幕間
空には星が出たばかり。
ひょうひょうと風が吹く丘の上にて。黒衣をまとった細い影が、街並みの風景を万感の思いを込めて見下ろしていた。
鋭く刺すような冷気をものともせず、ただその身を風に吹かせるままにしている。
「しばしの別れなのだ。我が町、クルティア・デ・アルジェシュよ」
闇に似合わぬ清々しい声。持ち主は、声に似つかわしく、白眉黎明な青年であった。
見た目、二十歳そこそこの青年。だが、角度によっては十三・四歳の美少年にも見える。乱れる髪をそのままに、青白き頬を寒風に晒していた。
「ここにおいででしたか、伯爵」(マイロード)
突然、後ろから声がした。玉石を転がすような美しい女の声が湧いて出た。
伯爵と呼ばれた黒衣の青年は振り向かない。気配だけで近づく正体を認識していたからだ。
彼と同じくらいの背格好。黒いメイド服姿の少女が姿を現した。
伯爵とは対照的に、血色の良い肌を持った少女。頭には大きな髪押さえがあった。
「本当に日本へ行かれるのですか?」
元来、彼女は土地に縛られないタイプだ。何処ででも生きていける自信があった。それでもヨーロッパ圏から離れるとは想定していなかった。
「この国はもう、わが輩を必要としていないのだ。わが輩が支えてやらずとも、どうとでもして生きていける。立つ鳥は後を濁さないのだ」
「私には、置き土産げを残したようにしか思えませんが……」
そこで初めて振り返る伯爵。目と目が合わさる。しかし、お互い黙ったまま。
沈黙の均衡を破り、先に黒いメイドが口を開いた。
「現在の政権は、野犬問題に頭を抱えておりますが」
「どのように下等な生き物であっても、自らの意思で生きたいと欲するのは当然の権利。わが輩の支配から離れ、立派に生きていけるのだ。あいつらならば!」
グッと拳を握り、力説する伯爵。黒いメイドは、それを義務の放棄と受け取った。
良い従者というのは、主の意に沿う言動を取れるかどうかにかかっている。そして問題の少女は、良いメイドであった。
なぜなら、話題を元に戻したからだ。
「なぜニッポンなどという、東の果てにいらっしゃるのですか?」
さすがの彼女も、まだ見ぬアジア最東の国に不安を覚えていた。わがままな主の目的も聞かされていなかったからだ。
「あそこには、……日本には、あの者が住まいしているのだ」
メイドには納得のいく答えではなかった。
「互いに、そう……片方が主権者になっても、他方が主権者に就くときにはいかなる努力も惜しまない、と誓いあった。フニャディ婦人の調べによると、その者は今、窮地に立たされているらしいのだ。だから予が行かねばならぬ。のだ!」
まだメイドにとって、納得のいく答えにはなっていない。主の性格と性癖、そして過去の行動パターンから考えても、なんのヒントにもなってない。
「どのみち、わが輩には家族がいない。どこへ行こうとどこで暮らそうと勝手自由なのだ」
それが答えでない事ぐらい、黒いメイドには判断できる。
答えは、遙か東の国より、さらに遠い時空の彼方を見つめる伯爵の瞳に隠されているのであった。
ちょっと書き足しさせてください。