16.カウント・ヴァズロック
ヴァズロックは誘われるのを良しとしない。
誘われるより誘う方が好きだ。
誘われる行為は受け身。どうしても最初の一手は相手のフィールドで、なおかつ後攻で指さねばならない。それが、どうにも落ち着かなくていけない。
幼い頃は誘われっぱなしでもよかった。現に、あの友人は、自分を悪い遊びにばかり誘ってきたではないか。
危険な遊びと魅力的な友人。だからこそ、スリリングで面白かった少年時代。
あの頃、自分の命より面白さを優先していた。生だの死だの、眼中になかった。
例えるなら、女癖の悪い男が、ピタリと女を断ち、一人の女性に入れあげる理由。それは恋人と一緒にいる方が、女遊びをするより楽しいからだ。恋が続く限り、その男の眼中に、他の女は入らない。
話がそれてしまった。
ヴァズロックは、好むと好まざるにかかわらず、経験という悪い女と付き合いすぎて、スレてしまったのかもしれない。
誘いとは、広義の意味で罠である、と、ヴァズロックの語録にある。
花の蜜ならそれでよい。埃っぽい花粉を少々付けられるだけで、罠に足を踏み込んだだけの甘い対価はいただける。
しかし、目の前で、あられもない姿をしたレディが、思い詰めた目でこちらを見つめている場合、それは、道路交通法で言うところの危険な行為という名称の警鐘である。
とはいうものの、魅力的な女性からのお誘いを避けるには、永遠に逃げ回って隠匿生活をするか、父親ぶってお説教をするかのどちらかだ。
さりとて、このように誘惑が激し過ぎる場合、自らの心に湧き起こる、甘い蜜を求める衝動を抑えるのが難しい。また、いかがわしい行動を起こすのには、まだ日も高い。
さてどうしたものか。
「ずいぶん悩んでいるようね」
いつのまに帰ってきたのか、キイロが上がり口に立っていた。音楽の授業があったのだろう、リコーダーが赤いランドセルから飛び出していた。
「悩んでいるのはその方も、であろう? 小学生にしては帰りが遅い。何処をほっつき歩いていたのだ? というか、真面目に小学校へ通っていたことが感動なのだ」
自ら用意した、総革張りのソファにふんぞり返っているヴァズロック。
「……悪名高き串刺し公、ヴラド・ドラクリア。英語読みだと『ドラキュラ』ね」
「何をいきなり?」
「ドラクリアの基になったドラクルという言葉。ドラゴンの事でしょう? 当時のドラゴンって、悪魔の総称ですってね」
「神の軍団である十字軍の、ドラゴン騎士団から取ったと、我が輩、聞き及んでいるが?」
器用に片方の眉をヒョイと吊りあげるヴァズロック。思うことあって、内ポケットをごそごそしている。
「わたし迷ってるの。神として、どう対処しようかってね。あなたを」
キイロは、ヴァズロックの前を通り過ぎ、二階へ続く階段のある廊下へと出る。
「教えてくださいツクヨミ様。姉妹喧嘩の原因はなんなのですか?」
内容とは裏腹に、至極事務的な口調のロゼである。
針金のような細い太股を痙攣させて、立ち止まるキイロ。ロゼを無視して歩き出そうとして――。
「ツクヨミの代わりに教えてやろう。日本書紀に書いてある。ツクヨミは葦原中国、(あしはらのなかつくに)つまり、地上界に住む神、保食神を殺したのだ」
ヴァズロックの言は軽い。
長い足を組んで、世間話をするような調子でロゼの問いに答えた。
タイミング的に、まるで主従が打ち合わせをしたかのようだった。
「神殺しは重罪だったのかもしれんな。アマテラスに、こっぴどく叱られたらしいのだ」
目に見えそうな黒い情炎を身体から立ち上げながらも、微動だにしないツクヨミ。
――正解なのだ。
あからさまに満足げな笑みを浮かべる者と、ポーカーフェイスながら目に光を浮かべる者。二人の主従。
「保食と書くだけあって食料を生み出すとされている神らしいのだが、口から吐き出した食べ物を出してもてなされた事に激怒したツクヨミが手にかけた。と書いてあるのだ」
なるほどそうですか、とロゼは、良い見方をすれば白々しく、悪い見方をすれば芝居じみたしぐさで相づちを打っている。
「……ところでツクヨミよ」
ひとしきり説明をおえた後、ヴァズロックは薄笑いを浮かべ、気怠そうに頬杖をついた。
「ウケモチを殺した理由が貧困なのだ。食物を生み出す神ゆえに、体内より食べ物を出しても、驚くことはあるまい?」
ヴァズロックは目を細めてキイロを観察している。全身から心を読むかのように。
「天津神のウケモチがなぜ地上にいた? ウケモチは地上で何をしていたのだ?」
とりあえず、そう聞いてみた。この問いは誤誘導である。ヴァズロックにとって、本当に聞きたいのは次に用意している質問の答えだ。
「ウケモチは……」
口の中が乾いているのだろう。キイロは見た目にそぐわないハスキーな第一声を口から絞り出した。
「あの神は、五穀を縛ることで、この地の民を支配し、苦しめていた」
キイロの声は、元の子供らしい澄んだ高音に戻る。
「わたしは高天原の全権を請け負ってウケモチと会った。そして、わたしの判断で成敗した。姉上のため、地上のため、高天原のため、この手にかけた。タカミムスヒ様もオモヒカネも賛同してくれた!」
そして、次が本当に問いたい事。
「アマテラスは許してくれなかったのか?」
「姉上に報告をした際、きつく叱り置かれた。しかし、すぐ不問にしていただいた!」
そこでキイロは肩を落とした。
「ウケモチは、我らの姉上でもある」
ぽつりと言葉を紡ぎ出すキイロ。
「姉上は……アマテラス様は、同じ日の神であり、本来なら日の神として祭られるはずの兄ヒルコ様を亡くしておられる。日に近しい火之神、カグツチ様も亡くしておられる。そしてわたしがウケモチ姉様を殺した。事の善悪以前に、姉上のお心を深く傷つけたのはわたしだ!
