「すがりつかれるのは煩わしい」と婚約破棄されたので、毎夕の茶会は終わりです~殿下の熱を三年間この手で引き受けてきましたが、今さら「手を取ってくれ」と言われても戻りません~
初夏の夜の大広間は、薔薇の香りで満ちていた。開け放した窓から流れ込む夜風が、天井の硝子の灯りに宿る無数の火を揺らしている。
円舞曲の途中だった。広間の中央で、ヘンドリック殿下が楽団へ片手を上げた。弦がひとつ、またひとつと止み、踊りの輪がほどけていく。殿下の傍らには白い衣の聖女セレナ様が寄り添い、その背後には近衛騎士団長のヴァイス様が控えていた。
殿下の視線がこちらを向く。それに押されるように人垣が左右に割れ、私の前に、磨かれた床がまっすぐ空いた。
「クラリス・ノイエ。今夜をもって、そなたとの婚約を破棄する」
ざわめきが起こり、すぐに静まった。
「そなたは冷たい。人前では手袋ひとつ外さず、笑いもしない。そのくせ毎夕、茶の席では私の手を握って離さない。すがりつかれるのは、もう煩わしい」
殿下はセレナ様の肩を引き寄せた。
「これからは聖女が祈りで私の体を整える。毎夕の茶会も、今日で終わりだ」
セレナ様は目を伏せ、胸の前で両手を組んだ。どこかで扇の閉じる音がした。
手袋の内側で、手のひらが疼いている。今日の夕方、茶会でできたばかりの火傷だ。
私は両手を前で静かに重ね、背筋を伸ばしたまま殿下を見つめた。それからスカートの裾をわずかに摘まみ、深く淑女の礼をとる。三年間で身につけた所作は、こんな時でも澱みなく体を動かしてくれた。
「仰せの通りにいたします、ヘンドリック殿下。これまでの不調法、どうかお許しくださいませ」
顔を上げ、傍らの聖女様と、背後に控えるヴァイス団長へほんの一瞬だけ視線を滑らせてから、再び殿下を見る。
「お二人の健やかな日々を、心よりお祈り申し上げます。……これにて、失礼いたします」
もう一度浅く頭を下げ、踵を返す。左右に割れた人垣のあいだを、出口へ向かって歩き出した。
本当に、終わったのだ。もう二度と、あの茶会で手を焼かれなくていい。亡き王妃様との約束も、このまま守り通せる。
聖女様の祈りだけで、殿下の熱は収まるのだろうか。明日からお傍に控える侍従や侍女たちが、怪我をしなければいいけれど。……いいえ、私にはもう、関係のないことだ。今はただ、早く帰って冷たい水に手を浸したい。
扇の陰で囁きが交わされる。
「涙ひとつお見せにならないのね」
「あの手袋の下に、何を隠しておいでなのやら」
そのとき、背後で殿下の声が飛んだ。
「アルノルト。そこにいろと言ったはずだ」
思わず歩みが緩む。振り返らなくても、周りの目がいっせいに団長へ向いたのが分かった。
「見送りなど要らぬ。お前の持ち場はここだ」
慌てたような合図のあと、円舞曲が途切れた小節から鳴り直した。出口では二人の従僕が大扉を左右から引き開けた。
扉の前でわずかに足を止め、半身だけ振り返った。ヴァイス団長がこちらへ近づいてくるところだった。私は静かに頭を下げた。
「ヴァイス団長、お気遣いには及びません。馬車には家の侍女も控えておりますゆえ、どうかお役目にお戻りくださいませ」
返事は待たずに向き直り、扉を支える従僕たちに小さく目礼して、廊下へ歩み出た。
団長がなぜ見送ろうとなさったのかは分からない。形式上の礼儀か、あるいは最後まで、私が何か企んでいないか見張るおつもりだったのかもしれない。けれど、これ以上疑いの目を向けられるのも、私のことで殿下のお傍が荒れるのも、もう沢山だった。
背後で、大扉が重い音を立てて閉ざされた。楽の音が遠くなる。
