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29.誘拐

「痛たぁーっ!」

 ヒカルの腕が、ヴァズロックの前に伸びていた。


 ヒカルの動かないはずの右腕が、ヴァズロックの左胸をかばってカカセヲに伸びていた。


「ヒカル! 何をするのだヒカル!」

 ヴァズロックが腕を伸ばす。

 ヒカルの右腕が爆ぜた。狩衣の袖が散り散りに弾け飛ぶ。肌がむき出しになった。


 カカセヲの動きがピタリと止まる。

 代わりに、カカセヲが放出する破壊エネルギーが、噴流となってヒカルの右腕に襲いかかる。

 否、ヒカルの右腕が、カカセヲのエネルギーを吸い込む。


「勝手に腕が、あ、が、ガ!」

 まともに声を出せないでいるヒカル。右手の指が変な方向を向いて固まっている。

 鬱血、水膨れ、内出血。水平に突き出された右腕が、見る間に赤く腫れ上がっていく。

 まるでシオマネキ状態。


 予想を超えた痛みのため、顎を落としたまま動けないでいるヒカル。

 あまりの出来事に、ホノカ、ロゼも動くことがかなわない。


 人という生物は、劇的な痛みによるショック状態で簡単に死んでしまう。それは末梢循環不全と言われている症状。


「しまった!」

 カカセヲを引き抜き、後方へと飛ぶミカボシ。顔が引きつっている。

 空中で何かに気づいたミカボシ。


「無敵のカカセヲが……」

 ミカボシは頭上のカカセヲを見上げた。発光していない。回転が止まっている。

「まさか!」

 ヒカルを見るミカボシの顔は、ずいぶんと間抜けだった。


 ロゼは、ヒカルを力任せに引き倒していた。頭をロゼのエプロンに乗せたヒカル。苦痛に歪んでいた顔が徐々に緩んでいく。目は半眼、口元がだらしなく開いている。


 失神。


 ミカボシと対峙していたヴァズロックは、赤黒く腫れ上がったヒカルの右腕をちらりと見た。その隙を突かれ、ミカボシが陰に隠れてしまったが、致し方ない。


 視力以外の能力も動員してヒカルの腕を観る。

 ――カカセヲのエネルギーを全て吸収した?

 ふと気がついた。初めて見る絵である。ホノカと……ロゼの泣き出しそうな顔。

 

「安心するがよい。ヒカルは死なぬ」

 ヴァズロックが冷たい声を出す。

 その冷たさが故に信頼を感じた。ヒカルは死なない。二人の顔から緊張が抜けた。


「良かった、ヒカル!」

 駆け寄るホノカ。

 ヒカルの目が開かれたのはその時だった。


 意識が戻った目とは言い難い。言うなれば、熱にうなされた眼。(まなこ)光が……違う。

 自分を覗く顔を一人ずつ確認するかのように、見渡す。

 つと、ヴァズロックのところで止まった。


 震える唇をゆっくりと開けていく。他人の筋肉を動かしているようだ。

 拗音の清音を発音しようとしているのは見て取れる。しかし声にならない。


「その方! まさか!」

 全てに優先してヒカルに駆け寄るヴァズロック。姿を消したミカボシに対し、無防備な背中をさらけ出す。ヒカルのヒカルでない目がヴァズロックを求めている。

 ヴァズロックが触れる直前、ヒカルが脱力した。完全な沈黙。粒の汗がヒカルの顔面いっぱいを埋めていた。


 ヒカルの胸は、規則正しく上下している。眉間にできた皺が微動する。

「そうか、ミカボシの攻撃を吸収したお陰で、僅かながら顔を出せたのであるな。……我が輩、それだけで十分である」

 目頭に指を当てているヴァズロック。一つ二つと深呼吸する。


「あ、あのー」

 後頭部を人差し指で掻いているホノカ。ヴァズロックは、まったくホノカを見ようとしない。

「なんの寸劇?」

 ロゼに向けて言った言葉。

 ロゼは小首を傾げるだけ。


 ふらりと、それでいて力強く立ち上がるヴァズロック。背にしたヒカルやホノカ達を中心に、ゆるりと円を描き歩き出す。


「さてアマツミカボシ、待たせたのだ。続きをやろうではないか!」

 車の影、消えた外灯。闇の部分に鋭い目を配るヴァズロック。傍目に見ても気力が充実している。やる気満々とはこの事。

 しかし、まったく殺気が感じられない。ミカボシの気配だけは、わずかに感じられるのに。


 ヴァズロックの全探査能力を動員しても、位置どころか、方角さえもつかめない。

 いや、後ろ!


 振り向くヴァズロック。

 ホノカの後ろに立つ高い影。


 アマツミカボシがホノカの肩に手を置いた。強引に、ホノカを振り向かせる。


 耳元で何かを唱える。

 目を大きく開いたホノカ。両手を挙げ、ゆらゆらと腰から崩れていく。

 ホノカは、ミカボシの腕の中にあった。ミカボシ、絶対優勢。


「性格が悪いと、気を失う所作も変になるのだ」

 ヴァズロック、負け惜しみかもしれない。


「気が変わった。コウモリ野郎のお姫様は、オレ様がいただいていくぜ!」

「無駄なあがきはよすのだミカボシ。ヒカルがいる限り、カカセヲは無力なのだ」

「だから人質なんだよ。ふん! 覚えてやがれ!」


 ミカボシが悪党おきまりのセリフを吐いた瞬間、カカセヲが爆発した。いや、爆発に匹敵する光、爆光を放った。


 ヴァズロックでさえ、顔を背けなければならない強烈な光だった。

 次に目を開けた時。ホノカとミカボシは消えていた。


 戦闘中でも、ミカボシの気配をとらえるのは難しかった。本気で逃げたとなると、その跡をたどるのは不可能だろう。


「あ、あれ? ここはどこ? 僕はいったい?」

 ヒカルがぼんやり目覚めた。


「しかし安心するがよい」

 ヴァズロックが、西の山稜に向かいつつある三日月をじっと睨み付け、自信たっぷりにそう言った。

「いや、ちょっと伯爵! 『しかし』って何? 『しかし』って?」

 ヴァズロックはヒカルに向き直った。

「ホノカがさらわれたのだ!」


 この間三秒。


「大変じゃないのぉ!」

 エドヴァルド・ムンク作『叫び』の中の人そっくりの反応をするヒカルであった。

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