14.月読
「さて小娘。その方らの正体を明かしてもらおうか。まっとうな人間などという、つまらぬ答えで我が輩を失望させないで欲しいのだ」
五つばかり連なった二階の一室。ここは一番奥から二つめの部屋。
ヴァズロックは、世間話をするような軽い口調で話しかけていた。
「どうやって入ってきたドラキュラ。結界は張ってあったのに」
キイロは、想定外の出来事に、真っ暗な部屋の中で真っ赤になって怒っていた。
「ケッカイ? 紙の引き戸に添っていた自然因子シールドのことか? 日常的にかけられる自然因子は劣化しやすい。大事な場所なら霊的因子で封印すればよかったのだ」
一方が窓、三方が襖で間切られた畳敷き六畳の間。学習机と小振りのクローゼットが一つずつ。常夜灯一つ無いにかかわらず、夜目の利くロゼの目には、机の脇に置かれた赤いランドセルまで映っていた。
「我が輩は、そなたらと戦う意志は微塵もないのだ。同じ屋根の下、暮らす故、はっきりとした正体を知っておきたいだけなのだ」
ヴァズロックを見つめるキイロの目は、正に詮索者の目。遠慮してない。ヴァズロックを見て、ロゼを見て、再びヴァズロックを見て薄く笑う。
「ロゼというメイドの正体は丸見えだが……、ドラキュラ、あんたの正体が見えない。自分自身の力でヴァンパイアになった者は、神に匹敵する力を持つという――」
言いたいことは色々あったが、ここはあえて黙っているロゼ。ヴァズロックの顔を見上げているキイロの、幼い顔を見つめるだけにしておいた。
「――ひょっとして神祖?」
キイロのカマかけに、嬉しそうに笑うヴァズロック。ロゼのご主人様は、こういった入り組んだ問答が大好きなのだ。
「ある意味、神祖は確かに存在する。我が輩の名はロード・ヴァズロック。それでよいではないか」
ヴァズロックは、悪戯っぽい微笑みを凄まじいばかりの美貌に隠した。
――ほうらね。意味が無いのに、意味ありげに振る舞うのが好きな主人。
キイロは確かめるようにしてロゼを見る。ロゼは、微かに肩をすくめてみせた。
ヤレヤレとばかりに、細い首を振るキイロ。
「わたしの、真の名はツクヨミ」
ほう。と唸り、眼を細めるヴァズロック。嬉しそうな笑みは崩さない。
ロゼは何のことか解らないでいる。
「ドラキュラよ、我を知っているのか?」
「我が輩はドラキュラではないと何度言えば――まあよい」
キイロの質問に答えず、懐からハードカバーを半分だけ覗かせるヴァズロック。
ご主人様が、ルーマニアを出る前から読みふけっていた一連の書物。今は「日本書紀」とやらを読んでいる。
「ロゼよ、ツクヨミとは日本の古い神、それも三貴子の一柱、月と夜を司る神様なのだ。スサノヲ殿ほど有名でないがの」
ヴァズロックは、後ろでつまらなさそうにしているロゼへ向け、解説を始めてくれた。論外に、それをキイロへの答えであると嫌みたらしく言っているのだ。
「対極に位置する太陽神アマテラス殿の妹として……妹? ツクヨミ殿は女神であったか?」
パラパラと日本書紀の該当ページをめくるヴァズロック。素でキョトンとした顔をしている。
緊張感の持続性の無さに、ロゼはたまらず溜息をついてしまった。
なかなか先に進みそうにないので、ロゼは先を促した。
「マイロード。それで、男神と書いてありましたか?」
「いや、書かれていないのだ!」
「ならば、ツクヨミ様が女神でも問題無いのでは?」
「……そりゃそうなのだ」
はたと気付き、パタンと音を立て、ハードカバーを閉じるヴァズロック。口元へ持ってきた拳に、咳払いを一つ落とし込むと、もう何事もなかったかのような顔をしている。
マイロードの数少ない優れているところは、冷徹なまでの切り替えの速さだ。
「最高神でもあるアマテラスは、またの名をヒルメと……」
また、ヴァズロックが言葉につまづく。
キイロの姉は、ヒメコと称していた。
ヴァズロックは、アマテラスが引きこもっている部屋を隔てる襖を見つめた。
ロゼの見立てでは、分厚い岩塊のようなシールドが施されている。ロゼの力だと全てを見透かすことは出来ないが、幾重にも立体的かつ多元的に入り組んだ複雑な仕様と睨んだ。初めて見るタイプだが、方角的な因子も含まれている。そして恐らく、シールドに偽装した攻撃的な罠も複数張られているはずだ。
主の目には、何が映っているのだろうか?
つと、襖の中央に闇が出現した。
いや、襖が、ほんの少しだけ開いたのだ。
シールドは張られたまま。なのに、隙間から圧倒的なパワーが放出されている。
主の前衛に出なければ! 無敵の人狼として、敵の第一撃を受け持つのが自分の役目。
だのに、一歩下がっていた。――これはどういうことか?
意を決し、前に出ようとして、……ヴァズロックの手が、ロゼを押しとどめていた。
「これはこれは、ご挨拶差し上げねば。我が輩は……」
ヴァズロックが言葉を句切った。
闇から、白い手が、ゆっくりと伸びてきたからであった。