廊下の冷たい空気が心地いい。手袋の下の疼きも、あと少しの辛抱だ。早く、ハンナの待つ馬車へ戻ろう。
◇
車寄せには、細い雨が音もなく降っていた。石の庇の下、壁の角灯が濡れた敷石に滲んだ光を落としている。
夜会の最中とあって、迎えの馬車は前庭の奥に長く並んだままだった。ノイエ家の馬車は列の後ろのほうで、前の車が動かねば出せない――従僕はそう詫びて、雨の中へ駆けていった。遠く列の端で家の紋の角灯がひとつ揺れ、御者が小さく帽子を上げるのが見えた。
背後の大扉の向こうから、円舞曲がくぐもって聞こえる。それに混じって、廊下の石床を打つ長靴の音が近づいてきた。走ってはいない。けれど、足早だった。
庇から吹き込んだ雨粒が手袋の甲に落ちて、布に染みる。その下の火傷が、ほんのわずかに冷えた。
足音は数歩離れたところで止まった。ヴァイス団長が胸に手を当てて一礼し、まだ動かない馬車の灯りを一度だけ見やってから、私に目を戻す。
「……お言葉に背く無礼をお許しください、ノイエ嬢。お車がまだ出ぬと聞き、参りました。広間には副団長を残しております」
その目が一瞬、私の手元に落ちた。すぐに上がり、団長は半歩下がって柱の脇に立つ。
「お迎えが着くまで、ここにてお守りいたします。……ただ、お車が参り次第、一刻も早く王宮をお離れください」
私は雨の染みた手袋の上に、もう片方の手をそっと重ねた。
なぜ殿下の命に背いてまで追ってこられたのだろう。今、手元を見られたのも、手袋の下を疑ってのことだろう。
「……恐れ入ります、ヴァイス団長。馬車が参り次第すぐに王宮を去りますゆえ、どうかご安心くださいませ」
小さく頭を下げ、背筋を伸ばして前庭へ向き直る。言われずとも、ここにはもう一分だっていたくない。
やがて列が動き出し、家の紋の角灯が雨の中をゆっくり近づいてきた。蹄の音が敷石に響き、馬車が庇の下で止まる。
「お待たせいたしました、お嬢様」
御者が扉を開けて踏み台を下ろしたとき、大扉の向こうで円舞曲が一瞬だけ乱れ、すぐに持ち直した。
団長がわずかに眉を寄せて振り返る。けれどすぐ、大扉から私を遮るように踏み台の脇へ進み出た。白い手袋には触れない距離を保ったまま、胸に手を当てる。
「私のことはお気になさいますな。……さあ、お早く」
そして、雨音に紛れるほどの声で続けた。
「今夜こののち、王宮よりいかなる召し出しがあろうと、決して応じられますな。……三年間、誠にお疲れ様でございました。どうかご自愛を」
息を呑んだ。大扉のほうへ揺れかけた視線を、私は団長へ引き戻す。団長は深く頭を下げたまま、御者に「お乗せしたら、脇目も振らず門を出ろ」と低く命じていた。
「……恐れ入ります、ヴァイス団長。最後までのご配慮、心より感謝申し上げます。どうか団長も、お気をつけて」
自分の声が、さっきまでより少し柔らかいのが分かった。御者に「ありがとう」と声をかけ、誰の手も借りずに裾を摘まんで踏み台に足をかける。濡れた手袋を胸元に寄せ、馬車の内へ身を滑り込ませた。
軽蔑され、見張られているのだとばかり思っていた。けれど今の言葉も、手袋に触れまいとするあの距離も。……この方は、何かに気づいておられたのだろうか。楽が乱れたのは、きっと殿下の熱のせいだ。
掛け金の鳴る音がして、車輪が回り出す。角灯の光が窓の外を後ろへ流れ、馬車は門を抜けて夜の通りへ出た。
それでも、王妃様との約束は破れない。私はもう戻らない。
湿った手袋の下で、火傷はまだ疼いていた。
どうか、あの中にいる人たちに、怪我人が出ませんように。
◇
