10.ロゼ・アルカディア・リュカントロポス
「ばばばばば、馬鹿野郎! 入ってくんじゃねぇ! この野郎!」
バタバタと足を鳴らして大急ぎで後退するイノ。神経質そうに、銀の棒ピアスを触っている。
ロゼは単純に、この背高女に興味を持った。
我が主ヴァズロックの美貌を前にして虜になる者。それが人類の雌という生き物であった。
ところが、この背高女は違う。なぜ?
「仮にもオレは女だぞ! 乙女だぞ! 乙女の天敵と言えば狼男とドラキュラって相場がきまってらぁ!」
――この女、只者ではない。
ヴァズロックの表情が容易に想像できたロゼは、ポーカーフェイスを維持するのに苦労することとなった。
「我が輩はドラクリアではない。仮に我が輩がドラクリアであったとしても、そなたを襲うことは決してない」
ヴァズロックは我慢強かった。宣誓をするように、胸に手を当てて答えた。
――はたして、ドラキュラをドラクリアと発音して、伝わるのだろうか?
「信じていいんだな?」
盾代わりに捧げ持っていた座布団を脇に置き、腰砕けながらファイティングを取るイノさん。
――通じたようだ。
「ワラキア貴族に二言など無い。第一、胸のないレディに興味はないのだ」
ロゼの目、獣の動体視力でも、捕らえるのが難しい速度でイノさんが動いた。
ヴァズロックは、イノさんが赤面で放つ必殺の浴びせ蹴りを軽く左手で受け流していた。
「さて、本題に入ろうではないか。騎旗家は今、借金で首が回らぬ状態。その額、二千四百五十三万飛んで二十二円。間違いあるまい?」
ヴァズロックは、マントを胸元に寄せた格好のまま立っている。
彼は、別に格好付けて立っているわけではない。座れと勧められない以上、勝手に座るのは、貴族としての矜持が許さなかっただけにすぎない。
「なんで我が家の最高機密事項を知ってる?」
警戒しまくりのホノカ。目に殺気が宿っている。
「フニャディ夫人から仕入れたのだ。が、そのような些細な事などどうでもよい。問題はそなたらの、完全に違法な複利式利子が付いた借金ではないのか?」
バズロックの弁を先回りして理解したホノカ。期待に目を大きく見開く。
喜怒哀楽がわかりやすい子である。
難解な相手との、息詰まる駆け引きが好きと公言して止まないヴァズロック。しかしロゼは知っている。本当は、直球勝負しか知らないタイプが好きなのだ。
ほうほうと、しかし顔はポーカーフェイスを保ったまま、ロゼは改めてホノカを観察する。
異教神の教会を守る一族にしては、意外に思える和洋折衷の顔。あと三年もすれば、まずまずの女になるだろう。
フニャディ夫人の調書には、十七才となっている……。
ちょっと悔しいが、……年の割にふくよかな胸の持ち主。若草の香りがするような長い黒髪が、後ろで細く一つにまとめられている。
「あんた何かスケベなこと考えているでしょう?」
疑いの目でヴァズロックを睨め付けるホノカ。ヴァズロックもホノカを遠慮無しに観察していたのだ。ヴァズロックとホノカ。お互い、表情が顔に出やすいタイプ同士であることに、ロゼは気付いた。
――だから人の顔を見るときは、無表情でと、事ある毎に忠告……あ!
表情を殺すことは安かったが、左右に振れ出す尻尾を諫めるのに苦労した。
話の停滞感に業を煮やしたのだろう。ヴァズロックは、この世の全ての問題を解決できる魔法の呪文を唱えた。
「金ならあるのだ!」
「どうぞどうぞ、こちらに、こらヒカル! 特大の座布団を三枚、用意なさい!」
ヴァズロックの呪文がてきめんに効果をあらわした。
ホノカは、地べたを這うような低姿勢で自ら先達となり、茶の間へ案内する。
数十秒後。卓袱台の前で、三重に敷かれた分厚い紫ラメの座布団に座り、バランスを取るのに苦労しているヴァズロックがいた。
立場上、後ろで控えるロゼであるが、今宵は大いに満足していた。
クールを装っているが、実のところ人付き合いがとても良い。これだからこの主人は見ていて飽きない。
ホノカは、あからさまに媚びの入った上目遣いで尋ねてきた。
「バズロックさん、貴族と言うからには伯爵様なんでしょう?」
「バズロックではなく、ヴァズロック――」
「ホノカ様。怖いくらい核心を突いておられます」
主を押しのけてロゼが答えた。あまりにも見事な質問だったので、つい口を開いてしまったのだ。
「でかい口叩くからには、それ相当の金、持ってんだろうな……、持ってるねんな?」
イノさんとやらも徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
胡散臭そうな目つきでヴァズロックを見る。肩肘を卓袱台に乗せ、眉間に眉を寄せ、怖い顔を作っている。
ヴァズロックはヴァズロックで凍り付くような微笑を浮かべ、これに答えている。
――ああもう! 話が長くなる!
いきなりロゼが立ち上がった。ずかずかと歩き、イノさんの前に仁王立ち。玄関で倒れたままの二人組を指す。イノさんを上から睨み付け、拳を堅く握る。
「すんません! すんません! オレ、借金返してもらわんと、組に帰れまへんねん!」
よろしい。これでイノサンとやらの心は折った。
「ロゼよ」主が呼ぶ。
「我が輩は日本円の感覚をいまいち掴めていないのだ。騎旗家の借金は、アメリカドルに換算するといくらになるのだ?」
「計算しやすいように二千五百万として、約二十八万ドルでございます。マイロード」
ロゼは、エプロンのポケットから取り出した電卓を見ながら答える。ふむふむと頷くヴァズロック。
「神社経営とは、たった二十八万ドル程度で傾くものなのか? 意外と脆いのだ」
ヴァズロックは、胸の前でゆっくりと腕を組むのであった。
おそらく、たぶん、今後、夜の更新になると思います!