3.敗走
弦鳴りはしなかった。ただ、弓から放たれた矢が、音速を超える時に発する、空気があげた悲鳴だけが轟いた。
同時にキイロは前転してその場を移動した。首のあった空間を、鋭く長い四本の爪が切り裂いていた。
外れた矢が木立に当たり、轟音と共に巨大な光の玉と化す。
キイロは、砂を巻き上げ大きく方向転換。二の矢を継いで、次の攻撃に備えた。
キイロが振り回す重い弓は、その質量を感じさせない。
気配が生じたのはキイロの右手側。
身体の向きを変えると、闇色のマントから右腕を伸ばしたヴァズロックが、チチチと指を二本出して振っていた。
全くの無傷。
なんだか無性に腹が立つ。
「人の話は最後まで聞きなさいと、ジュニアスクールで教わらなかったのかね?」
先ほどよりは距離を取ったヴァズロックが、困り顔で立っている。
メイドの姿が見えない。それでも、矢の照準をヴァズロックの左胸にポイントさせる。
ヴァズロックは全く気にしていない。
「最初から不思議に思っていたのだ。そのアストラル、その身体能力、その武器。どれを取っても人間の物ではない。ましてや物の怪の類で(たぐい)もないのだ。ならば――」
キイロは二の矢を射た。ヴァズロックが、かわすのを半ば確信しながら。
「そなた、古の神であろう?」
左胸部分を白い霧と化し、必殺の矢をスルーさせたヴァズロック。そして軽く右手を挙げる。何かを阻止するかのように。
キイロは感じた。脊椎部分の皮膚、三センチ向こうで湧き上がった殺気が、現れたときと同じように唐突に消えた事を。
瞬時に回頭。三の矢は既に引き絞っている。しかし、誰もいない。
「間合いが違う!」
弓矢の間合いは、接近戦を不得手とする。
キイロは複雑な回避行動を取りながら公園内を走り回り、桜の大木を背にして静止した。
視覚と視覚以外の感覚を使い、気配を探るキイロ。ヴァズロックがいた! 先ほどの場所に先ほどの立ち姿で。ロゼという黒服のメイドは……いない。
しかし、移動しているのだけは分かっていた。
空間を渡ったとか、霧化したとかではない。
キイロは感覚で分かっていた。ロゼがキイロの死角から死角へと、物理的方法で移動しているのだと。
この場合、死角とは背後のこと。
背中に、――正確には、背負ったサクラの太い幹の向こう側に、悪しき気配がフツと湧いた。
瞬時に飛び出すキイロ。空中で向きを変え、桜の木を正面に持ってくる。
大木が真っ二つにへし折れ、破片の飛び散る向こう側。筋肉を隆起させた獣人が、腕を振るった姿勢のまま、空中のキイロを睨み付けていた。
半獣半人。顔と言わず足と言わず、全身が金色の長毛で覆われていた。長髪の頭頂には、尖った三角の耳。犬の様に長くふさふさした尾。
手の爪はサバイバルナイフのよう。足の爪はスパイクのよう。各々凶悪に生えている。
身長は二メートル越え。それでも女性的なフォルムが残っていた。
半ば獣と化した顔から、ロゼの面影が見て取れる。
「さっきのメイド? 人狼か(ひとおおかみ)!」
人狼と化したロゼが大きくなった。
その実、キイロに追撃を掛けるため、宙に飛び上がり、接近した事による遠近感喪失のなせるわざ。
月の黄色い光を反射しつつ、ブラウンの瞳が迫る。
「この距離で外さない!」
風が渦を巻き、矢が弓を離れる。零距離射撃。身の伏せようがない。
ロゼの腕が残像を伴って動く。人差し指と中指の間に弓が挟まっていた。
いかにキイロの連射が速くとも、この間合いで矢をつがえることは不可能。勝ち誇るロゼ。
二者は触れ合うまでに接近。事実、ロゼの肩にキイロの弓が接触した。
満月の様に引き絞られた、矢をつがえない空の弓が!
キイロは弦から指を離した。
強弓から矢が放なたれるエネルギーが、ロゼの肩に移動した。
「ギャワン!」
金属製、そして重装甲。スピードに重さを加味した、それ以上の何かが加わった衝撃をまともに右肩に食らったロゼ。
背から地面に叩きつけられる結果となった。
バウンド一回。堅い大地の反動で飛び上がったロゼは、すぐさまその場から飛び退いた。
反作用により宙にとどまっていたキイロが、第四の矢を放ったのはその直前。追撃の矢は、ロゼが凹ませた大地に突き刺さる。
轟音と共に立ち上がる土煙。雨のように降り落ちる土砂。
闇と相まって、完全に遮られた視界。
キイロは公園の外を走っている。逃げている、そう言い換えてもいい。
だって、完全に気配を消しているのだから。
――今の自分では、ヴァズロック達に勝てない。
矢を四本も放っておきながら、一矢も報い得なかった。こんな事は初めてだ。
敵情報不足。連中の目的が何かわからない。
まさか姉では?
もしそうだとしたら……姉のために命を捨てれば、許してくれるだろうか?
もう人の目を気にしていられない。大通りで車を追い抜き、商店街を歩く人の影を渡り、民家の屋根瓦を蹴破り、駆け抜けていく。人外の速さで。
人の密集地を抜け、小高い丘を越えると見えてきた。
それは、キイロとキイロの姉が間借りしている、古びた館なのであった。
もうね、トントントンと逝っちゃうよ!