36.黒と白
僅かに目を離していた間に、ヒカルの容態が悪化していた。半眼に開いた目は、白い部分しか覗かせていない。唇がわなわなと震えていた。
二度目の失神。だが、前回とは容態が違う。より悪化している。
「またなのだ。その方、なぜ故に……。我が輩は、その方を助けるために日本へやってきたのだ。なぜ故え、我が輩が助けられねばならないのだ? これでは我が輩は……」
ヴァズロックの背中が丸い。俯いたせいで、前髪が一房落ちる。元々白い顔が、紙より白くなる。
「やっと……話ができそうだ」
声はヒカルの物。大人びた口調は別人。
驚き。悲しみ。懐かしさ。後ろめたさ。喜び。後悔。笑顔。
ヴァズロックは、全ての絵の具を混ぜ合わせたような表情を顔と全身に浮かべた。
「貴様なのか?」
ヴァズロックの問いかけに目で頷くヒカル。
「友よ……今はヴァズロックと名乗っているのだったな。お気に入りの名か?」
「ああ、気に入っているのだ。……我が輩は貴様に償いきれない罪を作ってしまった。そんな我が輩を今でも友と呼んでくれるのか?」
震えながらヒカルに手を差し出し、――それでいて手を握れないでいるヴァズロック。
「なぜヴァズロックが罪を背負わねばならない? その方が気に病む必要はない」
ヒカルが手を差し出した。赤く腫れた右手だった。
その手とヒカルの顔を交互に見つめるだけのヴァズロック。まだ手を握れない。
そんな意地を張った子供のようなヴァズロックを見て、ヒカルが弱く笑った。
タンポポの綿毛のような笑みだった。
風に吹かれればすぐ飛んでいってしまいそうな笑み。それでいてしっかりと、次に自分の意志を繋ぐ笑み。
「ならば……」
そして、顔を引き締めた。
「……ならばヴァズロック。私を助けてくれ。いや、ヒカルを助けてくれ。お願いだ。この子の命と、この子の小さな国と、この子のか弱き国民を救ってくれ」
ヴァズロックは、鳳仙花が種を飛ばす唐突さでヒカルの右手を握っていた。ヒカルの右手は熱を持っていた。
「任せておくのだ! 我が輩が、この命を引き替えにしても守ってくれるのだ!」
ヒカルは、命を粗末にするな、とは言わない。代わりにこう言った。
「頼むぞ! ヴァズロック。貴様だけが頼りだ!」
それは、ヴァズロックにとって、もっとも優しい言葉。
「友よ、ヴァズロックよ、おまえがいるから安心だ。……私はもう動けない……」
そして、ヒカルは目を閉じ、荒い息をしだした。
「ヴラド! ヴラドッ!」
ヴァズロックは叫んでいた。友の名を。ルーマニアは古の国、ワラキア公国の串刺し公、ヴラド・ドラクリアの名を!
あれほど強く掴んでいたヒカルの腕から力が抜ける。赤い腫れが消えていく。
いや、赤い色素が一カ所に集約されていく。二の腕中央に赤黒い色が固まっていく。
それは見る間に、とある形を取っていった。
コウモリの羽。
正確には相対的に大きなコウモリの羽を持った、小さなドラゴン。
カード大の大きさのそれが羽ばたいた。皮膚の上を二次元状に羽ばたき、移動する。手の甲に留まって、ヴァズロックを小さな小さな目で見上げた。
「ミカボシぃっ!」
ヴァズロックが吼えた。空気が揺らぐ、獅子の咆吼。美貌に浮かぶ凶悪な殺気。妖しいまでに美しい。
「なんだい?」
軽い口調と裏腹に、堅固な構えを取るミカボシ。カカセヲを下段に構えている。下段は受けの構え。
対して、ヴァズロックは元のダウナー系に戻っていた。右手の指を二本突き立て、ちちちと左右にゆっくり振り、額に指をあててこう言った。
「期待された我が輩は、少し違うのだ」
立ち上がるヴァズロック。背筋をぴんと伸ばす。前髪を跳ね上げ、撫で付ける。
特徴的な高襟マントを脱ぎ、右手に持つ。吹いてきた強風にマントを預けた。
ヴァズロックの赤い目がミカボシを射る。瞳の色は炎の赤。
「ケルブ・ァウリエル!」
ヴァズロックが爆発した。いや、渦をなす爆炎に包まれた。
包まれたと誰しもが思った次の瞬間、炎は消えていた。
姿を現したヴァズロックに変化があった。
背中に羽が生えている。
二対の、白い、鳥の翼。
純白の、四枚の翼をめいっぱい広げ、真っ直ぐ上に舞い上がる。
「は、伯爵! その姿……」
ツクヨミが叫んだ!