三日後の昼、温室の硝子越しの陽が、柑橘の鉢の葉を明るく照らしていた。白い卓には水を張った銀の盥と、冷めかけた茶器。庭のほうからは、庭師の鋏の乾いた音が聞こえてくる。
盥の水は、ハンナがついさっき井戸から汲み替えてくれたばかりで冷たい。三日前の夜の火傷には、薄い皮が張りはじめていた。
盆を置きながら、ハンナが声をひそめた。昨日、殿下が評議の間でお倒れになりかけ、天井の灯りが三つも割れたこと。聖女様のお祈りで少しは収まったこと。そして王宮では、元のご婚約者様が何か仕掛けていかれたのでは、と囁かれていること。
「ひどい話でございます」
そこへ、扉が叩かれた。
「お嬢様、近衛騎士団長ヴァイス様がお見えでございます。旦那様がお会いになり、こちらへお通しするようにと仰せで」
執事の後ろの砂利道から、近衛の外套姿の団長が入ってきた。私は立ち上がって礼をとり、盥からさりげなく半歩身をずらす。
「ハンナ、新しいお茶の支度をお願いね。……執事も、扉の外で控えていてちょうだい」
ハンナと執事が下がり、温室には二人だけが残った。
いかなる召し出しにも応じるなと仰った方が、なぜここへ。評議の間の騒ぎで私に疑いがかかり、調べにいらしたのだろうか。
「ようこそおいでくださいました、ヴァイス団長。本日はどのようなご用件でいらっしゃいましたか」
団長は深く一礼して顔を上げた。その目が盥と、それを庇う私の立ち位置と、白い手袋とを順に掠める。
「突然の推参をお許しください、ノイエ嬢。昨日、評議の間で殿下が乱れ、聖女の祈りでは収まりきらず、宰相らが貴女を王宮へ呼び戻そうと動いております」
言葉を区切り、団長は私の手元へ静かに目を落とした。
「……御手は、まだ痛みますか」
鋏の音は、いつの間にか止んでいる。
「お気遣い痛み入りますが、私の手はなんともございません。どのようなお召しがあろうと、王宮へ戻ることは二度とございません。……ただ、ひとつだけ。殿下のお傍の侍従や侍女たちに、怪我はございませんでしたか」
なぜ、手のことを。……あの日、控えの間の水差しを冷たい水に替えてくださったのは、この方だったのだろうか。
「書記の袖に欠片と火の粉が落ちましたが、大事には至っておりません」
団長は一歩だけ近づいた。
「……なぜ、ご自身の心配をなさらないのですか。以前、控えの間で、貴女が水差しに両手を浸し、声を殺して耐えておられたのを、扉の隙間から見てしまいました。殿下の熱を、その御手で引き受けておられたのではありませんか。どうか一度だけ、その手袋の下をお見せ願えませんか」
茶碗の触れ合う音がした。小扉の脇で、盆を抱えたハンナが立ち止まっている。表の通りから蹄の音が近づき、門の前で止まった。
私は両手を胸元へ引き寄せ、首を振った。ハンナにも、この痕だけは知られたくない。
「この手にお見せできるようなものは、何もございません。どうかお忘れくださいませ。……ハンナ、表にどなたが見えたのか聞いてきてちょうだい」
戻ってきたハンナの後ろから、外套に泥を跳ねた若い騎士が来て、片膝をついた。
「団長、副団長より伝令です。殿下が東の回廊で再びお苦しみになり、灯りが割れて、侍女が一人手に火傷を負いました。陛下が団長を即刻お召しです。……陛下は、ノイエ家にも近く使いを出すと仰せでございました」
「侍女が、火傷を……」
あの熱がどれほど痛むか、私は知っている。それでも今戻れば、私は一生あの茶会に繋がれる。
「ヴァイス団長、どうかお早くお戻りくださいませ。殿下がお苦しみの間は、お傍の者たちを遠くへ下がらせてあげてください。火傷を負った侍女には、どうかすぐに冷たい水を」
団長は一瞬眉を寄せ、深く一礼した。
