22.シュテファン大公
「お帰りなのだ」
その日の、夕方と呼ぶにはまだ早い時刻。場所は騎旗家茶の間。
学校帰りのホノカをヴァズロックが迎えた。
部屋の半分以上を占めた豪奢な本革製ソファにふんぞり返って自慢たらしくワイングラスを揺らしながら。
「ただいま」
ちらりとヴァズロックの持つ赤ワインに目をやって、ついで、茶の間だった部屋を一瞥する。
大理石のテーブル。樫の木製衣類掛け。クリスタルが眩しいシャンデリア。
ホノカの眉が、里見家の秘宝である八つの玉を擦り合わせたような音を立てて吊り上がっていく。
次いで、ヴァズロックに、念じ殺すような視線を削岩機のようにブチ込んできた。
「無駄遣いもいい加減になさい! さもないと太陽光を――」
「太陽光をどうするというのだ? 太陽光などなんともないのだ。我が輩は、紫外線百%カットのローションを所持している。それ以前に、我が輩は吸血鬼ではないのだ!」
ヴァズロックも押されたままになってない。膝の上で両手を組み、ホノカの脅し文句を余裕で受け止めていた。
「――太陽光を凸レンズで収束させて、額の中央を焦がしてやるわよ!」
ぱしっと乾いた音を立て、手の平を額に当てるヴァズロック。眉間に痛みが走ったような気がしたからだ。
「そこのメイド! ぼさっと突っ立ってないで買い物にでも行ってきなさい!」
次いで矛先はロゼへと移る。
「買い物は全て済ませました。あらためて購入する必要は当分ありません」
完璧を誇るプライドをくすぐられたのか、小さい胸を張って答えるロゼ。草食の小動物を睨め付ける狼のような、トップロープ最上段からの目線だ。
大抵の人間は、この肉食獣の目に恐れをなす。ロゼが人類に疎外される元凶の一つでもある。
しかし、ホノカに動じた様子はこれっぽちもない。
「あるでしょ! 伯爵を焼くための、おっきな虫眼鏡!」
「……ではさっそく」
「行くでない!」
あわててヴァズロックはロゼを止めた。彼女ならやりかねぬ。
このメイド、基本「追跡型狩猟者」である。性格的にSの要素が多い。そしてその趣向は、主であるヴァズロックに向けられる事が多々ある。困ったことである。
「やってしまった事は仕方ないとして渋々認めるけど、二度は無いと思いなさいよ!」
もう一度、目をギラリと光らせてから奥へと歩いていくホノカ。
「激しい反応でしたが、……尖り過ぎてましたね?」
後ろで控えているロゼがボソリと一言。
「うむ」
――学校で何かあったな。
ヴァズロックは、ワインの香りを楽しんでるフリをしながらアタリを付けていた。
「うわっ! すごいや! これ全部伯爵が用意したの?」
ペルシャ製絨毯にくるぶしまで埋めながら、ヒカルが歓喜の声を上げた。
「うわっはっはっはっ! これらは我が輩の日用品なのだ。昼に荷物が届いたのだ!」
期待通りの反応に、心底嬉しそうに笑うヴァズロック。ロゼも、反応してくれてよかったですね、と、わざとらしく涙ぐんでくれた。
「余った家具をそこここに置いたので、遠慮無く使うがよいのだ。廊下の奥に籐製の安楽椅子があるぞ。座れ座れ! なに、二百年ぽっち前に作らせた安物だ。壊れても――」
激しい音と共に、廊下をもんどりうって転がっていくアンティークの安楽椅子。
「邪魔よ」
現れたのは、巫女装束に身を固めたホノカ。赤袴から片方の素足を覗かせている。
「ヒカル! 早くなさい。夕刻のお勤め、ちゃっちゃと済ますわよ!」
ドスドスと足音を立てて、拝殿へ歩いていった。遠くから家具の転がる音が、複数個聞こえてくる。
及び腰で廊下に首を出すヴァズロックとヒカル。そこには、破砕された家具類や美術品が累々と転がっていた。
「学校で、ホノカの身に何があったのだ?」
「弓道部の主将にからかわれたんだ」
そおっと首を引っ込めた後、ヒソヒソ話が始まった。二人とも、なぜか体育座りである。
