8.用心棒
「学校の先生ってのぁ、綺麗事しか言わねぇモンだからな。大人になった後の事にまで責任なんざ負ってくれねえもんさ」
明後日の方向を向きながら、喋るイノさん。
姉の言うとおり、ヒカルの右腕は、生まれたときから用をなさないでいる。
感覚はある。痛いとか、冷たいとか、熱いとかを感じる。蚊に刺されれば痒くなるし、肘に堅いものがぶつかれば電気が走る。
神経は生きている。だのにピクリとも動かない。
もちろん、両親は、いろんな病院で検査を受けさせた。どこでも答えは同じ。原因不明。よって治療法が見つからない。
騎旗家本職である神頼みはもとより、あらゆる物理療法、薬物療法を試すも、一切が無駄であった。
なぜ動かないのがダメなんだろう? 動かないからといっても、僕は僕だ。
今のヒカルは左手だけで何不自由なく暮らしている。
ヒカルはこう見えて器用な子だった。
自転車も乗れる。鉄棒も出来る。野球だって問題ない。何度も倒れ、怪我に怪我がかさなったが、一生懸命努力して何でも出来る様になっている。確かに、他の子に比べ、能力的には劣るが、遊ぶに困る事は――。
「遊ぶのと働くのは違うんだよ」
ヒカルは天井を見上げた。イノさんの、そこそこ整った顔が、高いところから覗き込んでいた。
「ま、ヤクザもんのオレが言うのもなんやけどな」
顎の下をポリポリと掻くイノさん。
いきなり、唐襖が勢いよく開いた。皆の視線が一気に集まる。
襖の向こうで、黒いワンピースに両側が尖ったニット帽を被った小学生女児が立っていた。
キイロだ。息が荒い。殺気だった熱っぽい目が、吊り上がっている。
「あれ?」
ヒカルはキイロの左手に握られている――を見た。いや、何かを見たような気がした。
そこには何もないのだが……一人、首を捻るヒカル。
「なん、なんだテメェ……いや、何者だ?」
驚いたのだろう。一瞬で立ち上がり、妙ちきりんなカラーテのポーズを取るイノさん。
「あ、あなた……あなた、危なそうね?」
一瞬、二階の階段に向け視線を飛ばすキイロ。すぐにイノさんだけに神経を集中させる。
お互い、戦闘態勢で向き合うイノとキイロ。
「キイロちゃん、いつ帰ってたの? あ、このお姉さんは怪しい人じゃありません。借金取りで穂村組、……もとい、穂村興信所の下部構成員のイノさんです」
二人の間に入るようにして、説明するヒカル。
先ほどの出来事は無かったかのように、明るい顔をしている。
「危ない人には変わりないじゃない」
戦闘態勢を崩さないキイロ。
「こちらは、うちの下宿人で芦原キイロちゃん。上の階が空いてるからお姉さんのヒメコさんと二人に一部屋貸してるんです」
ヒカルはニコニコ顔で紹介するが、イノさんは眉の間に縦皺を刻んでいる。
「とりあえずツブしとくか?」
物騒なことをいうイノ。ガン付けしながら一歩踏み出す。
腰を落とした体勢のまま、一足飛びに廊下へ戻るキイロ。
「仕方ないわね!」
キイロの左手がゆっくりと上がっていく。
「ヤクザなめんじゃねえぞ!」
言って、イノが大きく息を吸い込んだ!
「おいヤス! シンジ! 可愛がってやんな!」
玄関に向かって、叫ぶイノ。
「たった一人で残ってたとでも思ってたか? じゃなくて……、思うとったんか? こういう時のために、兵隊が表に控えてんだよ! まんねん!」
人、それを他力本願と呼ぶ。
「汚い(きッたな)大人ね! 子供相手に姑息すぎるわよ!」
ホノカが怒りというより、呆れた顔をしている。
「何とでも言え! いや、ゆうたらええねん! ハッハッハッ!」
「でも、用心棒の先生、なかなか入ってこないね?」
ひょっこりと顔を廊下に突き出すヒカル。
「ヤス君! シンジ君! なにしてるの? 早く入っておいでよぉ!」
一向に姿を見せないヤス氏とシンジ氏に、トーンダウンするイノさん。キイロも戦闘態勢を解いて、じっと玄関を見つめている。
「ヤス先生? シンジ先生?」
語りかけ口調になっていくイノさん。
すると、必ず音を立てるはずの、玄関の引き戸が静かに開いていく。
キイロはもとより、ヒカルとホノカも玄関口を覗き込んだ。
ヌッと姿を現したのは、横幅だけがやたら大きいスキンヘッドの若者と、疵顔に角刈りの大男。共に体格がいい。二人並んで立つと、玄関の空間が完全に埋まってしまう。
目が怖い。
どう怖いかというと――。
「あ、白目剥いてる!」
指さすヒカル。そっち方向で怖かった。
どう、と前のめりに倒れる用心棒二人組。受け身を取らない倒れ方。
「ああっ! 先生方!」
頭を抱えてパニくるイノさん。
キイロは、何事かと、玄関先に視線を向けた。
闇に佇む人影があった。
「お前は!」
再び前傾姿勢を取り、左手に御魂を集めるキイロであった。
次回、やっとヴァズロック再登場w