「承知いたしました。陛下よりの使者は、私が王宮にて必ず食い止めますゆえ」
外套の裾を翻して出ていく背中を見送る。蹄の音が二つ、王宮の方角へ遠ざかって消えた。
卓には、口をつけられなかった団長の分の茶碗が残っている。ハンナの目が、そっと私の手袋に落ちた。庭の奥で、止んでいた鋏の音がまたひとつ鳴った。
◇
三日前、王璽の押された召喚状が届いた。陛下の御名による召しを拒めば、家ごと逆賊にされる――父は青い顔でそう言い、迎えの馬車に同乗した。その父は今、広間の外の控えの間で待たされている。
式部官に伴われて大広間へ入ったとき、聖女セレナ様との婚約披露は、もう崩れていた。
壇上の殿下が杯を取り落とし、卓に手をついている。壁際の燭台が端から順に割れ、殿下の袖口から細い煙が上がっていた。布の焦げる匂い。貴族たちは悲鳴を上げて壁際へ退き、侍従たちが水差しを抱えて右往左往している。
セレナ様は殿下の傍らに膝をつき、祈りの言葉を繰り返していた。けれどその声は震え、硝子の割れる音にかき消されていく。天井の灯りがまたひとつ弾けた。殿下の背後、護衛の位置には、ヴァイス団長が立っている。
私の前で、人垣が割れた。玉座から立ち上がった陛下が、まっすぐに私を指さす。
「ノイエの娘。茶会を再開せよ。今ここで王太子の手を取り、鎮めるのだ」
手袋の下で、手のひらが強張った。七日のあいだ新しい傷の加わらなかったそこには、薄い皮が張りかけている。
私は玉座へ深く礼をとった。
「恐れながら申し上げます、陛下。私には殿下のお体を鎮めるような力はございません。先日の夜会にて、すでに婚約も破棄された身でございます。……どうかまず、割れる灯りで怪我人が出ぬよう、殿下のお傍から皆様をお下げくださいませ」
控えの間の父の顔が浮かび、胸が締めつけられる。
「殿下の周囲から人を下げ、怪我人を出すな!」
鋭い声が響いた。団長が壇を下り、私を背に庇うように玉座の前へ進み出て、片膝をつく。
「ノイエ嬢は三年間、茶会のたびに殿下の熱に御手を焼かれ、控えの間で冷水に手を浸し、声を殺して耐えてこられました。扉の内側で警護にあたっていた私が、この目で見たことです。近衛騎士団長の職を賭して申し上げます。いかなる処罰も私が受けますゆえ、どうかご下命をお取り下げください」
三年間、扉の内側に立っていた背中が、今は私の前にあった。
「……茶では、なかったのか」
壇上で、殿下が焦げた袖を押さえて顔を上げていた。
「毎夕、あの手が離れたあとだけ、体が軽かった……」
セレナ様の祈りが途切れる。殿下は煙の上がる手を私へ差し伸べた。
「クラリス。そなたの手が要る。……頼む、手を取ってくれ」
「聞いたか、ノイエの娘。王太子が自ら求めておる。いま一度、答えよ」
陛下の声に重なって、硝子の欠片が床に散った。
差し伸べられた手を見つめる。三年間、握るたびに嫌な顔をされた手だ。今さら頼むと言われても、心は少しも動かなかった。
私は団長の背へ一度だけ目を伏せてから、陛下を見上げた。
「お答えは変わりません、陛下。万座の前で私を退け、聖女様を選ばれたのはヘンドリック殿下ご自身でございます。私が再びそのお手に触れることは、決してございません。……どうか私を庇われたヴァイス団長をお咎めなきよう。聖女様も、お早くお傍からお下げくださいませ」
団長が立ち上がり、壇上からの視線を遮るように私の前に立った。
「副団長! 聖女様を壇上からお下げしろ! 殿下の周囲の火気を払い、別室へお移しするのだ!」
陛下はしばらく黙ったまま、団長と私とを見比べていた。壇上では、差し伸べられた殿下の手が震えながら下りていく。
