15.狼 (よきけもの)
その白い手から、ヴァズロックほどの者の言葉をとぎらせる何かが、濁流のように噴出している。
何か持っている。
コトリとも音を立てず、手に持った何かを畳に置いた。
赤色のプラスチックの、小さく平べったい立方体の――。
「ほうほう、これは我が輩への歓迎プレゼントかの?」
ヴァズロックが手を伸ばしつつ、白い手の者を見た。プチフリーズを起こした後、拾い上げるヴァズロック。
白い手が静かに引き込み、隙間は閉じられた。
力の奔流は止まった。止まったから気付いた。
ロゼは、ものすごいプレッシャーを感じた。出所はキイロ。額に玉の汗を浮かべ、唇を真一文字にして、ヴァズロックの手を睨み付けていた。
ヴァズロックは無視を楽しんでいる。
「ところで、これは何なのだ? 電子機器のようなのだが?」
「今日が発売日の、新型フラッシュメモリー式音楽プレイヤーだ」
キイロが答えを教えてくれた。
「わたしが、……音楽好きの姉上のために買ってきたものだ」
キイロは、握り拳を作っていた。強く握り過ぎた拳は、真っ白になっていた。
「なるほど。あれが後生大事に抱え込んでいたモノだったのですね」
先の戦闘を思い出すロゼ。キイロの動きから、何かをかばっている様に思われたが……。
一方、ほうほうと頷きながら、あちこちさわりまくっているヴァズロック。興味津々、目が少年のようにキラキラ輝いている。欲しいオーラ出まくりである。
「ドラキュラ! 欲しいのならくれてやる!」
親の敵を見るような目でプレイヤーを睨みつけるキイロ。
「よいのか? よいのだな? いただくぞ! 後で返せと泣きついても返さぬぞ!」
「それを持って私の目の前から消えてなくなれ!」
キイロの怨念の対象が、ガラス窓の外の闇に代わった。小さな肩が怒っている。
ほくほくしながら、イヤホンを耳に差し込んでいるヴァズロック。
「その方、なかなか良い小娘なのだ……ん?」
小首をかしげ、プレイヤーのそこここを触るヴァズロック。こういう行動を取るマイロードは、たいてい、どうすればいいのか解らない時だ。
「……やはりこれは、その方が持っている方がよいのだ」
「いらぬ!」
キイロは、その小さな身体の中心から滲み出るような声で拒否した。
「うむ、……いらぬと言うのならば、ありがたくもらっておくが、……くれぐれも後で返せと言わないでほしいのだ」
やれやれとばかりに小さく息を吐くロゼ。仕事が一つ増えた。
「ありがとうございますツクヨミ様。マイロードに代わってお礼を申し上げます」
ロゼの言葉に、キイロは全くの無反応。肩が小刻みに震えている。
――アマテラスとツクヨミの間に、なにかある!
「あの、なにかお悩みでしたら――」
「うるさい! 早く出て行け! 不浄の者共めが!」
キイロの左手に、あの、見事なレリーフが施された禍々しい長弓が出現した。
「醜いケダモノ風情が、一人前に同情するんじゃない!」
ロゼの心の底に厳重に施されていた、封印を一瞬で解くキーワードが発せられた。
キイロが持つ長弓の射軸上に呆然と立っているロゼ。全くの無防備。
久しぶりに聞いた「醜い」そして「ケダモノ」というキーワード。
ロゼは誇り高きアルカディア一族リュカオンの末裔。狼を神と仰ぐ太古から続く古き血の一族。その歴史は、地上に残るどの宗教よりも古い。
始祖は望んで狼となったと聞く。父なる神、ゼウスの手により、自らの血族を狼と変えたと言う。
人狼であることを誇りに思い、誇りに思うからこそ人類との交わりを避け、……なぜ自分は人狼なのか? なぜ人狼の一族に生まれてこなければならなかったのか?
変身した醜い姿はなんだ? あの巨躯から性別が判断できるというのか? のたうつ大蛇のように浮き出た筋肉は? 尻尾は何のために付いている? 尖った耳は?
聖人君子と呼ばれた人であろうと、生への欲を捨てたと言う老人であろうとも、目の前で変身してやれば仮面が剥がれる。毛ほどの殺気も持たぬのに、命乞いをする。
何故、ナゼ、と問い続け、答えを探して、誇り高き狼は血を流し、泥水に転がり……やがてヴァズロックに拾われた……。
――人狼の姿を見て動じぬのは、異形の者だけ。
心まで異形の者にならねばこの苦しみか逃れられない。
「これは失礼したのだ。では小さなレディ。お休みなさい」
ロゼの眼前で、引き戸が閉まる。
いつの間にか、廊下に立っていた。時間と距離の計算が合わない。
ヴァズロックの腕が、ロゼの腰から離れた。ヴァズロックの、この世ならざる術をもってして窮地を脱したことに気付くまで、ずいぶんかかった。
生物学と物理学を超えた無敵の人狼。なのに戦わずして負けてしまう最弱の存在。
「なぜ、伯爵様はそんなにお強いのですか?」
「聞くに堪えない陳腐なミュージックが、我が輩に力を与えてくれるのだ」
ヴァズロックの耳に黒いイヤホンが差し込まれていた。マイロードは、アマテラスからもらったプレイヤーに入っている音楽を聴いていたのだ。
「ツクヨミは、我が輩が、処理、をするのだ」
興味津々、そう宣言するヴァズロックの目の奥が、赤く輝いていたのだった。
次回より、お話が動き出します!