渡した。ふいに寝ぼけ眼にオレンジ色の光が突き刺さって何も見えなくなった。思わず眼を閉じて掌で顔を抑えた。頭がくらくらした。

「ちょっと君?大丈夫?」先ほどの声が頭の上から問いかけてくる。

「大丈夫……です。ただちょっとまぶしくて、……あと少し頭も痛くて……」しゃがみ込みながら僕はそれだけ答えた。

「ふうん?ちょっと具合が悪いみたいね。手を引いてあげるからこっちにおいで。日陰に座れる場所があるから」

 そう言った声は優しく、悪意は感じられなかったから、僕はその声に従った。なんだかとても懐かしい感じがした。

 手を掲げると僕の手よりも少しほっそりとした、でもとても暖かい手が僕を立たせてどこかへエスコートしてくれた。足の裏にアスファルトのしっかりした感触を感じた。瞼の裏はまだ明滅を繰り返していて使い物にならなかったが、瞼越しに感じる光の量は先ほどよりだんだん少なくなっていくようだった。

「ここなら大丈夫かな。ちょっと座っていて。何か飲み物でも持ってきてあげるわ」

 声の主は僕をどこかのベンチに座らせると、返事を待たないでザッ、ザッ、ザッと足音をたててどこかに駆け去ってしまった。座って深呼吸を繰り返しているとだんだん頭も働き始めてきた。ついでにオレンジ色の光に焼かれた目もようやく色を取り戻し始めた。

 目を開けてあたりを見渡すとそこは木造の屋根と囲いの付いたバス停のベンチだった。ずいぶん昔に作られたのか木の板と板の間にあいたすき間から先ほどのオレンジ色の光が差し込んできていた。さっきはわからなかったけど、どうやら今は夕方らしい。鮮やかな夕日があたりの風景を一様な黄昏色に染めている。なんだか懐かしい風景を見ているような感傷的な気分になった。

 ふいに目の前の風景に影が落ちた。顔を上げると、

「お待たせ。うん、もう眼は見れるようになったみたいね。体調のほうは大丈夫?」先ほどの声の主がそこに立っていた。背の高い女の人だった。

「あ、うん。だいぶ良くなりました」

「そう。よかった。いきなり倒れられたら困っちゃうからね。ここにはまともな病院はないんだもの。……まあいいわ。水でも飲んで」そう言って女の人はベコベコにへこんだ金属製の水筒みたいなものを渡してきた。

「ありがとう」

 受け取って口をつけると鉄の味がほのかにする水が喉に滑り込んできた。あまりおいしくはなかったけど、ずいぶん喉が渇いていたからすぐに水筒は空になった。一息ついて顔を上げると優しい声の主と目が合った。この人は誰だろう?


* * * * *


 女の人はターキッシュデライトと名乗った。不思議な響きの長い名前だったけど、不思議とすぐに覚えられた。

 ターキッシュデライトは背の高いウェイターのような風貌の女性だった。男の人にも女の人にも見える中性的で、綺麗な人だと思った。少し長い黒髪は頭の後ろでかっこよく一房にまとめられていて、まるで映画俳優みたいに見えた。

 身体にぴったりな白いワイシャツに紺色のベスト、黒いスラックスの着こなしは一切の隙の無い、絵に描いたウェイターみたいだった。とはいえ、背が高いといっても今の僕基準での話だ。たぶん百七十センチくらいで、僕より頭一つ分くらい高いくらいだ。僕も成長すればいつかは超えられるだろう。僕はまだ成長期の子供なのだ。大人の女性に身長が負けたからって特に思うことはない。

 それに加えて特徴的なのは右目につけたモノクルだ。古風な老紳士のように、もう体の一部になっているみたいにとても似合っている。昔見たジブリアニメの猫の紳士がかけているような銀の金具とレンズだけのすっきりしたフォルムがかっこいい。女の人に対してかっこいいと思うのは変かもしれないな、と思った。

「それで、君の名前は?」ターキッシュデライトは僕に訊いてきた。

「僕の名前は……、あれ?なんだっけ?」

 まるで漢字ドリルで覚えていない漢字の読みを聞かれたような感覚に戸惑った。言い慣れたはずの自分の名前が、なんでかどうしても思い出せないのだ。遠い昔に覚えた言葉みたいに頭に霧がかかってよくわからない。答えを求めるようにターキッシュデライトを見たけど、彼女は首を傾げた。当たり前だ。僕と初めて会ったはずの彼女が僕の名前を知っているはずがない。