「……よい。ノイエの娘への命は取り下げる。団長の咎めも問わぬ」
陛下は息子へ目を移した。
「ヘンドリック。人の手を焼いて保つ体ならば、己で抑える術を覚えよ。明朝、北の離宮へ発て。抑えられるようになるまで、戻ることは罷りならぬ」
殿下は床に目を落としたまま、答えなかった。副団長に支えられて壇を下りたセレナ様は、組んでいた両手をほどき、一度も殿下を振り返らなかった。
燭台の割れる音が、ひとつ、またひとつと間遠になっていく。
私は手袋の両手を、前でそっと重ねた。王妃様との約束を、私は最後まで一言も破らなかった。薄い皮の張りかけたこの手は、今日も焼かれずに済んだ。
◇
月の明かりが噴水の水面に砕け、石の縁から細い水が絶え間なく落ちていた。大広間の窓はいくつも暗く、風が焦げた布の匂いをかすかに運んでくる。
父は陛下に召され、御前に上がっている。私は手袋の上から片方の手のひらを押さえた。陛下にお答えするあいだ強く握りしめていたせいで、張りかけた皮が裂けたらしい。布の内側がわずかに湿っている。
回廊の暗がりから長靴の音が近づいた。ヴァイス団長は噴水の手前で一礼した。
「夜分に失礼いたします、ノイエ嬢。広間にて、貴女が隠しておられた御手のことを無断で明かし、申し訳ございませんでした。……まだ、痛みますか。どうかその水で御手を冷やしてください」
「どうか頭をお上げくださいませ。職を賭してまでお庇いいただき、お礼の言葉もございません。もう冷やすには及びません。……ただ、かつて一度だけ、控えの間の水差しが冷たい井戸水に替えられていたことがございました。あの日のお気遣いにも、感謝申し上げます」
「……あの日の水に、気づいておられたのですか」
呟いた団長の目が、私の胸元で止まった。月の光が、手袋の白に浮いた小さな赤い染みを照らしている。
回廊から下働きの娘が小走りに来て、井戸水を張った桶と畳んだ亜麻布を噴水の縁に置いていった。副団長様のお言いつけだという。
「もうお隠しになりますな。血が滲んでおります」
団長は自分の手袋を抜き取り、素手の手のひらをまっすぐに差し出した。
「手当てをさせていただけませんか。……俺に、その御手を確かめさせてください」
「この痕のわけを、私の口から申し上げることはできません。誰にも言わぬと、誓ったことでございますから」
手袋をゆっくりと抜き取る。裂けたところに布が擦れた。月明かりの下に、幾重にも重なった古い痕と、血の滲む薄い皮が露わになる。
「……とても、お見せできるような手ではございませんのに」
差し出した手のひらから、血がひとしずく石の縁に落ちた。団長は下からそっと支え、桶の水に浸した亜麻布を添えてくれる。冷たさが、裂けた皮に沁みた。
回廊の奥から、父が姿を見せた。重なった二つの素手に目を留め、しばらく黙っていた。
「三年間、あの扉の内側で何をご覧になっていたのか。父でありながら、私は何ひとつ知らなかった」
「ご令嬢は三年間、誓いを守り、お一人で殿下の熱を引き受けておられたのです」
団長は私の手に目を戻し、抑えきれない声で言った。
「どうかその御手を恥じないでください。私にとっては、何よりも気高く、美しい御手です」
ずっと醜いと思って隠してきた手だった。睫毛が震える。
「……お父様、黙っていてごめんなさい。しばらくは家で、この手を休ませとうございます」
「休ませるとも。陛下には、詫びの縁談はお待ちいただきたいと申し上げてきた」
団長は私の手を両手で支えたまま、背筋を伸ばした。
「……二年前より、貴女をお慕いしておりました。いつの日かその傷が癒えたなら、必ず求婚しに参ります」