天の岩戸事件はきっかけに過ぎない。姉上が全てを拒絶して自分の殻に篭もられたのは、わたしが原因なのだ!」
キイロの話は、徐々に言葉が荒くなり、最後は熱がこもったものとなった。
冷徹な仮面の下、僅かな色しか覗かせぬロゼと裏腹に、一言一句ふんふんと頷いて聞いているヴァズロック。
いつの間にか内ポケットより出した手には、何かが握られていた。
「喋りすぎた」
きびすを返すキイロ。
「受け取るのだツクヨミ!」
ヴァズロックが投げて、キイロが反射的に受け取ったもの。それは赤い音楽プレーヤー。
「やはりそれは、その方が持つに相応しいのだ――まあ待て!」
片手で制するヴァズロック。キイロは、真っ赤な顔で、音楽プレイヤーを投げ返そうとしていた。ヴァズロックは早口で言葉を続けた。
「その中には、二十曲ばかり入っているのだ。ちなみに、昨夜、我が輩が譲り受けたときには、既に二十曲が入っていた。これはどういうことか?」
キイロの目が細かく揺れ動いている。俗に言う、目が泳ぐという現象。
見ていてわかる。ツクヨミの脳内で膨大な言葉がやりとりされている。ほとんどが肯定と否定の言葉。
そして、徐々にキイロの顔が柔和になっていく。
「あの刹那、いかな我が輩といえど、入力するには時間的にも機材的にも不可能。それは!」
ヴァズロックは、意図的に言葉を句切り、嫌みたらしく指二本をチチチと振っている。
「我が輩がその方から受け取る前に入っていた。それは、アマテラスがその方に聞いて欲しいと願って入れた楽曲ではなかろうか? そして、さらに――」
「うるさい! 黙れ!」
キイロの叫びがヴァズロックの言葉を断ち切った。一瞬だけだったが。
「アマテラスの否定的な態度は、なにもそなただけに向けられたものではないと思うのだが? そもそも、アマテラスは、そなただけを虐げているのであろうか?
ならば何故、音楽入りのプレーヤーをそなたに渡したのか?
我が輩の目には、ヒカルやホノカにも、そなたと同じ暗い接し方をしているように見えるのだ」
キイロの表情が目に見えて変化していく。
「アマテラスは、ホノカやヒカルにまで、無言を貫いておる。しかし、あやつらとアマテラスの間にはコミュニケーションが成立していたのだ。その方は、音楽プレイヤーを通して会話が成立していたのに気づかなかっただけではないか?」
ヒメコことアマテラスが、暗がりの中で顔を出したとき、ヒカルが怪我の可能性を注意した。
アマテラスは、ヒカルの言葉に小さく頷いていた。
この時、アマテラスは言葉を発しなかったが、会話は成立していた。
「ちなみにアマテラスは、もうそれを持っていたのだ。あの時、アマテラスはパッケージ入りの赤いプレイヤーを我が輩に見せてくれたのだ。
さすがの我が輩も、空気が読めてしまったので固まってしまったのだ。
その赤いプレーヤー。その方が買った固体ではない。アマテラスが持っていた別の固体、つまりアマテラスからのプレゼントなのだ。同じ赤色を選ぶとは、さすが姉妹」
キイロは、音楽プレイヤーを大事そうに握りしめたまま、視線を泳がせていた。足りない物を見つけたキイロは、目に生気を宿した。
「そんなことより、表の挑発。あれは貴様向けだろう! 早く対処しろ!」
言い捨て、ととと、と柔らかいソックスに包まれた軽い足音で二階へ昇っていくキイロ。
「やはり我が輩に向けられたものであったか……」
綺麗に整った眉を寄せるヴァズロック。
困った顔というより、めんどくさそうな表情をつかの間、浮かべていた。
「出かけるのだ」
決断だけは早いヴァズロック。言うなり、両手を軽く挙げる。
「根気負けしましたか?」
ロゼは残念そうな顔を作りつつ、いそいそと、黒マントを主人の肩に掛けるのであった。
ただのお出かけではありませんw。