13.慧眼
「多額の現金は海外へ持ち出せないはず」
部屋の隅っこで、キイロがボソッと呟く。顔は明後日の方向を向いている。
「大丈夫なのだ。ほとんどの資産は株券に換えてあるのだ。こう見えても我が輩、株式運用のプロフェッショナルなのだ」
株という単語を聞いて、ホノカとヒカルは顔を見合わせた。
「一ヶ月前の事。日本行きの予定を立ててすぐ、マリオンブラザーズ証券とFLI保険に全財産をつっこんできたのだ」
ロゼは、ホノカとヒカルの顎が、シンクロナイズして落ちるのを見た。
「ふふふ、その名を聞いて驚いたか?」
主ヴァズロックは、二人の反応にご満悦だが……ロゼは、二人の驚きようが尋常でない事に引っかかるものを感じていた。
「その方らも知らぬはずはあるまい? かの二大企業は鉄板中の鉄板優良企業! 今や我が輩は、二社の大株主なのだ。フニャディ夫人は大反対であったが、所詮は素人。半年後の利益配当が楽しみなのだ」
ヴァズロックは自己が持つ記録を上回る自慢げな、それでいて上品な笑顔を作る。
「そのフニャフニャ夫人の目を慧眼って呼ぶのよね」
「今は教えないほうが……」
眉が、カタカナのハの字に下がっていくホノカとヒカル。
どう見ても失念の表情だが、ロゼには理由がわからなかった。
「ヒカルは言わずもがな。ホノカも基本的に人が良いんだね。ドラキュラもある意味、根は平和な者のようだし。安心したよ」
皮肉な一瞥をくれたキイロは、口の端に歪んだ笑みを浮かべて部屋を出て行った。
ヴァズロックはおとなしく聞き流していた。
ヒカルやホノカから見れば、猫舌であるヴァズロックが、湯飲みの中身がゆっくりと冷めていくのをただぼんやりと待っているように見える。
ロゼも眠たそうに半眼のまま動かない。
『これより最大の難関をくぐり抜けるのだ』
『ここに住み込むと、いうお話ですね』
たった今行われたヴァズロックとロゼによる指向性精神感応を言葉にするとこうなる。
『しかし、それも我が輩の、潤沢な資金で話が付きそうなのだ』
『騎旗家は金銭的に行き詰まっておりますからね』
主人に仕える猟犬よろしく、脇でかしこまっているロゼ。
狼なのだから、皮肉な話だ。
人狼だから、――人狼だから人と相まみえず、人狼故に孤狼を気取り、人狼所以にヴァズロックと分かち合え、今、極東の島国にいるわけだが……。
小さな足音が階上へ消えるのを待って、ヴァズロックが形の良い唇を開く。
「さて、その方ら。我が輩は、いたくこの日本的建造物が気に入ったのだ」
ヴァズロックは手を広げ空間を指し示す。ホノカは、端っこの破れた唐紙に目を向ける。ヒカルは黄変した白壁に、申し訳なさそうな目をやっている。
「金を出した見返りと言ってはなんだが、我が輩がここに住む許可が欲しいのだ。もちろん、毎月の家賃は払う。どうである? よい返事を期待してよいのかな?」
ロゼの主にしてルーマニアの伯爵であるヴァズロック、足長おじさんを気取り、華奢な顎を指でなぞる。ヴァズロックとしては、ヒカルとホノカに、少しでも生活の助けになればと思っての申し出である。
いずれ、人外に生きる者として正体を知られ、石もて追われる身になるというのに。
ヴァズロックはそれを承知で二人を助けようという。理由は聞かされていないが。
……理由を言う主人ではないが……。
ヴァズロックにとって、この二人は、それほどまでの犠牲を払える特別な存在、という事なのだろうか。
心当たりはまったくない。……ロゼと出会う前の因果であろうか?
一方、そんなロゼの葛藤を知らず、口の端を微妙に強張らせているヒカルとホノカ。
「え、ええ、もちろん。お互い助け合って生きていきましょう。困った人は助けないと」
満足げにうなずくヴァズロック。
『やはり金で片がついたのだ』
『まあ、確かにお金で話がつくにはつきましたね』
再びの精神感応。
ロゼは、ちょっとしたニュアンスに、違和を感じていた。だが、日本語とルーマニア語の表現方法の違いだとして納得することにした。
「ならば二階の部屋を見せてもらおうか。なに、貴公らに手間はかけさせん。こちらでよろしくやっておく。お子様は早く寝るのだ」
ヴァズロックは、そう言い残し、闇色のマントにくるまる。そして、ロゼをせかし、共に二階へと上がっていったのであった。