頬が熱くなる。
「お言葉、大切に心に留めておきます。癒えましたら、今度こそ温かいお茶をご用意いたしますわ」
父がひとつ咳払いをした。
「『いつの日か』では間に合わぬ。陛下は明日にも娘の相手の名を挙げられよう。求婚なら今夜、父の前でなされよ。受けるかどうかは、この子が決める」
団長は砂利の上に片膝をつき、下から私を見上げた。
「クラリス嬢。私は貴女を軽蔑したことなど、ただの一度もございません。どうか俺の妻となってください。生涯その御手を温め、二度と何ものにも傷つけさせぬと誓います」
義務でも、王家の都合でもない。私自身の、初めての望みだった。涙がひとすじこぼれる。もう片方の手袋も抜き取り、彼の手に素手を重ねた。
「……はい。よろしくお願いいたします、アルノルト様」
父は回廊の式部官へ歩み寄り、娘の縁はもう決まった、と告げた。それから戻ってくると、乾いた亜麻布を一枚、黙って団長へ差し出した。
大広間の窓に、新しい燭台の火がひとつ灯った。
◇ アルノルト視点
秋の初め、俺はふたたびノイエ伯爵家の温室を訪ねた。
柑橘の鉢には青い実がつき、硝子越しの陽はあの日より少し低い。白い卓の上に、銀の盥はもう置かれていなかった。
「お待ちしておりました、アルノルト様」
クラリス嬢は椅子から立ち、礼をとった。両の手に、手袋はない。
手のひらにはまだ薄紅の痕が幾筋も残っている。けれど裂けた皮はふさがり、血の色はどこにもなかった。俺の視線に気づいたのか、彼女は手を後ろへ隠しかけて、途中でやめた。
「……もう、痛みませんか」
「ええ。冷やさなくても眠れるようになりました」
それだけ聞けば充分だった。報告なら、それで終わる。
北の離宮から届く副団長カールの文は、月にふたつ。殿下は毎朝、侍医と並んで息を整える稽古をしておられるという。先の便りには、割れた灯りは十日でひとつ、とあった。その文を読むたび、俺は離宮の天井を思い浮かべ、それから必ずこの手のことを思った。
聖女セレナは神殿へ戻ったと聞く。あの夜、彼女が一度も殿下を振り返らなかったわけを、俺は知らない。
ハンナが湯気の立つ茶器を運んでくると、クラリス嬢は「私が」と言って、自分でポットを取った。素手で取っ手を握り、ひとつめの茶碗へ注ぐ。その指がわずかに震えたのを、俺は見ないふりをしかけた。三年間、扉の内側でそうしてきたように。
いや、違う。もう見ないふりをする理由はない。
俺は手を伸ばし、彼女の手からポットを引き取った。
「熱いものは、俺が持ちます」
「……アルノルト様は、そうおっしゃると思っていました」
彼女は笑った。小さく、声を立てて。
殿下はかつて、この方は笑いもしないと言った。俺もこの方が声を立てて笑うのを、三年間一度も見たことがなかった。誓いの中身が何だったのか、俺はいまも聞かされていない。聞くつもりもない。ただ、俺の前で彼女の肩がもう固くならないことだけは、この目で確かめている。
ふたつめの茶碗に注いで、向かいの椅子に腰を下ろした。茶はちょうどよく温かかった。あの日、口をつけずに残した一杯の分まで、ゆっくりと飲んだ。
帰り際、砂利道の手前で、彼女が手を差し出した。今度は、おずおずとではなく。
俺は手袋を外して懐に入れ、その手を取った。
茶碗を包んでいたせいか、指先はほんのりと温かかった。焼けるような熱ではない。人の手の温もりだった。
「次は、いついらしてくださいますか」
「陛下のお許しが出次第、婚礼の日取りを伺いに参ります」
言ってから、報告の口調だったと気づく。彼女がまた笑ったので、俺もつられて、少しだけ笑った。