「忘れちゃったの?」

「うーん、そうみたい。どうしても思い出せないんだ。僕、頭おかしくなっちゃったかな……」

「ふうん。まあそういうこともあるんじゃないの?健忘症っていうやつかもね」

「けんぼーしょー?」

「そう。たまに大事なことをうっかり忘れちゃう病気なの。でも大体そのうち思い出すから大丈夫よ」

「そっか。でもターキッシュデライト、僕の名前が分らないと呼ぶとき困っちゃうでしょ?どうしよう……」

「別に私は困らないけど、そうねぇー。じゃあ特別に私がつけてあげようか?」

「えっ?名前って何個も持ってていいものなの?」

「うん?ああ、まあね。大人は多かれ少なかれいろいろな顔や名前を持っているんだよ。君はまだ子供だけど、本当の名前が見つかるまでの仮の名前があったほうがいいでしょう?」

「うん……」

 僕はたくさんの名前を持つ人を知らないから少し不安だったけど、彼女の言うことはもっともだった。それに二つ目の名前をもらえれば大人と同じだと思うとうれしくなった。僕はこうやって少しずつ大人に近づいていくのだろう。

「さて、ね……。何て名前を付けようか」

 僕と目線を合わせるためにしゃがんでいたターキッシュデライトは両手を上げて、おもむろに僕の頬をつまんで引っ張った。

「い、いはぃよ」顔を横に延ばされながら僕は抗議の声を上げた。

「ごめんね」手を放してターキッシュデライトは謝った。

「一体なに……?」

「いやぁ、柔らかそうでおいしそうだなって思って」

「僕はおいしくないよ」

「比喩、……例えだよ。まあいいわ。君の名前はロクムにしよう」

「ロクム?」

「そう。トルコのお菓子なんだけどカラフルで甘くてかわいいの。君はカラフルじゃないけど、君は今日からロクムよ」

「ロクム……、なんか不思議な感じの名前だね!よし、僕は今日からロクムだ!よろしく、ターキッシュデライト」

「こちらこそ、よろしくね。ロクム」ターキッシュデライトはモノクルを付けた目を細めて優雅に笑った。


* * * * *


「あのさ、ターキッシュデライト。ちょっと思ったんだけど、……ここはどこなの?」僕はふと思い出して聞いた。僕はもしかしたら迷子かもしれない。そう思ったら急に不安な気持ちになったからだ。

「そうねぇ、ちょっと難しい質問ね。……ところで、不思議だと思わない?さっきからずっと夕焼けが続いているじゃない?」彼女は質問に答える代わりに僕にそう訊ねた。

「あっ、ホントだ!なんで?」

「なんでだと思う?」大人の優雅さと余裕を兼ねそろえた声色が僕の耳をくすぐった。

「えー、うーん、そうだなー。お月様が寝坊してるから?」僕は昔読んだ絵本の挿絵を思い出しながら言った。言った後に、あれ?と思ったけど、ターキッシュデライトが口を開いたので忘れてしまった。

「ふふう、ロクムは面白いことを言うね。まあこの世界にはたぶんお月様はないけどね」

「ないの!?」僕は思わず橙色の空を見上げて月を探したけど、見つからなかった。

「たぶん地球じゃあないからねー、ここは」

「えっー!じゃあ、別の星?」僕はいつの間にかロケットで地球から離れてしまったのだろうか。

「さあ?」

「ターキッシュデライトにもわからないの?」

「まあね。この世界には不思議なことがいっぱいあるからね。私が分らないこともいっぱいある。ロクムの本当の名前も、ね」

「ふうん? どこに行けばわかるかな? 図書館とか、本がいっぱいあるところに行けばわかる?」

「どうだろう? 本にロクムの名前が書いてあるとは思わないけど、探してみるのも楽しいかもしれないわね。他にもこの世界のこともわかるかもしれないしね。探検してみる?」

「探検!楽しそう!あっ……、でもどうしよう……。僕、探検ってまず何をすればいいかわからないよ……? インディー・ジョーンズみたいな大人じゃないし、僕……」

「ロクムは単純ねぇ。ふふう、まあいいわ。私はいつも暇しているから、手伝ってあげようか?」

「ホント!? やったー!」

「そんなに喜んじゃって。言っておくけど、手伝ってあげるけど、本当の名前を見つけるのはロクムがやるのよ?」

「うん! わかった!」

「本当かな……。じゃあ車に乗って適当にいきましょうか」ターキッシュデライトのモノクルが夕日を反射して白く光って見えた。


* * * * *


 こうして僕とターキッシュデライトは出会って、そして旅を始めたんだ。

 ターキッシュデライトの運転する赤色のオープンカーの助手席で僕は黄昏に染まる風景を見ていた。遠くには逆光になってシルエットだけになった大きな煙突と送電線が見えた。他には何も見えなかった。この黄昏色の風景の中に僕の知りたいことがあるのだろうか? 少し不安な気持ちもあったけど見慣れない風景の中、僕はワクワクしていた。僕は自分が子供であることを知っている。仕方がないのだ。

 視界の隅でキラリと強い光を感じた。横目で見てみるとターキッシュデライトのモノクルに夕陽が反射していた。


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