「姉ちゃん、ああ見えてすごく器用なんだ。だからどんなスポーツでもソツ無くこなすんだけど……」
「なるほど。弓なんて得物は、大半が技術なのだ」
「家が神社なんだから、弓も上手いはずだ、って変な挑発に乗って。案の定……」
「そんな安い挑発に乗せた者の腕が凄いのか、乗った者が凄いのか……」
二人して首をひねっている。
「ところで伯爵」
無理に話題を変えるヒカル。意を決した輝きと、それを曇らす不安さが瞳に同居している。ヴァズロックから聞き出したいことが、てんこ盛りにあるのだろう。
「夕べ、夢を見たんだ。切れ切れにだけど……」
ふうん……。ヴァズロック、すこし鼻白む。
ヴァズロックといえど人の思考を読むことは出来ない。……だからこそ面白いのだと常の彼は笑うのだが……。ヒカルの見た夢が知りたい。怖いものを是非見たい。
「それで?」
「時代は中世、オスマン帝国と戦っていたルーマニアの騎士だと思う。二人、馬に乗っていたんだ。白い騎士と黒い騎士。白い方の名はシュテファン。黒い方は……」
一息ついてヒカルが声に出す。
「ヴラド。ヴラド・ドラクル――」
「生涯にわたってオスマン帝国軍を退け続けた、ルーマニアの古き王。モルドバ公・シュテファン大公と、ワラキア公・ヴラド・ツェペシュ・ドラクリアの事であろう。過去、実在した人物である。よく知っていたのだ。偉いぞヒカル」
くい、と、トカイの赤を喉に流し込む。あまり美味しくなかった。ヴァズロックにしては珍しく、喉をただ通過させただけ。
ヒカルはヴァズロックの褒め言葉を聞いていない。足元の絨毯を眺めている。
「そこが変な所なんだ。学校ではそこまで習ってないし、それに、ルーマニアやオスマン帝国が出てくる本も読んだことがない。名前だって聞いたことがない。だのに知ってる人なんだ」
「おそらくテレビなのだ。ヒカルは忘れているが、潜在意識のどこかが拾っていたのであろう。睡眠は知識の整理である。ワラキアから来た我が輩を見て、脳が活性化しただけなのだ。気にするでない。むしろ喜べ」
はたはたと手を振って、ヴァズロックは薄く笑った。
「ヒカルは心配性なのだ」
「そうかな……」
ヒカルは、左手で動かない右腕を強く握りしめる。
「黒い方……ヴラドさんが言っていた。自分は秘法を使って暗黒を身体の中に飼っているって。だから死なない身体だって。教皇庁やベネチアもそれを知ってるって。だから政治的に援助してくれるって。意味がよく解らない――痛て、痛てて!」
ヒカルは、右腕を握りしめ、苦痛に顔を歪めた。動かない右腕だが、神経は普通に通っている。
「それは精神的なモノなのだ」
ヴァズロックは手を伸ばし、ヒカルの右腕にそっと添えた。
「なにも変なことはない。歴史上、本当にいた人物なのだ。ヒカルの見た夢は、一部を除いて全て史実なのだ。
遠い昔にヴラドは死んだ。教皇庁もヴェネツィアも……そしてシュテファンもヴラドを見捨てた。それが歴史なのだ!」
ヴァズロックの言葉にだろうか、添えられた手にだろうか。ヒカルの顔から苦痛の表情が抜けていった。
「そなたの右腕はいずれ動く」
「ほんとう?」
「必ず我が輩が……」
ヴァズロックの美貌に少しだけ失敗の色が浮かぶ。しかし、すぐに悪戯っぽい笑みが上から覆い隠した。正直言って、ヒカルは、この美しい笑みにドキリとした。
「我が輩が金にあかせて治してやるのだ。心配するでない!」
ヒカルは、眉をハの字にして、力なく笑った。
その瞬間!
白くて細い腕がニュッと伸びてきた。
「痛て!」
「いつまで油売ってるの!」
ヒカルの耳をつまむ、ホノカの手だった。
続いて、もう片方の手をワキワキさせながら、ヴァズロックを見る目を光らせた。
「あんたも付いてらっしゃい!」
恐ろしい目で睨むホノカであった。




